2018年9月16日 (日)

■0916■

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の主人公は、なぜロケットの座席に座ったままなのか?【懐かしアニメ回顧録第46回】
Dngredrvyaa5hegこの連載には、いつも悩みます。カットワークや構図のことを書ける機会が少ないので、なるべく演出の話をしたい。だけど、それでは読んでもらえない。なので、最後には誰もが「やっぱり良い作品、優れた作品だよな」と共感できるような、どうとでも解釈できる曖昧な結論を持ってくるしかない。
でも、主人公のシロツグが戦場で椅子に座っているだけなのは、特筆すべきと思います。戦闘機で初めて飛ぶときも、操縦は後席のパイロットが行い、シロツグは座ったまま。だから、「主人公が何もしてない」ように見える。
シロツグが主体的にやったアクションといえば、リイクニを押し倒したこと。あと、暗殺者を刺殺したこと。ようするに、道徳的に悪いことだけしている。そこから、この作品の倫理観が垣間見えるような気がします。


仕事の関係で観ておかねばならなくなり、『地獄の黙示録』(特別完全版)。
9848view0021980年代にテレビ放送で見て、その後は撮影の舞台裏を映画化したドキュメンタリー、『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』公開時にレンタルで観たので、1991年か。27年ぶりの『地獄の黙示録』は、若いときよりもずっと衝撃的だった。
僕は、劇映画の様式は1950年代に完成してしまい、あとは様式を壊す時代に入ったと思っている。70年代以降は、フレームの中の被写体をどう珍奇にするかしか、映画の進む道がなくなったのではないか……。

『地獄の黙示録』も、その説を裏づける。次から次へと、見たことのない戦場の様子が映しだされ、それだけで興味をつないでいく。冒頭は極端なクローズアップとオーバーラップが続くが、キルゴア中佐の登場する河からの上陸シーンで呆気にとられた。
Mv5bnzfkotfjn2etzjiwyy00mmflltk1odeカメラは長い時間かけて横移動しながら、河から戦場へ侵入してくるボートを追う。着陸する何機ものヘリコプター、小屋を押しつぶして上陸する装甲車、もうもうたる煙……。
フレームの中を、それはそれはギッシリと珍奇な被写体が埋めつくしているのだが、それをなめらかな横移動で撮るセンスがいい。


有名な「ワルキューレの騎行」を流した攻撃シーンも、ヘリからの主観カメラを主体に、たえずカメラが動きつづけている。地上からの視点では、PANでヘリを追う。
Mv5bnjgznwi4ywitnmrlms00nmy1lwe1zweフレーム内で起きていることは暴力だが、カメラの動きは優雅。そこが狂っているのだと思う。もしカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した理由が“芸術性”ならば、被写体と動きとのギャップに、それが宿っているんだろう。被写体そのものは通俗的なので、撮り方によっては凡百のアクション映画になっただろう。
撮影は、80~90年代にかけて大作を続々と撮ったヴィットリオ・ストラーロ。


だけど、『地獄の黙示録』はオタク向けというか、内にこもった映画だと思う。
兵器や美女を「本当はこうじゃなかったんだろうな」「面白く描いてるんだから面白がってもいいよな」と、無責任に観ていられる。同じ戦争を描いていても、『カティンの森』や『サラエボの花』のように社会に向けて告発する映画ではない。
『地獄の黙示録』を観ている間だけは、映画のために映画を観るだけのシネフィルや素人評論家でいても許される。「芸術として評価される余地」とは、すなわち「ビール片手に笑いながら見られる領域」という気がする。ゾンビ映画を笑って見るのは当たり前なので、それとはちょっと違う……賢しらぶっている自分を楽しむというか。

先日、広島と呉を歩いて『この世界の片隅に』、ひいてはフィクションへの認識が変わったように思う。歩くことで、頭の中の地図が出来上がっていって、自分の限界を少し壊すことが出来た。

(C)Zoetrope Studios

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2018年8月27日 (月)

■0827 『ペンギン・ハイウェイ』■

映画公開から31年――。「王立宇宙軍 オネアミスの翼」展を前に、山賀博之監督の心境を聞く【アニメ業界ウォッチング第48回】
T640_773974記事中に出てくる“1987年、僕は渋谷の映画館で「王立宇宙軍」を見たのですが、外に出たら見慣れているガードレールや横断歩道が、まったく新しいものに見えました”、この一言に同意してくれたのは、なんと今回の山賀監督だけでした。31年間、『王立宇宙軍』についてはずっと孤独だったとさえ言えます。
何かコネがあったわけではなく、例によってぶっつけで取材依頼しました。


取材も打ち合わせもない平日なので、立川シネマシティで『ペンギン・ハイウェイ』。
Twitterでは、「おっぱい」「オネショタ」ばかり言われていて、森見登美彦さんのアニメ化作品は生理的に苦手なところがあって、「つまんなかったら途中で帰ってもいいや」って気分だった。
640_51/3ぐらいしか座席の埋まっていない劇場で、最初の30分は「いくら3D背動だからって、そのカメラワークはないだろ」「小学生役なら、ちゃんと子役を使おうよ」と、文句しか浮かばなかった。いじめっ子の描写には、最後まで疑問符がつきまとった。

だけど、憧れのお姉さんが謎のペンギンと関連があると分かるバス停のシーンから、俄然のめり込んだ。
端的に言うと、美術設定が良かった。終点だから、バスがぐるっと円を描けるような不思議な空間で、背後が山になっていて、水溜りができていて。
漆原友紀さんの短編マンガに、同じようなバス停が出てくる。既視感とノスタルジアを喚起する空間で、ちょっと寂しいところがいい。


だからといって、情緒で泣かせるような映画ではなくて、主人公の少年は徹頭徹尾、不思640 議な出来事をロジックで解析しようとする。最初から最後まで、一秒たりとも気を抜かない。ハードボイルドな主人公。
茶化しているわけではなく、彼には強固な研究心と哲学があって、どうすれば自分を含めた人類が今より利口になれて、どうすれば家族や友人が悲しまずにすむかを考えている。何とかして、今よりちょっとはマシな存在になれるだろうか、常に努力している。「子供なんだから無力に、可愛らしく描いておけ」って甘えや驕りがない。

少年のライバルとも言える、クラスメイトの女の子だって、自分のプライドや美学を侵害されると激怒する。かつては誰だってそうだったし、大人になった今でもそうあるべきだ。あの頃より、僕たちは怠惰になった。「大人と子供は違う」と線引きして、あぐらをかいている。
アニメって、大人だろうと子供だろうと女だろうと男だろうと、実線と色の面で描くしかない。そういう意味では、原理的に年齢性別の区別が発生しえないのがアニメの世界。大人も子供も、同じ材料から出来ている。
だから、アニメって子供をバカにせずに描けるわけ。そう考えていくと、大人の声優が子供を演じるのも、そんなに悪いことではないような気がしてくる。


アニメーションらしい動きのダイナミズムも、とても効果的だった。
Dll73uzuuaiuiji特にキービジュアルになっているペンギンの大群のシーン。シチュエーションとしては悲壮というか、無邪気に喜べないシーンなんだけど、それでも力強く進まないとダメな状況。そういうシーンでは、アニメって、物量を投入するしかない。いっぱい枚数を描くとか、背景を3Dでモデリングして動かすとか。アニメーターたちがいっぱい仕事すると、必ず画面の情報量が増す。
あと、少年が熱を出して寝込んでいるシーンでは、ちょっと画材を変えて違うテクスチャで見せるとか、実験精神も旺盛。たくましいし、図太い映画だよ。日常芝居は演出も含めて荒っぽいんだけど、ダイナミックで堂々としている。明日も明後日も、まだまだアニメをつくるぞ!って勢いだ。

なんで大人になっても、こんな独身のオッサンになってまで、平日にひとりでアニメ映画を観にいくのか? 何だか、『ペンギン・ハイウェイ』が答えてくれたような気がする。
アニメ映画って万人向けで、必ず親子で楽しめないといけないの? 親子連れは客席にいっぱいいたけど、オッパイ好きを隠さない主人公に、さぞかし気まずい思いをしただろうと思う。でも、作画フェチ的にオッパイが揺れるカットって、まったくなかったと思う。そういう、屈折したマニアにだけ目配せするシーンはまったくない。そっちの方向は向いてない。
さりとて、「夏休みのアニメ映画なんだから、親子を泣かせとけばいいだろ」って映画でもない。世界と対峙する孤独というか、いきなり「死」が怖くなったり、突如として「永遠」を意識するあの瞬間は、大人のほうが分かるだろう。

オタクの玩弄物でもなく、いま流行りの「泣かせアイテム」「SNS用の号泣自慢グッズ」でもなく、ド直球で「表現」を投げつけられて、昼間に観て、夜中になってもまだ呆然としている。それは、この映画に対して正しい態度だと思う。

(C)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

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2018年8月25日 (土)

■0825■

モデルグラフィックス 2018年 10 月号 本日発売
Dlwgigov4aihjfq●組まず語り症候群 第70回
今回はエアフィックス社のエンジンのプラモデルで、ひさびさにメカメカしい雰囲気のページとなりました。

●ひそまそ実写化計画
アニメ『ひそねとまそたん』を実写化するとしたら……?というゴール不在の企画、第一回は東宝で特撮美術を担当していた長沼孝さんが、『ひそまそ』全話を見てどのシーンをどう特撮で再現したらいいのか、余談たっぷりに語ってくださってます。
CGは使わず、あえて昭和の技術にこだわっている点がポイントです。


レンタルでヒッチコック監督の『トパーズ』、ジョン・フォード監督の『黄色いリボン』。僕はやっぱり、ベテラン監督が円熟期に、時代を味方につけて手堅くつくった映画に惹かれる。

『トパーズ』は1969年の映画で、『サイコ』『鳥』で路線変更した後、スランプに陥っていた時期の作品だ。キューバ危機を背景にしたスケール感がヒッチコックには似合わないし、劇中で起きていることは難解だ。それでも、部分部分でハッとするような撮り方をしている。
She_wore_a_yellow_ribbon_trailer_2『黄色いリボン』の原題は“She Wore a Yellow Ribbon”、「彼女は黄色いリボンを着けていた」と、過去形である。騎兵隊が、隊長の夫人と姪を駅馬車の停車場まで護衛していく。姪はキリッと軍服を着て、騎兵隊のシンボルである黄色いリボンを髪に結っている。それだけで洒脱というかキュートというか、どれだけ品位のある映画か分かるでしょう?
確信したんだけど、ジョン・フォードは男たちは横に並べて、視線の高さ(アイレベル)で凡庸に撮っている。そして、女性だけが画面の奥から手前に歩いていくる特権を有している。「カメラ位置に対して特権を持たせる」ことで、登場人物に敬意をはらう。映画というメカニックだけで表明可能な美学ではないだろうか。


ヒロインである姪の登場カットは、彼女が建物の二階のベランダからひょいと下をのぞきこむ仕草を、アオリで撮っている。それまでの男たちのやりとりは、すべてアイレベルで横位置だったので、アオリで撮るだけで彼女が「特別な存在」だと分かる。優雅だし大胆だし、息をのむぐらい美しいカット。
僕は、映画のそうした機能、叙述方法が好きだ。びっくり箱のような種明かしで気を引く映画は……それこそヒッチコックが始めて、ヒッチコックが終わらせたのだと思う。彼が『鳥』を撮らなければ、ゾンビ映画というジャンルは生まれなかっただろう。

『カメラを止めるな!』に盗作疑惑が持ち上がっているそうだけど、ああいう構造で見せて感心を誘う映画ってよくあるじゃん……としか思えない。
『カメラを止めるな!』は、「低予算でもアイデア次第で面白い映画はつくれるんだ」「それを理解している俺たちって根っからの映画好きだよね」という共感の部分が大きいのであって、それ自体は良くも悪くもない。そして、盗作はいけない、いや盗作ではない……といった映画の外で起きていることに感心が集まったり、潔癖なまでのオリジナリティ崇拝が露呈するのも今日的だ。

そういえば、ワンカットで丸々一本の映画を撮るのは、70年前にヒッチコックが『ロープ』でやっているよね。『カメラを止めるな!』は手持ちカメラだからテクニックの方角が別なんだけど、原理的・構造的に劇映画の叙述法が70年前から大きく進歩したわけではない。それぐらいは認識しといても損はないと思う。

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2018年8月21日 (火)

■0821■

Jウィング 2018年9月号 本日発売
Dlcszsjv4aat83d●『ひそねとまそたん』特別企画 それゆけ!女性自衛官 特別編/岐阜基地 基地渉外室 甘粕ひそね 2等空曹
当企画にて、突発的に始まったJウイングさんの『ひそねとまそたん』短期集中連載はいったん終了です。
ひそねのインタビュー記事を掲載しよう、という話は最初の打ち合わせから出ていて(確か編集長からの提案)、たまたま「版権イラストに予算がいくらかかって納期はこれぐらい」と知っていた僕が、イカロス出版さんとワーナーさんとの間で話し合いをもってもらい、形にすることが出来ました。
予算とスケジュールの提案まで含めての「企画」です。

そして内容に関しては、自衛隊にパイプのあるJウイングさんが、航空幕僚監部を通じて岐阜基地・基地渉外室に取材申請しました。
誌面を見ると「ふーん」って感じかも知れませんが、それぞれが得意技を出し合って、4ヶ月じっくり準備して成立した企画です。僕は絶大な自信をもっています。

●「千と千尋の神隠し」に秘められた「解放への道」を、シーンとキャラクターから探る【懐かしアニメ回顧録第45回】
T640_773816いつも冗長になってしまうコラムなので、今回は簡素にまとめました。キャラクター自体が「道」であり「場所」であり、それゆえに束縛もするが脱出口にもなるという視点は、そんなに的外れなものではないはずです。
だけど、アニメ作品を深読みするとしたら、「カオナシの正体とは?」など謎本のような企画か「このシーンが好き!」といった共感を誘う感情的なものが受けます。画面を凝視して解析するというスタイルは、「流行らない」と断言できます。


アニメ作品の評論は、『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットした95年以降、けっこう盛んだったはずです。氷川竜介さんがたてつづけに単行本を出して、新作旧作とわず分析や研究が盛んだった時期がありました。
それ以前、『宇宙戦艦ヤマト』ブーム下の1977年にロマンアルバムが発刊されて、設定資料・名場面・インタビュー・グラビアで構成するスタイルが生まれました。そのフォーマットに落とし込めば、どんなアニメでも書籍化できるんです。

今でもたまに、「各話解説」「各話レビュー」「インタビュー」でアニメ特集いっちょあがりな企画を見ます。『オトナアニメ』や『Febri』で、僕も手を貸していたから偉そうなことは言えない(笑)。ああいう記事に、カットワークや作画のことを書くと、編集部にいやがられるんです。解析ではなく「思い」を書いて共感を得ることが、あの手の特集だけではなく、レビューの目的になってしまった。プロの映画評論家すら「ただただ、泣いた」と書いてしまう時代になった。
図書館で映画評論の本を探すと、構図の効果だけひたすら研究したり、フィルムからカメラ位置を割り出してる人もいます。アニメ研究家は何人もいらっしゃいますが、専門知識なしには出来ないものなんです。ただ、ネットというかSNS的には流行らない。
「流行なんて関係ねーや」という気持ちに、最近ようやくなれました。流行らなくても、本当に自分が面白いと感じたことだけを解説していこう。


もうひとつ気になっているのは、ロマンアルバム的な書籍に「公式」と銘打たれるようになったこと。「公式」って言葉には権威を感じられるから、出版社も読者も安心なのでしょう。
企画者や編集者が絶対の自信をもっているなら、「公式」という言葉に頼らなくてもいいはずだと、僕は思います。世の中全体、与党精神が衰えてますよ。

「公式が認めたんだから間違いない」って考え方が芽生えたのは、ここ十年ぐらいでしょうか。あと、仕事がらみで「~様」を誰もが乱用するようになりました。僕だったら「アキバ総研様に記事をご掲載いただきました」とでも言えばいいんだろうか。仕事って、発注側も受注側も対等の関係のはずですよ。いったい、誰に何を遠慮しているのか。やっぱり、波風たてず穏便に……という世相なのでしょう。
心からの敬意と感謝をかんじたときは、僕も「~様」をつけるでしょう。だけど、何かの保障のように「公式」「~様」を連発すると、当事者意識が逃げていく。空虚な世間体だけが残るような気がしています。

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2018年8月15日 (水)

■0815■

EX大衆 9月号 16日発売
Dki1giiuwaexqqo498x640●現在進行形『ゲゲゲの鬼太郎』を見よ!
放送中の『鬼太郎』について、誰にインタビューしたいのか聞かれたので、『地球少女アルジュナ』DVDブックレットで何度も原稿をお願いした脚本家の大野木寛さんに取材させていただきました。
この仕事は『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を企画・編集してくれた編集者の依頼なので、彼が決めた文字数どおりに納品して、以降はデザインも見ないし構成もおまかせです。
僕の仕事は「ライター」から逸脱しつつあるけど、いつでも雇われライターに戻れるフットワークも、生存戦略には必要です。


レンタルで、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』。
Graduatecovre01967年、トリュフォーやゴダールのデビューから10年と経っておらず、彼らと同世代の映画といってもいい。ヌーヴェル・ヴァーグより明らかに金はかかっているが、実験精神では引けをとらない。
アップの手持ちカメラで情報をそぎ落として臨場感を出したり、カットが変わるとアクションは連続しているのに時系列の異なるシーンへ繋がっていたり、不自然なズームバックで感情表現したり、全編、突拍子のない演出で生き生きとしている。


ただ、やはり映画が新しく更新されつづけていたのは、70年代初頭のニューシネマまで。以降は、SFXやCGによって被写体が変化しただけで、ドラスティックに映画の話法が書き換えられてはいない。アジア映画は活性化したが、それは経済面の話、世界市場に進出したという話だ。映画作家自身は、それぞれの小さな戦場でゲリラ戦を展開している印象がある。
タランティーノがウォン・カーウァイにラブコールを送っていた90年代中盤、ミニシアターの全盛期、ようするにああいう同人的な時代が今もつづいている。映画は組織力や政治力を失った。日本でいうと、ATGはムーヴメントを起こすことが目的の政治活動だったと思う。


ようやく時間に余裕が出てきたので、吉祥寺オデヲンで『未来のミライ』。不入りだと聞いていたが、半分ぐらいの客席は埋まっていた。興行的には下落の一途ではなく少しずつ持ち直していると聞く。
640エンドロールを見て呆気にとられたのは、関連企業の多さだ。こんなにがんじがらめに多方面からの利害が絡んでいるのに、作品の個性を維持しつづけるのは至難の業と思える。「細田守はケモだ、ショタだ」と下卑た感想をつぶやけるのは、奇跡といってもいいほど幸せな状況であって、どこの誰がどう細田監督を守っているのか、おおいに気になる。だが、その人が誰なのかおいそれと探り当てらないのが、今の商業アニメなのかも知れない。もし取材しようとすれば、三重四重に東宝のチェックが入るだろう。

細田守はあいかわらず、どこを切っても細田守。『デジモンアドベンチャー』からずっと。観客には、好きか嫌いかの選択肢しか残っていない。好き嫌いだけで語らせてくれるのって、やっぱり甘やかされているといってもいいぐらい、幸福な状況だ。
(裏を返せば、現場や作り手の生の言葉や状況が届きづらい環境なのかも知れない。)


たったひとつの家族、4歳児の主観だけで成立した小規模な映画だ。
640_1構図はフラットなのに、階段状の住居が画面に奥行きを与えるし、成長とか退行といった抽象性を帯びたりもする。中庭が、4歳児だけに知覚可能な異空間と化すアイデアは面白いと思った。その異空間のルールが何度も改変されて、その破綻ぶりも『時をかける少女』から変わっていない。
美術が良かったのだが、美術をいくら誉めても、作品にとってプラスに働くとは思えない。作画が、キャラデが声優が……といった各論は、もはやアニメ作品の本質ではない。アニメが世の中に評価されていなかった頃は、どんなディテールも評価の対象になったが、今は違う。

絵が綺麗なのは当たり前。綺麗で、そこそこ泣けるやつ。家族とか恋愛の美しさを謳ったやつ。ひょっとすると、大作アニメにはそれしか求められていないのかも知れない。
『未来のミライ』がいいとか悪いとかっていうセコいレベルの話ではない。世の中から求められるアニメがどんどん口当たりのいい無害な映画に希釈されているとしたら、あまり明るい気持ちにはなれない。

『未来のミライ』には、僕は好感をいだいた。だけど、その好感ってやつが曲者なのだ。

(C)Rialto Pictures
(C)2018 スタジオ地図

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2018年8月12日 (日)

■0812■

ご当地でしか手に入らないプラキット、“ゴトプラ”って何だ!? プレックスのデザイナー、坂尾重紀さんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第38回】
T640_772569ゴトプラを開発した坂尾さんは知り合いの編集者から何ヶ月か前に知らされていて、僕から独自にコンタクトをとっていました。おかげで、情報解禁の直後に最速でインタビュー記事を掲載することができました。


プラモデルといえばガンプラと即断される中、ノンキャラクターのプラモデルを売っていくには知恵とセンスが求められます。
ゴトプラは誰でも知っている建物と漢字を組み立てキットという構造でつないだわけですが、では東京タワーは誰がいかにして広めて、大阪城をビジネス化するにはどんな環境が必要だったのか、思いを馳せずにはいられません。「売る」とは、どういうことなのか?を考えざるを得ないわけです。

今回はプレックスの営業さんが記事露出のタイミングを図ったおかげで、記事は普段より読んでもらえています。
一方で、僕が特集を担当したホビージャパンエクストラは書店においておらず(僕も地元では一度も見てません)、ビジネスチャンスを逃しています。卑近な例でいうと、そういうことです。
ガンプラ以外のプラモデルがガンプラほど売れてないのは何故なのか、真面目に考えてる人は少ないのでチャンスだとも言えます。僕にできるのは本をつくることなので、山ほど企画はあるしアイデアは尽きないし、いくつか実準備に入っていますよ。


ようやく、ひさびさに映画をレンタル。トム・ハンクス主演だから、それなりに見ごたえあるのでは?と、知識ゼロで借りてきた『王様のためのホログラム』。
640妻に別れられたサラリーマンが、サウジアラビアの砂漠に仕事で飛ばされる。環境は苛酷だが、彼は美しい女医と知り合い、ストレスを脱していく。例によって、文学レベルのストーリーは僕には把握できなかったし、ストーリーが映画の面白さを左右するとは思えない。

会社のリムジンを下ろされたトム・ハンクスが、呆然と砂漠に立ち尽くす。『北北西に進路をとれ』の飛行機に襲われるシーンのような不条理さが感じられる。砂漠にカメラをすえた瞬間、映画は地平線に支配される。構図が制約をうけることに、反発するか従うか。
そういう話が好きなのに、映画好きを名乗る人から構図の話を聞いたためしがない。


砂漠に立ち尽くすトム・ハンクスの背後に、古びたショベルカーが見える。カットが切り替わると、トム・ハンクスは振り返って、「やあ」と挨拶する。誰に挨拶したのだろう? カメラは、ショベルカーに少し寄る。そこには、ショベルカーの錆の色と同じぐらい汚れた作業服を着た男が座っていたのである。
最初のカットで、僕らは作業服の男を見落としていた。だが、主人公は気がついていた。3カット目で、僕らはようやく監督の目論見に気がつく。この3カットの間で、情報が増えたわけではない。実は、1カット目と3カット目は同じ構図だ。
最初のカットを装飾するように、トム・ハンクスの演技、作業服の男に寄ったカットが足されていく。「実は、ショベルカーに男が座っていたのだ」という情報を、別の角度から説明しているにすぎない。

文語的に言うなら、それは「ショベルカーが働く必要もないぐらい、運転手が暇そうに休んでいるぐらい閑散とした職場を表現している」ことになる。映画レビューや映画評論は、いつも文語的な結論ばかり口にする。
だが、分解しなければ映画ならではの機能を解読することなど出来ない。カットを重ねることで、他人行儀だった映画は、僕らの認識と寄り合わされていく。その過程はエキサイティングだし、機能的に洗練された映画は本当に美しいと、僕は心から酔いしれる。その瞬間を、僕は待ちわびている。ストーリーがどう落着するかなど、本当にどうでもいいことだ。

(C)2016 HOLOGRAM FOR THE KING LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2018年7月27日 (金)

■0727■

モデルグラフィックス 9月号 発売中
Mg180911●『ひそねとまそたん』ミニ特集
全8ページのうち、作例ページをのぞく青木俊直さんインタビューを含む7ページを構成・執筆しました。
青木さんのインタビューに合わせて、作例がフィギュアになることは先に決まっていたので、残りのページで『ひそまそ』を初めて知る人にインパクトを与えられるよう、工夫しました。

●組まず語り症候群 第69回

今回は、シャーペンとパソコンのプラモデルです。担当者が変わると、こんな簡単な連載でも、不思議なことにページの雰囲気も変わります。

ホビージャパン エクストラ 2018 Summer
 31日発売
71xqvovbdsl●プラモデルってこんなに簡単で楽しい! BANDAI SPIRITS ホビー事業部のキャラクター・プラモデルたち
取り上げているキャラクター・プラモデルは『Dr.スランプ アラレちゃん』、『ドラえもん』、『ワンピース』、『ドラゴンボール』、『ポケットモンスター』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』、『スター・ウォーズ』、『仮面ライダー』、『ポチッと発明ピカちんキット』、『パシフィック・リム:アップライジング』、ラストにこの夏の新製品いろいろです。
『ワンピース』と『Dr.スランプ』と『ドラえもん』の企画者お2人の対談、『スター・ウォーズ』開発チームへのインタビューもあります。


この特集はホビージャパン編集部に企画書を提出したところから、ネタ出し、バンダイさんへの取材、20時間におよぶ模型撮影のディレクション、ページにどう写真を配置するかのラフ書き、本文やキャッチコピーやキャプションの執筆、ときには版権元さんへの問い合わせまで、50ページをひとりで担当しました。
もちろん、担当編集さんが台割りを決めて、版権元とバンダイさんへの連絡と確認など、締めるところは締めています。カメラマンさん、デザイナーさんのアイデアも入っています。バンダイさんから「このプラモデルを取り上げてほしい」という要望もありました。

「塗装は一切しない」「シールすら基本的に貼らない」、工具は「安くて入手しやすい最低限のものだけ」、ひたすら手ぶらで「簡単に作れる」ことだけをアピールした企画が、関係者全員に「許された」一点だけでも、僕は希望を持っています。


なぜかというと、塗装も接着もしなくてすむように進化してきたガンプラですら、知らない人や昔作っただけの人は「塗らないとダメなんですよね」と誤解しているからです。
アラレちゃんやドラゴンボールのプラモデルが出ていることさえ、今ひとつ世間に伝わってない。イベントで素組みしたプラモデルを売っていると、「塗装しないとこうならないんでしょ?」と聞かれます。「作りたいんだけど、ニッパーを持ってない」という友だちもいます。
そういう人たちはプラモデルを作らなくていい、関係ないんでしょうか? そういう人たちにこそ、誰でもカラフルな完成品を手に出来るバンダイのプラモデルをアピールすべきではありませんか?

ホビージャパン本誌ではなく、エクストラであれば、他の趣味の雑誌に混じって置いてもらえるチャンスがあるんです。表紙も、編集と営業が何度も話して、絞り込んで決めています。


僕も高校時代は「塗装・改造は当たり前」で、色すら塗らない友だちを軽蔑すらしていました。あるいは、プラモデルはランナー状態がいちばん面白いのだと前提した連載を始めてからも、「プラモについては俺がよく知っている」「俺のほうがレベルの高い思考をしている」、意識高い系モデラーと競争しているような気持ちになり、それはそれで、また疲れるのです。
とにかく、優劣がある世界、誰かが誰かに勝ったり負けたり、教えたり従ったり……という世界から距離を置きたくてしかたがない。

でも、素組みでOKのはずのガンプラですら、「ちょっと上を目指そう」とマーカーによる部分塗装が推奨されたりするのが、模型メディアの常識でした。僕は別に、上は目指したくないのです。横に広げたいのです。
だから、模型雑誌でない媒体に、「こんなプラモがあるんですよ」と宣伝して歩いて、いくつかは記事になってますよ。上下も優劣もない、誰もが気軽に楽しく過ごせる世界が理想なので。


『ワンピース』のプライズ・フィギュアって、喫茶店や美容院なんかに飾ってあるぐらい、超メジャーな立体物です。そういう人たちに「プラモデルもあるのか、ひとつだけ買ってみよう」と思ってもらいたい。
そして、そのまま二度とプラモデルを買わなくてもいいとも思います。なるべく多様な人たちが、ちょっとずつプラモデルに触れては去っていく。そのほうが世の中、豊かになると思います。「素組みじゃダメだ、塗装して上達しよう」って世界は、もう十分に構築されています。濃い人たちに濃いものを投下するシステムは、完備しています。
なので、もっとフワーッと風の吹き抜ける場所がほしい。そう思っているから、プラモデルとアニメについては、いくつもの企画を持っています。「横に広げる」と考えた途端、無限にアイデアが出てきたし、相談する相手も増えたんです。
だから今、企画を考えてどんどん売りこむことが楽しくて仕方ないです。

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2018年7月21日 (土)

■0721■

J Wings 2018年9月号 発売中
Dii_yyluwaa7_ox『ひそねとまそたん』変態飛翔生体 大図解 その2
構成・執筆しました。といっても、僕と編集長がブレインストーミングして「こういうネタでいきましょう」と決めた後、いつも編集長が詳細なデータをどっさり用意してくれて、僕はその文学性の高いデータを誌面に収まるよう、まとめ直しているだけなんです。
各OTFの変形途中図も掲載されています。次号、とりあえずJウイングさんの『ひそまそ』連載は最終回となります

「カウボーイビバップ」から20年、山根公利が語るメカニックデザインの醍醐味【アニメ業界ウォッチング第47回】
T640_768624山根さんと最後にお会いしたのは、10年前だったと思います。『ビバップ』のスタッフのどなたかにインタビューできないか、最初はサンライズさんに相談していましたが、結局は直接、山根さんに取材をお願いしました。

このコーナーは、いつもコンパクトにまとめて、電車の移動中にスマホで読みきれるよう、意識してまとめています。
しかし、山根さんはサービス精神の旺盛な方で、くすりと笑わせるサブの話やデザインについても「もう一言!」と突っ込んだ部分があったのです。それらを入れると4ページになってしまい、ページの切れ目も中途半端なものになるため、かなり悩みました。
本音を言うと、話が横道にそれても過剰な表現になってでも、入れるべきでした。なので、型にはまらず、このコーナーもインタビューイの個性で変化していくことになるでしょう。


しかし、10年前か……。離婚したばかりで、毎月、ボリュームのある創造的な仕事を「フィギュア王」から回してもらい、一方では「グレートメカニック」の編集部と意見が食い違いはじめ、ほどなくしてハブられた頃だ。
ケンカっぱやかったし飽きっぽかったし、だけど収入は良かったので、夜の街で遊びほうけていた。心地いい状況になると、なるべく早くそれを投げ捨てたくなる痛々しい人生だった。自信過剰なくせに、自己嫌悪に悩んでもいた。
山根さんにお会いして、なんとなくあの頃の気持ちに引き戻されて、ついつい大言壮語してしまい、おおいに反省している。山根さんが10年間キープしてこられた人脈に、どうこう口出しできる資格は僕にはない。

僕だけにしか出来ない仕事が見つかったのは、本当にこの1~2年のことだ。
今さら、人間関係を切ってはつなぎ、つないでは切って……という状況ではない。信頼しあえる数少ない仲間たちと、悔いのない仕事をしていきたい。
いま、僕と一緒に仕事をできている人たちは、「大丈夫な人たち」。失敗があってもカバーしあえる人たちが残ってくれた。去るべき人は去ったんだなあ、と実感している。


仕事上の信頼こそ、数少ない仲間たちから得られたものの、僕は愛されるような、思わず手を差し伸ばしたくなるような、そんな可愛い人間ではないのだと自覚もしている。
「誰かに抱きとめてほしい」と思えるような凄惨な体験もまた、僕の人生に起きはしたが、社会的手続きによって、ひとつひとつ完了していった。
仕事をのぞけば、僕は毎日ひとりで過ごしている。明日の夜はひとりでアトラクションを観にいくので、パニック発作が起きないか心配している。知らない人に両脇に座られると、滂沱たる汗が吹き出てくるので……。


熱中症で亡くなる中学生が出てしまい、一挙に教師や学校のあり方に非難の目が集まっている。
それに対して「子供を甘やかすな」という人たちがいる。一方で、子供が校舎のまわりを80周走ったのであれば、それを命じた教師は100周走れ!と「正義の」怒りを叫ぶ人たちがいる。気に食わない連中に罰を与えて苦しめよ、という声が実効力をもてば、どこの誰もが人権を奪われ得る最悪のディストピアが完成してしまう。
いや、社会の一部はもう、「とにかく罰せよ、苦しめよ」の厳罰化へ走り出している。僕のちょっとしたミスが、あなたの暴言ツイートがテロの標的になる。テロといっても、包丁一本、車一台のテロ、あるいはWi-Fi経由のネットリンチだから怖ろしい。

子供たちには、暑さからも教師の支配からも「逃げろ」と言いたい。
僕はひと夏の間、屈辱的な水泳の授業をサボりとおした。体育の教師は僕を呼び出して「イヤなことから逃げ続けていると、とんでもないことになるぞ」と言った。しかし、今の僕は好きなアニメとプラモのことを、好きなように書ける仕事についている。

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2018年7月16日 (月)

■0716■

「時をかける少女」を残酷に支配する「時の流れ」は、構図に刻みつけられている。【懐かしアニメ回顧録第44回】
Dikl3xnueaadt8a近所で見かけた奇妙な看板から席料何万円もする演劇まで、「見た」ことが等価値に体験として語られる世の中なので、「どちゃくそに泣いた」「泣きすぎて思考がストップした」とでも書いたほうが、よほど共感を呼べる。

もしかすると、映画を観た直後の泣きはらした顔だけをアップで掲載したら、PVだけは稼げるんじゃないかと思う。顔写真までは載せなくても「ぐわああああ」「泣けるううううう」と、アニメの感想を実況的にツイートしまくってる人はいた。その方が強烈に伝わるとは思うし「どんな作品なんだ?」と、気にもなる。
だけど、どうしても自分はそれはやりたくない、抵抗があるよなあ……と思うのはなぜかと言えば、発想がテロリズムなんだよね。「号泣して席を立てなかった」ことをもって、自分の体験の尊さを裏付けようって魂胆は。


歌舞伎町のキャバクラに勤める26歳の子と、テアトル新宿で 『時をかける少女』を観たのが12年前。以降、定期刊行のムックや「ニュータイプ」のWEB版に感想を書く機会があって、後者はそこそこ上手く書けたと思う。
だけど、数年ぶりに観て、今回は驚いた。まずは、脚本も作画も粗っぽい。タイムリープの発動条件や前後関係が不明確なのに、主人公のオーバーな感情表現で強引にねじ伏せて進行している。一方的に去っていった千昭を、なぜ真琴が映画の冒頭にまで戻って追いかけるのか、ちょっと動機が分からなかった。相変わらず、どうすれば真琴が自分で目指した日時にタイムリープできるのかも分からない。

だから、いつものように画面に何がどう映っているかだけに注視した。
すると、いくつかポイントが見えてくるのでメモをとって、二回目は書けそうなポイントに絞る。原稿を書きつつ、確認のために何度も同じシーンを見る。
千昭がフレーム外に歩いていって、ひとりになった真琴がアベックの乗った自転車に追い抜かれるところを何度か確認したところで、ようやく涙が出てきた。なぜかと言えば、それは上記コラムに書いたように、構図がロジカルだから。


かつての真琴と千昭そっくりに自転車に二人乗りしたアベックは、いわば真琴の消し去った未来だよね。だから、過去に向かって歩き出した真琴はハッとするんだよ。振り返ると、真琴の主観カットになって、見知らぬ男女の後ろ姿を、カメラは堂々と捉える。矮小ではなく主役のように堂々と、ほどよいサイズで。
その時、「くやしい」と思うんだよ。あんな堂々としたアベックに、自分がなれるチャンスがあったのに自分でチャンスを握りつぶしてしまったことに気がつく。くだらない嫉妬だし、あさましい感情なんだけど、だからこそ共感する。自分を無価値でくだらないと思える人ならばね。

映画にはメカニズム、機能がある。
昨夜、ひさびさにレンタルで『東京物語』を82fcb0c68c770516068cef0d0dfa673a760 観て、やっぱりジーンとしたんだけど、カメラが異様なまでに真正面から俳優をとらえるからでしょ。ひとりきりになった笠智衆と、小さな漁船が港から出ていく引きの絵を、執拗にカットバックさせているから寂しいんだろう……と、僕はこじつけでも何でもいいから第三者に検証可能な理由を探す。そう努めないと、映画だけでなくすべての体験が「くわあああ、泣けたああああ!」で終わっちゃうんですよ。あらゆる体験がSNSで注目を集める道具になってしまう。

「とにかく俺は号泣した」、だから「凄い映画だ、絶対に観てくれ」と自分の感動を盾にとった態度は脅迫、テロリズムに通じる。「この映画に感動しないヤツは劣等感性」とまで言う人がいる。
自分に共感してくれなかった、というだけの理由で人は人を殺せてしまう。それが明らかになった時代に正気を保つには、作品に誠実に向き合い、過剰な共感を期待しないことも大事ではないだろうか。

(C)1953/2011 松竹株式会社

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2018年7月10日 (火)

■0710■

GOODS PRESS(グッズプレス) 09 月号 発売中
Dhkp4e5v4ai_kkq『スター・ウォーズ』のハン・ソロ役声優、磯部勉さんへのインタビュー、BANDAI SPIRITSホビー事業部へハン・ソロとルークのプラモデルについての取材を担当しています。

顔面が塗装済みのハン・ソロとルークのプラモデルを「たいした技術ではない」「革新的というほどでもない」と冷たく見ている人もいますが、プラモデルを知らない人に「すごい」と思わせる力が肝心です。


まだおじさんにガチ恋してないの? バ美肉おじさんの魅力にガチ恋距離で迫る(
あまりに露悪的なイラストに引く人が多いだろうけど、オタクのパーソナリティにとって、きわめて重要な話題だと僕には思える。

いつだったか、サンリオピューロランドでキティちゃんの着ぐるみに入って子供たちの相手をしている男性がテレビに出ていて、「着ぐるみの中でかわいい仕草をしている時だけ、本当の自分に戻れた気がする」と語っていたのを思い出した。
VRアプリ「PlayAniMaker(プレイアニメーカー)」()は、キティちゃんの着ぐるみのデジタル版であって、ポリティカル・コレクトネスに配慮しろ、性的表現を排除せよ、性を商品化するな、あるいは男らしくしろ、スポーツのできないヤツらは黙っていろ、結婚も恋愛もしないキモい中年に生きる価値なしの地獄の物理現実からの解放ツールだと僕は思っている。


小学6年生のころ、女のように髪をのばしていたことは、過去に何度か語ってきた。親が髪を切ろうとすると、泣いて逃げ回った。
クラス会で、もう立派な母親になったクラスメートが「女の子みたいにきれいな子だった」と僕のことを噂していて、この歳になっても嬉しいし、「あのまま女の子に間違われたままでいたかった」と、もし人生で後悔があるとしたら、そのひとつだけだよなと、しみじみした。
そして、そのクラスメートの近くの席に座ったところ、彼女も周囲の女性も、僕とは一言も口をきいてくれなかった。仕事以外で女性と口をきくことはないし、女友達もいない。それでいいんじゃない、こんなにも仕事が面白いんだから……。


いま、「オタク」ってひとくくりに出来ないし、「オタク特有の性癖」って語りにくくなっているけど、たとえば早口すぎて会話がなりたたず、社会と折り合っていけない人は今でも多いと思う。
かつては、うまく対人関係が築けない人たちのセーフティネット的に商業アニメが機能していたのではないか……と、『装甲騎兵ボトムズ』の無口で人嫌いな主人公・キリコと自分を重ね合わせていた自分は、孤独だった学生時代を振り返る。

あの頃の、勉強も体育もできずに公然と嘲笑されていた自分に接ぎ木して、オタク趣味や内向性をお金を稼げるぐらいの“芸”にアレンジできたから、今こうして幸せでいられる。
だけど、たとえば演劇を観にいって左右を見知らぬ人たち……夫や妻や子供のいるまっとうな社会人たちに挟まれると、ついに家庭を築けなかった自分の正体がありありと思い出されて、ものすごい量の汗が吹き出てくる。服を買うときも、床屋に行くときもそう。
医者は対人恐怖症だと診断したが、症状としてはパニック発作に近い。根幹のところでボタンを掛け違えていると、僕には分かっている。あわてて精神安定剤を口に放り込む。


結局、この肉体が邪魔なんだ。この歳で「笑顔がいい」と言われるようになったけど、トータル的に根本的に、自分の肉体が好きじゃない。美しくないから。
で、美しくなるため、自分の体を好きになるために「鍛えなくてはならない」「努力せねばならない」としたら、実はそういう問題でもないのだ、とお答えするしかない。男である時点で、まずイヤなんだ。さりとて、性転換したいという次元の話でもない。もっと観念的な話だ。

漫画『攻殻機動隊2』に、マッチョなオヤジの義体の中から小柄な少女が出てくるシーンがあったが、僕はマッチョなオヤジではなくて、小柄な少女になりたい。いまの肉体に足し算しても引き算しても無意味なんだ。
少女の美しさを心からうらやみながら、それと同時に自らがうらやむ少女でありたい……と言えば、いくらか正確だろうか。


いま、自分にしか出来ない仕事がどんどん増えてきて、本当に充実している。
だけど、もう何年もプライベートで異性と話したことがない、旅先で道をたずねられるか、スーパーのレジのおばちゃんに「いらっしゃいませ」と言われるぐらい……と告白したら、みんな引くんじゃない? 女性と話して何が面白いのか、どうしてあんなにモテたかったのか、もう僕には分からなくなってる。性別なんて面倒だなと、つくづく思う。

僕の仕事の多くは、50年分の苦しみや痛みから生まれた理想を、他人の口に入れられるよう、甘口に加工調整したものだ。
だけどもしテクノロジーが自己嫌悪を「なかったこと」にしてくれるのであれば、僕はそっちに賭ける。バーチャルYouTuberは「少女に憧れながら、少女の姿のまま永遠に生きる」不死テクノロジーの、原始の姿なのだという気がしている。

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