2017年10月14日 (土)

■1014■

Febri Vol.44 発売中
Dl7otjpu8aah1br●Febri Art Style
今回は『メイドインアビス』です。美術監督・増山 修さんにインタビュー、本編で使われた背景美術をカラー4ページに構成しました。
増山さんは「仕事の8割ぐらいはロジックで成り立っている」とおっしゃいます。絵を「感性」や「好み」だけで描いていると思い込んでいる人は、まだまだ多いのではないでしょうか。

【独占インタビュー】早見沙織・下野紘・洲崎綾・斉藤壮馬が語る、「RWBY VOLUME 4」の新展開と新事実
Dl7ikdku8aab7xdほぼ一年前の『RWBY VOLUME 3』公開時に引き続いて、今回は新メンバーにインタビューさせていただきました。
前回は、物語の展開と同じくしっとり静かな雰囲気でインタビューが終わりました()。それが『VOLUME 3』の余韻とフィットして、特に小清水亜美さんの「やっぱり人間なんだな」という感想が緊張感を与えてくれました。
今回はにぎやかで、終盤は雑談と化しているのですが、それが『VOLUME 4』の先の読めない散文的な終わり方と、よくマッチしていると思うのです。『RWBY』関連のインタビューでは、いい仕事をしていると自負しています。


レンタルで、1976年の米映画『スター誕生』。
Mv5bmtq5mzmymji0ml5bml5banbnxkftztc冒頭から、カメラはコンサート会場の中に投げ込まれる。カットを割りながら歌唱するシーンはプレスコを用いねばならず、仕込みが大変なはずである。ところが、主演のバーブラ・ストライサンドの音声解説を聞くと、すべて同時録音なのだそうだ。
同録の甲斐もあって、カメラが現場に殴りこむような、荒々しい撮り方が出来ている。フレームを決めてから、俳優を配置するタイプの映画ではない。


完成度が高いのは、ラスト近くの構図だ。
落ちぶれたロックスターが、赤いスポーツカーで砂漠の中の一本道を疾走している。空撮も交えて、あらゆる角度から撮りつづける。荒々しいショットの連続で、彼が自暴自棄になっていることが分かる。
だが、カメラはその場にとどまり、画面奥へ去っていく車を凝視しはじめる。車はついに地平線をこえて、画面から消える。
カットが切り替わると、画面いっぱいの空である。車が消えた画面奥から、今度はヘリコプターが画面手前へ飛んでくる。トランシーバーを通して、「転倒による事故」「死者は男性一名」などのセリフが聞こえる。
セリフを裏付けるように、カメラがヘリの動きに合わせてティルトダウンすると、横倒しになってクラッシュした赤い車が、大きくフレームインする。横転した車は、いわば巨大な舞台装置として機能する。人々は、車の裏側で隠れるように芝居をする。

地平線の向こうへ消失した車。その消失点から現れるヘリコプター。事前と事後、決定的に違ってしまった二つの世界を表わすには、むしろ構図を共通させたほうが効果的なのだろう。
そして、カメラは去っていった車の手前に回りこんでいて、その悲惨な末路をあけすけに撮りつづける。いわば、観客を出し抜いて、何が起きたのかを目撃している。事故の瞬間を、われわれは見せてもらえない。だが、カメラは事前に知っていたのだ。
構図をどう決めるか、カメラをどう動かして、何を撮るのか。ただそれだけのことなのだが、われわれは個々のカットを頭の中でより合わせて、「とりかえしのつかいなことが起きた」と、事態を勝手に認識してしまう。われわれは、いつも映画に騙される。だから、「疑いながら見る」必要があるのではないだろうか。

(C)1976 - Warner Bros. All rights reserved.

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2017年10月11日 (水)

■1011■

【懐かしアニメ回顧録第35回】キャラクター描写にまで関与する、「THE ビッグオー」のすぐれたロボットデザイン
Dlqk8vzvwaeevoa第12話のビッグデュオとの対決について書きました。
ちょっと分かりづらいかも知れませんが、左目をカバーで覆っていて、右目がむき出しになった男が敵となります。彼の乗るロボットも、やはり左右不対象の顔をしています。そのロボットが、味方であるビッグオーの右目を砕いて、内部のカメラをむき出しにします。
つまり、敵の男とビッグオーが外見的特徴(右目がむき出しになる)を共有してしまうのです。ここで視聴者は「ビッグオーが倒されるのではないか」ではなく「ビッグオーに乗っている主人公が、敵のように狂ってしまうのではないか」を怖れているはずです。

つまり、「ロボットの顔」を通して、キャラクターに変化が起きてしまうのではないか、という不安が生じるのです。
いつも言っていることですが、「画面に何が映っているか」を検証することなしに、作品の価値は測れません。


レンタルで、ポーランド映画『パプーシャの黒い瞳』。モノクロ映画。
Papusza_sub1_large自ら文字を習得し、ジプシー出身の詩人として注目された実在の女性・パプーシャの生涯を、時系列を前後させながら描く。しっとりした溶暗・溶明が印象的な映画だ。
ここにアップしたのは、家族に売られて、望んでいない相手と結婚させられるシーン。左右から女たちの手が伸びてきて、花嫁衣裳を着せられている。ワンシーン・ワンカットである上、スローモーション、ようするにハイスピード撮影である。
きれいに化粧してもらいながら、パプーシャの左目からは涙が流れている。なぜハイスピード撮影かというと、このカットには彼女の主観的な時間が流れているからだろう。撮影はあっと言う間だったはずだ。だが、そのあっという間に、家族に売られた彼女はどれだけ様々なことを考えただろう? それを想定すると、撮影時と上映時の時間の流れを変えて、いわば無慈悲に流れていく実時間に抵抗するしか、「人物の内面」を映画の原理をもって描く方法はないかに思われる。


もうひとつ、印象的なシーンがある。上記カットの直後である。
パプーシャを金で買った男が、花嫁衣裳のパプーシャの前に現れて「これから贅沢させてやるぞ」と得意げにしている。パプーシャはナイフを取り出す。男を刺すつもりなのだろうか。
そうではない。彼女は自分の左頬をナイフで傷つけて、「これでも結婚する気はある?」と問いただす。そこで、画面はフェードアウトする。
しかし、シーンはそこで終わりではない。短いフェードインによって、再び、自らの顔に傷をつけたパプーシャのアップが映る。彼女の声がかぶさる。「大いなる森よ、どうか私の子宮を塞いでしまってください」と。彼女の顔の傷から、血が滴り落ちる。
それから、またフェードアウト。長い黒コマがつづく。画面が明るくなると、十数年が経過している。

いちどフェードアウトで終わったはずのシーンを、なぜまた繰り返すのだろう?
二度目のパプーシャのアップでは、彼女の心の声が聞こえる。つまり、このカットは実時間ではなく、パプーシャだけが感知している「内面の時間」なのではないだろうか?
だから、フェードイン/アウトで包みこまねばならなかった。文章でいうと、( )のように。


「作中人物の内面」などという不可視のものを表現するとき、映画は機械的レトリックを駆使せねばならない。そのレトリックとは、すなわち撮影時に俳優が演技している「実時間」と、上映される「映画の時間」とを乖離させることだ。
Dbpbvbcvyaer1mたとえば、『ブレードランナー』終盤、ロイ・バッティが絶命するのを、デッカードが見ている。あのシーンで使われているのは「コマ伸ばし」。一秒間24コマで撮影した後、ひとつのコマを複数に増やして、スローモーションに近い効果を出している。
コマ伸ばしによってコントロールされたイレギュラーな時間は、一秒を一秒と錯覚させる「映画の仕組み」から逸脱する。そのようなメカニカルな手続きによってしか、「作中人物の内面」にアプローチするのは不可能。それが映画なのだと思う。(演技やセリフは、映画ではなく演劇に属している。)

(C)ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013
(C)1982 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

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2017年10月 4日 (水)

■1004■

メイキング オブ 『マイマイ新子と千年の魔法』 6日発売
03352733_12011年に発売されたムック本が、電子書籍になります。
電子書籍化の話自体は、かなり前から聞かされていました。当時としては力不足でしたし、出来れば作り直したいし、そもそも僕では役不足とも思うし……。
『この世界の片隅に』の大ヒットによって『新子』にもスポットが当たったことは、とても嬉しいです。今後も、ちょくちょく上映されていくことになるだろうと思います。
冒頭の福田麻由子さんのナレーションが「去年の夏」のところで途切れて、また「去年の夏」で再開する、あの音楽のようなタイミング……時間感覚。「これは何にも代えられない、すごく大事なものが始まった」という直感は、何度見ても新鮮なままだし、いまだに何がどう凄いのか言い当てることが出来ません。


この本の発売日に東日本大震災が発生して、そのちょっと前から、僕は母の死の中でこの本を作っていたのだなあ……と、当時のあれこれを振り返ると、買ってくださった方、これから買ってくださる方には申し訳ないけど、いつか『新子』資料集の決定版が、僕以外の誰かの手によって作られるべきだと思わずにいられません。
『この世界の片隅に』を20回も観に行っている人たちは、どんな気持ちなんだろう。
『新子』が上映されるたびに何度も足を運んで、いつの間にかお客さんが途切れなくなってきて、寒い寒い冬から少しずつ春になって、「そろそろ僕が行かなくてもいいかな」と距離を置きたくなった、ちょっと胸がしめつけられるような気持ち。明らかに過剰な思いいれ。

「廣田さんが、そこまで言うなら」と、映画館に一緒に行った知り合いたち。卒業した小学校から歩いて行ける映画館で、映画そっくりにドカンを開催した日。映画そっくりに集まってくれて手伝ってくれた人たち。福田麻由子さんに渡した花束。
貴伊子の母の不在と、タツヨシの父の自死は、どこかで僕の母の死と結びついてしまっている。人生を分け合ってしまっている。この映画と僕とが。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、僕の人生から離れてくれない。他のどの映画とも違う。あのとき親密にしていた他の誰とも、分け合えない。それは「独占したい」とか「俺がいちばんよく分かっている」というくだらない感情とは、まったく違います。「孤独」なのです。この映画のことを思い返すたび。

僕の「孤独」は、この映画の中に溶け込んでいて、分けることが出来ない。僕は、この映画に甘えているのです。あまり、こういう関係はよろしくないな、と思います。


僕の世界観というのは、「何もなくて退屈だとボヤくよりは、ちょっと豊かな気持ちになれるように、ほんのちょっとの慰めがあるように」。映画やアニメも、そのためにあると思っているし。僕の仕事も「ちょっとの豊かさ」につながってくれればいいと思っているし。
広い道は敷けないけど、細くて歩きやすい道を、あまりいい思いをしていない誰かが安心して使ってくれればいいな……と思っています。

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2017年9月30日 (土)

■0930■

アニメ業界ウォッチング第37回:“ぴえろ”創設者の布川郁司が語る、アニメ企画のこれまでとこれから
T640_739353ぴえろの布川郁司さんに、取材させていただきました。布川さんのお名前を記憶したのは、言うまでもなく『うる星やつら』のオープニングです。
この取材は、10/7(土)から開始予定の【三鷹ゆかりのアニメ『魔法の天使 クリィミーマミ』ビジュアル展】の告知の意味もありますが、お話のテーマは、あえて別のものにしています。


レンタルで、1996年のイギリス映画『秘密と嘘』。
Secretsandlies若い黒人の女性が、母親を亡くす。彼女は役所で、自分には生みの母親がいることを知り、彼女に会いに行く。母親は白人で、工場で働きながら成人したばかりの娘と暮らしていた。母親は、黒人の娘が会いにきたことに戸惑う。
まあ、筋立てを整理すればこうなるのだが、最初は三つぐらいのプロットが別々に並走している。母親の兄は、小さな写真館を経営している。そっちはそっちで、妻とのいさかいが絶えない。それぞれ、小さな家族模様が描かれる。

映画にグイと引き込まれるのは、写真館を経営する兄が、家族写真を撮るシーン。おそらく俳優ではない普通の人たちの家族を実際に集めて、カメラの前で正装させて、アドリブで撮っている。次から次へと、さまざまな夫婦や親子、ペットの犬などが画面に現れては消えていく。カメラを覗いている兄の声は、「笑顔でお願いします」「もう少しあごを引いてください」など、画面外から聞こえるだけだ。カメラのファインダーごしに、彼と観客とは一体感を経験する。
このシーン以降、どんな場面が出てきても、親しみをもって場面に没入することが出来る。


この映画は、ほとんどすべてアドリブで撮られている。だから、表情を捉えやすいように、人物は並んでいるか、横顔を見せるような位置に座っている。どうしても切り返しをしなければならないシーンでは、カメラを二台置いて、同時に撮っている。
F_4909083_1クライマックス、バラバラに生きてきた人たちが一堂に会するパーティのシーン。正面の座席には、誰も座っていない。なので、7人全員のリアクションを同時に撮ることができる。
検眼師の黒人女性が「人の目を見ると、その人の性格が分かるのよ」と話すと、写真家の兄が「その通りだな」と相槌を打つ。職業や立場をふまえながら、それらしい雑談を交わしている。
この手の人間くさい撮り方をした映画が好きな人にとっては、至福の二時間半だろう。

特に、黒人女性と彼女の母親とが、どんどん仲良くなっていくシーン。笑いながら店から出てくる二人を、望遠レンズで撮っている。セリフは聞こえない。周囲には、映画と関係ない通行人も映っている。そのラフさが、心地いい。
昼間から酒を飲んでいた母親は、最初は髪も服も乱れていたが、だんだん明るい色の清潔な服を着るようになる。二人が食事する店が、あまり高級そうではないレストランなところもいい。当然、セットなど建てるタイプの映画ではないので、すべてロケである。
しかし、衣装やメイクや撮影場所は、とても丁寧に選択されている。


こういう映画では、カット割りや構図を分析しても、ほとんど意味がない。俳優の生のリアクションを引き出しながら、たまたま撮れた良い表情を選んで編集したりしているからだ。
無理やりなことを言うと、街にカメラを持ち出したという意味では、こういうロケ重視、アドリブ重視の映画はヌーヴェルヴァーグの子孫と呼べるかも知れない。というより、アドリブ重視といえば、ジョン・カサヴェテス監督の『アメリカの影』があった。そっちに近いのか。

結局、いろんなタイプの映画を受容するには、いろんなタイプの映画をあれもこれもと見続けるしかない。そして決して点数などつけず、映画によって寛容に、おおらかに尺度を変えることだと思う。

(C)October Films

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2017年9月27日 (水)

■0927■

モデルグラフィックス 12月号 発売中
Dkikizxvwaax5rs●組まず語り症候群 第59回
今回は、ぞっこんコレクション『まじかるタルるートくん』より、「1/10 江戸城本丸」(バンダイ)です。このシリーズについては、ほぼ歴史の闇に葬られているのではないでしょうか。
ついつい、気を緩めると、この手のフィギュアネタに走ってしまうのですが、「まだそんなことやってんの?」と言われるぐらい、しつこく続けたいと思います。誰が読んでるか分からない、雑然としているけど無限に自由な連載でありたいのです。このブログも、そうですね。


レンタルで、『チャンス』。この映画も、中学生の頃にテレビで見たきり、すっかり分かった気でいた。
Mv5bnzbkzgi0mzitowq3mc00n2izltkymtqたぶん、概要はよく知られているのではないだろうか。生まれてからほとんど外出したことのない無学な庭師が、初めて街に出る。たまたま大統領とも付き合いのある実業家夫婦と知り合ったことで、庭師としての他愛ない発言が勝手に誤解され、政治的影響力を持ちはじめてしまう。
優れたコメディなのだが、後味は悪い。空虚といえるぐらいの人間不信が根底にある。原作・脚色のジャージ・コジンスキー氏の数奇な運命を知ると、その不信感も納得である。


主人公の庭師は、人と会っているとき以外は、テレビばかり見ている。
彼自身が副大統領の代理でテレビ出演するシーンからは、テレビ番組を見ている人々にカメラが向けられて、視点が複数になる。
14706_005庭師である主人公と暮らしていた黒人の家政婦が、黒人ばかり集まったホテルで、テレビを見ている。そのシーンはテレビ画面のアップから始まるのだが、テレビの性能が悪いのか、画面は真赤である。家政婦は「白人なら、この国ではどうとでもなる」「本当は頭が空っぽなのに、白人だからテレビに出られた」と、いわば真実を言い当てている。しかし、彼女が見ている画面は真っ赤で、本来あるべき色ではない。
色眼鏡をかけているのは彼女なのだろうか、それともテレビなのだろうか。


「テレビを見ている」といった、登場人物の受動的な状態を見てしまうと、観客は(自分も映画のスクリーンを見ているかしかないので)登場人物と自分とを重ね合わせてしまう。冒頭から、ピーター・セラーズの演じる庭師はテレビを眺めているだけだ。いやでも映画に没入してしまう。
さらに、「実は彼は世間知らずの庭師にすぎない」と知っているのは観客だけなので、観客は優越意識をもって映画を見ることができる。彼の正体を知る弁護士や家政婦の再登場によって、その優越感は揺らぐ。

もうひとり、庭師の正体に気がついた者がいる。実業家の家に寝泊りして、彼の治療をつづけている医者である。周囲の人間が庭師の言動にうっとりと魅了されているとき、医者だけが不審の目を向けている。
彼の登場シーンにも、ちょっとした工夫がある。庭師は実業家に薦められて、葉巻を吸おうとしている。歓談する2人の背後でひとり、ビリヤードのキューを構えているのが医者なのである。いわば、彼だけが勝負に出ているというか、戦闘状態に置かれている。
そして後半、医者は庭師の情報を外部にリークしようと、電話をかける。そのシーンで、医者は右手を椅子の背もたれにかけて後ろに引き、左手を机のうえ、まっすぐ前に伸ばしている。つまり、ビリヤードで玉を突くのと、まったく同じポーズをしているのである。

映画を見るなら、こういうところを見ないと。「監督の意図ではないから認識する必要はない」「監督の意図を受け取れたものが、正しい観客」という考え方は、文化を萎縮させる。


『けものフレンズ』の監督降板をめぐるTwitter上の騒ぎには、うんざりさせられた。
監督=作家の側を神聖視しすぎ、例によって「僕は彼のことをちょっとは知っている立場なんだけど」と事情通の顔をしたがる者。人気の出た過去のコンテンツについて「実は、あれは俺が仕掛けたんだよね」と得意顔になる者。
第一線で戦いつづけている者は、いつだって「今」と「明日」の話しかしない。「昨日」の話をすればするほど、第一線は遠のいていく。

(C)United Artists Corporation

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2017年9月25日 (月)

■0925■

ホビージャパン 11月号 発売中
Dkxi5xfueaatlmd●素材をめぐる冒険
マックスファクトリーさんのプラモデル「1/20 霞」を題材に、1980年代からレジンキャスト、ソフトビニールキット、PVC完成品へと変遷してきたフィギュア素材について、MAX渡辺さんにインタビューしながらレポートしてみました。

90年代後半から00年代初頭のフィギュア雑誌だけでなく、オークションでキャストキットやソフビキットを手に入れて、検証に徹しました。今後、他の製品についても「プラモデルとして発売されるまでの文脈」レポートを予定しています。


レンタルで、アイルランド・イギリス・カナダ合作映画『ブルックリン』。
640_21950年代、アイルランド人の女性がアメリカのブルックリンへ移り住み、イタリア人の男性と恋に落ちる。恋愛映画なんだろうけど、僕はジャンルは割と何でもいい。
まず、船で旅立つ主人公が、家族と別れるシーンが良かった。
主人公は船に乗っているので、港で見送る姉と母が小さく見えている。やがて、別れの悲しみに耐えかねた母は画面右手へ去っていく。それを追うように、姉も画面右手へと去っていく。
船から、去っていく2人を見ている主人公。船が動き出したので、彼女もまた、画面右手へ向かってゆっくり移動する。彼女の見ている、港の人々も、船の動きにあわせて、画面右側へ流れていく。いわば、別れのシーンは「画面右側へ人々が動く」ことで、美しく統一されている。
ところが、ひとりになった主人公が船内に下りてくると、彼女は後姿でタラップを降りてきて、画面奥へと歩き出す。次に、廊下へ顔を出す。廊下の奥から船員が歩いてきて、主人公を気にもとめず、画面手前からフレーム外へ抜ける。

つまり、家族との別れのシーンはゆったりした「横の構図」。ひとりになった途端、ソリッドな「縦の構図」になる。
もしかすると、船内はロケセット(実際に存在する場所をセットとして使う)で、この構図でしか撮れなかったのかも知れない。
640_2_2だけど、彼女が調和的な人物、特に恋人と一緒にいるシーンは、ほぼ間違いなく横の構図。関係のはっきりしない、あるいは調和的ではない人物は彼女の手前か奥にいる。そのほうがギクシャクした感じが出る。プロットが明快だから、よけいに構図の効果が気になる。


もうひとつ、格別に美しいシーンがある。
主人公は、移民の世話をする神父と知り合って、教会の炊き出しを手伝う。同じアイルランド人のホームレスのおじさんたちを招いて、クリスマスの夜に食事会を開くのだ。
汚いおじさんたちが食事している中、ひとりだけ歌手がまじっていて、その場に立ってアイルランドの民謡を歌いはじめる。これが郷愁を誘う、とてもいい曲なのだ。
それまで引きの絵で食事会の全体を捉えていたカメラは、ひとりひとり、くたびれたおじさんたちがしんみりと歌に聞き入る表情をアップで撮る。前後の人物がボケているから、一見すると似たような人たちばかりのようで、実はひとりひとりに表情があると分かる。

その、朗々とした歌声がつづいたまま、みんなが乾杯しているカット、食事会が終わって眠りこんでしまった老人を起こすカットなどを、細かく入れていく。主人公がボランティアを終えて外に出ると、雪が降っている。彼女は画面手前に歩いてくるが、ちょっとスロー気味にして、アクションを飛ばしている。そして、時間経過とは関係なく、美しい歌声が続いている。
とても詩的なシーン。僕は、いまネットで調べるまで、アイルランドとイギリスの関係、アメリカへの移民などの事情は、まったく知らなかったんだけど、映画って知識をこえられる。
少なくとも、移民して仕事のない人たちの悲哀は、このシーンが美しく撮られているがためにちょっとだけ理解できたし、ちょっと調べてみようとも思うわけ。

世間では「何を」題材にした映画なのか、ジャンルやモチーフが重要視されていることも知ってはいる。だけど、モチーフが「どのように」描かれているか、そのメカニックを解き明かす人たちがいなくなってはいけないと思うのですよ。

(C)2015 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.

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2017年9月16日 (土)

■0916■

ホビー業界インサイド第27回:作らずに眺めているだけでもOK! テラダモケイの寺田尚樹さんが語る“リラックスできる模型の作り方”
T640_738070イベントを観覧させていただいたテラダモケイさん、ついに取材に行ってきましたよ。寺田尚樹さんは、実はデザイン雑誌にプラモデルの作例記事を連載していたのです。
「模型誌に作品を発表しているプロモデラーでなければプラモについて語る資格がない」としたら、そんな世界は闇ですよね。異業種の方が、どんどん語れる多様性ある世界が良い。そんな願いを込めての取材でした。寺田さん、ありがとうございました。本業とは別のお話をしてくださって。


レンタルで、塚本晋也監督の『野火 Fires on the Plain』。
3e9a5215_large 故・村崎百郎さんがエッセイに書いていた、「百姓一揆のシーンでエキストラを雇える金がなかったため、キャスト・スタッフ総出で10人にも満たない人数で百姓一揆を演じて、それゆえに異様な迫力の出た低予算映画」、それを思い出した。
塚本版の『野火』、見て良かった。感銘を受けた。
2015年の公開時、「しょせんは自主映画」と酷評する人もいたが、確かにメイクは白々しいし、弾着のエフェクトも血が綺麗に飛び散りすぎる。だけど、映画のリアリティは一本ごとに違うんだ。自分でチューニングを変えられないと、ハリウッド大作に価値基準が固定されて頭がカチカチになるよ。『レヴェナント:蘇えりし者』や『プライベート・ライアン』とは別のモノサシを持っているかどうかが問われる作品だ。


塚本監督の8ミリ映画『電柱小僧の冒険』や『鉄男』はショックだったけど、『ヒルコ/妖怪ハンター』で初めて商業映画を撮ったとき、あの毒々しい作家性が見事に消えうせていて、驚いたものだった。
映画って大勢でつくるから、助監督とか制作とか特機なんかの周囲がプロのスタッフで埋まって体制が整備されると、監督の個性って相対的に減ってしまう。「個性的な映画は、個性的な現場からしか生まれない」という、若いころの押井守監督の言葉は真理をついている。

さて、今回の『野火』。前述したように、メイクやエフェクトはしょぼい。エキストラも、「監督に言われて、急遽出演しました」と分かってしまうレベルの下手な人がいる。
だけど、音楽でいえば間奏のような隙間が映画のあちこちにあって、塚本監督が「ね? 確かにしょぼいかも知れないよ? だけど、どうしても撮りたかったんだよ!」と合間合間で叫んでいるように感じた。「本当は、こうはしたくなかったんだ!」「理想のシーンは、こんな予算では撮れないぐらい凄いんだよ!」と、声を枯らしているかのようだ。そこに魂をつかまれた。この枯れ果てた井戸から搾り出すような低予算ゆえの迫力は、ハリウッド映画にはないよ。
撮影も塚本監督なんだけど、手持ちでエネルギッシュにカメラを振り回して、自分の顔がアップになるときは、他のしょぼさをたった一人で補うかのように、神妙な顔つきで演じている。他の俳優が、オーバーで空々しい演技をすればするほど、塚本監督の真剣さが際立つ。監督が主演って、すさまじくカッコいい。

ハリウッドの最新作を、4DXで鑑賞するのが最高の贅沢だと思ってるでしょ? 僕は、5年前でも50年前の映画でも観られる現在のインフラを利用して、自分固有の審美眼を鍛えたいっすね。


『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が公開されたので反応を検索してみると、みんなやっぱり「ストーリー」「物語」がキモだと思っている様子だ。「物語」が不在の映画なんて、たくさんあるのに。

『電車男』が流行ったとき、「こんなのネタだろ?」という突っ込みをよく目にした。ネタ=作り話という意味で。映画を「作り話」だと思っているから、「ネタバレ」という言葉を平気で使えるんだろうな。
映画は「物語」「ドラマ」がもっとも大事と思いこんでいて、誰ひとり構図やカット割の話をしないので、僕は孤独に自分だけの楽しみに没頭できている。

映画の本質は、「時間制限のある四角い枠」です。枠の中の情報が、いかに変化するのか。あるいは変化しないのか。『ロープ』や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のように、カット割なしの映画もあるけど、時間の制約からは自由になれない。必ず始まりと終わりがある。
たとえカメラや俳優が微動だにしなくても、何らかの情報をもった枠が一定時間、上映されるのであれば、それは映画なのです。座席が機械じかけで揺れることなんて……まあ、それすらも楽しんでしまえればいいけれど、映画を規定する条件ではないですよね。座席を動かすなんてことをせずに枠内の情報の変化だけで臨場感を出す、それが劇映画の面白さです。こんな面白い表現はないぜと思ってますよ、何十年もずーっと。

(C)2014 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

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2017年9月15日 (金)

■0915■

EX大衆 2017年10月号 本日発売
Djmpjy8ueaisr4d●マスター・オブ『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』
小特集の構成・執筆です。京田知己監督へのインタビューも担当しました。
実際に買って読む人は少ないかと思うので書きますが、『ハイエボリューション』は、ダニー・ボイル監督の『スティーブ・ジョブズ』の影響が大きいそうです。言われてみれば、全体像を把握させるのではなく、大胆に時間を省略して、逆にシチュエーションの面白さを描きこむスタンスは、よく似ています。
テレビアニメの再編集版はプロットを重視して細部を省略した「総集編」か、設定を大きく変えて新作カットで補った「再解釈」のどちらかでした。『ハイエボリューション』は、そのどちらでもありません。テレビのフィルムを使った、単館向けの小規模・作家主義の映像作品といった趣です。
なので、「ストーリー」という観点から見るとブツ切りで終わっているのに、「次作へ続く」とはなっていません(セリフではテレビにならって「つづく!」と言っていたと思いますが、作品全編を覆う膨大なモノローグにまぎれて、スタイルの一部と化しています)。

あと、余計なことを書きます。宣伝会社の対応がいいと、たいていの映画ってヒットするんです。宣伝が面倒がったり無作法だったり、強気にあれこれと指示してくる場合は、たいていダメ。 『ハイエボリューション』は、宣伝の対応がよかったのです。


レンタルで岡本喜八監督の『血と砂』、ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』。
L後者は、どうもリラックスしすぎて余計な要素を盛りすぎではないかと思ったら、1934年につくられたヒッチコックの自作(『暗殺者の家』)のリメイクだと知って納得。特典映像に『暗殺者の家』の一部が入っているが、こちらのほうが緊張感がある。

それでも、精一杯の工夫がしてあって、唸らされる。
顔を黒く塗ってアラブ人に変装したフランス人が死ぬとき、主人公は彼の頬に触れている。ゆっくりとフランス人が地面にひざをつくと、頬に塗った黒いスミが指の形に剥がれていく。血を出すより、こっちの方が「ただならぬ死」であることが強調される。しかも、実際の撮影では黒く塗った頬の上から白い粉をつけることで剥がれたように見せていると知って、つくづく感心する。

他にも、いまにも殴り合いが発生しそうなシーンで画面の中央にライオンの剥製を大きく入れて暴力性を示唆するとか、ショッキングな電話を受けた直後に、飛行機のエンジン音を入れて衝撃を表現するとか、アイデアが豊富なんだよな……。ラストカットのユーモアは「心憎い」の一言だし。
腹が立つぐらい、余裕綽々なんだよ。そろそろ、トリュフォーのインタビュー集 『映画術』を読むべきかも知れない。


明日から取材が始まるので、ディズニー・アート展《いのちを吹き込む魔法》へ。
21728237_1443342395759670_160425911『ピーター・パン』は扱っておらず、期待していたティンカー・ベルの絵は一枚もなし。それはそれとして、メイキングに焦点を合わせた良い展示だった。マニアックになりすぎず、ナイン・オールドメンの業績やマルチプレーンカメラの開発に触れている。
ただ、観客はディズニーランドに来たような気分の人ばかりだった。係員が「並ばないで、自由に見て歩いてください」と声をかけねばならないほど、みんな並びたがる。
展示とぜんぜん関係ない世間話をしている人もいるし……鑑賞するって態度ではないですね。世の中って、そういうものなのかも知れないね。


先日、友だちとファミレスで雑談していたら、4歳ぐらいの子供をつれたお母さんが昼食をとりに来た。子供には一言も話しかけず、テーブルにスマホを置いたまま、ずっとゲームをしていた。
お母さんもストレスが溜まっているのかも知れないし、娯楽としてスマホゲームぐらいはいいでしょう。だけど、ほったらかしにされた子供は、どんな大人になるのかな、とちょっと心配に思った(もちろん、家でいっぱい構ってもらっているのかも知れない。僕が見たのは、ほんの一部にすぎない)。

認められず、誉められずに育った人は、物事のマイナス面に敏感になる。何を語るにも、否定的・攻撃的・独善的になる。よくよく話を聞くと、「周囲の大人から誉められたことがない」。
決して、その人のせいではないんだ。僕はひどい父親になるだろうから、子供をつくらなくて良かったと思う。
別れた嫁さん語録の中で、ちょっと感心したのは「かわいいかわいいと声をかけて育てれば、本当にかわいい子に育つ。いい子だいい子だと誉めてあければ、本当にいい子に育つ」。
(C)1955 Filwite Productions, Inc. Renewed 1983 Samuel Taylor & Patricia Hitchcock O'Connell, as Co-Trustees. All Rights Reserved.

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2017年9月10日 (日)

■0910■

【懐かしアニメ回顧録第34回】サイレントとトーキー、ふたつの文法が交錯する「ラーゼフォン 多元変奏曲」の悲劇的プロット
T640_737773_2劇場アニメ『ラーゼフォン 多元変奏曲』は、テレビアニメ『ラーゼフォン』の設定をいくつか変更しつつも、作品の全体像がなんとなく分かるように構成されています。それでも、僕には「ムーリアン」と呼ばれる種族が何なのか、なぜ赤い血の人間が青い血のムーリアンに変化するのか、よく理解できませんでした。

ですから、ここに取り上げている「朝比奈浩子という少女がムーリアンに変化してしまい、その秘密を主人公に伝えられないまま、彼に殺されてしまう」、そのエピソードの意味や設定の重要度は分かりません。
しかし、朝比奈がセリフを発することができない(トラックの音にかき消されてしまう)ことで、音声としてのセリフよりも強く彼女の言いたいことを伝える、その演出の機能と効果はよく分かるのです。朝比奈を可哀想だ、主人公は気づいてやれよぐらいは思うわけです。つまり、「SF設定が分からない」ことは欠点ではありません。

それは、ギリシャとアルバニアの関係が分からなくても、国境に引き裂かれた男女のことは分かること(『こうのとり、たちずさんで』)と、まったく同じです。

『こうのとり、たちずさんで』はミニシアターで単館上映された映画であり、『ラーゼフォン』のような商業アニメとは別の位相にあるのでしょう。
商業アニメは視聴者・観客が好感度をいだけるように情報が整理されていますから、「このアニメは好きじゃない」「キャラが嫌いだから見ない」と即断されたり、逆に「(キャラが好きだから)傑作に決まっている」「テレビ版が面白かったから、劇場版も面白いはず」とフェアな評価を受けられないことが多いような気がします。
実は、毎週30分のテレビ番組を二時間に編集するフォーマットの「総集編アニメ」には、劇場用新作アニメとは異なる評価軸が必要な気がします。「そんなものどっちも同じだ、二時間あれば劇場アニメだ」「面白いかつまらないか、ふたつにひとつだ」という空気が、いちばん怖い。評価されるべき側面に、スポットが当たらない気がします。

上のレビューで取り上げた「朝比奈浩子が殺されてしまう」エピソードは、カット割や細かなセリフ、フレームサイズが異なるものの、テレビ版の素材が、ほぼそのまま劇場版に転用されています。
ということは、劇場版『ラーゼフォン』はテレビアニメの演出を繰り返しているにすぎず、劇場アニメの演出が為されているわけではないとは言えないだろうか(劇場アニメに固有の演出が存在するとして)。しかし、「テレビ/劇場の演出の差異」は今回の本題ではないので今は問わないでおく……というエクスキューズを、しっかりと意識すべきです。
「今は問わない」とはつまり、「いつかは問う」ことに他なりません。


もっと言うなら、実写映画とアニメ映画では「被写体の成り立ちが違う」ため、同じ評価の仕方をしないほうがいい(援用してもいいが混同しないほうがいい)と僕は考えています。
生身の俳優とデザインされたキャラクターは本質的に別の次元のもので、「絵なんだけど生きているように描かれている」ことと「生きている俳優が上手い演技をする」ことは別だと思います。
アニメのみを見ている人は、アニメは実写よりも優れた表現であると考えがちで、それはたとえば「クソみたいな邦画を見るより、深夜アニメを見たほうがマシ」といった言い方になるようです。アニメと実写、どちらの表現に優劣があるかという問題ではないし、それぞれどこに優と劣があるのか、誰かが見極めなくてはならないのです。

インターネットでは、端的に、キャッチーに「あの映画(アニメ)を見に行ったら、実はこうだった!」と笑えるようなことを言うか、「号泣した!」などの感情に訴えるレビューのほうが受け入れられやすい。
したがって、「実写/アニメの演出の違い」、「テレビアニメ/アニメ映画の演出の違い」などを考えることは賞賛とは無縁の、孤独な作業になるでしょう。それでもやらずにおれない人だけが、死ぬまで考えつづける。このブログが、いつもグズグズで非論理的あることは分かっています。いつか、きちっと中間報告を出したいと思っています。

(C) 2003 BONES・出渕裕/Rahxephon movie project

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2017年9月 6日 (水)

■0906■

月刊Goods Press 10月号 発売中
●大河原邦男さんインタビュー
Bandicam_20170906_105710437 特集「ザク、その革新の系譜」で、ザクの生みの親である大河原邦男さんにインタビューさせていただきました。
一般誌でもありますし、これといった新事実や斬新な切り口があるわけではありません。だけど、大河原さんの仕事に対する柔軟性あるスタンスが、鮮やかに伝わってくれるんじゃないかと思います。何度お話を聞いても、すがすがしい気持ちに立ち返ることができます。


2013年公開のモノクロ、サイレント映画『ブランカニエベス』をレンタルで。
142970703183069162179_blancanieves1大学時代に熱中した『夢見るように眠りたい』は、映画についての映画、しかも過去に封印された映画をモチーフとしていた。だから、モノクロ・サイレントという形式が似合っていたし、武器として有利に使いこなせていた。
『ブランカニエベス』は音楽のテンポ、とくにフラメンコの手拍子に合わせた美しいカットワークがある一方、やむなく効果音に頼ったカットもある。
1920~30年代の映画は、カットワークやカメラワークによって、原則的な話法を完成させていた。クローズカップで俳優の表情を強調したり、レフ・クレショフが実験したように、バラバラのカットを繋いで意味を生じさせることも出来た。
どうしても効果音を入れざるを得なかったのは、サイレント映画は不自由だという思い込みがどこかにあるためじゃないだろうか。ついつい僕らは、自分が生まれる以前の表現や娯楽は「現在よりも稚拙で、退屈だった」と決めつけてしまいがちだ。その悪癖から逃れるためにも、名画と呼ばれている作品は、ちょくちょく見直しておいたほうがいい。


クラス会で、すっかり人相の変わった元同級生が「僕のこと、誰だか分かる?」とニヤニヤしながら聞いてきたことがあって。「ごめん、誰だっけ?」と聞き返すと、「ほら、分かんないんだ。さて、誰でしょうねえ」と、えんえんともったいつけている男がいた。
仕事でも核心を言わずに、「困ったことになりましたねえ」「これはどうにかしないとアカンですねえ」と話をはぐらかすばかりで、具体的にどこをどう改善するのか聞いても「えーと……どこが悪いか、理解してます?」と、話を曖昧にする人っているでしょ? そういう人とは二度と仕事しないので、最近は僕の周囲にはいないけれど、彼らの中には「相手よりも頭の冴えた、本当の自分」がいるんだろうな。
生(なま)の、現在進行形の自分がちっぽけだから、曖昧な言い方で自分を誇大に見せる。

僕は数多く挫折してきたので、苦心しながらクリエイターとして大成した人には尊敬心を持っている。あるいは、いま現在、苦労している人に対しても。
挫折が嫉妬となり、「本当は俺だって……」と屈折している人もいるかも知れないけど、僕には「本当の自分」などという誇大な虚像がない。理想も向上心も捨ててないけど、周囲の人の下す評価が現実だと思っている。自分を認めない周囲が愚かだとも思わない。現実以外の答えはない。よって、間違ったと気づいたら謝る、助けてもらったらお礼を言うといった実務と礼儀を重ねていくしか、物事の改善方法はないと思っている。


「フリーライターなんて誰でもなれるだろ」と思われているなら、特に反論はない。僕より文章力の優れたアマチュアは、星の数ほどいる。
しかし、フリーランスで仕事を続けていくには、文章力よりも信頼が必要だ。「周囲がバカなのだ」「本当の俺は、もっともっと凄いのだ」という尊大な態度、もったいつけた言い方は、一時的に人を圧倒し、恐れさせ、従わせるだろう。
だが、そういう威圧的な人は(どれだけ突出した才能があろうと)、相手にするのが疲れる。僕には才能がないので、せめて誠意をつくそうと努力している。その結果として仕事をいただけているのなら、それ以上の喜びはない。
(C)2011 Arcadia Motion Pictures SL, Nix Films AIE, Sisifo Films AIE, The Kraken Films AIE, Noodles Production, Arte France Cinema

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