2017年9月16日 (土)

■0916■

ホビー業界インサイド第27回:作らずに眺めているだけでもOK! テラダモケイの寺田尚樹さんが語る“リラックスできる模型の作り方”
T640_738070イベントを観覧させていただいたテラダモケイさん、ついに取材に行ってきましたよ。寺田尚樹さんは、実はデザイン雑誌にプラモデルの作例記事を連載していたのです。
「模型誌に作品を発表しているプロモデラーでなければプラモについて語る資格がない」としたら、そんな世界は闇ですよね。異業種の方が、どんどん語れる多様性ある世界が良い。そんな願いを込めての取材でした。寺田さん、ありがとうございました。本業とは別のお話をしてくださって。


レンタルで、塚本晋也監督の『野火 Fires on the Plain』。
3e9a5215_large 故・村崎百郎さんがエッセイに書いていた、「百姓一揆のシーンでエキストラを雇える金がなかったため、キャスト・スタッフ総出で10人にも満たない人数で百姓一揆を演じて、それゆえに異様な迫力の出た低予算映画」、それを思い出した。
塚本版の『野火』、見て良かった。感銘を受けた。
2015年の公開時、「しょせんは自主映画」と酷評する人もいたが、確かにメイクは白々しいし、弾着のエフェクトも血が綺麗に飛び散りすぎる。だけど、映画のリアリティは一本ごとに違うんだ。自分でチューニングを変えられないと、ハリウッド大作に価値基準が固定されて頭がカチカチになるよ。『レヴェナント:蘇えりし者』や『プライベート・ライアン』とは別のモノサシを持っているかどうかが問われる作品だ。


塚本監督の8ミリ映画『電柱小僧の冒険』や『鉄男』はショックだったけど、『ヒルコ/妖怪ハンター』で初めて商業映画を撮ったとき、あの毒々しい作家性が見事に消えうせていて、驚いたものだった。
映画って大勢でつくるから、助監督とか制作とか特機なんかの周囲がプロのスタッフで埋まって体制が整備されると、監督の個性って相対的に減ってしまう。「個性的な映画は、個性的な現場からしか生まれない」という、若いころの押井守監督の言葉は真理をついている。

さて、今回の『野火』。前述したように、メイクやエフェクトはしょぼい。エキストラも、「監督に言われて、急遽出演しました」と分かってしまうレベルの下手な人がいる。
だけど、音楽でいえば間奏のような隙間が映画のあちこちにあって、塚本監督が「ね? 確かにしょぼいかも知れないよ? だけど、どうしても撮りたかったんだよ!」と合間合間で叫んでいるように感じた。「本当は、こうはしたくなかったんだ!」「理想のシーンは、こんな予算では撮れないぐらい凄いんだよ!」と、声を枯らしているかのようだ。そこに魂をつかまれた。この枯れ果てた井戸から搾り出すような低予算ゆえの迫力は、ハリウッド映画にはないよ。
撮影も塚本監督なんだけど、手持ちでエネルギッシュにカメラを振り回して、自分の顔がアップになるときは、他のしょぼさをたった一人で補うかのように、神妙な顔つきで演じている。他の俳優が、オーバーで空々しい演技をすればするほど、塚本監督の真剣さが際立つ。監督が主演って、すさまじくカッコいい。

ハリウッドの最新作を、4DXで鑑賞するのが最高の贅沢だと思ってるでしょ? 僕は、5年前でも50年前の映画でも観られる現在のインフラを利用して、自分固有の審美眼を鍛えたいっすね。


『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が公開されたので反応を検索してみると、みんなやっぱり「ストーリー」「物語」がキモだと思っている様子だ。「物語」が不在の映画なんて、たくさんあるのに。

『電車男』が流行ったとき、「こんなのネタだろ?」という突っ込みをよく目にした。ネタ=作り話という意味で。映画を「作り話」だと思っているから、「ネタバレ」という言葉を平気で使えるんだろうな。
映画は「物語」「ドラマ」がもっとも大事と思いこんでいて、誰ひとり構図やカット割の話をしないので、僕は孤独に自分だけの楽しみに没頭できている。

映画の本質は、「時間制限のある四角い枠」です。枠の中の情報が、いかに変化するのか。あるいは変化しないのか。『ロープ』や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のように、カット割なしの映画もあるけど、時間の制約からは自由になれない。必ず始まりと終わりがある。
たとえカメラや俳優が微動だにしなくても、何らかの情報をもった枠が一定時間、上映されるのであれば、それは映画なのです。座席が機械じかけで揺れることなんて……まあ、それすらも楽しんでしまえればいいけれど、映画を規定する条件ではないですよね。座席を動かすなんてことをせずに枠内の情報の変化だけで臨場感を出す、それが劇映画の面白さです。こんな面白い表現はないぜと思ってますよ、何十年もずーっと。

(C)2014 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

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2017年9月15日 (金)

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EX大衆 2017年10月号 本日発売
Djmpjy8ueaisr4d●マスター・オブ『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』
小特集の構成・執筆です。京田知己監督へのインタビューも担当しました。
実際に買って読む人は少ないかと思うので書きますが、『ハイエボリューション』は、ダニー・ボイル監督の『スティーブ・ジョブズ』の影響が大きいそうです。言われてみれば、全体像を把握させるのではなく、大胆に時間を省略して、逆にシチュエーションの面白さを描きこむスタンスは、よく似ています。
テレビアニメの再編集版はプロットを重視して細部を省略した「総集編」か、設定を大きく変えて新作カットで補った「再解釈」のどちらかでした。『ハイエボリューション』は、そのどちらでもありません。テレビのフィルムを使った、単館向けの小規模・作家主義の映像作品といった趣です。
なので、「ストーリー」という観点から見るとブツ切りで終わっているのに、「次作へ続く」とはなっていません(セリフではテレビにならって「つづく!」と言っていたと思いますが、作品全編を覆う膨大なモノローグにまぎれて、スタイルの一部と化しています)。

あと、余計なことを書きます。宣伝会社の対応がいいと、たいていの映画ってヒットするんです。宣伝が面倒がったり無作法だったり、強気にあれこれと指示してくる場合は、たいていダメ。 『ハイエボリューション』は、宣伝の対応がよかったのです。


レンタルで岡本喜八監督の『血と砂』、ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』。
L後者は、どうもリラックスしすぎて余計な要素を盛りすぎではないかと思ったら、1934年につくられたヒッチコックの自作(『暗殺者の家』)のリメイクだと知って納得。特典映像に『暗殺者の家』の一部が入っているが、こちらのほうが緊張感がある。

それでも、精一杯の工夫がしてあって、唸らされる。
顔を黒く塗ってアラブ人に変装したフランス人が死ぬとき、主人公は彼の頬に触れている。ゆっくりとフランス人が地面にひざをつくと、頬に塗った黒いスミが指の形に剥がれていく。血を出すより、こっちの方が「ただならぬ死」であることが強調される。しかも、実際の撮影では黒く塗った頬の上から白い粉をつけることで剥がれたように見せていると知って、つくづく感心する。

他にも、いまにも殴り合いが発生しそうなシーンで画面の中央にライオンの剥製を大きく入れて暴力性を示唆するとか、ショッキングな電話を受けた直後に、飛行機のエンジン音を入れて衝撃を表現するとか、アイデアが豊富なんだよな……。ラストカットのユーモアは「心憎い」の一言だし。
腹が立つぐらい、余裕綽々なんだよ。そろそろ、トリュフォーのインタビュー集 『映画術』を読むべきかも知れない。


明日から取材が始まるので、ディズニー・アート展《いのちを吹き込む魔法》へ。
21728237_1443342395759670_160425911『ピーター・パン』は扱っておらず、期待していたティンカー・ベルの絵は一枚もなし。それはそれとして、メイキングに焦点を合わせた良い展示だった。マニアックになりすぎず、ナイン・オールドメンの業績やマルチプレーンカメラの開発に触れている。
ただ、観客はディズニーランドに来たような気分の人ばかりだった。係員が「並ばないで、自由に見て歩いてください」と声をかけねばならないほど、みんな並びたがる。
展示とぜんぜん関係ない世間話をしている人もいるし……鑑賞するって態度ではないですね。世の中って、そういうものなのかも知れないね。


先日、友だちとファミレスで雑談していたら、4歳ぐらいの子供をつれたお母さんが昼食をとりに来た。子供には一言も話しかけず、テーブルにスマホを置いたまま、ずっとゲームをしていた。
お母さんもストレスが溜まっているのかも知れないし、娯楽としてスマホゲームぐらいはいいでしょう。だけど、ほったらかしにされた子供は、どんな大人になるのかな、とちょっと心配に思った(もちろん、家でいっぱい構ってもらっているのかも知れない。僕が見たのは、ほんの一部にすぎない)。

認められず、誉められずに育った人は、物事のマイナス面に敏感になる。何を語るにも、否定的・攻撃的・独善的になる。よくよく話を聞くと、「周囲の大人から誉められたことがない」。
決して、その人のせいではないんだ。僕はひどい父親になるだろうから、子供をつくらなくて良かったと思う。
別れた嫁さん語録の中で、ちょっと感心したのは「かわいいかわいいと声をかけて育てれば、本当にかわいい子に育つ。いい子だいい子だと誉めてあければ、本当にいい子に育つ」。
(C)1955 Filwite Productions, Inc. Renewed 1983 Samuel Taylor & Patricia Hitchcock O'Connell, as Co-Trustees. All Rights Reserved.

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2017年9月10日 (日)

■0910■

【懐かしアニメ回顧録第34回】サイレントとトーキー、ふたつの文法が交錯する「ラーゼフォン 多元変奏曲」の悲劇的プロット
T640_737773_2劇場アニメ『ラーゼフォン 多元変奏曲』は、テレビアニメ『ラーゼフォン』の設定をいくつか変更しつつも、作品の全体像がなんとなく分かるように構成されています。それでも、僕には「ムーリアン」と呼ばれる種族が何なのか、なぜ赤い血の人間が青い血のムーリアンに変化するのか、よく理解できませんでした。

ですから、ここに取り上げている「朝比奈浩子という少女がムーリアンに変化してしまい、その秘密を主人公に伝えられないまま、彼に殺されてしまう」、そのエピソードの意味や設定の重要度は分かりません。
しかし、朝比奈がセリフを発することができない(トラックの音にかき消されてしまう)ことで、音声としてのセリフよりも強く彼女の言いたいことを伝える、その演出の機能と効果はよく分かるのです。朝比奈を可哀想だ、主人公は気づいてやれよぐらいは思うわけです。つまり、「SF設定が分からない」ことは欠点ではありません。

それは、ギリシャとアルバニアの関係が分からなくても、国境に引き裂かれた男女のことは分かること(『こうのとり、たちずさんで』)と、まったく同じです。

『こうのとり、たちずさんで』はミニシアターで単館上映された映画であり、『ラーゼフォン』のような商業アニメとは別の位相にあるのでしょう。
商業アニメは視聴者・観客が好感度をいだけるように情報が整理されていますから、「このアニメは好きじゃない」「キャラが嫌いだから見ない」と即断されたり、逆に「(キャラが好きだから)傑作に決まっている」「テレビ版が面白かったから、劇場版も面白いはず」とフェアな評価を受けられないことが多いような気がします。
実は、毎週30分のテレビ番組を二時間に編集するフォーマットの「総集編アニメ」には、劇場用新作アニメとは異なる評価軸が必要な気がします。「そんなものどっちも同じだ、二時間あれば劇場アニメだ」「面白いかつまらないか、ふたつにひとつだ」という空気が、いちばん怖い。評価されるべき側面に、スポットが当たらない気がします。

上のレビューで取り上げた「朝比奈浩子が殺されてしまう」エピソードは、カット割や細かなセリフ、フレームサイズが異なるものの、テレビ版の素材が、ほぼそのまま劇場版に転用されています。
ということは、劇場版『ラーゼフォン』はテレビアニメの演出を繰り返しているにすぎず、劇場アニメの演出が為されているわけではないとは言えないだろうか(劇場アニメに固有の演出が存在するとして)。しかし、「テレビ/劇場の演出の差異」は今回の本題ではないので今は問わないでおく……というエクスキューズを、しっかりと意識すべきです。
「今は問わない」とはつまり、「いつかは問う」ことに他なりません。


もっと言うなら、実写映画とアニメ映画では「被写体の成り立ちが違う」ため、同じ評価の仕方をしないほうがいい(援用してもいいが混同しないほうがいい)と僕は考えています。
生身の俳優とデザインされたキャラクターは本質的に別の次元のもので、「絵なんだけど生きているように描かれている」ことと「生きている俳優が上手い演技をする」ことは別だと思います。
アニメのみを見ている人は、アニメは実写よりも優れた表現であると考えがちで、それはたとえば「クソみたいな邦画を見るより、深夜アニメを見たほうがマシ」といった言い方になるようです。アニメと実写、どちらの表現に優劣があるかという問題ではないし、それぞれどこに優と劣があるのか、誰かが見極めなくてはならないのです。

インターネットでは、端的に、キャッチーに「あの映画(アニメ)を見に行ったら、実はこうだった!」と笑えるようなことを言うか、「号泣した!」などの感情に訴えるレビューのほうが受け入れられやすい。
したがって、「実写/アニメの演出の違い」、「テレビアニメ/アニメ映画の演出の違い」などを考えることは賞賛とは無縁の、孤独な作業になるでしょう。それでもやらずにおれない人だけが、死ぬまで考えつづける。このブログが、いつもグズグズで非論理的あることは分かっています。いつか、きちっと中間報告を出したいと思っています。

(C) 2003 BONES・出渕裕/Rahxephon movie project

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2017年9月 6日 (水)

■0906■

月刊Goods Press 10月号 発売中
●大河原邦男さんインタビュー
Bandicam_20170906_105710437 特集「ザク、その革新の系譜」で、ザクの生みの親である大河原邦男さんにインタビューさせていただきました。
一般誌でもありますし、これといった新事実や斬新な切り口があるわけではありません。だけど、大河原さんの仕事に対する柔軟性あるスタンスが、鮮やかに伝わってくれるんじゃないかと思います。何度お話を聞いても、すがすがしい気持ちに立ち返ることができます。


2013年公開のモノクロ、サイレント映画『ブランカニエベス』をレンタルで。
142970703183069162179_blancanieves1大学時代に熱中した『夢見るように眠りたい』は、映画についての映画、しかも過去に封印された映画をモチーフとしていた。だから、モノクロ・サイレントという形式が似合っていたし、武器として有利に使いこなせていた。
『ブランカニエベス』は音楽のテンポ、とくにフラメンコの手拍子に合わせた美しいカットワークがある一方、やむなく効果音に頼ったカットもある。
1920~30年代の映画は、カットワークやカメラワークによって、原則的な話法を完成させていた。クローズカップで俳優の表情を強調したり、レフ・クレショフが実験したように、バラバラのカットを繋いで意味を生じさせることも出来た。
どうしても効果音を入れざるを得なかったのは、サイレント映画は不自由だという思い込みがどこかにあるためじゃないだろうか。ついつい僕らは、自分が生まれる以前の表現や娯楽は「現在よりも稚拙で、退屈だった」と決めつけてしまいがちだ。その悪癖から逃れるためにも、名画と呼ばれている作品は、ちょくちょく見直しておいたほうがいい。


クラス会で、すっかり人相の変わった元同級生が「僕のこと、誰だか分かる?」とニヤニヤしながら聞いてきたことがあって。「ごめん、誰だっけ?」と聞き返すと、「ほら、分かんないんだ。さて、誰でしょうねえ」と、えんえんともったいつけている男がいた。
仕事でも核心を言わずに、「困ったことになりましたねえ」「これはどうにかしないとアカンですねえ」と話をはぐらかすばかりで、具体的にどこをどう改善するのか聞いても「えーと……どこが悪いか、理解してます?」と、話を曖昧にする人っているでしょ? そういう人とは二度と仕事しないので、最近は僕の周囲にはいないけれど、彼らの中には「相手よりも頭の冴えた、本当の自分」がいるんだろうな。
生(なま)の、現在進行形の自分がちっぽけだから、曖昧な言い方で自分を誇大に見せる。

僕は数多く挫折してきたので、苦心しながらクリエイターとして大成した人には尊敬心を持っている。あるいは、いま現在、苦労している人に対しても。
挫折が嫉妬となり、「本当は俺だって……」と屈折している人もいるかも知れないけど、僕には「本当の自分」などという誇大な虚像がない。理想も向上心も捨ててないけど、周囲の人の下す評価が現実だと思っている。自分を認めない周囲が愚かだとも思わない。現実以外の答えはない。よって、間違ったと気づいたら謝る、助けてもらったらお礼を言うといった実務と礼儀を重ねていくしか、物事の改善方法はないと思っている。


「フリーライターなんて誰でもなれるだろ」と思われているなら、特に反論はない。僕より文章力の優れたアマチュアは、星の数ほどいる。
しかし、フリーランスで仕事を続けていくには、文章力よりも信頼が必要だ。「周囲がバカなのだ」「本当の俺は、もっともっと凄いのだ」という尊大な態度、もったいつけた言い方は、一時的に人を圧倒し、恐れさせ、従わせるだろう。
だが、そういう威圧的な人は(どれだけ突出した才能があろうと)、相手にするのが疲れる。僕には才能がないので、せめて誠意をつくそうと努力している。その結果として仕事をいただけているのなら、それ以上の喜びはない。
(C)2011 Arcadia Motion Pictures SL, Nix Films AIE, Sisifo Films AIE, The Kraken Films AIE, Noodles Production, Arte France Cinema

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2017年8月28日 (月)

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アニメ業界ウォッチング第36回:荒牧伸志監督が語る「3DCGとモーションキャプチャにこだわる理由」
T640_736196神山健治監督と『攻殻機動隊』をつくりはじめた、荒牧伸志監督に取材させていただきました。
神山監督の話題も面白く聞かせていただいたのですが、それは情報解禁になるまで待ってとのことで、今回は荒牧監督の作品に、話を絞っています。


レンタルで、アイルランドのアニメ『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』、ケイト・ブランシェット主演の『キャロル』など。『ウェディング・シンガー』という映画が、なかなか面白い試みをしていた。
結婚パーティ専門の歌手の男性が、婚約者に逃げられてしまう。その彼が結婚予定のウェイトレスと出会って、紆余曲折の果てに彼女と結ばれるという、まあなんてことない恋愛映画だ。
このシンプルな筋立てを、衣装とセットの色で演出している。主人公が落ち込んでベッドで眠っているときは、彼のパジャマもシーツもモノトーン。ちょっと元気が出てきたら赤いシャツを着ているとか、「いつの間に着替えたんだよ?」と笑ってしまうぐらい、展開に応じて衣装がどんどん変わる。

いちばん感心したのは、このスチールの衣装。右側が、主人公だ。
1080003557このシーンで、ヒロインはピンクのシャツと黒いジャケットというコーディネート。また、彼女の婚約者(主人公のライバル)もピンクのシャツを着ている。したがって、2人が並ぶと「ピンクでお揃いの服を着ている」わけだ。
だが、ヒロインは主人公にも好意をもっている。彼女が主人公の近くに行くと、彼女は横を向いて話しているので、下に着ているピンクのシャツは見えない。すると、今度は主人公の黒いジャケットと「お揃いの服を着ている」ように見える。これは、実によく人間関係を視覚化しているよ。
主人公とライバルとの間に、衣装の共通点は皆無。だが、ヒロインは2人の間で揺れ動くわけだから、2人の衣装それぞれに呼応したコーディネートになっている。

徹頭徹尾、そのような設計で衣装が選ばれているわけではないけど、部分的に衣装が強烈に主張してくる。ドラマを奏でるのは、何もセリフだけとは限らないのです。


『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』は、良質なアニメーションであることは分かるんだけど、やはり「アニメーション」と「映画」とは、別の表現手法ではないだろうか。
劇映画は、「フレーム内の情報の変化」と「カットを割っても劇が持続していること」、その二つが成立条件だ。ストーリー性というより、劇性のあるアニメーションも、その成立条件を拠りどころにしてはいるんだけど、フレーム内の「情報の質」が、実写映画と違いすぎるんだよな。乱暴に言うと、写真と絵は別のものだから。

『君の名は。』も『この世界の片隅に』も、実写「的」な奥行きと立体感をもった絵づくりをしてはいるんだけど、「絵」であることの優位性は、それほど評価されていない。それどころか、「実写よりリアルだ」「絵とは思えない」といった混乱を招く評価のされ方が多い。
フレーム内の「情報の質」について気にする人が案外少なくて、いつもストーリーテリングに話題が集束してしまう。

(C) MCMXCVIII New Line Productions, Inc. All Rights Reserved.

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2017年8月25日 (金)

■0825■

モデルグラフィックス 2017年 10 月号 発売中
Dhzuuluwaahcyd
●組まず語り症候群
第58回です。前号で美少女パンツ系に走ってしまったので、今回は地味に、熱気球のプラモデルです。

●バンダイ 1/72 ミレニアム・ファルコン 開発チーム インタビュー
前号につづき、後編になります。
地味なページではありますが、企画、実物への現地取材、造形、設計、成型……と、ひととおりプラモデル開発の流れを押さえています。別冊が出るときには、増ページしたいですね。


さて、週末である。夕方にTSUTAYAへ行くと、ドスドスとやけに大きな足音が聞こえてきた。「もしや」と振り向くと、予想は当たった。DQNと言って古ければ、リア充というのだろうかウェイ系というのだろうか、とにかく自信満々、生まれてこのかた悩んだことなど一度もないといった雰囲気のカップルであった。男女というよりオスメスのつがいと呼びたくなるような、近寄りがたい生命力にあふれている。
なるべく距離をとったつもりなのに、何しろ生まれつき声がでかい人たちなので、会話が丸聞こえだ。「かなわんな」と思いながら、アニメのDVDを二枚手にとって、レジへ急いだ。

そのとき、僕の嗅覚が、さっきのカップルよりさらに危険な匂いを感知した。
僕より年上だろうか年下だろうか、きれいに剃りあげたスキンヘッド。僕のように、年齢にまかせてだらしなくハゲたわけではない。お洒落なハゲだ。しかも、肌が小麦色によく焼けている。
小柄だが、かなり鍛えているらしく、四肢が引き締まっている。さらに、着ているシャツもお洒落なのだが、服などオマケのようなものだ。とにかく動物レベルで「強そう」なおじさんである。
僕が「お呼びするまで、こちらにお並びください」と書かれたラインで、ボーッと待っていると、このおじさんがスルッと僕を追い越して、先にレジで会計をはじめた。こういうとき、「ちょっと待って、僕のほうが先ですよ」と言えない人間なのである、僕は。目すら合わせられない。
(この手の男性は、必ず尻ポケットからニョキッと黒い財布が突き出ている。生物的に、スリを近づけさせないからである。)

こういうことを書くと卑屈だとか臆病だとか、いい歳なんだから自分に自信を持てだとか、的外れなアドバイスをくらいかねない。態度や年齢や心構え以前に、生き物として相手のほうが「強い」のである。この感覚が分からないと、他人に優しくはできない。
話は、まだ続く。


アニメのDVDを二枚借りて、帰途についた。
僕の家は駅の反対側にあるので、地下をくぐるトンネルを歩いて渡らねばならない。坂道にさしかかった頃、うしろから「さあ、行くぞ!」と、大きな声が聞こえてきた。自転車の前後に子供を乗せたお父さんが、「ビューン!」と叫びながら爆走し、僕と僕の前を歩いていたお兄さんを追い抜かしていくのであった。
トンネル内では自転車を降りて歩くよう注意書きがあるのだが、そういう問題ではない。そのお父さんのほうが、「生き物として強い」のである。猛獣が突進してきたら、人間のほうが避ける。それと同じレベルの話だ。

猛獣が走り去ってから、僕の前を歩いていたお兄さんは、僕の後ろに自転車に乗った女性(60代ぐらい)がいるのに気づき、立ち止まって道をゆずろうとした。僕も、彼にしたがって、道をあけた。
すると、自転車の女性はきれいな声で、「私は歩きますので、お先にどうぞ」とおっしゃった。お兄さんは納得した様子で歩きはじめ、僕も女性にお辞儀をして、歩きだした。ようやく、人間の世界に帰ってこられた。今日のTSUTAYAは、野生の草原だった。
あのお兄さんは歳をとっても女性や親子づれに道をゆずるだろうし、あの女性は若い頃から礼儀ただしかったのだろう。相手を、自分と同じ人間として意識して尊重するからこそ、そこに社会が生まれる。


僕が大学を卒業する年に始まった『宮本から君へ』は、途中からラグビー部所属で外務省に就職が決まっている“生物的強者”をいかにして倒すか?が、物語の貫徹目標になっていく。
(主人公・宮本の彼女はライバルの男にレイプされてしまうのだが、彼女の「若い子がもったいつけると、カッコ悪いよ」という言葉の説得力は忘れられない。年齢を聞かれて「いくつに見えますか?」ともったいつける男ほど、醜悪なものはない。)
宮本がライバルに勝つ過程には、いくつか不満もある。だが、生き方や態度では決して回避できない屈辱を、この作品は正しく描いている。

『シン・ゴジラ』は、大学の部活のようなノリでオタクの集団が国難を乗り越える……いや、自分たちの能力だけを駆使して、自分たちを虐げてきた強者たちをも、丸ごと「勝たせてやる」ところに愉悦があるのだと思う。
だから、実社会で強者として勝っている観客たちには、さぞかし腹正しい映画に見えたのではないだろうか。

人間は平等ではない。宮崎県日向市PR動画、あんなものを見て喜んでいるのは、男女問わず強者だけではないか。男ならサーフィンぐらい出来るべき、飲み会で女の子に肩を叩かれてこそ一人前……すべて圧力、醜悪な圧力の塊だ。
勝たなくてもいい、そもそも戦わなくていい、いたるところ逃げ道だらけの社会なら、誰もが自己実現できるだろうに。嫉妬も生まれまいに。

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2017年8月20日 (日)

■0820■

ホビー業界インサイド第26回:バンダイ ホビー事業部に聞いた、「初音ミクのプラモデル」が発売されるまでの表の事情、裏の事情
T640_735538いままで模型誌が取材していそうで取材してこなかった、「フィギュアライズ・バスト」シリーズの企画担当者さんにインタビューしてみたら、美少女キャラが大好きな女性の方でした。
本当に好きな仕事を語るとき、人は誰でも生き生きとするものです。


しかし、メーカーが工夫して独自の技術を使っても高品位モデルを発売しても「なぜこんな余計なことをする?」「こんなに高いプラモデルを誰が買う?」と、自分の主義・事情に引き寄せて、だらしくなく開きっぱなしの口から動物的な文句を垂れ流す人たちもいるわけで。
そういう人たちは、自分がかわいいだけであって、文化や社会を良くしたいわけではないんですね。相手に無限の誠意と努力を求めて、それによって自分の気分が良くなれば収支トントンだぜ、我慢してやるよって人たち。

僕は、「こんな面白いものがあるなら、世の中、捨てたものじゃないな」と思いたいですけどね。


高校か大学のころ、吉祥寺のイトーヨーカドーに入店しようとしたら、扉がガラス製なので、ツエをついたお婆さんが、お店から出てこようとしている姿が扉の向こうに見えた。
ガラス扉はすごく重たいので、お婆さんが通るまで扉をあけて待っていたら、後ろから「行け!」という声がした。サラリーマンの男性だった。
無視して、お婆さんが通るのを待ってから通ったら、その男性は「早く行けよ」と捨てゼリフを残して、俺を追い抜かしていった。
あるいは、俺が扉を開けたら、うすら笑いを浮かべながら、ヒョイと追い抜かしていく男性もいた。たかが重たい扉を開けるだけとは言え、他人の労力にタダ乗りするのがカッコいい、弱者を追い抜かすのがカッコいいと思ってるんだろうな。こいつらのようにはなるまい、と思いましたね。

そして、先日。近所のクリーニング屋で前の人が会計を終えるのを店外で待っていたら、「どうして、外で待ってるの?」と、後ろから声をかけられた。いきなりタメ口で。
狭い店だから、前の人の真後ろで待っていたら、急かしているようで自分も相手もイヤなわけです。だから、外で待っていた。
ところが、俺の順番が来たら、その男性は俺の背中にくっついて、一緒に店内に入ってくるわけです。だから、それをやられると気分が悪いから、俺は前の客の背中にはりつくようなことはしたくなかったわけです。
僕がひとつゴミを拾うと、その場にゴミを投げ捨てていくヤツがいる。それでも、あきらめずにゴミを拾おうと思う。そうすることでしか、世の中の空気は良くならない。


僕をいつも未知の世界へ連れっていってくれる友人、内田さんの貧乏自転車旅行()。
内田さんは他人ばかりか、犬や猫にまで気をつかっているのですが、このジャンル(自転車旅行しながら自撮り)にも、いろいろな人がいるようで。

内田さんの動画はストイックで、まったく不愉快になることはないので、眠れない夜にでも見てください。

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2017年8月13日 (日)

■0813■

EX大衆 2017年9月号 発売中
Dhbcdfgv0aafh53●オールアバウト『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦』
古谷徹さんへのインタビューを含む、全4ページの企画記事です。
作品では、コロニーが一基だけ落とされた「GUNDAM CENTURY」発の歴史をトレースしているので、テレビ放映前から放映後、OVAやゲームによって、曖昧だった「戦史」がどう公式化していったか、ザッと振り返ってみました。

【懐かしアニメ回顧録第33回】「月詠 -MOON PHASE-」で描かれる “ウソだからこそ平和な”日常生活
『月詠』は日常シーンが『8時だョ! 全員集合』そっくりに、舞台上のセットで展開される。セットの裏がステージになっていたり、上から金ダライが落ちてきたり、舞台で演じられるコントそのものだ。
アクティブな、実写映画的なカメラワークは、ヴァンパイアたちと戦うシリアスなシーンに振り向けている。自覚的に抽象度を演劇に近づけたり、映画のフリをして撮ったり、表現の限界に自覚的なところが、新房昭之監督の強みだと思う。


レンタルで、ヒッチコック監督の『鳥』。
Ec6a0857d3f04d62中学生のときにテレビで見て、当時は『エイリアン』を見たあとだったので、60年代の映画は合成丸出しでショボイ、古い……という印象しかなかった。
これから見ようという人は、それぐらいナメてかかったほうが具合いいです。その分、ショックがでかいので。

正直、最初の50分はかったるくて見ていられない。いたずらに混みいった人間関係をダラダラと見せているだけで、見事なまでに何も起こらない。
だが、それでいいのである。……こうして文章で説明するのも野暮なのだが、かったるい映画だなと飽きてきたころに、理不尽に、不条理に(文脈を無視して)鳥たちが襲いかかってくる。それが、記憶とは違って合成丸出しではない。ものすごい量のスズメが、煙突をくぐって、暖炉からなだれ込んでくる。音楽は、まったくない。血糊などのメイクは、さすがに時代を感じさせるが……あとはとにかく、見てもらいたい。吐き気がするぐらい、怖いので。


鳥たちの三度目のアタックを受けた主人公(ティッピ・ヘドレン)は、町にある小さなカフェで、自分の目にした惨状を訴える。しかし、鳥類学に通じた老婆が「鳥にはそんな知能はない」「攻撃する理由がない」と、数字を並べて、きっぱりと否定する。
カウンターに座っていた酔っ払いが「世界の終わりだ」と、いい加減なことを口にする。主人公と老婆は、対立するような形になってしまう。このときの構図には、唸らされた。老婆が鳥たちに攻撃性はないと主張するカットでは、彼女の後ろに常連の客たちがいる。彼らも鳥の攻撃を目にしていないので、老婆の味方だ。
ところが、主人公が事実を話す背後には、無人のカウンターしかない。つまり、味方がいない。いや、カウンターの奥に、ひとりだけ、「世界の終わりだ」と叫んだ酔っ払いが座っている。もしかすると、本当に世界の終わりなのかも知れない。彼女の味方は、その酔っ払いだけなのだ。……とまあ、説明するのも面倒なぐらい、シャープで効果的な構図が使われているので、ぜひ覚えておいてほしい。

もちろん、時代を感じさせるところもある。俳優の演技が大げさで、白けてしまうシーンもある。それでも、映画の前半でほんのちょっとしか出さなかった鳥を、後半では画面を埋め尽くすほど出して、一切の説明なし、ロジックを破綻させる……このクールな発想センスは、決して古びない。尖っている。

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2017年8月10日 (木)

■0810■

ニュータイプ 2017年9月号 発売中
81magfm0cfl●息吹を感じて~脚本家・菅正太郎の軌跡
故・菅正太郎さんについて、佐藤竜雄監督にインタビューしました。
5年前に放送された『輪廻のラグランジェ』で、菅さんはシリーズ構成、佐藤さんは総監督という立場でした。
僕は、放送が決まってから、『ラグランジェ』のオフィッシャル・ライターとしてプロダクションI.Gに呼ばれました。Blu-rayなどのパッケージだけでなく、番組のキャッチコピー、各話あらすじ等、公式な文章はほぼすべて書きました。
「少年ガンガン」と「ヤングガンガン」に連載されていた情報ページも任されました。月刊と隔週刊なので、月に3本、まだ本編が出来上がる前に先行情報を書かねばなりません。制作スタッフは全員忙しいので、声優さんから各話についてコメントをいただくため、何度もアフレコスタジオに行きました。


僕はけっこうお節介なので、『ラグランジェ』の第二シーズンが始まる前に、徳島のマチアソビでコメンタリー付き上映会を開催して、お客さんのために入場特典を用意してもらったり、キービジュアルを提案したりしました。その頃になると、だんだん宣伝費も底をついてきたので、それらの自主的な活動はボランティアでやっていました。
また、『ラグランジェ』のムック本があまりにも軽い内容だったので、世界観の設定ページや本全体への導入パートを設けることを、会議で提案しました。そのとき、新たな設定づくりのため、菅さんに惑星の名前などを考えていただき、僕が書き上げた設定部分をチェックしてもらいました。

その延長上で、「月刊ホビージャパン」に『ラグランジェ』のメカ設定のページを連載しました。なぜなら、せっかくロボットを日産自動車のデザイナーに描いてもらったのに、本編での設定が薄すぎたからです。バンダイビジュアルさんのプロデューサーがページを確保してくれましたが、「タダでもいい」と言ったら、本当に原稿料が出なかったので、びっくりしたものです。
そして、全六回の連載のため、本編にはまったく出てこないメカの開発背景、バックストーリーを考え、菅さんにチェックしてもらい、ときにはダメ出しもあり、ときにはキャラクターや艦船の名前を考えていただき、半年ほどお付き合いが続きました。


打ち合わせの場所は、いつも吉祥寺駅からちょっと離れた喫茶店で、時間帯は夜8時ぐらい。バンダイビジュアルのプロデューサーが同席して、3人だけの打ち合わせです。
あるとき、プロデューサーがどうしても来られないことがあり、菅さんと2人で打ち合わせしていたら話が盛り上がり、「ちょっと飲んでいきましょう」と誘われて、吉祥寺の小さな焼き鳥屋で飲みました。

とりたてて、面白い話だったわけではないです。『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』はちゃんと見てくれていたか?とか、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で神山健治監督に何度も使ってもらえて、すごく嬉しかったとか、今後はもっと頑張るから見ててくれよとか、別に秘密の話でも何でもない。
僕は利害関係のない外部の人間なので、気楽に話していただけたのでしょう。それと、佐藤監督からうかがったのですが、奥さんは菅さんの仕事内容をよく知らされていなかったそうで、あまり自分の参加した作品を振り返って語る機会がなかったのかも知れません。
僕がタダで連載をやっていると話したら、「それはひどい。俺からお金が出るように言っておくよ」と怒ってくれたのを、よく覚えています。


『ラグランジェ』は、当初は別の監督とライターで進んでいたそうですが、そのお2人が抜けたので、まったく新しい設定とストーリーを考えなおしたそうです。仕事している人なら分かると思いますが、一度ポシャったところから再出発するのって、絶対に苦しい。気持ちを切り替えないといけないから、精神的にイヤじゃないですか。クリエイティブ側のスタッフは菅さんひとりしか残らなかったので、張り切るのは分かるし、責任感もあっただろうし、孤独感をおぼえるのも分かります。

その辛さとか、辛さと背中合わせのやりがいだとかは、5年たった今のほうが分かるような気がする……。菅さんは、いつでも「やってられるか」と逃げる権利を擁していたんだけど、とうとう最後の最後まで踏みとどまった。『ラグランジェ』の他のライターさんはギャグとか趣味に走っていたけど、菅さんだけは義務感を優先させていたんじゃないかな……。いちばん外側から作品全体を見ていたので、どうしてもそう思えてしまう。
そういう仕事のしかたを、他人事とは思えなくなってきた。今さらだけど。

だから、俺は作品がつまらなくても「クソ」とか「カス」とか、商業的に失敗しても「爆死w」とか、絶対に言わない。「コケた」とさえ言いたくない。「神アニメ」にも、同様の無責任さを感じる。誉め言葉になっていない。かえって失礼な感じがする。
あのね、他人の仕事を屁のように軽んじているから、「クソ」「神」と言い捨てられるんですよ。観客は当事者。作品を生かすのも殺すのも観客。生まれながらに「クソ」も「神」もないんです。99人が敵になるとしたら、俺はひとりの味方でありたいです。

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2017年7月28日 (金)

■0728■

未来警察ウラシマン COMPLETE BOOK 発売中
Photo●なかむらたかしさんインタビュー
●井口忠一さん×石山タカ明さん 対談
●発掘! なかむらたかし初絵コンテ/第26 話「ネオトキオ発地獄行き」の愉しみ方

以上、三つの記事を担当しました。
このムックは、既出の記事を寄せ集めたものではなく、初出の資料が多いです。最初に企画を聞いたときは、もう少し軽い本になるのかと思っていたのですが、まったくそんなことはありません。

そして、1983年ごろのアニメブームの渦中、どちらへ進むのか判然としないけれど、才能と情熱がひしめいていた時代の雰囲気が、ほんのりと香る本になっています。


レンタルで、『グッバイ、サマー』。
640_2 ミシェル・ゴンドリー監督で、女の子と間違われるほど可愛らしい少年のひと夏の冒険譚……って、もう逆らえない。企画の時点でOK。まあ、期待にたがわず、砂糖菓子のように軟弱で、小憎らしいほどキュートな映画です。

主人公とその親友が飛行機で家に戻るシーンが、難解でありながら、実に映画らしかった。
飛行機が離陸すると、主人公以外の客、機長、みんな眠ってしまう。飛行機は後ろ向きに飛び(フィルムを反転させていてる)、元の空港へ戻る。
そこで主人公がハッと気がつくと、今度は列車に乗っている。車窓から見える風景が逆向きに流れているので、「飛行機も逆向きに着陸したし、いま乗っている電車も逆に走っている」と主人公は取り乱す。
このシーンで、飛行機はフレームの左から右へと移動して着陸する。次のカットは、列車の客席に座っている主人公のバストショット。彼はフレームの右、つまり飛行機の着陸した側に座り、フレームの左を向いている。同じように、飛行機も機首を左へ向けていた。
フレーム内の位置と方向を一致させることで、飛行機と電車が「逆向き」であることに一貫性を持たせている。もしバラバラの方向で撮ったら、「飛行機も電車も逆向き」というセリフと整合しない。

当たり前のことだけど、カットワークは映画のネジみたいなもので、いい加減にしておくとフィルムは空中分解してしまう。物語にリアリティがないとか原作と違うとか感情移入できないとか、そんなことはどうでもいい。僕にとって「ひどい映画」とは、構図やカッティングを何も考えてない映画を指す。


先日の話()に関連するけど、インターネットは僕たちの無責任さ、主体性の欠如と溶けあいつつある。僕たちは真偽のさだかでない情報を鵜呑みにしながら、いつでも「騙された!」と被害者ヅラする準備をしている。

原発に反対する人たちの一部は、いつの間にか放射能の影響で子供たちが死ぬのを待望するようになってしまった。そして一方には、原発や米軍基地建設に反対しているのは在日外国人だ、日当をもらっていると決めつける人たちがいる。
ようするに、誰もが他人に運命や行動を支配されている、誰もが自分の意志でなんか生きてやしないのだと信じたい。だから、私が無責任なのもやむを得ないことなのだ、と。

その、主体性の放棄が怖い。
「自分の考えを言いたいなら小説でも書けばいい」()とも、根底でつながっている。自分の考えを主張していいのは、一部の限られた人間だけだ。僕や貴方のような凡人にそんな特権はないのだから、おとなしくしていろ。黙って流れに従っていろ。
上から管理されなくとも、自ら進んで整列し、行き詰ったら線路に飛び込むよう、日本人は調教されているのではないか。

(C)Partizan Films - Studiocanal 2015

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