2017年5月22日 (月)

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ホビー業界インサイド第23回:美少女フィギュアか伝統工芸か? 永島信也が彫る“美少女根付”は、どこへ向かう?
T640_728241初めて永島さんの作品を見たのがどこだったのか、もう覚えていません。だけど、インタビューだけはさせていただきたいと、ずっと思ってきました。
羊毛フェルトを材料に使う土方クロネさんもそうでしたが、こういう方たちを「フィギュア」作家として認識したいと、つねづね思っています。「フィギュア」の概念って、もっと広いんじゃないかなあ……と。


レンタルで、ヒッチコック監督の『泥棒成金』。
Sub_largeこんなチャーミングな映画を観てなかったことを、誠に恥だと思う。義務感でヒッチコックの映画を観はじめたのだが、この作品のロマンス、サスペンス、ユーモアのさじ加減には、すっかり魅了された。
ただ、それでも僕はカメラワーク、特に構図の話をしたい。

ケーリー・グラントの演じる「猫」とあだ名される元・宝石泥棒が、ふたたび盗みを働きはじめたと警察に誤解され、やむなく逃亡をつづける。逃げる途中、グレース・ケリーの演じる美しい富豪の娘と知り合う。その娘は強気な性格で、自分の知り合った男性が「猫」だと見抜いている。飄々と追求をかわしていた「猫」は、彼女の強引な誘いに乗せられて、どんどんペースを崩していく。その過程が、ロマンチックで素晴らしいわけです。
さて、ケーリー・グラントの「猫」は、映画の前半では、画面の左側に立っている。歩くとしたら、画面左から右へと歩く。窓の外を見るとしたら、左側に立ち、右下を見る。
誰かと話すシーンでは、いくつかの例外を除いて、「猫」が左側、もうひとりが右側に立っている。

このルールが、娘と出会うあたりから、崩れはじめる。
娘は母親を含めた4人で会話するが、彼女はまず、「猫」が占有していたはずの画面左側のポジションを奪う。彼よりも、娘のほうが左側に座っているのだ。
次に、娘は「猫」を海水浴に誘うため、彼を部屋に呼びつける。そのシーンでは「猫」が画面右側に立っており、娘が画面左側から悠然と歩いてくる。
つまり、娘がペースを握りはじめると、彼女は画面左側を支配するようになる。それまで画面左側に落ち着いていた「猫」は、強気な娘に定位置を奪われてしまった……と考えると、この構図の逆転に説明がつく。


もうちょっと、分かりやすい例をあげよう。
「猫」は、真犯人をつきとめるべく、単身で行動を開始しはじめる。だが、彼の正体を知っている娘は、「猫」を待ち構えていて、強引に運転手役を申し出る。車もお弁当も用意してあるからと、「猫」を説き伏せる。
そのシーンでは、「猫」が左側、娘が右側だ。しかし、あまりに強引な娘の申し出に「猫」が折れると、娘はヒョイと「猫」を追いこして、画面左側に移動するのだ。それはつまり、主客転倒した、娘が主導権を握った……という意味にならないだろうか?

そして、娘がハンドルを握った車は、画面右から左へと疾走する。冒頭、「猫」の車が警察の車を振り切ったときには、画面左から右へと走っていたのに、完全に逆方向となる。
Catch_a_thief_photo僕の分析は早急すぎて雑とは思うが、主人公の立つ位置や向かう方向が、映画の前半と後半で逆転しているのは偶然なのだろうか? 「どっちでもいい」「どっちに立とうが向かおうが、面白さに変わりはない」んでしょうか? だとしたら、「構図」って何のためにあるんですか?

俺は、構図やカッティングに「ぞわっ」と来る人間なので、その真意や秘密に気づかぬまま死んでいくのは、まっぴらごめんなのです。
だから、つねに敏感でありたいし、考えることをやめたくない。

(C)1954 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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2017年5月 5日 (金)

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【懐かしアニメ回顧録第30回】躍動的な「破裏拳ポリマー」の世界と、視聴者とを媒介する“動けないキャラクター”
Nbc11すべての秘密を知っていながら、作中人物にそれを教えることのできないキャラクターは、テレビの中に入れない視聴者に、最も近い存在なのではないでしょうか?

だするなら、『破裏拳ポリマー』では“男爵”というセントバーナード犬に着目する必要があります。“男爵”だけがポリマーの正体を知っているのですが、それを誰も伝えることができません。
自由自在に動き回れるスーパーヒーローは、実は視聴者からもっとも遠いところに位置しているため、作劇上の工夫なくして、感情移入させることは不可能なのです。


レンタルで黒澤明監督『どですかでん』。
10010418_h_pc_l中学のころにテレビで観て、「黒澤明はカラーで撮るようになってからダメになった」という俗説を信じこみ、それで分かった気になっていた。いま観なおすと、色の使い方は前衛的かつ野心的で、創造する喜びに満ちている。

仲のいい2人の日雇い労働者が、それぞれ赤と黄色の服を身に着けている。彼らの手にする小道具、家の外装、内装、すべて赤と黄色にパッキリと塗り分けられている。中盤から、2人は妻を交換して暮らしはじめるので、一見して判別できる目印がなければいけない。2人を一瞬で見分けるために、赤と黄色の衣装が機能する。
後半、妻を田中邦衛(赤い衣装)にゆずったはずの井川比佐志(黄色い衣装)が酔っ払って、自分の家(黄色い家)に帰ってきてしまう。家の中は、ほとんどの小物が黄色で占められている。その黄色い家へ、赤と紺の衣装を着た田中邦衛が入ってくる。
すると、ちゃぶ台の代わりに使われていた道路標識が倒れて、画面左側に大きく映りこむ。「止まれ」と書かれたその標識だけ、赤と紺で塗られている。つまり、画面左側に位置する田中邦衛と道路標識だけが、赤と紺なのだ。そして、彼は黄色い家を出て、赤く塗られた自分の家へ戻っていく――この配色や位置関係は、はたして偶然なのだろうか?

誰が何色の服を着ているか……それは、ディテールに過ぎないのだろうか? 灰皿や洗面器が、黄色と赤に塗り分けられていることは、映画の本筋と無関係なのだろうか?
セリフに振り回されていないか、警戒したほうがいい。たとえセリフがまったく聞こえなくとも、田中邦衛と井川比佐志が家と妻とを交換したことは、(色分けしたおかげで)絶対に誰にでも分かるように組み立てられている。セリフではなく「画面」が関係性を提示し、画面と画面の連なりや衝突がストーリーを構築していく。その刺激的なプロセスを、『どですかでん』では目撃することができる。


しかし、何よりも圧倒されたのは、たくさんの男と寝てきた女(楠侑子)が、大きな腹を抱えながら悠然と歩くシーンだ。
楠が戸口から外に出ると、道端で働いていた男たちが立ち上がり、彼女の後を追う。カメラは楠の歩調にあわせて、ゆっくりと移動しながら、彼女を正面にとらえている。そこへ、別の男たちが右側からフレームイン、左側からフレームインし、次々と彼女に声をかけたり、体に手を回したりする。そのたび、楠は手で払いのけたり、無視したりする。
楠が「縦の動き」をしているなら、男たちは「横の動き」をしていると言える。また、ひとりで歩く楠が「個」なら、男たちは「群」。楠が「静」なら、男たちは「動」。いくつもの対比がぶつかりあい、また調和しながら、この力強いカットを編み上げている。

この映画は、あらゆる対比で占められている。仕事している者の奥には、なまけて酒を飲んでいる者がいる。平坦な道の左右には、うずたかく瓦礫が積まれている。その鮮やかな構図に、黒澤明なりの「世界の把握の仕方」を見てとることが出来る。
そのような豊かで生き生きと機能しているカット、構図、動きに出会うことが、映画を観る目的だ。誰もがストーリーが、あらすじが、テーマが……と言いすぎる。
まずは、何が映っているのか、どう撮られているのか、色眼鏡を外して見つめることだ。カメラの動き、俳優の動きは「ディテール」なのだろうか? ストーリーが、映画の「本質」なのだろうか? 自分が何に感動しているのか、立ち止まり、振り返って、よく確かめてほしい。

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2017年4月29日 (土)

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ホビージャパンエクストラ 2017spring 発売中
281156
●バンダイ『スター・ウォーズ』ビークルモデル
●バンダイ『ファインディング・ドリー』クラフトキット
●マックスファクトリー、コトブキヤ、バンダイ、各社の美少女プラモデル
上記のレビューというか、それぞれ「どこか商品として面白いのか、特筆すべきか」分かりやすく書きました。
昨年出た「模型のホメかた。」同様、作例だとか作り方だとかは載っていません。組み立て前のランナー、組み立て途中、塗装していない素組みが、美しく大きな画像で掲載されています。
果ては、説明書とデカールの写真が見開きで載っていて、パーツすら映っていないページもあります。その記事では、キットの説明書のどこがどう優れているのか、何の知識もない人にも分かるよう、丁寧に書いてあります。説明書がなくては誰もプラモデルを組み立てることは出来ないので無視するほうがどうかしているし、記事は「しかし、果たして説明書どおりに組み立てている人はいるのだろうか?」という視点から書かれています。

ようするに、プラモデル・メーカーが「ここをセールスポイントにしたいので、ここを見てください」とアピールしたい点は、ほとんど見ていない。書き手が「ここが凄い」と主体的に感じた部分を、真摯に書く。正攻法のアプローチで、プラモデルという商材の魅力を炙り出しています。
商業媒体のレビュー記事は、だいたいメーカーのアピールしたいポイントだけを列挙してますよね。そして、メーカーの言うことをおとなしく聞くのがライターの仕事だと言わんばかりに、コピペのような記事を量産している人もいます。「います」というか、大多数です。
しかし、僕は知っています。「プラモデルは、もっと面白い!」「メーカーが意図している以上に面白い!」 そんな当たり前のことを、商業媒体は外部に届く言葉で発信してこなかったと思うのですよ。


僕は、自分でキャンプをしたり山登りしたりするわけでもないのに、アウトドア用品の雑誌を買うことがあります。それは単に、文章に豆知識のような面白さが込められていたり、写真やレイアウトが魅力的だからです。アウトドア趣味のない僕にも、ストレートに届くものがある。僕からすれば、雑誌として面白くて美しくさえあれば、アウトドアでも料理でも、何でもいいのかも知れません。ファッション誌もスニーカーの雑誌も、服や靴は買わないけど、眺めていて楽しいから見るわけです。
そういう自由な場所に、模型雑誌は立てていないような気がするのです。表紙に超絶テクニックで工作・塗装された作例が載っていても、そのプラモデルが何をモチーフにしているのか知らないと価値が分からない。そもそも「これはプラモデルです」と書かないと、実車や実機と区別がつかない場合も多い(だから、号によってはカー雑誌の棚に入れられてしまう……)。

それは「本物そっくりに組み立てて仕上げなければ、プラモデルに価値はない」という思い込みに、模型雑誌が数十年ほど縛られてきたためです。だから、外部から来た人に「こんな大変なの、僕には作れない」と敬遠されてしまう。
どんなに大変でも、塗装や工作に面白さを見出した人は、トライするんです。情報がなければ探すんです。エアブラシも試してみたいから買いもするし、練習もします。
だけど、塗装や追加工作は、プラモデルの魅力の一側面にすぎないと思います。
たとえば、あるプラモデル・シリーズの「箱の数字をそろえる」ためだけに、えんえんと買い集めている人がいます。その楽しみ方は間違っているのでしょうか? 「数字をそろえることが面白い」という人に向かって「とにかく作れ! 作るからには塗れ!」と頭ごなしにルールを押しつけ、無理やりレースに参加させてきたのが我々だったのではないでしょうか。


だけど、僕は知っています。プラモデルは「次に何を買おうかな」と考えるだけで、すでに面白い。パーツが多いキットにしようか、たまには大きなものを組み立ててみようか、飛行機にしようか船にしようか、あのメーカーのキットはまだ組んだことがないぞ……と検討するだけで、最高に楽しい。
ヤフオクで単に「プラモデル」と入力して検索し、無造作に羅列され、詰めあわされたプラモデルの写真を見るだけでも面白い。プラモデルマニアが出品しているわけではないので、年代も種類もバラバラなんですよ。こうして書いてるだけで、もうワクワクしてきます。
こういう気持ちになっている僕に向かって、あなたは「ちゃんと色を塗れ」「合わせ目を消せ」と強いるのでしょうか。もうそういうのは飽きたし、好きにやらせてくれってのはナシですか? 「作れない言い訳はやめろ」とでも言うのですか?
たまに、そうした脅迫的空気を感じることがあります。「パーツ数の少ないものから作るといいですよ」と、求めてもいないアドバイスをくらったりもします。塗装や工作の上達を目指すのは、価値観のひとつにすぎないのに、アドバイスした本人は、それだけがプラモデル趣味の楽しみ方だと固く信じているかのようです。

けれども、僕は知っています。買うだけ、選ぶだけでプラモデルは面白い。色を塗らず、メーカーが苦しまぎれに選択した成形色で、へんな配色の完成品になったとしても、むしろそのほうが面白い。そして、「塗るのが楽しみ」だという人に、「塗るな」とは僕は言いません。
今号のホビージャパンエクストラだって、塗装を前提にした評価も載っています。
だけど、最終的に塗るのか、組み上げるのか、そもそも買うのかどうかは別問題なのです。僕が、山登りしないのにアウトドア用品の雑誌を見るのと同じことです。誰かから「見てばかりいないで、ちゃんと山登りしろ!」と怒られたりはしないわけです。いきなり、「初心者はこの山に登るといいですよ」などとアドバイスを投げつけられたりもしないのです。

そういう当たり前の自由さを、プラモデルの世界に広げてあげたっていいじゃないか。
途中で投げ出しても、そもそも買わずに眺めているだけでもいいんじゃないの? 「次は、これ買うぞ!」「あれがプラモデルになったら……」と夢想するだけで面白いって、すごい趣味じゃないですか。みんなで上達だけを目標にした窮屈な世界にしてないか、立ち止まって考えてみてほしいと、たまに思います。

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2017年4月25日 (火)

■0425■

月刊モデルグラフィックス2017年6月号 発売中
0000000033332●組まず語り症候群 第54夜
今月は、ゲームズワークショップの「SPIRIT HOST」というプラ製ミニチュアです。
ゲームズワークショップさんのミニチュアを取り上げるのは2年半ぶり、二度目なのですが、あまりこの連載は読まれてないので、新しいプラモデルの形態を紹介するには、適していないのかも知れません。先月の「ハコルーム」も、あまり認識されていないのでは……。


レンタルで、黒澤明監督の『影武者』。
武田信玄亡き後、彼とそっくりの盗人が影武者に仕立てあげられ、屋敷で暮らしはじめる。
Detail_25_main映画がなかばを過ぎたころである。影武者は、信玄の側室二人に左右から囲まれて、酒を飲んでいる。「どうだ、最近のわしは顔が変わっただろう?」と、影武者が二人に聞く。「お顔は変わりませんが、お声が変わりました」「そう言われてみれば、お顔も少し……」と、側室が左右から影武者の顔をのぞきこむ。自分から問いかけておいて、影武者は正体がバレるのではないかと焦りはじめる。
このシーンをどう撮っているかというと……

●真正面から影武者のバストショット。
●右から影武者と側室のロングショット(上の画像)。
●左から影武者と側室のロングショット。

この三方向のカメラから、側室に囲まれた影武者を撮っている。左右から、同じサイズで人物を撮って、会話の途中で、頻繁にカットを切り替える。すると視点が複数になり、影武者が「左右から交互に見られている」ように感じる。ひとつひとつのカットは安定した構図で、ごく当たり前の落ち着いた画である(上記画像のとおり)。
しかし、左右から撮った画を交互に繋ぐと、せわしない動きと時間が加わり、「焦り」が生じる。

ウソだと思ったら、このシーンだけでも見てほしい。信玄をよく知る側室に左右をふさがれ、さらに左右からカメラで撮られることで、影武者の「正体がバレてしまうのではないか?」という焦り、居住まいの悪さが、映画に芽生えはじめる。映像として物理的に捉えることのできない感情を、構図と編集だけで可視化している。


「もはや、ここまで」と腹をくくった影武者は、「わしは信玄の影武者なのだ」と側室たちに明かす。だが、側室たちは信じない。「おたわむれを……」と笑いだす。「いや、本当だ。わしは雇われただけなのだ」と繰り返す影武者だが、やがて側室たちと一緒に笑いだす。
僕は、このシーンを二度見て、二度泣いた。映画の機械的原理(構図とカット)と文学的な描写(セリフと演技)が見事に連携して、十全に「感情」を表現していることに、心打たれた。

なにも、登場人物に共感するから泣くとはかぎらない。表現が、そのメカニズムを十分に生かしている瞬間、人間の知恵と工夫の素晴らしさに感動することがある。芸術を味わうとは、こういう瞬間を言うのではないだろうか。
多くの感動は、おそらく表面に露出した「機能」によって喚起されている。だのに、僕たちは「表層」を見ようとしない。「表層」を無視して、いきなりテーマやストーリーに触れたがる。抽象的な感想を語ることを「答え」だと思っている。小学校で、頭の悪い教師たちから刷り込まれた態度を、何十年も改めようとしない。感覚が鈍磨していることに気づかない。大人になっても勉強しなければ、感覚など鈍って当然だ。

怠惰なくせに、他人の「頭の良さ」には敏感で、嫉妬深い。「努力など無意味」「恵まれているのは一部の天才だけ」と安易なニヒリズムに陥っている。僕らは、手に負えない、救うに値しない矮小な獣に育てられた。
だから、灰色の学校を抜け出して、映画を見る必要があった。暗闇で、得たいの知れないものたちに対峙する必要があった。
曇りのない本当の答えは、汗と泥の中に埋もれていたんだ。
僕は、何度でも思い出す。無限に映画を見る。見ては疑い、疑っては探す。世界を美しくしているメカニズムを、裸眼で直視するために。

(C)1980 TOHO CO., LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2017年4月24日 (月)

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アニメ業界ウォッチング第32回:“自分の創作の原点に立ち返りたい”――いま、山本寛監督が「薄暮」をつくる理由
T640_726752孤立無援、徒手空拳でありながらも、決して絶望はしない山本寛監督。今回はクラウドファンディング企画『薄暮』の話ですが、僕自身も震災後に救援物資の搬送や現地の方への取材を行い、あげく『マイマイ新子と千年の魔法』の上映会まで開催してしまった福島県いわき市が舞台……と聞いて、「これは取材させていただくしかない」と、3年ぶりに連絡をとりました。
記事掲載後、支援額が1,300万円を超えました。取材した時点では、700万円でした。この数字の伸びは、「物言わぬ支持者」の存在を示唆していると思うのですよ。


昨日は、17日から一週間にわたって開催されてきた『三鷹在住の漫画家 宮尾岳 複製原画展』の最終日でした。
14時からサイン会で、宮尾先生と約束した13時に三鷹コラルに行くと、すでに閲覧用のファイルにセル画を整理されているところでした。「セロテープと貼っても剥がせるテープがあればなあ……」とおっしゃるので、コラル三階まで買いに走りました。

あとは、『アオバ自転車店へようこそ!』最新刊の表紙に書かれている自転車のオーナーさDscn3883んが、コレクションを二台も持ち込んでくださり、コラルの方が周囲にチェーンを設置するのを手伝ったり……。
そうこうするうち、サイン会を主催する啓文堂書店さんがお客さんを整列させるためのテープを床に貼ったり、ネームを記したノートを設営したり、サインをするのに疲れないような当て木を用意したり、飲み物とコップを並べたり……と、プロの仕事を見せてくれました。
人員整理は僕がやらないといけないのかと思い込んでいたので、整理券順にお客さんを呼ぶ段取りの見事さに、安堵感をおぼえました。


もうひとつ、「展示しなかった複製原画をプレゼントにしよう」と提案したら、宮尾先生がDscn3951ご自分でジャンケン大会を始めたこと。これも、僕が「自分でやらないとダメかな」と思っていたので、先生のコミュニケーション能力の高さに、感服させられたのでした。
サイン会では、少年画報社の方たちがサポートについていたので、僕は写真を撮りながら、ブラブラしていられました。
こんな風にして、さまざまな方面からプロが集まって、何十人というお客さんの集まった会場を取り仕切って、誰もが不愉快な思いをすることなく、笑顔で晴れた日曜日を楽しむことが出来たのです。

一時間半後にサイン会が終わると、関係者の皆さんは4階の飲食店街の「柏や」さんで、休んでいました。僕は席がなかったので、いちど帰宅して、18時からの撤収作業へ向かいました。
そのとき、展示会のデザインと施工を担当してくれた「もくきんど工芸」の方が、「お疲れさま」と笑顔で肩を叩いてくださいました。その瞬間、「自分の仕事を、ちゃんと終えることができた」と実感して、一年ほどかかった準備の日々を想起しました。


お客さんとして訪れてくれたレナト・リベラ・ルスカさんが、僕が取材をうけた番組(J:COMチャンネルの「デイリーニュース 武蔵野三鷹」)の画面を、撮影してくれました。
Camw_vyaal_p9この取材の日は、たまたま宮尾先生が三鷹にいなかったので、やむなく僕が対応しました。地元だからこそ、フリーランスだからこそ発揮できる機動力です。
そもそもの発端は、三鷹駅前でアニメやマンガのイベントをできないか?と、地元の市議会議員に相談したことでした。その日、議員は三鷹コラル商店会の理事とアポをとっていて、引き合わせてくださったのでした。

何度か打ち合わせするうち、宮尾岳先生の名前を僕から出して、「連絡をとってみましょうか?」と提案しました。それが、一年ぐらい前です。先生とお会いするうち、イメージキャラクターや原画展の話が持ち上がり、少年画報社に連絡して、先方へ打ち合わせに行ったら、地元側から「そんなに性急に事を進めないでほしい」と、ストップがかかりました。
地元側の体制を固める間、半年ぐらいブランクがあったと思います。「予算が確保できそうなので、地元向けの企画書を書いてほしい」というオーダーがあり、そこから再始動です。


宮尾先生と少年画報社の担当者と再会し、「三鷹のことを描いた『アオバ自転車店へようこそ!』特別篇を描きましょう」「これから描くとなると、ちょうど開催時期に掲載誌が発売されますから」という話がまとまり、ネームを送っていただき、どれぐらいのボリュームの展示会になるか考えます。
三鷹コラルさんは「20枚は展示できる」と言います。僕としては、モノクロ原画だけでなく、カラー原画も展示したい。コラルさんは「三鷹の風景を描いた絵なら、写真と対比させたい」とおっしゃいます。では、写真はいつ誰が撮るのか、検討します。
カラー原画については少年画報社さんに相談し、複製原画を受けとりに行く日時も決めます。

どんどん時間がなくなっていくので、デザインをしてくださる「もくきんど工芸」さんとお会いして、少ない時間と労力でベストな形になるよう、図面を見ながら仕様を決めます。誰に何を見せたいかでデザインが決まるので、余計を要素を落として、どんどん決断していきます。
その翌日、宮尾先生とお会いして完成原稿のPDFを見ながら、16枚の原画と4枚のカラー原画を選び、それぞれ解説をお聞きして、すべてのコメントを録音します。

帰宅してすぐ、録音データを聞きながら、展示する原画に合わせてテキストを書き起こしていきます。宮尾先生からお借りしたロケハン写真があるので、それも原画と対応させてラフを作成します。いつも、本業でやっていることなので、要領はつかんでいます。その日の夜、宮尾先生に原稿を読んでいただき、赤字を反映させた完成テキストを「もくきんど工芸」さんに送り、パネルを作っていただきます。
Dscn3721_257316日夜、設営作業に立ち会いました。
しかし、パネルが出来るまでの間、送信した画像データの確認だとか、新たに加える要素はないのか等、ひっきりなしにやりとりが続きます。設営時には、写真があるパネルを2Fに、それ以外は4Fに貼るよう、お願いしました。人通りの多い2Fに三鷹の写真を貼ったほうが、地元の方の興味を呼べるからです。
……こうして思いかえすと、中学や高校で熱心に取り組んでいた文化祭に似ているのかも知れません。

僕自身は、何か創作できるわけではありません。だからこそ、創作できる方に、強いリスペクトを感じるのです。その気持ちが、原動力になっているのではないでしょうか。
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2017年4月17日 (月)

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Febri Vol.41 明日発売
10437175a●Febri Art Style
今回は『リトルウィッチアカデミア』の美術監督、野村正信さんにインタビューしました。
美術ボードだけでなく、初期のコンセプト・アートも掲載させていただきました。


いくつかの原稿、宮尾岳先生の原画展準備、どちらも一段落したので、新宿ピカデリーで『ゴースト・イン・ザ・シェル』。
640_2士郎正宗さんの『攻殻機動隊』の映画化ではなくて、押井守監督の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の実写化。ラストには、川井憲次さんのあのテーマ曲が流れるので、オマージュとか、そういうレベルではない。

クゼというキャラクターが出てくるけど、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』は関係ない。人形使いの立場を占めるオリジナル・キャラクターが、たまたまクゼって名前なだけ。(素子と出自が近いという点では、確かにクゼなんだけど……果たして、そこまで考えてるのかな?)

アクション・シーンのカット割りばかりか、ビルの谷間から見上げる飛行機のシルエットなんていう、押井監督オリジナルのレイアウトを丁寧にコピーして何がしたかったのかというと、ようするに「95年の『GHOST IN THE SHELL』のクールなアクションは絵に過ぎなかったけど、あれは俳優とCGを使った実写映画として残すべきだよね」程度の動機だと思う。
2D作画の日本のアニメは、しょせんはマイナーであって、「カートゥーンのくせに暴力や裸が出てくるなんてクールだよな」という受け方をしているのであって、電脳空間に流れる情報の海から生命が生まれるなんて文学パートは、やっぱり見てなかったんだなあ……と、ちょっと苦笑してしまった。

原作や劇場アニメのドラマツルギーは継承されてなくて、「私の身体は機械かも知れないけど、心は人間」みたいなモノローグが入って、公安9課の戦いはまだまだ終わらない!という頭の悪いポジティブなラストは、ちゃんとハリウッド娯楽映画になってるじゃん?と、それほど悪い気持ちはしなかった。


士郎正宗さんの『攻殻機動隊』は、電脳化や義体化を積極的に受け入れる楽観さがあって、ドラッグやセックスの描写に嫌悪感をおぼえつつも、「とても尖った価値観だな」と圧倒されもした。
続編の『攻殻機動隊2』は、突き抜けた楽観性が、より加速しているような気がした。なりふり構わぬ快楽至上主義が、芸術的なまでに下世話なエロを追求した『PIECES』に繋がっていくんだろう。 

電脳とか義体というアイデアは30年前のものなんだけど、その設定を使って人間が際限なく快楽を求めたり、無限の利便性に甘えきる泥沼のようなパラダイスを描いたから、いまだに『攻殻機動隊』は新しい。というより、誰も『攻殻機動隊』の価値観を刷新していないというだけの話。
いつもいつも、映像作品では「機械の身体より生身のほうが尊いに決まっている」「テクノロジーの発達に振り回されてはいけないのだ」という保守的なヒューマニズムに陥ってしまい、今回の『ゴースト・イン・ザ・シェル』も同じであった。
プロデューサーのひとり、マイケル・コスティガンは、あのハードコアな『悪の法則』を製作しているんだけど、今回は発言権が弱かったのかな。

アニメはともかく、日本のマンガって、おそろしく先鋭的なんだと思い知らされた。それを実感できただけでも、新宿ピカデリーに行った価値はあった。
(C)MMXVI Paramount Pictures and Storyteller Distribution Co. All rights Reserved.

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2017年4月15日 (土)

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4/17(月)~4/23(日) 宮尾岳 複製原画展 開催!

17796561_1940561366172667_6280010_2 「ミタカ・クリエイターズ・エキスポ 2017春」として、三鷹在住の宮尾岳先生の複製原画展を開催します。場所はJR三鷹駅南口すぐ、三鷹コラル()です。2Fと4Fに、計20枚の複製原画(『アオバ自転車店へようこそ!』最新話数)を展示します。それぞれの原画には、宮尾先生の解説コメントがつきます。
入場無料。

また、23日(日)の14時から、宮尾先生のサイン会を2Fロビーにて開催します。整理券は、3Fの啓文堂書店さんにて配布中!
原画展では、宮尾先生のデザインした「三鷹コラルのイメージキャラクター」も初公開します。


シン・ゴジラWalker 完全形態 発売中
一冊目がとても売れたそうなので、二冊目にもコラムを書いています。
映画『いまを生きる』のラストシーンから、話を始めています。

【懐かしアニメ回顧録第29回】セルと3DCGとの共存は可能なのか? OVA「青の6号」が混沌のすえに獲得したテーマとは?
『青の6号』後半は、海に住む異界のクリーチャーたちとの共存がテーマとして浮上していきますが、それは3DCGという異物を抱えながら制作していたがゆえに表出したのではないか、という論旨です。異質な制作状況が、逆にテーマを絞り込んでいくこともあるのではないか、と思います。
それは『青の6号』を好きとか嫌いとかいう次元の話ではなく、この時代、この作品に固有の価値です。どんな作品にも、必ず固有の価値があります。それを発見し、伝えられる人間になりたいと思っています。


レンタルで、韓国映画『オールド・ボーイ』 。
Oldboyhammer旅先に持っていった本に、カット単位で演出を詳述してあったので、気になっていた。その本には映画の「あらすじ」はラストまで記してあったが、それでスポイルされるものなど何もない。「どのような手段で語っているか」に集中して観ることができた。それぐらい、明示的・暗示的な「意図」が散りばめられた映画。

復讐鬼となった主人公が、あちこちに敵の手がかりを求め歩く。彼の背後で、ドアが開く。ドアに付けられたベルが「チリン」と鳴る。直後、自転車のハンドルに付けられたベルが「チリン」と鳴るショットが、インサートされる。
それを合図に、回想シーンが始まる。少女が自転車に乗って、校庭を走っている。まだ中学生の主人公が、鉄棒にまたがって、彼女を見ている。彼は、鉄棒に逆さにぶらさがる。上下が逆になった絵で、校庭を走る少女の姿が見える。


このような美しい反復が、あちこちで繰り返される。なので、「あらすじ」は反復の中に埋もれて、見えづらくなっている。「あらすじ」は、いくつもの反復を着火させるための導火線でしかない。
反復の中に、小さなドラマが線香花火のように、咲いては散っていく。その演出効果をひとつひとつ記していったら、確かに一冊の本になってしまう。

『オールド・ボーイ』はカンヌ国際映画祭で、審査員特別グランプリを受賞した。特に、タランティーノが絶賛した。タランティーノが好んだことが、ひとつのバロメーターになる。ほとんどの映画は、自分が映画であることに無自覚だけど、彼の愛する映画は観られることを意識している。どのように映画文化の中に受容されたいのか、自覚している映画が多いように思う。
タランティーノは、やたら映画ランキングをつけたがるので、彼の好みをガイドラインに観ていくのも面白いかもしれない。

(C)2003 SHOW EAST

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2017年3月30日 (木)

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神山健治Walker 発売中
C8dlinlvsaa3svu神山健治監督、美術監督の竹田悠介さん、大野広司さんのインタビューを担当しました。
竹田さんは『攻殻機動隊S.A.C.』シリーズや『東のエデン』の美術監督、大野さんは神山監督がキャリアをスタートさせたスタジオ美峰の方ですから、必然的に過去作の話が多くなります。

バランスをとるため、神山監督ご本人には『ひるね姫』の話題だけをお聞きしました。
本全体としては、過去作の美術ボードなども豊富に掲載した、資料性の高いものになっています。


レンタルで、1979年のイギリス映画『さらば青春の光』。原題は“Quadrophenia”で、「四重人格」という意味。この頃の邦題のタイトリングは、本当にセンスがよかった。
Original内容は、モッズと呼ばれるファッションに身をかためた青年の無軌道な生活を、これといった筋立てもなく、アバウトに描いている。モッズはロッカーズと対立しており、後半は彼らとの抗争がメインとなる。
主人公たちの衣装が、とにかくカッコいい。ヌードピンナップを切り抜いて壁に貼っていたり、食堂で食べるランチにいたるまで、いちいち決まっている。ちょっと白々しいぐらいディテールを強調しているな……と思ったら、モッズが流行したのは1960年代の中ごろまでで、実は十年以上前のちょっと懐かしい風俗を描いた映画なのだと分かった。


すこし調べてみたら、この映画は38年ぶりに続編が製作中なのだという。
その話は、いささか唐突に聞こえる。というのも、この映画は線で結ぶことができないから。ある時代の、局所的な風俗を描くためだけの映画で、いま観てもそれ以外の価値は感じられない。だけど、僕はこの映画のおかげで、ドラッグや音楽と絡みあったモッズというカルチャーを知ることができた。というより、この映画を観なければ、知ることはなかった。映画には、そういう役割もあると思う。

1979年は『エイリアン』や『スーパーマン』、『Mr.Boo! インベーダー作戦』『マッドマックス』などの話題作が国内公開された年だ。邦画も『戦国自衛隊』や『太陽を盗んだ男』など、活気を取りもどしていた。ついでに言うと、アニメ映画もブームを迎えていた。
だけど、そういう華やかな部分だけで映画を語るのとは、別の視点も持たないといけない。一本の映画に、特殊な文化が濃縮的に記録されていることがある。「面白い/つまらない」「ヒットした/コケた」だけで映画を観ていると、そうした価値に気づかないまま人生が終わってしまう。


旅行用の下着やTシャツを買ってきて、ようやく荷物をまとめはじめた。昨年のアルゼンチン行きで買ったサンダルも、洗って干してある。
いまひとつ準備不足なんだけど、ケアンズは日本語の通じる(らしい)旅行地なので、困ることはないだろう。今までの旅行の中では、最も近い海外だ。

【追記】『さらば青春の光』という邦題は、モッズというライフスタイルがあまりに局所的なので、日本の観客の視線を「誰にでもある青春の一時期」に誘導するための苦肉の策だったのだろう。
“Quadrophenia”という原題は、ザ・フーを知らないと、いったい何のことだが分からない。だが、その普遍性の欠如にこそ、「忘れられた時代を切り取る」意味があったんじゃないかな……。

(C)1979 Who Films,Inc. All Rights Reserved.

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2017年3月26日 (日)

■0326■

アニメ業界ウォッチング第31回:アニメの原画に触れられる“ササユリカフェ”オーナー、舘野仁美さんの語る動画人生
T640_724880舘野さんのお名前を知ったのは、ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた』でした。
ササユリカフェで吉田健一さんの個展へ行った後だったと思いますが、経営者が舘野さんだと知って、それから単行本『エンピツ戦記』を読んで、とにかく、ずっと気になる存在でした。
動画チェックの方にインタビューする機会は少ないので、スタジオジブリ時代についても、語っていただきました。

モデルグラフィックス 5月号 発売中
1475283_p●組まず語り症候群 第53夜
来月発売になるバンダイの「ハコルーム くまのがっこう」のテストショットをお借りして、ランナーとパッケージだけの先行レビューのような内容になりました。
「ハコルーム」は担当編集の推しが強く、僕も「プラモデルではないけど、プラモデルと同じ商品形態をもった製品」には興味をもっていました。媒体は違いますが、「ハコルーム」担当者にもインタビューさせていただきました。来月、掲載されます。


レンタルで、ヒッチコック監督の『サイコ』。
「なんで今ごろ?」と思われるかも知れないが、いま読んでいる映画演出の本に、何度となく出てくるタイトルなので、さすがに頭からちゃんと観なくては……と、焦った。
Original僕が生まれるより7年前の映画なので、特殊メイクはあっさりしている。しかし、「古い」と感じるところはそれぐらいで、モノクロ撮影で血を流す方法が数種類ほど存在していたとか、車を沼に沈めるために撮影用プールの中に装置を組んだとか、階段から落ちるシーンで俳優と背景を別々に撮って合成したとか、メイキングを見ると、むしろ少し未来の話を聞いているように錯覚してしまう。
1960年は劇映画の誕生から半世紀以上が経過しており、飽和するぐらいに劇映画の撮影技術が発達していたということ。

たとえば、僕らは4DXだとかMX4Dだとか聞くと、それこそが最高の映画体験だと思いこんでしまうが、それはやっぱり傲慢なんだよ。サイレント時代に『イントレランス』のような、現在では撮影不可能なスペクタクル大作があったことを、忘れてはいけない。
悪いけど、「4DXで観ないと、本当に観たことにならない」と自慢されると、原始人と話しているような感覚になってしまう。映画館の設備が貧弱でも観客を引き込む、記憶に残すのが映画の「質」だと思う。その「質」は、刷新されることはあっても、古くなって無価値になるようなものではない。


ちょうどよい機会なので、映画評論について、僕がもっとも納得させられた文章()を、以下に転載しておく。

「国、社会、人、経済、政治、全ての要素の鱗片が必ず映画の背後にはある。
それは人間の手によって映画が作られている限り、絶対に変わりが無い。

それを解き明かすのが映画評論であり、解き明かした結果を発表し後世への文化的財産とするのが映画評論家の役目なのである。」

「個々の映画の持つ意味を明かさずして、如何様にして映画を評論することが出来ようか。
それは評論では無く、感想だ。

面白い/つまらない、という言葉は評論としては無意味であって、主観的な感想である。
経済評論家を名乗る人間が、株のチャートを見て、嬉しい/困った、と呟いているのと一緒である。」

「映画評価家とは映画に点数をつける人、映画を褒めたり貶したりする人、と思っている人が多いうえに、映画評論業界内にも分かってない人がいる。

大学の教授は講義をする人ではなくて、研究をする人なのである。
それと同じで、映画評論家は映画を評価する人では無く、映画を解析する人なのである。」

(C) 1960 Shamley Productions, Inc. Renewed 1988 by Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.

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2017年3月20日 (月)

■0320■

劇場アニメの新時代  明日発売
71ishv3dxml_ac_ul320_sr228320_●「画が演技をするということ」 アニメーター/作画監督 安藤雅司の仕事
『千と千尋の神隠し』、『君の名は。』のムックでもお話をうかがった安藤雅司さんに、三度目のインタビューを行いました。
編集部からの依頼で、「アニメと実写の両方を知っている方に」とのことでしたが、よくぞ安藤さんに取材依頼したし、よくぞ僕に回してくれたと思います。

安藤さんは優れた表現者であると同時に、優秀な鑑賞者でもあります。インタビュー中、『この世界の片隅に』を評価していますが、おそらくこのような誉め方は、どのレビュアーも評論家も、していないと思います。
キャラクターデザインはよく話題になるし、絵がリアルだ、絵に説得力があるという誉められ方をされても、作画という工程に評価が及ぶことは皆無といってもいいぐらいです。

僕は「実写以上にリアルだ」なんて無責任な言い方をしたくありませんから、安藤さんの貴重な発言をまとめることが出来て、とても勉強になりました。たいへん有意義なインタビューになりましたので、必ず読んでください。


「アニメ映画」といっても、最近ではテレビ放送されたもの、テレビ放送前提でつくられたアニメもイベント上映されています。果たして、「映画館で上映されたんだから、すべて映画なのだ」とくくってしまっていいのでしょうか? そんな簡単な話なんでしょうか?
たぶん、アニメが「質的に」映画となる条件なり定義なりが、必要なはずなんです。

押井守監督の発言を振り返ると、劇場デビュー作の『うる星やつら オンリー・ユー』を「大きなテレビにすぎない」と反省しています。併映は相米慎二監督の『ションベン・ライダー』でしたが、そっちの方が好き勝手にやっている。
それで、第二作の『ビューティフル・ドリーマー』がどうなったかというと、おそらく『オンリー・ユー』より「映画っぽい」と感じる人が多いのではないでしょうか。

アニメが「質的に」映画である……という定義を考えるとき、いつも押井監督の「大きなテレビ」という言葉が、脳裏をよぎります。
人気のあるキャラクターたちをまんべんなく出して、笑いも涙も盛り込んで、新しい挿入歌もふんだんに入れたけど、それゆえに「大きなテレビ」にしかなっていない。
(いま、その「大きなテレビ」を「劇場版」として公開したら、「これこそ映画の王道だ」と歓迎されかねませんけどね……そういう雰囲気は、ちょくちょく感じます)

「大きなテレビ」ではなく、アニメが「質的に」映画になっているとするなら、「何が」映画たらしめているのか、関心をもっていなくてはなりません。


写実的なキャラクターデザインなら、実写映画に近づくんでしょうか? 現地にロケハンして、実在の場所を背景に描けば、それで現実感のあるアニメになるんでしょうか?
『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が公開されたとき、僕は日芸映画学科に在籍していましたが、「あそこまで細かく描くなら、実写でいいじゃないか」と言った学生がいました。『王立宇宙軍』を忠実に実写で再現したら、より完璧な映画になるんでしょうか。アニメは「実写映画に到達すべき、未完成な何か」なのでしょうか?

「絵なのに、リアルだ」という誉められ方をしていると、僕は「うん?」と首をかしげてしまうのです。そう言いたくなる気持ちは分かるけど、言葉が足りてない。
「絵でないと感じられない存在感」を出すため、何かやっているはずなんですよ。3DCGで立体的になったからリアルだとか、その手の認識から抜け出ないといけない。

それには、実写映画もアニメも、熱心にいっぱい観ている人たちが必要なんですよ。
映画とアニメは何が違うのか、なぜアニメが映画になりうるのか。面倒だけど、面白いじゃないですか。今、それを考えるチャンスが来てると思います。

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