2019年7月15日 (月)

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「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
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毎月開催している【模型言論プラモデガタリ】のゲストとしてお呼びして、その前に個展に挨拶に行って……と、三度しかお会いしていないのに、樋口さんの磊落な性格のおかげで、気安く海外旅行の話などもできました。


『ぼくらの七日間戦争』を見た翌日、戦車と廃墟と立てこもりなら『うる星やつら2 ビューテイフル・ドリーマー』だろう、と思ってAmazonプライムでレンタルした。高校時代に「フィルムコミックを読みながらドラマ編LPを聴く」という変な視聴体験をして、大学に入ってから1回、卒業してから1回見ていると思う。
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「ロマンアルバム イノセンス押井守の世界」によれば、この映画は、前作『うる星やつら オンリー・ユー』を「ただのテレビのでかいもの」と反省した押井守監督が、映画らしさを求めてリベンジした作品のはずだ。
「テレビのでかいもの」という表現にはピンとくるものがある。定番のギャグや観客が見慣れているシチュエーションをくまなく入れて、涙あり笑いありに仕立てれば、たいていの観客は満足してしまう。
90分なり2時間なりの長さのアニメならば、すなわち映画と呼べるのだろうか? 押井監督の言う「映画」とは「実写映画」のことではないのか? 「押井守の世界」で、押井監督は『オンリー・ユー』と併映の『ションベン・ライダー』(相米慎二監督)を比較にあげて、「こんな映画をつくっていいのかというぐらい、勝手な映画」「やりたい放題やっていて、話がさっぱり分からないんだけど、映画として何か妙に面白い」と言っている。


なぜ、『ビューティフル・ドリーマー』は映画に見えるのだろうか?
即答できる人は少ないと思う。その人の中に、暫定的であれ、映画の定義が固まっている必要があるから。さらにと言うと、「映画」と「アニメ映画」の違いとは、単に「本物の俳優を撮っている」「絵で描いてある」程度のものなのだろうか?

『ビューティフル・ドリーマー』 を見ていて、まず気がつくのはOFFゼリフの多さだ。画面外からのセリフが、かなり多い。
わけても印象的なのは、友引町が廃墟となった直後、コンビニで食糧をかき集めるシーンから始まる、メガネのモノローグだ。サクラ、面堂、あたるのモノローグもある。OFFゼリフといえば、前半で温泉マークとサクラさんが会話するシーンで、カメラが2人から外れてPANし、黒闇に会話だけが聞こえるカットがある。

ことテレビアニメにおいては、絵とセリフ、音声が一致していることが多い。画面内で爆発が起きると、修飾するようにドカーンと音が入る。そうではなく、キャラクターの顔のアップにドカーンと音が入り、振り向くと煙の上がっているカットが入る……これだけで、映像の意味は膨らむ。つまり、絵の情報、音の情報をズラすだけで、その瞬間の意味は多層化する。
(押井監督も好きなゴダールの映画は、画面外から抽象的なモノローグが乱入することが多い。)


もうひとつは、長回し。これは「多い」とまでは言えないけど、諸星家での食事シーンは特筆すべきだろう。
あのカットで、食卓を囲んだキャラクターたちはみんな別々の動きをしていて、ちょくちょくセリフが入る。ロングで、全員が同じフレームに収まっている。
このカットは、OFFゼリフなんかより、かなり「映画っぽさ」の核心に触れていると思う。食事を描くには、手と口をリピートで動かせば食べているように見える。このカットでもリピートは使われているが、キャラクターが勝手に話したり独自の芝居をするところは送り描き、すなわち頭から順番に描かねばならない。

歩いたり、話したりする芝居は、セルアニメの場合、リピートが基本だ。ロトスコーピングでないかぎり、同じ動画をリピートさせて撮れば動いて見える。『ビューティフル・ドリーマー』でいえば、あたるがテレビ版第1話の鬼ごっこのシーンに戻ってしまうシーン、背景のモブが単調な同じ動きを繰り返している。リピートは省コストな技法ではあるが、セルアニメの本質ではないかと思っている。
面堂がハリアーを持ち出し、メンバーみんなで友引町の姿を目撃する衝撃的なシーンでも、あたるやラムの髪の毛はリピートで揺らめいている。同じ絵に戻っては動き、動いては戻る……つまり、僕には時間がループして見える。

「バンク・システム」を聞いたことがあると思う。ロボットの合体シーンとか汎用性の高い芝居の動画を保存しておき、別のシーンで使いまわす。
『ビューティフル・ドリーマー』 では、学園祭の準備のシーンで、同じ動画が使いまわされている。時間がループしていることを表現するのに、同じ絵を使いまわすことは理にかなっている。しかし、それはセルアニメがリピートに頼っている、という本質を種明かしすることにもなるのではないだろうか?
諸星家での食事シーンは、その本質からはみ出している。リピートの中で、キャラクターが予想外の動きをする。その「予想外」の部分が「映画的」なのかも知れない。なぜなら、実写映画は回想シーンでもないかぎり、同じコマを二度と再び使うことはないからだ。


OFFゼリフと送り描きの両方が使われたシーンがある。面堂が、しのぶを車で送る夜道のシーン。ヘッドライトに照らされた道だけが動画で描かれ、セリフは画面外から入る。このような情報の遮断も、『ビューティフル・ドリーマー』では多く使われている。冒頭、アップだけ繋いで全景をなかなか見せないのは、その典型だろう。

しかし何より、押井監督はリピートに頼らねば日常芝居すら描けないセルアニメの構造を目の前にして、送り描きでないと描けない予想不可能な時間を作り出そうとしたのではないだろうか。つまり、アニメの癖というか、「質」を壊すことでしか、アニメは「映画」になれないと考えたのではないだろうか。
「ループする時間を抜けだす」テーマは、ループする動きを破壊しようとする作画によって、何より雄弁に語られている。
「なぜ『ビューティフル・ドリーマー』 が映画的なのか」、ストーリーをいくら吟味しても、いくら作中の謎を解き明かしても、分からないと思う。何がどう見えているのか、裸眼で見なければ。

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2019年7月 8日 (月)

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人型メカのアクションを登場人物の回想シーンにシンクロさせる「マクロスプラス」の演出力【懐かしアニメ回顧録第56回】
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『機動戦士Vガンダム』、『∀ガンダム』、今回の『マクロスプラス』、とにかく劇中設定やスペックとは関係のない、台詞や映像だけから読みとれるメカニックの面白さに触れてきました。
今回は『マクロスプラス』のYF-21が「鏡に映った自分」を殴ってしまうカットが、その少し後の回想シーンで、「イサムを殴るガルド」「ミュンに乱暴しようとした自分を鏡の中に見てしまうガルド」と重なるのではないか、という仮説を立てています。
この仮説に若干の分があるのは、YF-21がガルドの思考を勝手に読みとって実行してしまうロボットだからです。ここで「ロボット」と書くと、「いや、可変戦闘機だろ?」「バトロイドだろ?」とツッコミが入りそうですが、一般名詞に分解して、なるべく広く伝わる、そのような批評を目指しているのです。
すなわち、モビルスーツを「ロボット」と僕は書きたいし、いきなり「MS」で通じるような文章からは距離を置きたいわけです。

また、メカ描写や劇中設定を決しておろそかにしたいわけではありません(今回はYF-21のBDIシステムに触れていますし)。
メカを都合よく切り離した人間ドラマ解析も、やはり自分の目指すところではありません。メカの存在や振る舞いが、どう文芸的に機能しているか、それを読み解きたいのです。


さて、月末の【プラモデガタリ】のテーマが自衛隊なので()、片っ端から昭和の映画を借りてきたり、あるいは配信サイトを検索したりして、毎晩見ている。
『野性の証明』、『戦国自衛隊』と連続して出演した角川春樹の秘蔵っ子、薬師丸ひろ子の主演三作目『セーラー服と機関銃』。制服少女+銃器は本作が初めてだと思うので、ついでに観てみた。
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相米慎二監督作なので難解ぶりは覚悟していたが、脚本が比較的オーソドックスな分、長回しやロングショットが際立って感じられた。
いちばん驚いたのは、新宿・太宗寺で薬師丸の配下のヤクザたち、彼女を慕う男子高校生たちが飲んだり踊ったりしていて、薬師丸本人は観音菩薩像の腰に菩薩と同じポーズで座っているシーン~暴走族のバイクを奪い、夜道を移動撮影するアクティブな長回しだ。
バイクに子分と二人乗りしてからの台詞は、明らかにアフレコで、エコーがかけられている。「組長、俺の背中に雨が降ってますよ」と、子分は言う。後ろに乗っている薬師丸は「大丈夫、もう晴れたから」と答える。普通の映画なら、アップにして薬師丸の涙ぐらい撮りそうな“泣かせ”のシーンだ。

セットではない、スクリーンプロセスでもない、夜道のロケはネオレアリズモ、ヌーヴェル・ヴァーグで高感度フィルム、小型カメラによって実現された。ドキュメンタリックな手持ちのカメラワークも、同様だ。
しかし、相米慎二は常に空間を意識して、カメラと被写体の距離を気にしている。冒頭、薬師丸がブリッジしているカットの、奇妙なフレームサイズ。風祭ゆきの演じる謎の女を薬師丸が問い詰めるシーンで、ソファの後ろから這い登り、ドタンと手前にすべり落ちながら台詞を言うカットもそう。
ラスト近く、渡瀬恒彦と薬師丸が屋上であれこれ燃やしながら、別れの会話をかわしている超ロングのカットも、俳優との距離をひたすら計算しているかに見える。

一言で言うなら、それは俳優にとっては自由、観客にとっては事態や状況を把握しづらい、不自由なカットだ。


もし相米慎二が存命なら、僕は何とかしてインタビューをとりに行っただろう。
こんな奇妙な映画しか撮らないポルノ出身の監督に、メジャー配給会社の正月映画を任せてしまった1981年の映画業界は、ネジが外れていて無責任だったと言える。とにかく、当時の邦画は冷え切っていたから。一方で、主題歌・出版とのメディアミックスで斬りこんできた角川映画にとっては、独裁的に、最も有利に戦える戦場でもあった。角川春樹は、臆するところがなかった。
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風祭ゆきのヤクザの娘が、全裸の渡瀬恒彦と激しいセックスをしている。それを、薬師丸は間近に見てしまう。
撮影当時の薬師丸は高校二年生であった。淫行条例などのおかげで、同じシーンを2019年に撮影することは不可能だろう。その他、薬師丸が飲酒するシーンもある。公開当時、一部の学校では不謹慎なので鑑賞禁止にされたそうだが、今なら映倫が先回りしてR-18に指定するだろう。人権意識が向上し、ポリコレが普及した結果、映画は社会の隷属物になったのだ。

ラストシーン、新宿の雑踏を、セーラー服に大人びたパンプスを履いた薬師丸がタバコを吸う仕草をしながら歩いてきて、子供と一緒に機関銃をもったフリをして、地下鉄の排気口のうえに立つ。マリリン・モンローのように、スカートが舞い上がる。ゲリラ撮影である。
すると、通りを歩く人々が薬師丸に好奇の目を向けて、グルリと彼女を取り囲む。そこへ、薬師丸の「ワタクシ、愚かな女になりそうです、マルッ」とモノローグが入る。実際に、画面に「○」がインサートされて終わり。エンドロールも何もないし、もちろん「エンドロールでも席を立つな」「ネタバレすんな」とうるさい映画ファンもいなかった。
昭和の時代、映画は自由の証だった。粗暴で反社会的、法律などお構いなし。濡れ場や暴力は、正月映画だろうが当たり前に挿入される。映画は風にさらされていた。相米慎二はシバキ棒を持って現場をうろつき、子役だろうがアイドルだろうが怒鳴りつけた。
インテリヤクザの世界で、彼らの過去作をションベン臭い名画座に観にいこうとすれば、ちょっとした覚悟が必要だった。今はどうだろう? 製作委員会にかしづいた宣伝業者、ネタバレ禁止令、法外な版権使用料、映画会社のチェックを受けた太鼓持ち記事……日本人が従順で大人しくつまらなくなったことは、映画界を見れば分かる。

(C)KADOKAWA 1981

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2019年7月 3日 (水)

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情景作家・山田卓司、昭和~平成~令和をつらぬく“時代を見つめる視点”を語る【ホビー業界インサイド第48回】
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静岡ホビーショウのタミヤさんのブースで、中学どころか小学校のころに初めて名前を覚えたプロモデラー、山田卓司さんとお会いした。初めて会ったとは思えないほど、山田さんはくだけた口調で雑談をたっぷりしてくださり、放課後の部室のような雰囲気のインタビューとなった。
中~高校時代の語彙は、タミヤニュースとホビージャパンによって収集された。人は否応なく、集められた語彙によって世界観を構築する。山田さんと初対面の気がしなかったのは、どこかで世界観が共通しているせいなのだろう。


月末の【プラモデガタリ】のテーマが「自衛隊」なので()、昭和の角川映画、80年代のアニメばかり毎日2本ずつ借りて見ていた。レンタル屋になくて、配信にしかない作品も増えてきた。
是枝裕和監督の『万引き家族』、これは有料配信オンリーで、DVDレンタルの方が安いので借りてきた。
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耳障りの悪いタイトルだが、是枝監督の過去作『誰も知らない』の路線。ネグレクトと虐待から子供を救い上げ、善行の結果として擬似家族が構成される。その擬似家族という設定が、あまりにもフィクショナルなのだが、題材のリアリティなどどうでもいい。題材を、映画というメカニックでいかにして切り取って、2時間の四角いフレームの中に配置しなおすか。映画の値打ちは、そこにしかない。
なので、僕は題材はわりと何でもいい。男女の恋模様を、アクション映画のようにダイナミックに撮ることだって出来るだろう。それが映画の機能、メカニズムなのだ。


この映画の中で、(一家の「母親」役である)安藤サクラを、真正面から捉えたシーンがある。
ひとつは、よその家の5歳児を誘拐同然で家においていることを、クリーニング屋の同僚に見抜かれるシーンだ。小津安二郎のように、真正面での切り返しがつづく。このシーンは、太陽光が真横から入っていて、人物に強い木漏れ日が当たっている。まるで決闘シーンのようなカッコいい撮り方をしていて、「こんなのどうやって撮ったんだ?」と、声が出てしまった。
このシーンで、安藤サクラは「(子供のことを)喋ったら殺す」と、同僚に言う。同僚は、安藤の真横スレスレを、背中を見せながらすれ違って、その場を後にする。まるでヤクザ映画のように、「肩で風切る」ってやつだ。安藤が肩にかけたタオルを、シュッと勢いよく抜いたところで、このシーンは終わり。

ようするに、撮り方ひとつで会話シーンを決闘のように見せてしまう、それが映画の機能なのだ。魔法でもなければ「思い」なんて無責任なものでもない。


もうひとつ、安藤サクラを真正面から撮ったのは、後半の取調室のシーンだ。
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公式のスチールでは、そのシーンは押さえられていないので、本編を見て欲しい。
取調室のシーンは三つあって、それぞれ照明も違えばカメラアングルも違えば、たとえば二回目のシーンでは安藤にカメラが寄っていくようカメラワークが加えられている。

誰もが驚愕するのは、三つめの取調べシーンだろう。池脇千鶴の演ずる警察官との“対決”シーンだ。
安藤も池脇も、真正面からのみ撮られている。池脇に問い詰められた安藤は、泣いているのに髪を直すフリをして、涙をぬぐう。
このカットは、アンバー調の落ち着いた色調になっている。クリーニング屋の裏での対決シーンのような、ぎらついた質感ではない。だが、真正面からのアングルなので、否応なく、2人の女優はぶつかって見える。対決しているように見えるのは、映画の持つ冷徹なメカニズムが機能しているせいであり、そこに安藤が複雑な表情と吐息のようなセリフを吹き込むことで、ようやく「思い」が伝わる。そういうものだと思う。


豪華キャストである。松岡茉優の実家のシーンで、彼女の妹がちょっとだけ顔を出す。いかにもこれから売り出します、次は準主役で使いますといったキラキラした雰囲気のアイドルのような子役を使っている……と思って調べたら、すでに主役で一本撮っていた。
映画に金がかかっている、とはこういうことだ。低予算の映画なら、身内でキャストを揃えるしかない。それゆえのリアリティが出ることは、自主映画を見れば分かる。海外で賞をとれる是枝監督の作品には、金をかけざるを得ない。『万引き家族』だって、フジテレビが出資している。前述したような、粘り強さの必要なカットを撮れるようにはなった。しかし、もはや是枝監督に、切実な貧困は撮れない。

(C)2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro. 

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2019年6月24日 (月)

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「きみと、波にのれたら」の愛らしいキャラたちの秘密を、キャラクターデザイナーの小島崇史が明かす【アニメ業界ウォッチング第55回】
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昨夜遅く、『きみと、波にのれたら』が上海国際映画祭で最優秀アニメ作品賞(金爵賞)を受賞したニュースが入ってきました。
宣伝会社を通すと、いつも複数社の囲み取材にされてしまうので、小島さんに直接取材を申し込みました。
ただ、宣伝会社が『きみと、波にのれたら』の試写会に招いてくれなければ、そもそも取材を思いつきもしなかったので、僕から担当窓口に連絡して、原稿を見せてから掲載しました。修正は何も入らず、小島さんの若くて貪欲な姿勢が読みとれる記事になったと思います。

出演俳優や主題歌アーティスト中心の宣伝がなされていますが、『きみと、波にのれたら』に関しては正解だと思います。
監督やアニメーターの名前や作風を気にするのは、一部のマニアックな人たちだけで十分。オタクだけが受信できる萌えだとか属性だとかを除外したところに、この作品の価値があると思うので……(そうは言っても、勝手に百合だとかツンデレ妹だとか受信してしまうからオタクなんだけどね。「百合好きな人は観にいくといいよ」といった薦め方は、僕はやっぱり好きになれない。そこまでアニメという表現を、自分の甘ったるい享楽のネタとしては使えない)。

「∀ガンダム」が会話で聞かせる、品のいい「ミリタリー趣味」【懐かしアニメ回顧録第55回】
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藤津亮太さんの生配信番組に出たとき、好きな場面としてメモしたのが、この第46話「再び、地球へ」で新戦艦ホエールズを修復、艤装する群像劇です。
作業用モビルスーツをめぐって、月と地球の技術レベルの差や名称、使い方の違いに驚いたり、笑ったりする会話があり、僕はそれをミリタリックに感じたのです。
ロボットの性能差をキーにして会話を展開させ、価値観の違いを作劇するのは、正確には「ミリタリック」なのではなくて、リアリティの出し方のひとつに過ぎないとは思います。シナリオ上のテクなので、特筆するほどでもないのかも知れません。

でも、第一作『ガンダム』のアバンタイトルの太陽光がスペースコロニー落下の光だと誤読するのは読解力が低いからであり、それは「今からでも色んな映画を観て勉強してください」ですむとして、コロニー落下説への反論として「コロニーが落ちたのはシドニーだから南半球のはずですよね」と言われたとき、もう返す言葉が見つからなかったです。コロニーが落ちたのは一基だけ、しかもオーストラリアのシドニーであるとしたのは、ムック「ガンダム・センチュリー」における創作に過ぎません。
「ガンダム・センチュリー」説を、サンライズが作品を貫く公式宇宙世紀年表にまとめ上げたのが、ちょうど20年前なのです。

作品の外の世界で検証材料を探す、という少し面倒なことをやる人が減って、とにかく作品の内側で与えられる情報に埋もれて安心していたいライト層が増えたのは、放送当時の小学生たちが中年になって、学ぶことをやめたからでしょうか? 『めぐりあい宇宙』の狡猾な中隊長ザクが「男気あふれる上官」などと誤読されているのは、彼らが小学生の脳のまま、フィクションを読む訓練を放棄してしまったからではないのでしょうか?


もうひとつ、『機動戦士ガンダムUC』のヒットで、モビルスーツを呼ぶときに形式番号を入れたり、「○○系」のように開発系譜(バックボーン)を感じさせるセリフを入れることがリアリティ、ミリタリズムだと捉えられるフシがあって、それに異議を唱えたかったことも『∀』のコラムを書いた動機です。
『機動戦士Zガンダム』で、MSVを適当な色で塗って「どんな形でもいいから、とにかく古いメカの有象無象」として出したところまでは、まだドラマのコントロール下にモビルスーツたちが収まっていたと思うのです。MSVの設定は、プラモファンがテキストとして読むために考えられたものなので、映像に転用する時は無視してしまって構わない。映像作品をつくるとは、そうした判断の積み重ねです。

けれども、『ガンダムUC』は「MSVありき」、「宇宙世紀の裏設定ありき」でドラマが書かれてしまっている。形式番号のような、作品の外で遊ぶべき情報が、脚本に書かれてしまっている。それは作品をつくる姿勢として、だらしがない。
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無論、メカニックデザインのカトキハジメさんと作画監督の玄馬宣彦さんは、「ドラマは監督に任せるから、プラモファン、モビルスーツ・フェチの夢を作画で叶えたい」と自覚していたのでしょう。そのオタク心を理解していなければ、僕は『UC』の原画集を、自ら進んで構成したりはしません。自ら申し出て、玄馬さんにインタビューしません。

ようするに、形式番号なんかを登場人物が口にしてしまう作劇は、単に局所的な「モビルスーツ・フェチ」であって、断じて「ミリタリズム」ではないのだと、観る側も分かっている必要があります。
『ガンダム』20周年にあたって、富野由悠季監督は、もう一回り外周の人たちに届く作品を目指したのでしょう。それには、「ガンダム・センチュリー」に起源を持つ細かすぎる設定は足枷にしかならない、と分かっていたのです。しかし、『∀』の試みは、少なくともビジネスとしては失敗でした。「ガンダム・センチュリー」発祥の年表に寄りかかった『UC』がプラモデルともども大ヒットして、テレビにまでなったのですから。
ガンプラ・ブーム時に小・中学生だった、団塊ジュニアを頂点とする世代が、作り手と受け手を構成しているのだから、ビジネスとして『UC』は正しい。
怪獣オタクが「東宝特撮へのリスペクトとオマージュ」でつくった『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』もそう、『スター・ウォーズ』もそう、「幼いころに作品を楽しんだ恩返しとして、その作品を同世代に向けて、大資本でつくる」平面的・直線的なリサイクルが、エンタメの主流になってしまった。

だから、湯浅政明監督のような僕より年上の人が、僕よりうんと若い未知の観客に向かってオリジナル作品をつくると、応援せずにはいられないのです。

(C) 2019「きみと、波にのれたら」製作委員会

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2019年6月 4日 (火)

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デジタルと出会ってから何が変わったのか? 河森正治の発想と実験【アニメ業界ウォッチング第54回】
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毎月開催しているトークイベント【模型言論プラモデガタリ】のゲストとして河森さんに連絡をとったところ、たまたま河森正治EXPOの開催宣伝時期と重なっていて、ついでにインタビューも申し込みました。この取材は【プラモデガタリ】の前に行ったものです。なので、取材は4月ですね。
『地球少女アルジュナ』の第4話を見てファンレターを送り、DVD化のときに「廣田というライターなら必ずやってくれる」とブックレット編集、キャッチコピーを依頼され、『創聖のアクエリオン』では未経験なのに「これだけ雑誌記事が書けるなら、必ず脚本も書ける」と、いきなりCDドラマの脚本をまかされたり、10年ちょっと前は河森さんにいろいろな体験をさせてもらいました。


先月30日が【プラモデガタリ】の第5回(「イデオンとアオシマ」)で樋口雄一さん、山根公利さんにゲストとしてお越しいただき、帰りの打ち上げで「翌朝、河森EXPOだよね」なんて話していました(なんとめまぐるしい毎日なんだろう……)。招待券をいただいていたので、昨日、行って来ました。
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いろいろ、思うところはあります。河森さんを作家としてクローズアップしたいのか、クリエイターの名前を冠してキャラクターのイベントをやりたいのか。両方がせめぎ合っているような印象がありました。
最近、アニメ関連のクリエイターにフォーカスした展覧会が多いのですが、アニメという限られた経路から流入してきた情報にしか興味がない、それで一生をやりすごせてしまうのだとしたら、それは果たして豊かなんだろうか……。
アニメーションが世間から軽視されていた70年代ならば、市民権を得るための戦いには大きな意味があったと思います。今は、マーチャンダイジングとして市場が安定しているので、ファン向けにグッズを売る商売になっているんじゃないでしょうか。市場があることと市民権を得ることは、また別のことのはずです。

ただ、河森EXPOには、まさしく河森さんだからこその突破口もありました。それが、世界中を旅して撮ってきた写真のエリアです。


河森さんの旅行話は、「フィギュア王」の連載や「河森正治デザインワークス」の手伝いをしている十数年前、くりかえし聞かされてきました。深夜のファミレスで河森さんの話を聞いていると、独特の酩酊感をおぼえました。あの感覚を展示にするのであれば、かなりエキサイティングです。

おそらく、誠意あるスタッフが河森さんのそばにいたのでしょう。旅エリアの向かい側は河森さんの出生してからの年表になっていて、ひとりのクリエイターの人生を縦軸と横軸から垣間見ることができます。この十倍ぐらいの規模のスペースを使ったなら、僕はおおいに意義があったと思います。
『マクロス』が好きだから『マクロス』の展示があって良かった、バルキリーが好きだからバルキリーの絵が見られて良かった……だとしたら、僕らは何のために歳をとったんだろう? もはや進歩することのない「大きな子供」になってしまっていないか?と考えてしまいます。ビジネスとしては、「死ぬまで『マクロス』のグッズを買ってくれ」「新しいものに手を出さないでくれ」、これで丸く収まるので、なおさらです。


そして、グッズになりようがない『地球少女アルジュナ』と『KENjIの春』のコーナーは、やはり立ち止まる人が少ない。
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それでも、びっくりするぐらい丁寧に絵コンテが貼ってありました。ただ、絵コンテや動画用紙は机の上で作業するためのサイズです。展示には向いていません。
【プラモデガタリ】で河森さんがラフスケッチを持ってきた時は、クリアファイルに収めた原画を、会場で拡大して壁に投射したのです。それをお客さんはスマホに撮って、Twitterやインスタグラムにアップロードします。会場に来られない人たちは、河森さんの原画をPCのブラウザかスマホアプリで見るわけです。今、テキストデータですらURLを貼らずに、いきなりスクショで見せる時代です。

そうした刹那的かつ絶対的な変化を決して見逃さず、では美術館に行って油絵を見ることに、本当に意義があるのか正直に考えてみるべきだと思うのです。もし絵を見なくても、美術館に行くこと自体が目的化しているなら、新しい価値を見つけられるはずです。絵を見るのはオマケでいいのかも知れない。実際、アニメ系の展示イベントは限定グッズがメインで、展示物はオマケではないでしょうか。
そんなのはイヤだ、展示物に価値を与えて、目に見えないものを持ち帰ってもらうのだ……と意識したところから、本質的な仕事が始まるのだと思います。「金になれば何だっていい、価値なんてなくてもいい」、これは私に言わせればガキです。
しかし一方、お金を落としてもらって経済を回さないといけない。人をだますことなく、気持ちよくお金を使ってもらって社会を豊かにするにはどうしたらいいのか。そこまで考えている人間は、ごくわずかです。頑張りましょう。


【模型言論プラモデガタリ】第6回 テーマ「スター・ウォーズ/EP 1~3」って、実は面白いんだぜ?(
今月24日(月)夜、開催です。

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2019年5月 6日 (月)

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過酷な物語を抽象化する“童話”としての「機動戦士Vガンダム」【懐かしアニメ回顧録第54回】(
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僕は1999年のガンダム20周年前後にライターデビューしたので、当時整備された宇宙世紀年表の「史実」にもとづいて、モビルスーツの全高設定だの出力だの武装だの、あとはリアルだの富野節だの上っ面だけの決まり文句を叩き売りしてきました。
でも言っちゃ悪いけど、模型雑誌っていまだに同じこと書いてますよね。それか、ロボット戦の部分を無視してドラマだけ語るか、どちらかだと思います。

富野由悠季監督は一作ごとに作品のコンセプトを変えているはずですが、しかし、ほとんど上手くっていません。
玩具を売りたいのであれば、第1話で味方のロボットを出さなければ失格です。ドラマを優先した結果、主役ロボを出せなくなった? それは作劇が下手くそであるか、玩具を売るビジネスをバカにしているからです。まず、そこを冷静に見つめないと、本質的な評価はできないと思います。
それでは、当時のスポンサーがどこで、本当に玩具やプラモデルを売らないと番組が成り立たないのか? ちゃんと確認したことがありますか? 評価する側も「あれは玩具会社の都合で……」と出鱈目なごまかしをしていないか、十分に気をつける必要があります。さもなくば、僕たちの洞察力はアップデートできず、「懐かしい~!」と叫ぶたびに脳細胞がどんどん死んでいくだけです。

「富野さんや安彦さんが間違ったことを言うはずがない」という思い込み、僕には全体主義のように見えてゾッとします。
せめてリアルタイムに『ガンダム』を経験してない世代は、オジサン世代の陶酔ぶりを疑いの目で見てください。懐メロと化した『ガンダム』は、醜悪なだけです。


最近、レンタルで見た映画は『ワイルド・スピード』、『勝手にふるえてろ』、『フルメタル・ジャケット』、『トパーズ』、『引き裂かれたカーテン』、『ベン・ハー』。
誰もが『ワイルド・スピード』がもっとも新しい製作年度なのだから、映画の形式としても新しいと認識しているだろう。レストランでの会話シーンを見てみると、立って歩いているモブたち(顔は切れている)をドリー移動でナメて、画面外から主要人物たちの会話を入れる。そのままドリー移動していくと、人物が座って会話している(顔がフレームに入っている)……と、『カサブランカ』の頃と変わらない演出をしている。
だから、映画の形式なんてそうそう簡単に新しくならないんだって……。被写体が派手ならば映画も派手になるというほど、甘いものではない。

反面、『引き裂かれたカーテン』の中盤、農家でのアクション・シーンの迫力はどうだろう?
Highlight
主人公は西側の諜報部員で、お目付け役の男に正体を見破られてしまう。主人公は男に首を絞められ、農家の女は包丁で男の胸を刺し、さらにスコップで足を殴打し、ついにはオーブンの中に頭を突っ込ませて殺す。
短いショットを激しくカットバックさせ、じりじりと男はオーブンに近づいていく。ついに頭をオーブンに突っ込まれた男は絶命するわけだが、死ぬまでが長い。しかも真上から撮っているので、顔は見えずに男の痙攣した手だけがずーっと、ヒクヒク動いている。じれったい。
そして、男が動かなくなると、今度は首を絞められていた主人公と男を引きずっていた女が、ゼイゼイと息を荒くして、その場にへたりこんでいる。何十というカットを短くカットバックさせたあとの、長い長いロングショット。フッテージだけ見ると、確かに古臭い。特殊メイクはチャチだし、撮影も綺麗ではない。
でも、映画は被写体で決まるわけではない。どう撮って、どう繋ぐか。それだけが、映画を支配するんだよ。


でも、ヒッチコックはまだ分かりやすい方であって、ハリウッドが超大作ばかり連発していた50年代後期の『ベン・ハー』は、さすがに間伸びした構図なんじゃない?と油断していると、これがまた引き込まれる。壮大な英雄譚で、『スター・ウォーズ』EP1~3は、これがやりたかったんだな。
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たとえば上のカット。ガレー船で奴隷として酷使されるベン・ハーは、戦争で船が破壊された隙に脱出し、ついでに艦隊の司令官を助ける。助けるというか、復讐の意味で殺さず、生き恥をさらさせるわけだ。
ところが、友軍の船に拾われた司令官は自分に差し出された水を飲まず、奴隷であるベン・ハーに先に渡す。これだけの演技で、彼の心のうちが分かるよね。
ベン・ハーは水を飲み、器を司令官に戻す。すると、司令官は同じ器から水を飲むわけだ。ひとつの器から、奴隷と司令官が水を分け合う。もう、ほんのこれだけで2人の関係が激変したことが分かる。こんなシンプルで雄弁なカット、なかなかお目にかかれない。

だけど、ここまで平板な構図でいいの? カッティングの工夫もないのに、どうして俺はこんなに感動してるんだろう? その理由を考えつづけようとすると、図書館に行って映画の専門書を漁ることになる。だって、ネットには「泣いた」と「ネタバレ」しか書いてないもん。

(C)Universal Pictures
(C) 1959 - Warner Bros. All rights reserved.

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2019年5月 3日 (金)

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モデルグラフィックス2019年6月号
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●組まず語り症候群 第78夜
今月は編集部からの持ち込みで、イタレリ製の1/24トラック・アクセサリーセットです。

異色作「ベターマン」の生まれた時代と環境を、米たにヨシトモ監督が振り返る【アニメ業界ウォッチング第53回】
『ガオガイガー』をリアルタイムで観ていたので、米たに監督がオリジナル企画を撮ると聞いたときは、本当にドキドキしました。だけど、この記事はパプリシティですからね。僕が残したいと思っていた部分は、土壇場で切られてしまいました。

プラモデルやフィギュア製品を「撮影する仕事」とは――? ベテランのホビー専門カメラマン、高瀬ゆうじさんの目撃した昭和~平成のホビー業界【ホビー業界インサイド第46回】
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バンダイ近辺を取材中、ごく普通に耳に入ってきたのが、キャラクター製品専門の高瀬カメラマンのお名前でした。私も、中高校生のころには、誌面でお名前を覚えていました。思わぬ話が聞けたし、記事の反響もあり、満足しています。
予定どおりの話を聞くってのは僕の仕事じゃないし、そうならないように気をつけてるつもりです。ホビー(フィギュアやプラモデル)は、文字パートが非常に弱いですから。


コミティアで発売される同人誌『MANGAの自由』()で、インタビューを受けました。
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GMOメディアが、個人の制作した美少女フィギュアのブログを「児童ポルノ」と呼んで切り捨てたとき、抗議のために署名を集めましたので、それに始まる活動いくつかについて取材されました。最後に抗議活動をしたのは、テレビで児童ポルノ所持容疑の男性の私物として、市販のキャラクター・フィギュアが映されたとき。2016年3月、愛宕警察署まで抗議に行きました。
だけど、その後も美少女フィギュアって酷い目に遭わされています。最近では、フィギュアの首をすげかえてオークションで販売しただけで逮捕されましたよね。著作権法違反の容疑だけそうだけど、版権元からの通報ではなくて、警察の独自判断でした。そして、またしても水着姿の美少女フィギュアが「犯罪」を強調するためにテレビに映されました。

さすがに、ネットで「おかしいのではないか?」という声は高まってきました。
だけど、フィギュアメーカーや模型会社は「我関せず」の立場を貫いています。もし、フィギュアではなく漫画だったら、作家や出版社団体が抗議声明を出すと思います。ホビー業界って、そういう動きが一切ないんです。「社会性がない」と思われても、仕方がないでしょう。文化として未熟だから、警察のいいカモになっているのではないでしょうか。
メーカーさんは弁護士と相談して「黙っていても不利益はない」「余計なことを言うと危険だ」と、判断したのかも知れません。でも、そういう問題じゃないと思います。特に、個人が犯罪者のように排除されているのに、組織に属していながら沈黙しているのは、ちっともカッコよくないです。恥ずかしいです。「児童ポルノ」という、まやかしの言葉の圧力に、まんまと屈しているから。

だけど、酒の席とかでは「廣田さん、ああいう活動してて大丈夫なんですかねえ」なんて説教されるわけ。普段、フィギュアを商売にしている人から。もちろん、全員がそういう卑怯者ばかりじゃありませんけど、組織の中から個人に文句を言うのは楽でしょうよ。どんな立派な製品をつくっていても、どんなに素晴らしい技術やセンスを持っていようとも、心の底で僕は軽蔑してしまう。
だって、酔って僕の活動を批判するのは、「あの時、自分は何もしなかった」って恥じてるからでしょ? 「何もしない」「言わない」のは、頭がよさそうに見えます。でも、「何もしなかった」ことで責任を逃れられるかというと、世の中そんなに甘くはないですよね。皆さん、ご存知のはずだ。   


NHKになぜスクランブル放送をしないのか質問したら逆切れされた3-1
先日の選挙以来、「NHKから国民を守る党」の動きは、とてもスリリングです。上にリンクした電話のやりとりを聞いたら、受信料なんて払う気は消し飛びます。
なぜNHKがスマホやPC所有者からも受信料をとろうと息巻いてられるのかっていうと、不義理やウソや誤魔化しに誰も対峙してこなかった、それだけの話です。「何もしないのが、かえってカッコいい」「ここは黙ってやりすごすのが賢い」と、僕らは義務教育のころから組織への盲従を叩き込まれてきたんじゃないだろうか。牙を抜かれつづけてきた。でも、牙を抜かれたまま人生を終えるのは、どう言い繕っても負けだと思う。負けは負け、勝ちに転じることはない。

NHKのように有名タレントをいっぱい出演させている組織が、そんな詐欺みたいなことを働くわけがない?
その、「有名人が出てるから」「でかい組織だから」間違うはずがないって考えが、すでに「組織への盲従」そのものなんだよ。身も心も差し出せなんて、組織は絶対に言わない。彼らは僕たちに、「とにかく黙っていてくれ」と願っている――。それを忘れないでほしい。

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2019年4月14日 (日)

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宇宙世紀的な設定やスペックに頼らない、明快な“ロボット活劇”としての「∀ガンダム」【懐かしアニメ回顧録第53回】

模型雑誌を見ていても「ガンダムの特集」となると、いきなりモビルスーツの形式番号や生産拠点、開発経緯の話になってしまうんですね。『∀ガンダム』は、宇宙世紀のタコツボから縁を切った作品であり、では代わりに何を見せ場にするの?と言ったら、このコラムで解説したような「作画枚数に頼らず、リピートや止め絵をカメラワークを主体に見せる」効率的な戦闘シーンだったのかも知れません。
放送当時、僕はまさしく「コレン、ガンダムと叫ぶ」から『∀』にハマったのですが、その理由は、敵・味方のロボ戦をオーソドックスに見せてくれたからじゃないのか?と思うのです。

ようするに「バカにも分かるように、明快にロボットの戦いを見せられる」、それだけが宇宙世紀モノで当時展開していた『第08MS小隊』、前年にOVAを再編集した映画まで公開された人気作『ガンダムW』にはない、『∀』だけの武器だったのです。でも、棍棒みたいな原始的な武器だったと思います。
その後、キャラクター・ビジネスとしてガンダムを返り咲かせたのは『ガンダムSEED』であり、『ガンダムUC』であったことは言うまでもありません。


上記のコラム記事からは、意図的に「ディアナ・カウンター」という名詞を省きました。ムーンレィスの中に、さらにディアナ・カウンターがある。分かりづらい。地球連邦軍の中にティターンズがあって、エゥーゴもあって、同じロボットを使っている。「ベスパのイエロージャケット」が敵組織の名前かと思ったら、ザンスカール帝国でしょ? この組織の入れ子構造、富野由悠季監督の悪い癖です。その悪い癖を「トミノらしい味わい」と感じてしまう僕たちも、本気で頭を冷やすべき頃合いではないでしょうか。

シド・ミードさんに(まったく新しいアニメ企画ではなく)ガンダムをデザインさせてしまったことにも、疑問があります。
プラモデル化するにはセールスポイントに乏しいし、手描き作画にも向いていない。最後に蝶の羽を生やすのであれば、安田朗さんの柔らかいキャラクターに肌合いのマッチした、シンプルなロボットにすべきだったと、今でも思っています。
小林亜星、西城秀樹、谷村新司……この主題歌チームも、どの世代に訴求力があったのか、僕にはサッパリです。どうも、ビックリさせる方向がバラバラで、商業作品としてのルックスが整わないまま、作品の文学性ばかり評価されてきたのが『∀』の不運ではないだろうか?
そこで今回は、ロボット(モビルスーツという造語もこの作品では上手く機能していない)の戦闘シーンだけに視点を絞って、コラムを書いてみたのです。


現時点の感想を言うと、『∀ガンダム』は誉められすぎで、僕も持ち上げすぎてきたと思っています。
Twitterでは「いいっすよね!」「僕も大好きです!」「懐かしいです!」「泣きました!」で、それ以上に話が進まない。「好きなものを批評する」ことに、僕らは慣れていない。ガンダム・ビジネスにはさほど貢献していない『∀』を「大好き」と言う自分に、酔ってしまっていないか、ちょっと点検してみた方が良さそうです。なぜパーフェクト・グレードで∀が出ないのか? ミードさんのデザインしたターンXやバンディットだけ、まったくの別ブランド、最高級の特別仕様でプラモデルを出せないのか? あちこちに突破口はあったのに突破できなかったのは、何故なのか? 

――こういうこと書くと、「バンダイや富野さんやガンダムの悪口を書いている廣田には、もう仕事を回すな」って言われかねない。そういう幼稚な力関係によって、また輪が閉じてしまうんですよ。課題を抱えた作品が「文句なしの傑作」なんて薄っぺらいレッテルを貼られて、僕らは考えるチャンスを奪われていく。「大好きです」「懐かしいです」と連呼するだけのバカになっていく。富野監督がそんな状況を望んでるんですかね? 僕らにはもっと考える力があり、その力は富野さんが与えてくれたんじゃなかったんですか?


ある仕事で、どうしても『仮面ライダージオウ』を見なくてはならなくなって、その尖ったセンスに腰を抜かしたんです。

「今の小学生って、こんな『マトリックス』を極彩色に染めたようなカッとんだ映像を毎週見てるの?」って。デザインだけではなく、CGや音響(声優の使い方も素晴らしい)も含めた変身シーンが、もうデジタル歌舞伎って感じ。『アベンジャーズ』が、クラシック映画に見えてしまう。
『ジオウ』の変身パターンを一気に見て、「これって『Gのレコンギスタ』のG-セルフ七変化でやれないのかな?」って、ちょっと空しいことを考えてしまって。今からでも、富野さんに進言したら?とさえ思いました。アニメのロボットが特撮ヒーローに勝つには、どうしたらいいんだろう?

あと、東映ヒーローって俳優たちの写真やインタビューを集めたムックまで出てるじゃないですか。お父さん・お母さんは、俳優たちにメロメロなわけで、全方位コンテンツですよね。これがキャラクター・ビジネスの最前線か! そうすると、声優をアイドル化して舞台にあげちゃった方が、ビジネスとしては正しいよね……と、得心がいく。「好き」と「正しい」は別なんですよ。少なくとも僕は、自分の「好き」を疑ってもいい歳です。そして、「好き」の逆は「嫌い」ではありません。もっと上の次元があるんですよ。

(C)2018 石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映

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2019年4月 4日 (木)

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“水中ニーソ”でお馴染みの古賀学が歩んできた「平面でないと成り立たない模型」の最新形【ホビー業界インサイド第45回】
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古賀学さんからは、メッセンジャーでいろいろとお話を聞かせていただいていて、この日が初対面でした。数日後に僕のイベント【模型言論プラモデガタリ】に登壇していただいたにも関わらず、まったく発言の機会を与えられず、あまりに申し訳なくて、まだ謝罪にいたっていません。

だけど、この日の取材はエキサイティングでした。
アーティストを名乗る方にインタビューしたのは初めてでしたが、アーティストの発言に価値があるとしたら、僕らのような俗世に生きる人間に新しい視点を与えてくれることでしょう。古賀さんの発言は、たとえば映画を見るときに活用できます。模型、プラモデルについて考えるときも役立ててほしいと思っています。
今回、「ホビー業界インサイド」のコーナーに出ていただきましたが、「超絶テクニックをもったスーパーモデラーの話でないと、模型趣味の役に立たない」と考えている人が大多数だと思います。模型雑誌の根底にも、そうしたロジックが働いています。しかし、そんな平面的な思考では、十年もたたずに袋小路に陥るでしょう。古賀さんのように、模型の構造を念頭において、なおかつ即物的にプラモデルを組み立てるのではない、別のフィールドで別のやり方で実践している人から学ばずして、どんな未来があるというのでしょう?


富野由悠季監督は、たびたび「超一流のものを見ておけ」と発言なさってきました。それは、超一流のアニメを見ておけって意味ではありません。美術品、工芸品の凄く高価なもの、別ジャンルで最高レベルの価値を与えられるものを見ておかないと、程度の低い仕事をすることになるぞって意味です。
それが怖いから、僕は海外へ行ったら、なるべく美術館を見るようにしています。すると、古賀さんのおっしゃるように「作品の横に書いてあるのは題名、制作年、材料」だけかもなあ、と気がつけます。権威のあるものを、批判的に見ることも必要です。
あるいは、アニメ関係の美術展はどうでしょう? 「しょせんアニメなんだから、こんな程度で十分だろ? みんな限定グッズが欲しいだけだろ?」って態度が透けて見える場合が多いように思います。それを見抜いて「もっとレベルの高い次元に引っ張り上げてやろう」と思えるようになるためには、やっぱり「超一流のものを見ておく」、それ以外の方法はないように、今の僕には思えます。

あるいは模型の展示だとか、模型雑誌の見せ方はどうでしょう? 「プラモデルはアートじゃない、(しょせん)趣味だから」と言い訳していては、他の趣味に負けてしまうのではないでしょうか。「楽しめればいい」「人それぞれ」「作る喜びを」……僕には、すべて空しく聞こえます。そういう空疎で耳障りのいい言葉の裏に、「塗装や工作の上手な人が一番偉い」という厳格なテクニカル・カーストが存在していることを、みんな知っているはずだからです。
嘘偽りなく「人それぞれ」の状態をつくるのは、生半可ではありません。多様性多様性といいながらトランス・ジェンダーが放逐され、欧米は人権意識が高いと心酔しながら彼らがアジア人蔑視のCMをつくっている状況を見れば、明らかなことですね。


でも、プラモデルは(望ましい形ではないにしても)メディアに露出する機会も増えてきましたし、業界の外に目を転じれば、チャンスは山ほど転がっています。
僕は「下手」の世界で苦しんできた人間なので、「上手い/下手」で格差が生まれる世界とは距離を置きたいです(上手い人はリスペクトしますし、喧嘩をしたいわけではないので)。「下手」の立場から、状況を良くしていきたいのです。6月にプラモデルの本が出ますが、「私は下手だ」というコンプレックスそのものを無効化するような内容になります。

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2019年3月25日 (月)

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月刊モデルグラフィックス 2019年5月号
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●組まず語り症候群 第77夜
今月は、タミヤのシルバーメッキ特別仕様のランチアストラトスターボです。
あと、『ひそねとまそたん』のVF-1バルキリー仕様は、僕が『ひそまそ』担当として呼ばれたとき、真っ先に提案したものです。当初は各社からのプラモデル発売直前にバルキリー仕様のまそたんを掲載して、プラモの作例をもって華々しく連載を終えるよう計画していました。ところが、プラモデルの発売が未定になってしまったので、僕は「バルキリーまそたんは作るの大変だし、もういいんじゃない?」と言っていました。今月、しっかり掲載されています。

●「絵」を「現実」と誤認させる「東のエデン」の入れ子構造【懐かしアニメ回顧録第52回】
『東のエデン』を見て、「どうしてアニメーションの中の写真やモニターなどの“絵”が“現実”として認識されるのだろう?」などと考えるのは、一万人にひとりぐらいでしょう。だけど、僕はその「気づいてしまった少数派」のために書くんです。「このセリフに感動した!」「このキャラが好きだ!」って話は、他に書く人がいっぱいいる。あと、現場にインタビューしたとしても「特殊な処理を施した」ぐらいの答えしか返ってこないと思います。
ということは、作品を観る側が勉強して、好奇心をもって、主体的に、自分勝手でも何でもいいから解釈していくしかない。主体性のある人は少ないですから、「俺の自己解釈」を書ける人は、それだけで有利です。こうして、毎月お金になっています。「勝手なこと書きやがって」って人は一円も稼げてないわけですから、言わせておけばいいんです。


昨夜は【模型言論プラモデガタリ】第3回、平成ガメラシリーズ完結20周年をフィギュアで祝う会でした。
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なんと、楽屋に撮影監督の高間賢治さんが現れたので、金子修介監督、螢雪次朗さん、栩野幸知さんと並んでいただいて記念撮影です。
高間さんの著書「撮影監督って何だ?」は、「マスターズオブライト」と並ぶ学生時代の必読書……というより、大学を出て同級生との間で話題になっていました。僕は日芸を出て、映画監督にもプロデューサーにもなれずに挫折したけど、それ以外に漫画家になりたくて挫折、ガレージキット原型師としても食っていけず……など数々の挫折経験を、フリーライターという曖昧な職業が、ひとつ残らず吸収してくれています。何ひとつ恨みや妬みにならず、創ることの大変さを知っているから、クリエイターさんに対しては無限のリスペクトを抱けます。

今回のイベントでは、80年代邦画の話をしましたけど、それだって、僕の挫折が生んだ強みのひとつですね。ATGやロッポニカやアルゴ・ピクチャーズの話が出来て、プラモやアニメの話と両立させられる人は、少なくとも職業の中でやってる人はいないですよね。
トークの中でも「若松プロ」なんて言葉がふつうに交わされるので、客席に「こういうレベルの会話で大丈夫ですか?」と聞いてしまったぐらい(笑)。ひょっとしたら、「80年代邦画」って、えらい金脈なのかも知れない。人口ピラミッドを見ても、客層は厚いと思うし、関係者も存命中だし。
(来場者の感想を聞いても、前半の80年代映画パートが面白かったそうだし……)


それとは別に、イベントの主催としては非常に苦しかったです。古賀学さんには飲み放題ということで許していただいたけど、他の出演者へのギャラを合わせると、数万円の支出になってしまいます。プラモデガタリで廣田が小銭を稼いでるぞ……と思われたとしたら、それは逆です。

秋山徹郎さんが株式会社MICの社員として毎回参加してますけど、MICがスポンサーになっているわけではないです。資料のスキャンをお願いしている程度。僕が各方面に交渉して、個人主催だから版権元にも大目に見てほしいとお願いしたり……そして、今回のように来場者が少なくて赤字になった場合は、貯金を切り崩すしかない。サラリーマンのように、会社のお金で……ってわけにはいかないです。

次回()は河森正治さんにダメモトでお願いしたら出演OKだったので、サンライズさんにも話を通して、それほど心配するほどでもない。
だけど、5月以降は不透明です。4社……というか、4人の方に一度は断られています。そんな状況で無理に進めて、傷口が広がらないのか? そもそも自分が楽しいのかどうか。何しろ仕事ではないので、「もういいや」って辞めちゃってもいいのです。「やるからには毎月やらないと意味がない」と言ってくれたのが、秋山さんなんです。だけど、人が集まらない、今回より少ないかも知れない……と分かりきっている状況で、自分は楽しくなるんだろうか? 自分が楽しくないのに「楽しいイベントですよ」と、人を集めるわけにはいかない。
ここで正直さを失ったら、すべてが崩れてしまうのです。木曜日に取材を請けるので、それまでに原稿を書きながら各方面に連絡して、結論を出さないとなあ……。

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