2020年5月24日 (日)

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メガハウスの「ヴァリアブルアクションキット 新世紀GPXサイバーフォーミュラ」は、どうして“半完成キット”なのか?【ホビー業界インサイド第59回】
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組み立て済みのシャーシに、色分け成形されたパーツを組み上げていく。しかも接着剤もニッパーも必要ないという、異色の製品です。プラモデル・フェチ的ではなく大人向けの高額食玩でもなく、ひさびさに「ホビー」らしい気持ちのいい製品です。

社会に萌えキャラの居場所はあるのか?【第1回】弁護士・太田啓子さんインタビュー
『宇崎ちゃんは遊びたい!』などの萌えイラストを批判する側と、表現する側の両方にインタビューしていきたいね……という話を、EX大衆の編集者と2年ほど前から相談していて、とりあえず第1回は、『宇崎ちゃん』批判で注目された太田啓子弁護士に対するメールインタビューとなりました。
メールで膨大な回答が来てしまったので、整理する意味も兼ねて、直接お会いしてお話しする予定でした。そこへ緊急事態宣言が発布されてしまい、メールでの回答を、分けて掲載することになったのです。なので、ものすごい分量があります。


ただ、ホビーやアニメ業界にインタビューして、新製品や作品を盛り上げる娯楽性の高い記事ならまだしも、表現のような「思想」を聞きたい場合、文字上のインタビューを構成する記事という形で追及しきれるのか……。その限界については、担当編集とも話している。

『FAKE』というドキュメンタリー映画を観た。
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佐村河内守という耳の聞こえない作曲家に、実はゴーストライターに曲を書いてもらっていたという疑惑が浮上する。僕はこの事件そのものをまったく知らなかった。監督の森達也は、佐村河内の家に通い、まず彼が本当は耳が聞こえているのではないか?という疑惑をつきつける。奥さんと手話で会話しているが、それらはすべて演技なのかも知れない。
森監督が佐村河内を疑っていると画面から伝わってくるし、観ている側も「もしかすると、すべて茶番劇なのではないか?」と思わずにいられない。そうした疑いの中、映画は詐欺師扱いされている佐村河内の苦悩に迫っていく。森監督の疑いの目線が、この映画を終始、緊張させている。
これがもし、紙媒体で編集されたルポルタージュだったら、迫力は一割も出なかった気がする。


無論、ドキュメンタリー映画だって、撮ってきた素材を取捨選択して、意図をもって編集して、2時間の映画に構成する“演出”なくしては成立しない、監督の恣意なくしては映画作品たり得ないわけだけど。

映画の本質のひとつは、記録である。また、映画は人を受動的にする。始まったら最後、フィルムが途切れるまで観客の都合など無視して、二時間でも三時間でも続行される。観客はただ、映画の命ずるするままにジッと座りつづけているよりないのだ。
本とか読み物は、読者の能動性にのみ委ねられている。そこが弱点だ。漫画は、絵としての広がりであって、読みとるものではない(これは押井守監督の言葉)ので、訴求力がある。だから、Twitterでは漫画化して物事を伝えようとする人が多い。

そして、先日のようにハッシュタグだけをコピペしただけで、大規模な政治運動を起こしてしまえる。大衆は、どんどん受動的になっている。
数秒間で怒りや笑いをシェアしたい受動的な大衆に、「あなたの意志をもって私の記事を読んでください」とは頼みがたい。そこに、文字媒体の限界がある。


日本芸術文化復興会が、コロナウイルス被害に対応した「文化芸術復興創造基金」を創設したのに、例の法案抗議のハッシュタグや毎日新聞の記事を引用して反政府的なツイートを繰り返した小泉今日子らが、「文化芸術復興基金」の創設を訴えはじめた。

言っちゃ悪いけど、落ち目の芸人、50歳をすぎてもパッとしない俳優は「自分はもっと凄いはずだ」「こんな人生のつもりじゃなかった」と、焦りはじめるんだと思う。だけど、一般人から注目は集めたい。宍戸開とか古舘寛治は俳優として認識されずにTwitter(しかもデマツイート、強気で過激な子供じみたツイート)でのみ有名だし、頭の悪い左翼的発言でお馴染みの室井佑月さんだって、俳優としては数えるほどしか出演作がない。本業と呼べるものが脆弱すぎて、焦っている。挙句、反体制的なツイートで注目され、自分の人気と錯覚している。
小泉今日子も、二年前に不倫で騒がれて事務所を辞めて、それで資金繰りが苦しいのかも……と想像してしまう。ミュージシャンやライブハウス経営者たちは、この難局を乗り切ろうと工夫をこらしてきたけど、この人たちはハッシュタグで、いい気なツイートしていただけ。最後は政府にたかるなんて、俺にはみっともなくて出来ないけどね。

(ももいろクローバーZは、過去のライブを配信して募金を集め、日本医師会に寄付した。 小泉今日子とはやっていることが逆、これが現役アイドル、最前線の芸人の力だと思う。)

(C)2016「Fake」製作委員会

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2020年5月 2日 (土)

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「ハクション大魔王2020」――50年ぶりの続編がつくられた理由【アニメ業界ウォッチング第66回】
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先月1日に取材した記事です。元タカラトミーのモギシンゴさんのおかげで、楽しいインタビューになりました。監督の濁川敦さんの言葉どおり、第2話でプゥータが活躍しはじめてから、すごく面白くなってきました。
また、このインタビューは、タツノコプロの広報の方と直接交渉しながら、進めました。ですから、記事の方向性や役割もハッキリしたし、融通もききました。いつもこんな取材だったらいいのに……と思います。


最近、DVDレンタルで見た映画は『雨月物語』、『アベンジャーズ/エンドゲーム』、『モスラ』。
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特撮モノが増えてきたのは、それなりに仕事に関係あるからだ(私はもう、バリバリ仕事してるし、売り込みもいっぱいやってますんで)。
『雨月物語』は学生時代に観て以来で、長回しのカメラの動きも、わりと正確に記憶していた。しかし、まだまだ膨大な発見がある。DVDを買おうかと思ったぐらい。1953年で、こんな高次元の演出をやっていたんだからな……。たかが90年代の映画を「古い、遅れている」なんてほざいてる場合じゃないですよ。

『エンドゲーム』は自分とは関係ない映画だったのでさておくとして、『モスラ』の膨大なミニチュア・ワークには唸らされた(特に水の表現力)。『ゴジラ』とは異なる、神秘的な世界観も気持ちいい。
怪獣を倒すプロットではなく、西洋人が悪役という点も画期的ではないだろうか。正義をつかさどるのは、有色人種(演じるのは日本人のみ)だからなあ。


さて、新型コロナウィルスをめぐって、陰湿な「自粛警察」が跋扈する世の中になってしまったらしい()。多数のメディアが問題視してくれているのが、まだ救いである。

僕が遭遇した例は、あまりに程度が低くて恥ずかしいんだけど……。Facebookの喫茶店を愛好するグループで、自粛警察の人々に追放されてしまった。その顛末を、以下に記す。
まず、グループに加わったばかりで、「私は喫茶店には行かず、家で自粛してます」と投稿した女性がいた。その投稿に対して、なんだか長文で「家にいてください」「散歩しないと免疫力が下がるんですか?」「外出はロシアン・ルーレットです」、さらに「皆さんがお店に行くから、仕方なく喫茶店の店主はお店を開けているんです」と説教がましく返信している男性がいた。別に店舗経営者でも何でもなく、元・大手喫茶チェーン勤務とプロフィールに書かれていた(現役ではないよ、元勤務だからね)。

だけど、そのグループには毎日、喫茶店に行って、レポート写真をアップしている人もいる。その人たちに向かって「家にいてください」「お店に行かないように」って説教するなら、まだ筋は通っているよね。
どうして加わったばかりの女性、しかも自粛している人に対して説教口調なのか、文章が下手すぎて理解できないので、僕は「誰に向かって何を言ってるのか、サッパリ……」とリアクションしてしまった。すると、その説教男性は「今後は、よく考えてから投稿します」「でも、いいねをつけてくれた人がいるから、文章は削除しません」。

……こうして書いていても、なんだか小学生の意地の張り合いみたいで恥ずかしいんだけど。その男性がやりとりから離脱してしまったので、僕はグループの管理人に、投稿の削除を提案した。
だって、毎日喫茶店に通っている人もいるグループで、「皆さんがお店に行くから、お店はやむなく開店している」、しかも経営者でもないのに「私は喫茶店経営者の代弁をしている」とまで書いているわけだから。ところが、管理人が加わってからが、すごかった。超展開。超バカ。頭悪すぎる。


グループの管理人がどうしたかというと、「私は男性の意見に賛同する」「お店の方の意見も尊重すべきだ!」と書き込んできたんですね。自粛警察、二号。
おいおい、どこにお店の人がいるよ? 説教コメントを投稿した男性は、大手喫茶チェーンに勤務していたとプロフィールに書いてるだけで、勝手に「経営者の代弁をした」と主張しているにすぎないだろう?
「一体、誰が“お店の方”なんですか?」と、管理人にメールしたんだけど、返事はない。

しばらくしてから、管理人が凄いことを書きこんできた。「喫茶店経営者の代弁をしている、と主張している人の意見は、経営者の意見も同然と見なします」
ええええ!? 自己申告で「私は経営者の代弁をしました」と書けば、「この意見は経営者の声です」と判断されちゃうの? しかも、「管理人がすごい飛躍したこと書いてますよ」と俺が投稿したら、管理人は自分の飛躍した発言をメンバーに見られたくなかったらしく、僕とのやりとりを全て削除してしまった。
どうですか、程度が低いでしょう? だけど、怖いとも思った。こんな調子で、デマが広まっていくんだろう。「私は医療関係者です」と文頭に書けば、無条件で信じてしまう人たちがいる。そうやって疑わない、考えない人たちがデマに踊らされて、トイレットペーパーを買い占めたんだと思う。
その頭の悪い人たちは消えてなくなるわけではなく、学びもしないから、今後も延々とバカをやらかし続けるんだろう。そう考えると、かなり怖い。


……なんというか、恥ずかしくないんだろうか。
「いいね」をつけてもらったから間違った発言でも撤回しないとか、人に見られたらヤバい発言をしてしまったから、こっそり削除とか。本業でも、そんな軽いノリで誤魔化しながら、ウソをつきながら、不誠実に働いているのだとしたら、世の中が良くなるわけがない。
まあ、本業でたいした活躍ができないから、SNSで大威張りしているのかも知れない。そうであってほしい。

だって、僕は実力以外で評価されたくないもん。
大学がどこ出身だとか、住んでいる地域がどうだとかで仕事を割り振る人、たまにいる。いい企画を考えても、「確かに面白いんだけど、このジャンルは別のライターさんが担当していて……」と断られる場合も、しばしばある。でも、そのライターさんは、僕のように面白い企画を考えられないんでしょ? 単に「今まで担当だったから」って気をつかわれて仕事をもらったって、俺はそんなのみっともなくてイヤだけどね。まあ、自己都合最優先で「知り合いなんだから、私に仕事を回してくれ」って当たり前のようにねだってくる同業者、たまにいるけどね。そういう恥知らずな人とは距離を置いて、実力だけでつながるように努めてきたので。 
すると、「そのネタなら、廣田が書けるはず」って、ちゃんと能力に相応しい仕事が来るんだよ。濁った水の中に安住している人には、分からないだろうけどな。

だけど、「俺の実力だけを見てくれ」なんて殊勝な人、滅多にいないんだろう。
「私は元○○勤務です」で下駄をはかせてもらったり、「私は医療従事者です」でデマを振りまいたり、そういう人が幅をきかせている。そういう分かりやすい肩書きや見てくれがないと、人の能力を見抜けないおバカさんが大多数なのだろう。
しかし俺は、中学・高校時代の俺のように、「どうして人間はこんなに不公平なんだろう」「どうすれば楽しい人生になるんだろう」と暗黒の底で苦悩している少年たちに手を差し伸ばしたい。その生きづらさは、必ず報われるぞ、と確約してやりたい。
コロナともFacebookの話ともズレてしまったようだが、無関係ではないと思う。ちょっとはマシな世の中にしなきゃ、あまりに報われない。出鱈目をやっている大人たち、いつまでも今のようにのさばってられると思うなよ? 俺が黙っていないからな。

© KADOKAWA CORPORATION 2020

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2020年4月20日 (月)

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「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」のSF設定は、アニメーションの構造に作用してドラマを革新する。【懐かしアニメ回顧録第65回】
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このアニメが放送されたのは2004年で、僕はまだ結婚していた。日経キャラクターズ!という雑誌が、「クールアニメ」という造語でプロダクションI.GやGONZOの作品を格上げしようとしていて、苦笑しながら横目で見ていた。『攻殻』のような一級品のアニメは日経BPと付き合いの深い編プロやライターの担当で、僕は二番手だった。
でも、僕はそれでよかった。アニメって文化は、くだらないから価値があるんだと、ずっと思っていたから。絵が動く、それも油絵などではなく漫画、黒い実線で輪郭を描いてベタ塗りした簡素な「絵」を動かして、分不相応な文学性や実写的リアリズム、そして性愛(セックス)のような面倒な領域まで縦横無尽に描出する、その大胆不敵さ、傲岸不遜さがアニメの最大の魅力だと思う。

80年代のロリコン文化風の顔つきとバンド・デシネのようなアダルトな肉体描写が異種間で交配したような、下品でグロテスクで、それゆえ果てしなく魅惑的な士郎正宗の世界観と、神山健治監督の生真面目さは、実は相性が悪かったと思う。
士郎さんは、見たことを公言できないほど猛烈な、それこそ、あまりにミもフタもない猥褻さゆえに芸術的なエロ漫画の世界へ進出したが、そういうのはアニメでは無理なんだと思う。『攻殻~』は、この20年で知性的で真面目なSFアニメとして定着しすぎてしまった。エロ、それも名も知られぬまま読み捨てられる劇画誌的なエロは、文化を下支えする。アニメには、最底辺で客をキャッチする下世話なジャンルが欠けているのかも知れない。

アニメを真面目でカッコいいもの、高級なものと規定すればするほど、底力が失われていく。エロや暴力は身体と絡みついているので、絶対に軽視してはいけない。


さて、アニメと恥ずかしさの話題に入ったので、このまま先日のブログ()の続きを書こう。
「体育ができない」と、ようするに自分の身体を過剰に意識させられる。ひとりで勝手に野球をやる分には面白くて、バットやミットを買ってもらうのが楽しみだった。ひとりか、仲のいい友達と、勝手にルールを決めて遊ぶのは楽しかった。
ところが野球チームに入ってしまうと、身体の優劣を見せつけられる。下手な選手が試合に出してもらえないのは分かるし、僕も大勢の前で恥をかきたいとも思わない。
最悪なのは、チームに入ったばかりに、人間関係が変わってしまうこと。「お前のような下手なヤツとチームを組みたくない」と言われるのは、まあ仕方ないだろう。野球と関係ない日常の時間まで、極端な話、登校する時間から「廣田ごときが」「あんなヘナチョコが」と、公然と言われつづける。10歳とか11歳とかで、そういう体験してごらん?

僕は漫画を描くのが得意だったけど、絵を描いていると、「ヘタクソが……」と嘲笑っていたクラスメイトが「先生!」とか言って、媚びてくる。
中学、高校へ進むと、彼らのような凡人でも知恵がついてくるから、体育の時間だけ顔つきが変わる。さっきまで普通に話していたヤツが、目をそらして「だって廣田くん、テニスできないんだもん」と、僕を無視しても正当化される理由を口にする。まあ、大部分がそういう連中ばかりだったよ。人間なんて好きになれるわけないでしょ?

高校一年のとき、野球部の生徒に暴力をふるわれていて、授業中のことだから、教師も見ていた。だけど、「野球部員は甲子園へ行く大事な選手なので、大目に見てやってほしい」という意味のことを言われて、大人にも幻滅した。大人たちが隠蔽するんだから、大学の体育会によるレイプ事件がなくなるわけがない。社会人でもスポーツ選手は高潔な人間、ということになっている。
世の中に対する不信と幻滅をベースに生きてるんだから、そりゃあ独特の人生にもなりますよ。大部分の人は体育の時間に蔑まれたり、人格否定されることはないわけだから。


だから、ちょっとアニメを見てみました、世の中で認められるようになったから一応アニメにもハマってみました程度の凡人が、「僕もオタクっすよ~」とか病んだフリしても、俺に勝てるわけがない。俺はアニメ専門家ではないけど、アニメの歪んだ部分に対する愛着だけは底なしだから。
ブログにこういう事を書いていると、「廣田さんの欠点を見つけたぞ」と勘違いするヤツが出てくる。「俺は体育は得意でしたよ」「廣田さんのように悲惨な人生じゃなかったですよ」だとか、自慢話?をしてくる。だから、そういう薄っぺらな人たちがどう生きてようと、俺はいちばん何とも感じないわけです。俺と同じような屈折とコンプレックスを抱えている人間が、いちばん怖い。何をするか分からないから。

屈辱も劣等も感じることなく生きてきた単なるリア充が「俺は廣田さんほどダサくないですから、ファッションにも気を使ってますから」「廣田さんと違って、ちゃんと女にモテますから」と優位に立とうとしても(信じられないかも知れないけど、そうやって口に出してしまう人が結構いるんだよね……)、ぜんぜん的外れ。どうも、そういう人たちは挫折や屈折がないこと自体が、悔しいらしい。悔しくなければ、30歳、40歳にもなって、わざわざ俺に言いに来ないよね。
何の欠損もない人は、どれほど歪んだ変態アニメを見ようと、その歪みを感知する器官がそもそも無いわけで、おそろしく平凡な感想しか言えない。そして、40歳ぐらいになると、自分の凡庸さに苛立ってくるんだ。何人も実例を見てきたよ。


「知人からホテルをクローズするという苦渋の決断をしたという連絡が入った日にふざけた466億円のアベノマスクが届いた。怒りで胸が震えた。」
こうやって、何もテーマを抱えていない凡俗が政治的なスタンスをとろうとすると、とりあえず反アベ政権になってしまう。「ああ、カラッポの人だな」と分かる。まったく本質を突いていない。本質と対峙するようなベースが、人生に何もないから。
「総理大臣は今すぐ辞職しろ」とかさ。そんな力も方法もない、自分の弱さに甘えているよね。それが凡人の生き方なので、好きにすればいい。どんどんくだらなく磨耗し、人生の質が落ちていく一方だけどな。
言っておくが、安倍総理を失脚させるにはこんな秘策がある、こんなメリットがあるんだぜと知恵をこらすようなら、俺は素直に感心する。だけど凡人は、何も工夫しないんだもん。何か失うかも知れない、後戻りできなくなったらどうしよう、という覚悟がないんだもん。

リベラルとかフェミニストを名乗る人たちが、よく「ヘルジャパン」という表現を使い、「欧米はこんなに進んでいるのに、日本は取り残されていく」と決まり文句を口にするけど、彼らのいう「ヘルジャパン」「取り残された日本」って、つまりは肌で接している現実界すべてのことなんだろうな。政治的な問題を話題にしているんじゃなくて、彼らが解決せねばならないテーマは「生きるのがつらい」「現実が怖い」、それのみだと思う。
だとすればチャンスじゃないか。だって、そんな深刻なレベルまで来られない凡人が大多数なんだから。せっかく人生を革命できるような創造的なテーマを持っているのに、反アベとか欧米礼賛で誤魔化さない方がいい。せっかくの挫折が、もったいないよ。

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2020年4月13日 (月)

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なぜ「星合の空」は途中で終わらざるを得なかったのか? 赤根和樹監督が語る“日本のアニメを存続させるために、いまできること”【アニメ業界ウォッチング第65回】
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どうしてこのインタビューが可能になったかというと、『星合の空』のディスクが今月22日に発売されるため、その宣伝である必要がなくなったからです。
放送前にインタビューを申し込んだときは、エイトビット、TBS、そして外注の宣伝会社へ……とタライ回しだったので、それではロクな環境でインタビューできない(他社の取材と抱き合わせにされる例が多い)ので、断りました。
放送後、『ノエイン』以来の付き合いである赤根監督と直接交渉が可能になったから、こういう話を聞けたわけです。ようするに、製作委員会がインタビューなんて「宣伝」だとしか考えてないから、記事の質が下がるんです。そこに歯止めをかけられるのは、ライターや編集者ひとりひとりです。


ここ数日でレンタルして観た映画は、『戦争のはらわた』と『クレオパトラ』。
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『戦争のはらわた』は中学のころ、三鷹オスカーの戦争映画特集で観たように思う。爆発のスローモーションばかりが話題になるが、この映画は線ではなく点で出来ている。「誰かが銃を撃つ」「撃たれた側が倒れる」流れが、構図とカットで計算されているとは限らず、完全に別々の場所で撮ったカット同士を強引に繋げている。その乱暴さが、ある種の迫力を出している。
こういう「雑さ」は、ネタバレだ伏線だと神経質になってしまった今の娯楽映画では、許されないのかも知れない。


『クレオパトラ』は半裸の美女たちが舞い踊り、入浴シーンも結構あって、その通俗ぶりにちょっと笑ってしまった。
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ただ、上のような並外れたスケールの豪奢な作り物には、素直に感心させられた。
50年代はシネスコやビスタが開発され、映画会社は大画面の迫力を駆使して、テレビに奪われた観客を映画館に呼び戻そうと必死だった。IMAXフィルムで撮られていないのにIMAX上映する今の映画館の趨勢に、かなり似ている。
『スター・ウォーズ』新三部作の巨大なセット志向、「別に作り物に見えてもいい」「っていうか、昔の超大作はセット丸出しだったじゃん!」という開き直りのルーツは、50~60年代に、その萌芽を見ることが出来る。観客の顔色ばかりうかがっている最近の『スター・ウォーズ』が、いかにみみっちいか、分かろうというものだ。

もっとも、ルーカスは『クレオパトラ』のエロティックな要素は、受け継ぎそこねたのかも知れない。『クローンの攻撃』でナタリー・ポートマンの白い服で、乳首が浮いて見えるのでは?という噂があった。
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ご覧のように、縫い目が乳首に見えるだけなのであるが、このコスチュームが破れてヘソが見える……という演出は、童貞くさいルーカスにしては、ずいぶん思い切ったと思う。


吉祥寺のように過密しがちな街は「怖い」と感じるのだが、三鷹市のマイナーな通りは日曜日でもスカスカなので、散歩してきた。
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ところが、中華料理屋からは「ごちそーさん!」と大声で叫びながら暖簾をくぐって出てくるオヤジはいるし、大丈夫なのかなと思ってしまう。アベックや親子連れは、例外なく手を繋いでいる。
マスクが買えなかった、と意気消沈している家族も薬局の前で見かけた。僕はたまたま入荷時間に店にいたから買えたけど、この先が心もとないから、やむなく3日ぐらい同じマスクを使いまわしている。だから、政府の配布する布マスクは、けっこう助かる。

自分の行動には甘いくせに、他人の行動を厳しくチェックしてないか警戒すべきと思う。なぜなら、他罰感情は僕たち自身の心を濁らせ、腐らせるから。
たとえば一部の地域では、ドイツ人がフランス人を差別している()。欧米人・白人の人権意識が、とりたてて高いわけではない。誰もが差別者、加害者になり得る。自分だけは清廉潔白だと思っている人間から、順番に堕落していく。


しかし、今回のコロナ騒ぎ、欧米での感染者数・死者数が増加してから、急に「世界全体の問題」に格上げされたように感じている。
そして、すでに桁違いの被害者を出している国・都市の人たちが「次は日本だぞ」「日本の対策は甘い」など、脅しに来る。以前から、ずーっとそうだったような気がする。何がどう変わったわけでもないのだろう。
もし、中国・台湾・韓国・日本などアジアの一部に感染が留まっていれば、欧米はそしらぬ顔をしていたような気がしてならない。僕らは、彼らの周章狼狽に合わせてやっている部分もあるだろうし、それによって損している部分も助かった部分もあるだろう。

(C)1977 Rapid Film GMBH - Terra Filmkunst Gmbh - STUDIOCANAL FILMS Ltd
(C)1963 20th Century Fox
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2020年4月 2日 (木)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.3 本日発売
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『聖戦士ダンバイン』巻頭特集、40ページを構成・執筆しました。
今回は玩具にも触れたいと思い、そのページは盟友・五十嵐浩司さんに依頼しました。前回の『伝説巨神イデオン』よりもキットの数が少ないので、『ダンバイン』の放送とプラモデル発売前後の映画やテレビの年表、美少女フィギュアやパロディ文化がプラモデルにどう関与しているか、少しずつ触れています。
ただ、掘れば掘るほど、アニメとプラモデルの間には複雑で有機的な関連性が見い出せるので、別冊となったとき(この企画はもともと、一冊の本として提案したものです)、大幅にテキスト量を増やして実証したいと思います(ムックのカラーページでは、どうしても写真メインになってしまうので)。

あと、ほんの小さな、ありふれた番宣ビジュアルなどでも、許可が必要かどうか問い合わせて返事がないと「不許可」と判断されて、ちょっとした絵が掲載できなくなり、不自然なページになってしまう。これを何とかするには、僕が直接交渉するしかない。
版権ビジネス、版権文化は、権利元が何もせずにサボっていた(実質、OKした)としても、確実にマイナスの方向へ向かいます。確実に、権利を許諾される我々の体力がそがれ仕事を邪魔され、世の中がつまらなくなります。先達たちの創出したビッグタイトルの権利だけで食いつないでいる会社は、よく考えてほしいです。


いよいよボケてきたのか、以前に借りたDVDを間違えてレンタルしてきてしまう。ヒッチコックの『知りすぎていた男』、ミュージカル映画『シカゴ』。どちらも、ここ2~3年の間に見たはず。
あと、『ミッドナイトエクスプレス』も、既視感の多い映画だった。明らかに見ているはずなんだ……。ラストで警察署長をうっかり殺してしまうシーンは、ドラマ『ギャラクティカ』でそのままトレースされていた。それ以外にも、他の映画や漫画に、大量にオマージュやトレースが見つかる。
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あと、『ターミネーター:ニューフェイト』を借りてきて観たが、歳をとった旧作のキャラクターを無理に絡ませては殺し、プロット自体は旧作の焼き直し……という『スター・ウォーズ』と同じ幣に陥っている。ウェブ配信で見直したばかりの『ターミネーター2』がとても丁寧な映画だっただけに(ここに魅力をメモ書きしておいた→)、失望は大きい。


ウェブ配信といえば、大林宣彦自身によるセルフ・リメイク『同級生-さらなら、あなた-』が良かった。
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舞台は長野県の山の中に移ったが、ちゃんと尾道風の、古い日本家屋を使っている。
考えてみれば、1982年版の『転校生』は、40代半ばの大林宣彦監督が、小津安二郎の世界を若者たちに教えてくれていたのだ。モデルグラフィックス誌で、あさのまさひこ氏が「『転校生』によって、生まれて初めて“邦画”というものにインパクトを受けた」という意味のことを書いていて、おおいに首肯したものだった。
その価値を精査するには、ATGという会社に言及せざるを得ず、「オタク文化」と一括りに扱われていた昭和のサブ・カルチャーを丁寧に腑分けする必要があるだろう(アニメ作品のプラモデルだって、ATGや邦画史と無縁ではない)。

そして、大林監督が70代に近づいて撮った2007年版『転校生』は、あまりにも寂しい冬枯れの景色とあいまって、おおいに死を感じさせる映画になっていた。
そこは好悪が分かれるだろうが、『その日のまえに』『野のなななのか』など70代に入ってからの大林作品は生と死が二重写しになったような世界観を特徴としており、ミュージカル風に歌がセリフのように使われ、その独特の叙情性が魅力だ。

我慢できずに、『廃市』をレンタルしてきた(ネットで借りると高いので、100円で借りられる実体店舗にも、まだアドバンテージがある)。


さて、ブログのコメント欄を完全承認制……実質、閉鎖することにした。
前回のブログで、あまりにも意味不明かつ高飛車なコメントが書き込まれていて、今度こそイヤになった。

“突然のコメント失礼します。Twitterで見かけて拝読し、何とも言えない心持ちになりました。

「脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している」

架空の銃弾にいくら撃たれようと、死ぬはずなどない。死ぬ人などいない。博覧強記のライターの方とお見受けしますが、ダイ・ハードよろしく、これまで受けた幾多の衝撃にも耐えられたのだから、これからも耐えられる。そうお考えですか。

作品に殺されかかった人間は、絶望の淵で「元の自分には戻れない、戻るべきではない」と呻きこそすれ、「戻れなくてもいい」とは口が裂けても言えないものです。生き残った人間は、自分が奇跡的に助かっただけであることをよくよく自覚しているはずですから。”

……? ? 分かるコレ? 具体的に何かあったんだろうけど、カッコよく抽象的に書いているので、何が何だかサッパリ。
具体的に書かないのは、反論を封じるためだろうな。そして、自分はお前なんかよりスゴイ貴重な体験をしたので、お前のブログが気に入らない……ってことなんだろうな。そして、自分は逃げ隠れしているくせに、僕がライターであることは盾に取る。匿名野郎の常套手段。「連載読んでるんですけど」「過去に署名した者ですけど」で、アドバンテージをとろうとする。こういう卑怯者が、いちばん嫌い。
何の実績も提示できない臆病者のくせに、「実はお前なんかより凄いんだけどね」という態度で挑んでくる人、SNSにはウヨウヨしている。
(以前にコメントしてきた@monocuruこと天野真将も同じ。あらかじめ「俺は廣田より上」という立場で、「以前からブログを読んでいた」だのバイアスをかけてくる卑怯者。)

互いに気をつかいながらも排他的な日本社会では、自尊心の形成が難しいとは思う。だからこそ、俺は努力するし工夫する。努力も工夫もしなかった、サボりつづけた負け犬に、対等以上の口をきかれたくないんですよ。悔しければ、ここまで来てみろって話です。

(C)1978 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
(C) 2007「転校生」製作委員会

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2020年3月23日 (月)

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「ドロヘドロ」の現場スタッフが語る“3DCGアニメ表現の現在とこれから”【アニメ業界ウォッチング第64回】
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この取材は、僕がたまたまNetflixで『ドロヘドロ』を見て、MAPPAさんに問い合わせフォームから、直接取材を申し込んで実現したものです。
間に宣伝会社をはさむことなく、MAPPAの広報の方と取材方針を決めて、気持ちよく記事が完成させることが出来ました。
ところが、場面カットを使うために製作委員会各社の許可が必要で、その許可を得る段階で、さらに原稿が直されて、ひとつのエピソードが丸ごとカットされてしまいました。

直接インタビューしたスタッフの方が、技術的な言葉について修正を入れてくれるのは、かえって有り難いんです。
だけど、現場から離れれば離れるほど、誰がどういう意図で原稿に手を入れたのか分からなくなる。誰の責任なのか、分からなくなってしまう。アニメ業界に限った話ではないと思いますが、名前は出さないし責任も負わないけど「俺にも権利がある」って人が、最終的なクオリティに影響を与えてしまう。
他人に言うことを聞かせたり、他人をコントロールすることで仕事をした気になっている。そして、版権元に指示されると、フリーランスは次の仕事が無くならないよう萎縮して、唯々諾々と手塩にかけた原稿を修正してしまう。

そんな風に、誰もが仕事相手の顔色をうかがい、不快にさせないように失礼がないように、関係がギクシャクしないように、勝手に先回りして自粛してしまう。今も赤字が入って送り返されてきた原稿を見ているけど……、申し訳ないですけど、ビビりすぎ。
こうしてみんな、勇気を失っていく。自尊心を犠牲にして、安寧な力関係に屈服していく。


“事務局からパブリックコメントの内容を口外しないよう通知があり、「情報が漏洩した場合、委員全員の連帯責任となる」旨の書類に署名するよう指示された”(
香川県のゲーム規制条例の記事より。

ゲームの良し悪し以前に、日本中の大人、みんなこういうノリでしょ? 「口外するな」「連帯責任」ばかりで、自分がダメージをくらっても誠意を貫こうという大人がいない。そのことの方が、子供に有害だよ!


最近、DVDレンタルで観た映画は、ゴダールの『パッション』とイタリア映画『もうひとつの世界』。後者はぐっすり眠ってしまい、3割ほどしか覚えていない。
『パッション』は過去にも見た記憶があるが、今回は面白く見ることが出来た。
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ビデオ映画撮影の舞台裏と、工場をめぐる社長と労組のいさかいがカットバックするが、ハリウッド的な明快なストーリーやテーマはない。構図やカットに、文芸的な意味が込められているわけでもない(というより、意味など読みとれない……だがしかし、どのカットも美しい。その美しさは劇的効果がピタリと決まったときの美しさとは違う)。

推測にすぎないが、ゴダールは劇映画を使って劇映画批評を行っているかに見える。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』では、映画であることがバレるような演出をわざと入れて、劇映画が作り物であることを暴き立てた。
『パッション』はそこまで露悪的で分かりやすくはないものの、映画そのものによる映画批評が、さらに高度化したように見える。
少なくとも僕は、普段、どれだけハリウッド的に馴致された、定型的かつ限定的な映画ばかり見ているか実感させられた。
『コンタクト』のセリフ、「なぜ英語ではないのかね?」「英語を母国語としている民族は、全世界の3割にすぎません」というアレ。あの状態に、僕らは浸りすぎている。


新型コロナウィルスの猛威で、欧州が大変なことになっている。それゆえか、アジア人に対する差別は後をたたないようだ。欧米人には、もともと手を洗う習慣がない、彼らは意外と不潔だとも聞く。
それを言うなら、こんな事態になっても尚、公衆トイレで手を洗わない日本人男性の多いこと多いこと……。小便をした生臭い手で、鏡の前でうっとりと髪をなでつけていたかと思うと、そのまま出て行ってしまう。そもそも、男子トイレの床は、わざとこぼした小便でいつでもベタベタに濡れている。

幼年期にうけた抑圧は、一生を呪縛するのかも知れない。親に怒られそうな悪いことを、こっそりやってしまう癖は、一生抜けないのかも知れない。
間違いを認めて引き返せる準備を、いつでもしておかねばならない。しかし、そこまでの勇気がある人は、とても少ない。多くの人は、頑迷固陋な偏屈な大人になるしかなく、早々と自滅していく。

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2020年3月17日 (火)

■0317■

「xxxHOLiC」は構図によって、秩序と混沌、神秘と通俗を描き分ける【懐かしアニメ回顧録第64回】
アニメや映画を「構図の使い方」という視点から評価している人は、とても少ない。もし構図やカッティングを“分かる”人がいたら、それはチャンスです。その審美眼は、お金になります。

EX大衆 2020年4月号 発売中
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●俺たちが好きなガンプラ
6ページ記事です。シャア専用ザクを素組みする記事は自分でラフを書いたけど、あとのページは文字ばかりになってしまいました。
模型誌に蹴られた企画が元になってはいるけど、もう少しグラフィカルに構成したかった。最終ページでは、山田卓司さんのコメントをいただきました。


最近、レンタルで見た映画は『マルホランド・ドライブ』20年ぶりに再見、『LION/ライオン 〜25年目のただいま』、『風とライオン』。

最初に『マルホランド・ドライブ』を見たとき、まだ30代だった。当時は漠然と、これが最先端の映画と感じていた。
いや、いま見ても次々と変な人物が出てくるし、異常なシチュエーションが相次ぐし、何より美女がエロいことをしてくれるので、まったく飽きない。だけどそれは、テレビドラマ的な面白さであって、「映画が機能している」わけじゃないのだと分かる。
ネタバレネタバレ言われるようになったのは、謎解きが主流のテレビドラマが流行ってから。謎解きがメインであって、劇的葛藤がない。

それに比べて、『風とライオン』はどうだろう?
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上の、剣をスラリと抜くカット。カメラが右にPANして、これから首を落とされる部下たち4人をナメてから、ショーン・コネリーの右手の動きをとらえる。シュルッと剣を抜くと、その抜いた動きにカメラが追従して、やや左に戻る。
全編、人物のアクションにカメラが追従していく。それが、この映画の思想なんだ。人物の生命活動がまずあって、カメラは人物たちに振りまわれされる。だから、すごくエネルギッシュだ。人物とカメラの関係が、劇的必然として機能している。
『マルホランド・ドライブ』には、見世物的な娯楽性がある。だけど、それは映画でなくて連続テレビドラマでいいじゃない?と思ってしまう。


アニメ作品の取材は、本当に減らせるだけ減らしているつもり。取材先と信用関係が築けそうな場合なら、こちらも前向きになれる。
ところが、僕の書いた原稿に修正が入り、一回目は技術的な知識についての追記だったので、もちろん納得した。本日、なぜかさらなる直しが入り、面白いエピソードが切られていた。おそらく、「こんなこと書いたら関係者に失礼だ」って程度のことで、何か強い意志があったわけではないだろうと思う。
アニメ作品は、「身内のスタッフに悪いから」レベルのことで、よく直しが入る。模型雑誌だって、いつも書いてもらっているモデラーさんが気を悪くするから程度の、ムラ社会みたいなルールで、こちらが意志を曲げさせられる。だから、発展しない。自分たちで相互監視して首を絞めて、「売れない、売れない」と嘆いている。
僕みたいな個人にだったら、いくら我慢をさせても平気なのは、リスクが低いから。恥を知らないんだよ。

そして、組織の内側から僕の記事に難癖をつておいて、「廣田が問題を起こした」と何年でも言いつづける。その担当者はサラリーマンだから、名前を隠したまま組織に守られている。
どういうことか、分かるだろうか? 個人の尊厳を踏みにじる社会が、活気づくわけがないでしょ? 
景気が悪くなってから、ずーっとみんな守りに入っている。
組織に隠れられる人は組織に甘えて、リスクを冒さない。2004年にイラク人質事件が起きたとき、「自己責任」という言葉が流行った。誰もが少しずつ自尊心を減らし、権威に頼りはじめた。自分だけは仲間ハズレになるまいと、他人に過剰に気をつかい、結果的にギスギスした社会になった(漫画やアニメのキャラクターをめぐる表現規制論争も、住みづらい世の中の端的な例だろう)。

どうして昔のアニメが元気いっぱいで、破天荒で、怖いもの知らずだったか、考えてみたことがあるだろうか?
いつの間にか、他ならぬアニメファン自身が「この表現はアウト」「セーフ」と判定するようになってしまった。肝心なことは「ネタバレ」で口にするのが禁忌になってしまった。
そんな停滞の中で希望を捨てないためには、具体的に企画を立てて行動して、本質的な仕事を実現させるぐらいしかないでしょ? 虚無的になっている暇なんて、僕にはないんだよ。

© 1975 - Warner Bros. All rights reserved.

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2020年3月 4日 (水)

■0304■

1/700スケールのプラモデルが、いま面白い! ピットロードの提案するミニチュア模型の楽しみ【ホビー業界インサイド第56回】
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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』版大和のプラモデルが、Amazonのレビューで「ついにこういうものを売り出してしまいましたか…。制作委員会監修?軍港があったため、呉は空襲の災禍に見回れたにではなかったのでしょうか。軍都広島は原爆で人類史上まれに見る大虐殺を経験したのでは。所詮、『男たちのYAMATO』よろしく、ノスタルジーだけの感傷だけの映画でしょうか。こういうことだけはしてほしくなかった。」(
……と書かれてしまった、ピットロードさん。だけど僕は、ちゃんと御社製品のクオリティを指先で実感してますので、今回も取材させていただきました。
こんな地味な記事、誰も読まないだろうと思っていたら、2日間もアクセスランキング第一位でした。


最近、レンタルで観た映画は『ひまわり』と『イヴの総て』。
『ひまわり』は大学の友人から勧められ、『イヴの総て』は母の好きだった映画で、両方とも20代のころに観た。
当時は、「なるほど、よく出来たプロットだな」と思った程度だった。いま観ても、『イヴの総て』は、やはりよく出来た演劇でしかなくて、映画としてのアイデンティティは欠けていると思う。

『自転車泥棒』から22年後にデ・シーカの撮った『ひまわり』には、いくつか良いシーンがあった。
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ソフィア・ローレンの演じる主人公は、夫を探してソ連へ行く。夫は戦場で記憶喪失になって、ソ連のどこかで別人として暮らしているのではないか……と、彼女は疑っている。
探し当てた家には、見知らぬ若い女がいる。彼女とは何も言葉を交わしていないが、主人公はベッドに枕がふたつ並べられているのを見て、すべてを悟る。
上のカットで、主人公は何も言わない。ただし、画面外から夫と暮らしているであろう見知らぬ女が、子供をしかっている声が入る。子供は洗面器で手を洗わされているので、水の流れる音が聞こえている。主人公は何も言わないが、画面外の音が彼女の孤独を語っているのだ。
画面外は、生活臭のある喧騒に満ちている。しかし、画面内にたった一人で立ち尽くす主人公は、それらの日常の外に追い出されている。画面内にいる者こそが、画面外の「世界」から疎外されている――黒澤明も、しばしば、このような演出を使っていたような気がする。

カット内に何を入れて、何をカットの外に置くか。情報のよりわけによって、シーンの持つ意味はまるで変わってくる。
フレームに収められている被写体が、常に「選ばれている」とは限らない。「取り残されている」だけかも知れないのだ。


一ヶ月後に南米コロンビアへ旅行の予定なのだが、欧州やオーストラリアではアジア人差別が激化していると聞く。現地に住んでいる人たちのツイートを読むと、今に始まったことではないという。
とは言え、日本国内もトイレットペーパーの買い占め、電車内でのケンカなど、さして民度は変わらない。なぜか僕は「差別をなくそう」とは言えない。差別をしてしまうのが人間だから、風通しのいい社会にできれば、差別など目立たなくなっていくだろう(差別した本人が痛い目を見るだろう)と考えている。
人間が愚かなのに、いきなり差別感情という患部だけをキレイに除去できるほど、甘いものではないはずだ。

たとえば、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク 」を名乗る「のりこえねっとTV」が、以下のような番組を配信するようだ()。
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確かに、中年男性は若い女性から見たら気持ちが悪いだろう。僕も、頭が禿げているし50代だし、キモくて申し訳ないと思いながら生きている。
あと、中年男性が不審な行動をとったり、無知で無神経なくせに社会で威張っているのは、同性の僕から見ても不愉快だ。
だから、『シリーズ キモいおじさん』という番組を企画する気持ちは分かるし、どんな内容なのか楽しみにしている。配信をやめろとか謝罪しろとか、一切思わない。仁藤夢乃さんの活動すべてに賛成ではないが、著書を読んで、共感するところもある。

……というか、悪いけど真面目に反論する気になれない。僕の敵はこんな低次元にはいないと、いつも思ってしまう。

上のように、人間は誰でも差別する。誰でもが、誰かを加害しうるのだ。白人だから差別しないとか、女性だから差別しないなんてことはない。誰でもが、時と場合によっては加害する側に回る。だから、人間は怖い。だから、その人間の度し難さを前提に、本質的な意味で「誰もが幸せに暮らせる社会」を目指さなくてはならないのだ。
「確かにおじさんはキモいけど、俺だけは例外ですよ」「差別はいけませんよ」などという次元では、本質に触れられない。人間は差別するし誰もが偏見を持っている。その汚れきった自分勝手な我々が共存するには、忌避や嫌悪をこらえて和解の道を探すよりないのだ。


JAなんすんのポスター騒動以降、『ラブライブ!サンシャイン!!』を、Twitterで「児童ポルノ」呼ばわりしている人がいる。
僕が「ネタバレ」という言葉を嫌いな理由が、ちょっと分かった。「児童ポルノ」も「ネタバレ」も、「それが何であるかは具体的に言えないが、とにかく忌避せねばならない」、本質を欠いた代名詞にすぎないからだ。「児童ポルノ」と言われたら、誰もが個人の乏しい経験や想像の中から、「自分にとっての最も醜悪なもの」を漠然と想定して話をするしかない。
その無責任さを、「ネタバレ」という言葉にも感じる。「なぜネタバレを避けねばならないのか、その理由を話したらネタバレになる」消極性、主体性の欠如。そうした虚無的な態度が、社会を、人心を枯れさせる。

(C)1970 - Compagnia Cinematografica Champion (It) - Films Concordia (Fr) - Surf Film Srl - All rights reserverd.

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2020年2月23日 (日)

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劇場版『Gのレコンギスタ』は、なぜ“わかりやすい”のか? 富野由悠季総監督に聞いてみた!【アニメ業界ウォッチング第63回】
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今回のインタビューは、最終的には実りの多い、内容の豊かな記事に仕上げられました。

ただ、いくつか問題点も感じました。『G-レコ』一作目のインタビューは、僕がしつこくサンライズさんに交渉して、取材日に時間をとってもらいました(その日は富野監督の単独取材が3件入っていました)。今回の二作目は、外注の宣伝会社が試写に呼んでくれて、「富野監督の取材も出来ますよ」と、声をかけてくれました。
アニメの場合、放送時や公開時にのみ関わる外部の宣伝会社が、インタビューをすべて仕切るパターンが増えました。ところが彼らにまかせておくと、他社との合同取材にされてしまって、「一社につき質問時間は15分」とか、機械的に決められてしまうんです。そんなんで、独創的な価値あるインタビューになりますか? 今回は、それだけは嫌でした。「富野監督の単独インタビューなら、ぜひお願いします」と、念を押しました。
案の定、僕のインタビューの後は、富野監督と荒木哲郎監督の対談(外部の宣伝会社から提案があった企画)で、二社合同取材でした。悪いけど、そんな状況で出来た記事は他媒体にも載るわけで、まったく面白くなりません。


なので、今回は「どうしても富野監督の単独インタビュー」とお願いして、良かったです。
ただ、富野監督は10分も遅刻してきたうえに、最初からムッとしてるんです(笑)。僕が何を聞いても、「(あなたの声が小さくて)聞こえない」「ぜんぜん違う」「間違ってる」って、そっぽを向いて答えるんです。まず、同席したバンダイナムコアーツの担当者たちに、富野監督はすごく文句があったらしい。完成したインタビュー記事でも、ポスターについて怒っている箇所が残ってるでしょ? とにかく、関係者が売り方について、ぜんぜん分かっていない。
それが理由で、富野監督が激怒しているのは、非常に理解はできます。だけど、僕もインタビューするプロなので、取材中は怒鳴らないでほしかった。「富野監督がそんな態度なら、今日は取材になりません」と、席を立とうかと思ったぐらい。だんだん、機嫌がよくなっていって、最後は満面の笑みになってくれました。僕の質問も、監督がムッとするほど的外れではなかったはずです。
頭ごなしに「リアリズムのことを勘違いしている」と言われましたが、僕はネオレアリズモ映画の代表作はすべて見ています。インタビュアーを、あまりにもバカにしすぎですよ。カットのことだって、僕は16ミリ・フィルムの編集経験があるので、分かっているつもりです。でなければ、カットワークについての質問などできません。

……まあ、「こっちはいつでも席を立つぞ」って態度になれたので、緊張感のあるインタビューになって良かったんですけどね。
ただ、富野監督も大人げないと思いました。バンナムの宣伝担当が、どれほど酷いにしても、僕には関係がないでしょう。


それと、僕がインタビューを記事にまとめた後のこと。
赤・青・ピンク・黄色で修正を入れられてしまって、いちど消した文字が復活していたりして、どこをどう直していいのか分からない。
これは富野監督本人だけでなく、関連各社の担当が順番に修正を入れるからです。そうやって手分けしてバラバラに修正するから、どこの誰に責任があるのか、分からなくなる。アニメの取材って、いつもそうなる。今回はマシな方だったけど、もう僕の書いた文章が半分ぐらい直されて、何が趣旨の記事なのか分からなくなってしまう場合もある(そういう場合、僕の名前は消してもらいます。記事内容に責任が持てませんので)。

日本のコンテンツの生産能力が劣化して、創造性が枯渇するのって、こういう主体性のないシステムのせいなんですよ。
僕の取材記事は、自分から立案して、自分で交渉して、たとえインタビューがメタメタであっても、立案したのは自分なんだから、ちゃんと面白く読める記事に仕上げられるんです。
だけど、関連会社が多すぎると、もう僕の企画意図から外れて、誰に責任があるのか、読者さんに何を伝えたいのか、まったく分からない原稿にされてしまう。アニメの場合、そんなのばかりですよ。宣伝を、アニメのことをまるで知らない代理店に丸投げするからですよ。

だから、何だか知らない広告代理店が仕切りはじめたら、僕は取材を取りやめます。ひどい原稿にされるのが分かっているから。それぐらい、アニメの広報って粗雑になっている。富野監督が激怒するのも、よく分かります。


で、製作委員会方式だけじゃないと思うけど、「ウチが全責任を負うわけじゃないけど、だけどウチにも権利はありますので」と、いびつな権利意識だけが肥大していく。コンテンツ・ビジネスで「公式」って言葉が、やたらハバをきかせてますよね。「公式が許可したからOK」とか、「公式ガイドブック」とか、変に権威的な意味をまとってしまっている。一緒に仕事している対等の相手に、やたら「様」をつけるのも同じだと思う。
ようは、「権利元に失礼だろ?」「ちゃんと“様”をつけろよ!」と怒られたくはないわけ。だけど、「ウチにも権利があるから言わせてもらう」と主張もしたいわけ。日本社会に特有の、自尊心の形成の失敗。
自分で主張できるだけの自信は、自分でトライして、自分で失敗しながら育てるしかないんですよ。なのに会社が保有している権威に頼ろうとするから、ちんけなサラリーマンとして控えめに威張るようなことになってしまう。

日本のコンテンツが弱体化しているとしたら、しなやかで強固な自尊心を、現場の人間たちが持っていないからですよ。
冒頭の、富野監督がバンナムの担当者に怒ったのも、彼らが心からの自信を持っておらず、監督の顔色をうかがいすぎなんじゃない?と、邪推してしまう。失礼ながら。うまく行く現場って、誰もが経験に裏打ちされた自尊心から意見を言う。だから、「アンタの言うことなら聞いてみよう」と、建設的な関係を築ける。どっちが上でも下でもないですよ。自尊心をもって仕事しているという点では、対等なんですよ。自信がないから、権威に頼るんですよ。
みんな、ビビりすぎ。楽しく、中身のある仕事ができるよう、自尊心を育んでください。

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2020年2月 9日 (日)

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アンの生きる現実は、空想を使わないと描写できない――。「赤毛のアン」第12話を見る【懐かしアニメ回顧録第63回】
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アニメーションは、線と色の面で描かれた絵を「現実だと思ってもらう」表現です。その「現実」の中に本物ではない「空想」が混入したとしても、やはり線と色の面で描く以外に方法はありません。『赤毛のアン』第12話は、そのアニメーションの不便さと約束事を逆手にとったエピソードなのです。
空想の中のアンは、現実には持っていない白いドレスを着ていますが、それは空想である証拠とはなりません。なぜなら、『赤毛のアン』ではアンの想像物すら、線と色の面で分け隔てなく描いてきたからです。それを知っている視聴者は、アンの想像の中に現実が織り込まれているであろうと類推して、ドキドキするわけです。原作小説は完全な会話劇なので、アニメとはまた別の種類のサスペンスを、読者は体験することになります。


インフルエンザが回復してすぐ、『お熱いのがお好き』を借りてきたら、すごく面白かった。しかし、この作品は2017年にいちど観ていた()。
売れない音楽家のコンビが、女性だけの楽団にまぎれこむ。寝台列車の中で、女たちを集めた酒盛りが始まる。狭いベッドから、女たちのなまめかしい足がニョッキリと飛び出しているのを、後ろから撮っている。これは酒宴が行われていることの説明ではなく、何か言葉にしづらい、異様な状況だけが引き起こす“美しさ”なのだと思う。
その足だらけのワンカットが入ることで、独特の艶かしさがシーンに加わるのだ。

翌日、同じビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』を借りてきた。
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この作品はミュージカルとして舞台化されているぐらいだから、映画独特のメカニズムが機能しているのかと言われれば、ちょっと疑問だ。映像を使って「脚本を説明しているだけ」にも見える。
しかし、大通りをちょっと入ったところに隠微な洋館が人知れず建っていて、そこに行く宛てのない主人公が紛れ込む……というシチュエーションに、すっかり魅了された。
その館に住むのが、時に忘れられた元女優、裕福な女主人……これもいい。ゾクゾクする。母方の祖父の家は、ずっしりとした大きな屋敷で、洋間に布団を持ち込んで、祖母と一緒に毛布にくるまりながら『ハエ男の恐怖』などをモノクロテレビで見たものだった。あの時代に、映画的記憶の断片が形成されたように思う。

つまり、僕が生まれた時代、映画はすでに古い表現だった。『サンセット大通り』は1950年の映画だが、1930年代以前のサイレント映画の時代に材をとっている。1950年代、すでにサイレント映画は「過去の遺物」だったのだ。今の人からすれば、70年前の『サンセット大通り』だって時代遅れに感じるかも知れないが、当時の映画界にはトーキーよりも長いサイレント映画の歴史が、悠然と横たわっていたのだ。その歴史の長大さに気づかされるのだから、古典映画は大事に観ないといけない。
10年後の『サイコ』のメイキングを観ると、カラー以前のモノクロ映画の時代、さまざまな技術が開発されていたことが分かる。つまり、トーキーもカラーも、劇映画の仕組みを抜本的に変えたわけではない、ということ。いわんや、IMAXだの4Dだのが、映画を新しくするわけがない。


丸一週間経過したのでインフルエンザは完治したようだが、本日は喉が痛い。症状は緩やかなので、今回は単なる風邪だと分かる。

思えば、一歩も外に出ずに閉じこもって寝るしかなかったインフルエンザの日々すら、自分には内省をもたらしてくれる有意義な時間だった。自分の来し方について、じっくり考えた。大きな怪我も病気もなく、金持ちとは言えないが日々の暮らしに困らないぐらい稼げて、ストレスのたまらない仕事を選んで自己実現できているのだから、自分は恵まれている。
「普通は、フリーランスでそんな順調に暮らしてはいけない」と編集者に言われて、ハッとなった。そう、上手いこと進むように工夫はしてきたのだ。

20代、ただ若いだけで本当に金がない時期だって、妻子のいる友だちが激安の焼きそばを買っておいてくれたり、死ぬような事態にはならなかった。
先日、別の編集者と打ち合わせした後、道を歩いていて、じわじわと幸せを感じた。彼のことを、「いい加減な男なのではないか」と疑っていた自分を恥じた。「他人を信頼できる」、それが何よりの幸せなのかも知れない。

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