2019年11月16日 (土)

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EX大衆 2019年12月号 発売中
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●“いま考えるべき『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ”
秋葉原の大規模ダンスオフに参加した経験のある御坂しのぐさんのインタビューを含む、作品のディテール分析からオタクの社会的自認などに言及した3ページ記事です。

『ハルヒ』は、放送当時は人に薦められて(「アニメージュオリジナル」周辺では話題にのぼりがちだった)、数話見た程度。今回、第二期分を頭から見て、その批評性に魅了されてしまった。ただ、この記事は作品に対する評価だけでなく、初放送の2006年ごろの岡田斗司夫さんの発言、1981年の「アニメ新世紀宣言」にまで遡り、オタクがいかにして公的な場で自己主張を行ったのかをレポートしています。


時間が出来たので、恵比寿の東京都写真美術館へ。「イメージの洞窟. 意識の源を探る」展。
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800円ならこんなものなのかも知れないが、40分ぐらいで見終わってしまう。地下の「写真新世紀2019」は無料なので、これもついでに見て回る。
「イメージの洞窟」展は、文字通りの洞窟の写真からスタートするのだが、部屋の真ん中にプリントした紙でかこった物理的な洞窟が出来ている。その幕の内側に入ると、画の濃淡で光を通したり通さなかったり、外からでは感知できない情報に触れられる。
それが“展示"なのだと思う。先日の「富野由悠季の世界」が、いかに四角四面で面白くなかったか、ここに答えがある。写真はプリントするかモニターに映すしかないわけだが、それで終わりではない。壁にどう配置するか、壁をどう捉えるか、そこから新しい表現が始まるのだ。


「俺のBakery&Cafe 恵比寿」で玉子サンドを食べてから、秋らしい日差しで彩られた恵比寿を、東から西にかけて歩く。
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うっかりビールなど飲まないほうが、むしろ贅沢に思える。平日昼間をこうして好きなように過ごせるのだから、いい仕事をやれている。これだけ好きに過ごして貯金もあれば、半年後の予定も決まっているのだから。

恵比寿にはモンスタージャパンやミスタークラフトがあったので、高校時代から30代まで、よく足を運んだ。三鷹から恵比寿までは、山手線に乗り換えないと来られないので、ちょっとだけ不安になる。その不安感が、おそらく心地よかった。
ガーデンプレイスでは、クリスマスの飾りつけが進んでいた。


SNSをやっていると、たまに面食らうことがある。年齢が上というだけで説教モードになる人は、まだ分かりやすい。
面倒な相手は、元○○。僕に対してだったら、元ライターなので、実はあなたより身分は上なのだと明かしてくる人。どうして今、そんな凄い貴方がライターで食えてないのか、そこを聞きたい。ほぼ間違いなく、その本人が問題を起こして業界にいられなくなったか、営業努力を怠って仕事が減っていったか、どちらかだ。そしてほぼ間違いなく、本人は周囲のせいにする。
同じぐらい面倒なのは、名前を隠しているが実は○○。名前は違うけど、あなたと同じぐらい凄いライターで、あなたより稼いでいるのだ、どうだ驚いたかという人。一応、「すごいですね!」「負けました!」と挨拶することにしている。ぜんぶ嘘なので、ハナっから相手にしないこと。

その「嘘」というのは、だって証明のしようがないよね、そんな適当なHNでは?という意味。
HNならHN、ペンネームならペンネームで統一されていれば、そこに信頼が生まれる。僕が実名でしか書かないのは、常にリスクを背負っていたいからだ。リスクを冒さねば、信頼は得られない。「匿名で身分は明かせません、でも実は凄いんです、偉いんです」、そんなぬるま湯から相手を信用させたがる、その甘っちょろさを、僕は警戒するし馬鹿にもする。
「自分の現在やっている仕事はコレです!」と堂々と振舞える相手とだけ、仕事をしたい。


最近見た映画は、ドイツ映画『善き人のためのソナタ』。最初から最後まで食い入るように見たが、万人向けの映画だろう。

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2019年10月30日 (水)

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モデルグラフィックス 2019年 12 月号 発売中
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今月の組まず語りは、クラウンモデルの「バリエーションロボ ハリアー」です。
僕の記事は、「色すら塗らないなんて手抜きなんですか?」とよく怒られるけど、そういう方はビッシリと塗った作例がページを埋めているのが模型雑誌……という固定観念があるのでしょう。


一昨日に見て、翌朝に見直したレオス・カラックス監督の『ボーイ・ミーツ・ガール』。レンタル店で、借りてきた。
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上の2枚の写真を見てほしいが、主人公役のドニ・ラヴァン、相手役のミレーヌ・ペリエ、お互いが出会うまで別々にストーリーが進行するのに、同じチェック柄の服を着ている。主人公は冒頭で恋人に逃げられ、書き溜めてあった詩や絵を捨てられてしまうが、そのゴミの中にも同じチェック柄のスカーフが入っていて「彼女(恋人)の好きだった色だ! あの女、何もかも持っていきやがって!」と激昂する。そのスカーフは、悲劇的なラストで、主人公が覆面のように顔にまく……と、その演出は難解すぎて意図が分からないのだが、「やがて出会う2人が、同じ柄の服を着ている」、そのような観念的な世界なのだと、かなり早い段階で理解できる。
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つまり、「2人は同じ店で同じブランドの服を買ったのではないか」などという日常的リアリズムでは、この映画は理解できない。『男はつらいよ』だったら、そのようなエクスキューズが必要だろう。マーベル映画でも、同じ服を着た人物が別々に出てきたら、何らかの説明が必要だ。しかし、映画の種類は、ひとつではない。
「やがて2人は出会う」「同じものを心に抱えている」、そうした文学レベルの「事実」を伝えるには、「同じ柄の服を着ている」視覚情報で伝えるしかない。少なくとも、それがこの映画の構造である。


他にも、抽象的な演出が散見される。
主人公はあるパーティに潜入し(その潜入にいたる段取りが、また入り組んでいるのだが)、ミレーヌ・ペリエ演じる彼女と出会う。
その前に、かつての恋人の新しい彼氏に電話をかける。「電話はどこですか?」と女主人に聞くと、通された部屋は託児室で、赤ん坊がいっぱい泣いている。その部屋を、うんと引いた絵で撮っている。その部屋で彼は元恋人とその彼氏に別れを告げ、ミレーヌ・ペリエ演じる憧れの相手の電話番号を手に入れる。赤ん坊がいっぱい泣いている部屋は、いわば主人公の心の中と解釈することも出来る。

もっと分かりやすいシーンが、後に出てくる。
主人公は憧れの彼女と台所で出会う。彼女の気を引くため、主人公は詩を口にする。すると、横に置いてあったケトルの湯が沸いて、シューッと大きな音を立てる。言うまでもない、彼女と出会えて高揚した主人公の感情を表現するには、湯の沸騰した音を入れるのが何より効果的だろう。
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さて、2人は台所に並んで腰かけて話しはじめるのだが、主人公はまだチェック柄のジャケットを着ており、元恋人の置いていった同じ柄のスカーフを取り出したりする。ところが、ミレーヌ・ペリエはもうチェック柄のズボンは履いていない。やがて、主人公もジャケットを脱ぐ。
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暑いから脱いだのだろうか? この映画の、この場面では「暑いから」ではない。出会うべき2人が出会ったので、新しい関係へ進んだ。そう解釈をせざるを得ない観念性が、この映画では視覚として露呈している。
『市民ケーン』、あるいは黒澤明なら、こういう演出をやる。『ボーイ・ミーツ・ガール』は日常的なリアリズムに縛られた映画ではないけど、やや古典的な側面もある。


ところで、いささかショックではあったのだが、僕が10年前にこのブログで何を書いていたか、どう思っていたか、今ごろ調べて言質をとろうとしている人がいる。僕が過去に何を考えていたか、いちいち気にしている人が、このブログの読者に3人もいる。Twitterと違って、ブログにはブロック機能がないので、防ぎようがない。

確かに僕は過去のブログを残してはいるけど、単純に消すのが面倒なんだよ。それに僕は、昨日よりは今日、今日よりは明日をよりマシな自分として生きるよう努力している。他人の考えがどうなのか、なんて気にしつづけて停滞しているあなたとは違うよ。僕の10年前なんて、いまの僕より愚かに決まってるじゃん。その愚かな僕の発言を検索して調べるなんて時間の無駄だし、そんなことに労力を割いているあなたの人生は失敗作だと思う。

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2019年10月27日 (日)

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片渕須直監督の「マイマイ新子と千年の魔法」を救った小さな映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」の支配人が10年前を振り返る【アニメ業界ウォッチング第59回】
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10年前、『マイマイ新子と千年の魔法』の上映回数が次々と減らされていく中、社会人でも見やすい夜の時間帯を設定し、映画にマッチした上映形態を模索してくれたラピュタ阿佐ヶ谷さん。石井紫支配人に、初めてインタビューしました。
石井さんが、クールといってもいいぐらい冷静に事態を見ていたことが分かり、かえってホッとしました。こういう落ち着いた視点があってこそ、『マイマイ新子』は延命されたのでしょう。
岩瀬智彦プロデューサーにも10年目にして初めてインタビューしましたが()、こういう、作品を素直に愛している作り手たちが、美談とは言い切れない苦い気持ちを我慢しながら、火を消すまいと努めてくださったのだと思います。

『この世界の片隅に』がヒットした時、名前の通った映画関係者の方が「『マイマイ新子』ってあんな傑作なのに、公開当時はどうしてヒットしなかったんですか?」なんて言っていたけど、「あなたこそ当時、どこで何してたの?」と思います(業界の中にいて、もし当時のことを知っていたら、ネットで広めるぐらいのことは出来たはず)。
他人の残した結果だけを受け取っておいて、「まあ、俺も当然、評価してはいたけどね、言わなかっただけで」的に後だしジャンケンするのは、非常にみっともない。
「すみません、公開当時は『マイマイ新子』の存在すら知らなくて」と言う人のほうが、むしろ有り難いです。当時の状況を正直に語ってもらった方が、後の人が歴史を知る手がかりになりますよね。粉飾して見栄をはるような人には、人知れず消えていく映画は救えないと思います。


コッポラ監督がマーベル批判のスコセッシ監督を擁護「嫌悪すべき」

このニュースを受けて、マーベル映画のファンが「コッポラなんて二流」とツイートしていて、ずいぶんと叩かれた。
その人が他人とやりとりしているツイートを読んでいたら、コッポラの映画は見るには見たけど、「面白くなかった」のだという。面白くないから、価値がない……まあ、一般の映画ファンなら、それで十分だろう。けど、映画評論家ですら、メディアでは「面白かった」「泣けた」レベルだよね?
自分が見てつまらなくても、その作品には価値がある。その価値を言い当てようとすると、他者の評価軸を受け入れざるを得なくなる。すると古今東西の本を読んで、多面的なものの見方を追求することになる。ぼんやりと目の前に飛び込んできた映画だけ見ていても、価値観は磨かれない。大ヒット作か、最新の映画にしか興味が向かわないようなら、かなり深刻な事態。僕も、うっかりしているとそうなってしまう。

「自分の快・不快以外の価値はどうでもいい」という人は、老いるのが早いと思う。萌えキャラがポスターに使われるたび、Twitterに愚痴レベルの批判を書いている人も、自分の快・不快だけで生きている。「泣いた」ことの気持ちよさを持って映画の価値に代えようとする態度も、僕からすれば同レベルだ。
それと、映画って時間芸術だから、またたく間に目の前を過ぎ去っていってしまう。僕は最近、30代までに見た映画をレンタルしてきて、50代の視点から見直そうと試みている。若い頃は経験不足で知識の裏づけがないから、浅い部分で理解しようとしていたんだと恥ずかしくなる。だから、一度見た映画の評価を、やすやすと決めないこと。100点評価で何点なんて書いてしまうと、そこで評価がフリーズして思考も凍結するから、本当にやめた方がいい。
でも、たいていの人は自分の価値意識が変化して、映画への評価がそのつど変わることの流動性に耐えられないわけ。そして、自分固有の、今日ただいまの価値意識を表明することは孤独なんだよね。俺は、その孤独によって得られる何かがあると信じている。自分の価値意識をバージョンアップするには、今日の恥に耐えるしかない。


最近見た映画は、レンタルでハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』。
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『ゼイリブ』は、初めて見た。主人公が非常にアクティブに動いて、自発的に宇宙人(かどうかも分からないうちに)をバンバン撃ち殺しはじめる。でも、見ている側は彼に「頑張ってもらいたい」と思う。少なくとも、彼がピンチになると「ここで死ぬなよ、生きのびろよ」程度には感情移入していると思う。
なぜなら、この流れ者の主人公は、最初の30分ぐらい、ひたすら町で起きている異常な事態を「見るだけ」だから。どんな映画でも事態に関与せずに「見るだけ」のキャラクターは、椅子に座って動かずに「映画を見ているだけ」の観客と同化する。『ダイ・ハード』の暴力的な主人公に感情移入できるのは、彼が人質が殺されるのを「見ていることしか出来ない」シーンがあったからだろう。

『ゼイリブ』に説明なく登場する重要な小道具は、サングラス。主人公がひたすら「見る」ことでしか、観客は事態を把握できない(なにしろ、彼の主観映像でしかドクロのような宇宙人を見る手段はないのだから)。第三者視点にカメラを置くと、そこには宇宙人は映っていないのだ。
この関係、この構造こそが『ゼイリブ』を独特の、他に類を見ない個性的な映画にしているのではないだろうか。その強い個性さえ認めることが出来れば、他の無理やりな展開など気にはならない。

(C)1988 StudioCanal. All Rights Reserved.

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2019年10月13日 (日)

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アオシマが「未来少年コナン」のプラモデル化で模索した「アニメ」から「模型」への最適解【ホビー業界インサイド第52回】(
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「ホビージャパンヴィンテージ」で取材させていただいた青島文化教材社さん。『イデオン』の取材中にふと気がついたのは、アニメの表現が違えば、プラモデル化の商品コンセプトも作品ごとに違っていて当然ではないか、ということ。もちろん企画者や時代による技術の変遷もあるだろうけど、『コナン』は作画のシンプルさに対して、実在する「機械の模型」として強烈なアプローチがなされていることが明らかになったと思います。
もしバンダイが作っていたら、ガンプラと区別のつかないものになっていただろうし、それが良いのか悪いのか、僕らはもっと考えてもいいんじゃないかと思います。


最近レンタルしてきた観た映画は、メリル・ストリープ主演の『幸せをつかむ歌』、ハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』。
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メリル・ストリープは年齢以上に、性格の破綻したアマチュア・ロック・ミュージシャンという役どころがイメージをぶっ壊していてナイスだった。日本語吹き替えの一柳みるさんも、捨て身の演技だったと思う。

ネット配信が盛んになって、一週間以内に物理的に返却しなきゃいけないレンタルDVDは衰退しつつあるけど、ネット配信は「つまらないから、また次に見よう」と、安易にやめてしまうことが出来る。強制力がないので、作品一本の価値が軽いんだよね。
映画館で観ることの価値はスクリーンの大きさや音響の良さなどより、始める時間も終わる時間も映画館が決める(観客がコントロール下に置かれる)、そこから生じる緊張感なんだと思う。


関東にひさびさに巨大な台風が来て、「こんな時に、そうまでして目立ちたいか?」という人たちが、Twitterでは散見された。危険な場所に行って動画を撮ってくる人は分かりやすいほうで、「災害に備えてコレとコレは絶対に準備してください」「まだまだ油断は禁物ですよ」「今度はこういう危険が出てきますから、皆さん、気をつけてください」と命令したがる人は、僕はけっこう怖い。
たとえ「私は○○の専門家なのですが」と前置きしていても、不特定他者に対する支配欲がむき出しになっていて、恐怖を感じる。

そんな中、NHKから国民を守る党の三鷹市担当とされる山本たかひらさん(同党の議員ではない)が、昨年の大阪の台風の動画をあたかも現在の江戸川区かのようにツイートして、大炎上してしまった。アンチN国が、一晩で優勢になった。
僕は山本さんに投票したし、彼が政敵を批判する時に「(違法薬物をやっているかも知れないから)尿検査をすべき」とツイートしていたので、DMでクレームをつけたこともあった。僕のイベントに招待したことさえあった(多忙とのことで来てくれなかったが)。地元民なりに愛着を感じていたので、彼が結果的にデマを広めたことに少しは責任を感じている。

最初は憤りしかなかったのだが、「山本さんは学習障害なのではないか」という書き込みを見て、ハッとした。過去の動画を見ると、確かに彼は、論理的な話が出来ない。参ったなあ……。デマを広めた責任はとってもらいたいが、どこからどう話をすればいいのか……。


埼玉補選での立花孝志さんの手際は見事だし、しっかりと大義名分も用意してあるのだが、それを理解して評価できるのは、同じぐらい頭のいいエリートだけで、一般の有権者には伝わっていないと思う。
立花さんの頭のよさは「インテリ」って意味ではなく、「パチンコ必勝法」的な、処世術としての実用的賢さだから、お上品な左翼系知識人には嫌われるだろう。
一方、自分でモノを考えられない底辺(って言い方はよくないとは思うのだが)の人たちって、思ったよりも数が多い。ネットでよく「○○で草」「○○はバカ、キチガイ」としか書けない人がいる。2ちゃん全盛期から、定番のスラングしか発せない人たちっていたよね? そういう人って、荒しにでもなるしか居場所がない。でも、彼らも有権者なんだよね。そして、自分でモノを考えられない、自分の意見も何もない(だから騙されやすいし、反○○って単純な考えに流されやすい)人たちが、世の中の七割ぐらいじゃないかと、僕は踏んでいる。だから、投票率が低いんだよ。

自分でモノを考えられなくて、人の意見に対して「違う」「そうは思わない」程度しか言えない人たちは弱者であろうから、責められない。でも、N国党はそういう「多数派」によって勢いを削がれつつある、と感じている。

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2019年9月28日 (土)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.2 30日発売
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今年2月の月刊モデルグラフィックス誌の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は60ページほどの特集でしたが、作例が半分以上を占めていました。なので、僕が独力でつくったページは1/3程度で、あとは作例ページに入れるコラム類、その他、版権元さんとのやりとりを引き受けていました。

今回の『イデオン』は作例ページをのぞく約40ページをひとりで構成し、樋口雄一さんや湖川友謙さんのインタビューは自分でとりつけ、ランナー状態のキットの撮影も自分でディレクションし、次にはキットをすべて素組みして、二度にたわってスタジオで撮影してもらい、どの写真をどう配置するかページのラフを切り……と、アオシマさんの取材申請以外は、すべて自分でやりました。
何しろ、サンライズへのプレゼンも僕がやって、「まあ、廣田さんの著書的な扱いなら、何も口出ししませんよ」と(笑)、その約束は守られて、アニメ記事に付き物の「版権元からの理不尽な直し」は一文字もありませんでした。
アオシマさんの信頼も得られて、パーフェクトな仕事ですね。


これが、僕なりの「模型誌」です。
【模型言論プラモデガタリ】でも『イデオン』を取り上げ、あの時の取材がベースにはなっていますし、表紙は【プラモデガタリ】会場に持ち込まれたタンゲアキラ氏の「作品」をそのまま使わせてくれってお願いしましたので、読者が参考にすべき「作例」とは違います。もうひとつの「作例」?には、僕はまったく関与していません。

模型雑誌が惰性のように続けている、「どんなスゴイ作品だったかストーリーとキャラ解説を少々」、「では後はお待ちかね、有名モデラーたちによる作例です、どーぞ」。さもなくば「監督のロングインタビューつけました、ここに正解が書いてありますよ、多分」といった、怠惰で無責任な誌面構成に抵抗があった……というより、いつまでそんなことやってんの?と、おそらく千人以上のアニメ関係者にインタビューしまくって、ここ数年はあらゆるジャンルのプラモデルを素組みして、模型メーカーにどんどん取材するようになった僕に、やることはただひとつでしょ?

アニメーションの構造と、プラモデル製品の構造に、関連性を見い出す。探す。検証する。理解する。
これは、アニメに詳しいだけじゃ出来ないんです。また、模型界の常識だけではアニメ媒体に深くダイブすることは出来ない。「作画」までは気づいても「演出」には踏み込めない。言うまでもなく「プラモもアニメも大好きです」程度では仕事、ことに新しい仕事はできません。
アニメとプラモの隙間を埋めるのであれば、紙媒体だって、まだまだ使えるじゃないか。作品数の豊富な80年代アニメなら、団塊ジュニア世代が支えてくれている。勝算はある。まだまだ、これからやること一杯あります。


一昨日は、六本木の森美術館まで「塩田千春展:魂がふるえる」へ。
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雑多な店舗が無秩序に散乱した、森タワーまで汗だくで歩いていく。1Fのチケットカウンターで国立新美術館の半券を見せると、200円引きになる。
まあ、それは有難いとして美術館へはどう行ったらいいの? なんとシティビューとかいう展望台と同じフロアにあるので、そっちの客と一緒にエレベーターに乗らないといけない。静かに美術館に行く客と、展望台へ行くノリノリの観光客がゴッチャ……で、まず気持ちは削がれるよね。
フランス料理を食べに来た客と、ホッピーとモツ煮を食べに来た客を混ぜてしまうぐらい、無神経だと思った。

美術館を出ると、展望台も見られる。景色は最高に素晴らしい。だけど、あちこち入っちゃいけないスペースがあって歩きづらいし、静謐な美術館を出てきた客に何を感じさせたいの? 国立新美術館は、そこまで考えてるよ。出口から外に出ると、空間が余韻になるんだよ。
森タワーの俗物ぶり、乱雑ぶりが、あれこれぶち壊しにしていく。


それぐらい、塩田千春展は良かったんだけどね。作品の下をくぐったり、立ったり座ったりして眺められる広大なインスタレーション。単純に、「こんな何千万本の糸、どうやって展示してるんだ?」という驚きもある。赤は血管であり内蔵であり……という直喩が、僕のような無知にも優しい。
泥まみれの風呂で、ひたすら顔を綺麗にしようともがく映像作品も、学生時代に見た実験映像のようで気持ちよかった。映画館より美術館が面白い。毎週、どこかの美術館に行きたい。
六本木の裏手の、安い飲食店も面白いし……。
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そして、昨日は全日本模型ホビーショーか! あれこれ「いつ出るんですか、これ欲しいなあ~」などと下品に好き放題を話した後、「連載見てますよ」「本読みました」と言われて、ドキッとすることが何度かあった。取材の成果は、また後日!

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2019年9月25日 (水)

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プラモデルなのか、ゲームグッズなのか? 「1/12テーブル筺体」を発売した株式会社ヘルメッツって何者だ?【ホビー業界インサイド第51回】
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ヘルメッツ代表の兒玉さんは理工学系のオタクで、文系の落ちこぼれオタクの僕には欠如している知性と熱狂をお持ちの方でした。機械や数字に強いオタクには、一方的な憧れがあります。

月刊モデルグラフィックス 2019年11月号 発売中
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今月の「組まず語り症候群」は、上記のヘルメッツさんの「1/12テーブル筺体」を取り上げさせていただきました。シューティング・ゲームにハマれなかった僕の、羨望の気持ちを書きました。


この十日間ほどの間に観た映画は、ゴダール『パッション』、野村芳太郎『砂の器』、シドニー・ルメット『オリエント急行殺人事件』。
『パッション』は相変わらず何がなにやらサッパリ……なのだが、ドキュメンタリックなシーンに、そのシーンがあたかも過去の出来事であるかのようなナレーションが被さる。僕たちは、たった今、目の前で流れている映像を「映画における現在」と勝手に解釈している。ゴダールは、その法則を壊す。彼の映画では、いつが「現在」なのか、見失ってしまうことがしょっちゅうだ。

『砂の器』は「ストーリーを説明してみろ」と言われても面倒なだけなのだが、クライマックスで丹波哲郎演じるベテラン刑事が事件のあらましを推察し、同時に犯人である作曲家の演奏会がスタート。オーケストラをBGMに、刑事の仮説と作曲家の追想が“同じ映像”として展開される。その構造こそが、『砂の器』であって、最後に誰が死んだとか何が起きたとか、そんなことは映画の「構造」の前には無意味。
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思考を停止させ、言論を封印する「ネタバレ」という言葉が僕たちから何を奪っているのか、そろそろ考え始めるべきではないだろうか。
何しろ、『スター・ウォーズ』シリーズの解説で、ダース・ベイダーがルークの父親であることが「重要なネタバレ」として伏せられてしまう世の中である。


NHKから国民を守る党の周辺、毎日いろいろなことが起きている。
地方選挙では、N国党からの候補者がボランティアと一緒に地道に活動して、勝ったり負けたりしている。NHK撃退シールは、1日数百枚は発送されている(ちゃんとレシートの写真がアップされている)。
だが、話題のほとんどは立花孝志代表が誰に公開討論を申し込んだとか、名誉毀損で訴えたが裁判に負けた、脅迫容疑で警察に呼ばれた……などの、あえて注目を集めるための「仕込み」めいた話題ばかりで、N国党への批判も仕込まれたネタに集中している。
今度は誰を訴えるとか、そのあたりの話に僕は辟易しているのだが、立花さんは政治家になる前から好戦的な性格なので、今後も変わらないだろう。

どちらかというと左翼がかった“純粋な”人たちから、N国党は蛇蝎のように嫌われている印象がある。
新日本婦人の会のように、いまごろ消費税増税反対デモをやって、何百人集まったと自慢しながら、内心では「どうせ増税は避けられない」「でも、一応反対したという思い出だけは残しておきたい」「次また、何か反対するための燃料がほしい」……と、矮小な自我をもてあましている人たちのターゲットになりやすい。
左翼は反権力のスタンスで、その点では僕と同じはずだが、なぜ巨大利権組織のNHKを問題視しないのか、不思議でならない。暴利をむさぼるNHKを擁護している左翼までいる。


左翼がダメなのは、与党精神がないから。「私たちは弱い、弾圧されている被害者だ」という立場で自分の意見を正当化しておきながら、どうすれば権力に具体的ダメージを当たられるかの方法は留保しつづけ、「とにかく反対するのだ」という精神論に逃げている。
「明日から現政権が消滅するので、あなた方の好きにしていいよ」と言われても、彼らは別の権力者を見つけ出して、「弱者」「被害者」の立場に甘えつづけるだろう。

N国党に反発している人たちにも、「市民の自由な言論が潰される」「民主主義の危機」と、弱者スタンスを維持している人が多いように見受けられる。いやいやいや、君らほど自由な発言している人たちはいないと思うよ? 今ちょっと検索しただけで「クズ」「暴力団」「反社会勢力」、あと「ナチスの再来」「オウム以上に危険」と、言いたい放題なのだが、どこが言論の危機?
本当は自由を満喫しているくせに「不自由で困っている」「弾圧されている」と装うのは、卑劣だよ。まあ、それがあなた方の処世術なんだろうけどさ。

この国は、自分なりの強固な意見を持って、具体的な方法を編み出して実践する人を叩く傾向にある。「みんな我慢してるんだ、お前もみんなに合わせろ」、これが根底にある。NHKだけでなく、個人が責任を放棄して組織に隠れ、一人称が「我々」になることって、よくある。「みんなに合わせろ」、これが諸悪の根源なのかも知れない。

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2019年9月16日 (月)

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絵による“例え話”で怪異に説得力を持たせる「化物語」の発想【懐かしアニメ回顧録第58回】
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10年前の放送当時、『化物語』は文字の大量のインサートに多くの人が戸惑い、それを読解してこそ初めて作品の価値が分かる……といった風潮があり、中には明らかに漢字を読み間違えている人もいて、その雰囲気がとてもイヤでした。
この記事の中では、「体重がない」「軽い」といった視覚化不可能な感覚、画面に一切姿を現さない「蟹」の存在感をどうやって描出しているか?に着眼しています。「原作が小説なのだから、文字で書かれたシーンをそのまま映像にしてやればアニメになるだろう」という幼稚なものではなく、むしろ文字を信用していないからこそ、読めないほど大量の文字を画面にそのまま出すような演出が出来たのではないか?と思うのです。


一昨日の夜、レンタル店で借りてきた黒澤明監督の『野良犬』が、あまりに自意識過剰というか「意図の塊」のような作品なのでウンザリして、なぜか野村芳太郎監督の『鬼畜』が見たくなった。レンタル店に行けば置いてあるのかも知れないが、何しろ夜中だ。YouTubeの有料配信で300円だったので、中学以来40年ぶりに見はじめた。
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事前にネットで感想やレビューに目を通すと、「緒形拳の父親が浮気しているので、最後まで感情移入できず」「子供を捨てたり殺そうとする映画なので、許せない」式のものばかりで、みんな映画を「スクリーンの中に入りこんで、疑似体験すべき娯楽」と思い込んでいるのが、よく分かった。
せめて、終始ノースリーブで汗に濡れた白い肩を丸出しにしている岩下志麻がエロい……と書くのが礼儀であろう。

その岩下志麻が、いちばん幼い子供の顔にビニールがかかっているのを放置して、結果的に殺してしまうシーン。印刷機で仕事している岩下の背中を、黙々と撮っている。グッとズームで寄るのだが、岩下は決して振り向かない。カメラはただ、彼女の物言わぬ背中だけを撮り続けている。台詞がない分、彼女の“殺意”だけは強く伝わってくる。
子供が死んでしまった後、緒形と岩下の会話シーンで、子供の顔にかぶせられるビニールが落ちてくる様子を、ハイスピードで撮ってインサートしている。妙な言い方だけど、そのビニールが落ちてくるカットが綺麗なんだよね……。まあ、「このカットは○○の暗喩なんだよ! 観客のみんな、分かるかな?」と終始つめ寄ってくるような『野良犬』なんかより、職人監督・野村芳太郎が時おり見せる凄みあるカット・ワークのほうが数段上、という発見があった。
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もう夜中の3時ごろだが、矢も盾もたまらず、今度はAmazonプライムで野村芳太郎監督の『震える舌』。
余計な感情描写は省いて、破傷風に襲われる幼い子供と両親、医者たちのミッション物に徹しており、「入院○日目」「午後○時○分」など字幕スーパーがインサートされる冷徹さに好感をもった。渡瀬恒彦の父親が「自分も感染しているのではないか」と、そればかり気にして間接的とはいえ、妻を犠牲にしているなど、意地の悪い心理描写がひとつひとつ効いていた。
結局、朝まで3本続けて邦画三昧だった。


さて、『鬼畜』も『震える舌』も僕が小学校高学年~中学生のころ公開された映画で、どちらもテレビで見たはず。高校時代の友達が「舌かんじゃったよー!」と『震える舌』のモノマネをしていて、「結構みんな見てるんだな」と気づかされた。
『鬼畜』で娘を置き去りにするシーンも、あちこちでギャグに使われていた。
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結婚していたころ、妻の連れてきた犬が僕によく懐いていたので、わざと「明日、遠くへ捨ててきてしまおう」「こんなに丸々と太っていておいしそうだから、今日のご飯にしよう」などと、寝床でジョークを飛ばしていた。
離婚した後も、犬をしょぼい遊園地に連れてき、ソフトクリームを食べさせて、くたくたに遊びつかれさせたところで置き去りにする……という妄想(その妄想の中では、犬は幼稚園児レベルの会話が可能)を繰り返し頭に描いた。その妄想の元ネタは、中学時代にテレビで見た『鬼畜』だったのだろう。


だが、『鬼畜』だけではない。
小学一年生ぐらいのころ、親戚の叔父さんに、井の頭恩賜公園へ連れて行ったもらったことも、おそらく妄想の元ネタなのだ。
熱帯温室にソフトクリームを売る店があり、あまり食べたくないのだが、叔父さんが「食べな」と買ってくれたことを覚えている。広くもなければ人もあまりいない小さな遊園地、動物園……。
多分あの日は何か大人たちの事情があり、まだ大学生の叔父さんが、僕を押しつけられたのであろう(その叔父さんは子供の相手が苦手そうで、僕も子供扱いされることに抵抗があり、気まずい雰囲気だった)。

そんな幼いころの、寂しい思い出は、こんなにも長いこと僕の心に巣食い、センチメンタルな妄想を抱かせる。
野村芳太郎という人は、子供がひどい目に遭う映画を少なくとも2本は撮っているわけで、どこか僕と似たような性癖があったのかも知れない。一種の自己憐憫とでも言えばいいのだろうか?
幼年時代とは実は寂しいものであり、大人に優しくされるほど、得体の知れない切なさのようなものがこみ上げてくる(祖父が酒屋でオレンジジュースを飲ませてくれたり、喫茶店でプリンを食べさせてくれたことも、なぜか“寂しい思い出”として、僕の記憶に刻まれている)。

そう言えば小学校のころ、図書室で「かわいそうなお話」という童話集を見つけて、ゾクゾクしたのを覚えている。借りて帰って、家で泣きながら読んだのだが、それは「哀れむ」「悲しむ」という娯楽だった。『鬼畜』『震える舌』は、そうした秘めやかな娯楽要素に支えられている気がしてならない。

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2019年9月 5日 (木)

■0905■

“やられメカ”から世界観を構築する――。出渕裕の仕事と美学【アニメ業界ウォッチング第57回】
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20年前に「東京ロボット新聞」で1回、「月刊モデルグラフィックス」で2回インタビューしたことのある出渕さんに、ご登場願いました。僕らの世代でいうと「ブチメカ」なので、徹底して敵側の話ばかり聞いています。


月曜までに30ページほど書かねばならないんだけど、こういう時こそ映画を観なくては。
ウイリアム・ワイラー監督の『おしゃれ泥棒』、ロベール・アンリコ監督の『暗殺の詩/知りすぎた男どもは、抹殺せよ』。後者は凄い邦題がついているが、『冒険者たち』の監督作なので、男2人女1人のサスペンスフルで大人っぽい逃亡劇をたっぷり楽しめる。生ハムとワイン、釣りをするシーンもある。

しかし、ここではオードリー・ヘプバーンとピーター・オトゥール主演の『おしゃれ泥棒』に触れておこう。
1966年の映画で、何かアイデアに新味があるわけではない。後半、オードリーは「美術品泥棒」のオトゥールとヴィーナス像を盗み出すが、そのアイデアがとり立てて面白いわけでもない。だが、映画のほとんどでオードリーが右、オトゥールが左に立っていることに気がつくと、俄然、面白くなってくる。
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オードリー演じる娘は何もせずブラブラしているだけだが、父親は凄腕の贋作画家だ。父と一緒に映るシーンでも、オードリーは必ず右に立っているか、座っている。オトゥールと一緒のシーンでも、2人はサッと身を交わして、結局はオードリーが右側に落ち着く。
では、いつオードリーは画面左側に来るのだろう? オードリーがオトゥールに銃を向けるシーンでは、彼女はほぼ左側に立っている。後半、ヴィーナス像を盗んでまで欲しいのか、と聞かれて「欲しい」と答えるカット、オードリーは左である。ラストシーンで、オードリーが初めてオトゥールに嘘をつくカット。オードリーは左だ。

ようするに、彼女がイニシアチブを握るシーンでは、彼女は左側にいる。
それ以外のシーンで左側にいるのは、父親かオトゥール、贋作画家と美術品泥棒、どちらも人を騙して手玉にとる役柄だ。気がつけばこの映画、オードリーは男2人にリードされるばかりで、自発的に動くことはない。彼女がわすがながらに主体性を発揮するシーンで、ようやく画面左側に立つ。


以前にもこういう映画を見たぞ……と思い出したのが、ヒッチコック監督の『泥棒成金』だ()。
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この映画では、泥棒のケーリー・グラントが画面左側を占めているのだが、グレース・ケリー演じる娘に翻弄されるうち、画面左の「優先位置」をどんどん彼女に明け渡していく。ヒッチコックなら、さすがに俳優がどちら側にいて、どちらへ向かって歩くか計算していただろうと思う。
11年後の『おしゃれ泥棒』が、『泥棒成金』を参考にしていても不思議ではない。それを裏づけるかのように、『おしゃれ泥棒』でのオードリー・ヘプバーンは、「ヒッチコック」というタイトルの本を読んでいる。……まあ、当時のヒッチコックは『サイコ』と『鳥』で、今でいうホラー映画の巨匠のような立場だったので、演出意図はまったく別のところにあるだろうとは思う。


僕にとって「映画が面白い」とは、画面内の俳優の位置が決まっていたり、あるいは展開に応じてカメラワークや構図が変わったりすることであって、決して「物語」ではない。だが、映画の本質を「物語」にして、ラストシーンが「ネタバレ」するとかしないとか、伏線を回収できているかいないかを評価軸にした方が、観る側は「楽」なのである。
メディアに登場する映画評論家は、まず構図の話などしない。平然と「ネタバレ」がどうのと言うし、あっさり「泣いた」なんて言ってしまう。映画を語る言葉がどんどん痩せていくので、観客は3Dよりも4DXのほうが高級だとか、IMAXで見ないと迫力が伝わらないなどと、自分の体験した上映形式に優越感を見い出すしかない。

僕はつい最近、スマホの画面で映画を観て、ちゃんと面白いことに愕然とした。むしろスマホのほうが、構図をしっかりと確認できる。
スマホでもIMAXでも3Dでも、四角いフレームのどこに何が位置しているかは変わらない。フレームの中に時間があり、時間とともに情報が変化していく。それ以外に、映画を定義づける要素はないと思う。
もし映画の本質が「物語」なら、ゴダールの映画は「伏線も何もない、劣った映画」にされてしまう。


最後に、またN国党関連の話題。この「さゆふらっとまうんど」さんがNHKの上田良一会長の会見に激怒している動画()。
俺が受信料を払いたくないのは、NHKという組織の愚鈍さ、無神経さ、公平さに対する関心の無さを知っているからだよ。「廣田さん、質問に答えてください」とか偉そうにコメント欄に書いてきた人()。そんなにNHKを必要と思うなら、あなたが高い受信料を払って支えればいいじゃん。
どうせ「みんなが平等に払ってるんだから、払うべきだー」程度にしか考えてないんでしょ? 本当の自由、リスクを賭けて自由を勝ちとろうなんて考えたことないんだろうな。俺をブロックしながら、そっちはこのブログを見放題、それこそ不公平じゃないのか? 恥を知れよ。 

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2019年8月26日 (月)

■0826■

親子で楽しむ かんたんプラモデル
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『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』以来の著書、ようやく発売となりました。
親子向けどころか児童書にしよう、というコンセプトは編集者が立てました。その軌道修正によって、中身を子供向けにしたりはしてません。あいかわらず、「プラモデルを素組みすることの醍醐味!」を、豊富な写真とリリックな文章で伝えています。
本のテイストとしては、編集者と「こんな本にしたいよね!」と持ち寄った参考資料が、たまたま同じ料理の本でした。なので、料理の本のように手をいっぱい入れて、温かみのある写真を撮っています。

月刊モデルグラフィックス 2019年10月号
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組まず語り症候群 第82回
今回は、ペガサスホビー製の「クレーター」展示台を取り上げています。


本日も、「NHKから国民を守る党」の話題。
僕は党首の立花孝志を知る前からNHKには爆発的な不満を持っていたので、世界で僕1人だけになっても不払いは続けます。納得できる理由があるなら、僕は一億円でも百億円でも払いますよ。集金人に何度もウソをつかれ、嘲笑われて脅されて、どうしてお金を払わないといけない? 納得できる説明を、何度となくNHKに求めてきました。何年たっても、騙して脅してまで僕に受信料を払わせる理由を、ただの一言も聞かせてもらえていません。
どうしても僕から金を取りたくば、殺して奪っていけとさえ思う。

もし集金人がウソをつかない誠実な人だったら、NHKとは、こんな関係にはなってなかったと思う。テレビを捨てたりもしなかった。
また同時に、自尊心の持ち方、権利意識についても、真剣に考えなかっただろう。NHKにいいように卑しめられたから、僕は自分が何者なのか考えるようになった。……原則的に、僕たちは「長いものには巻かれろ」「自分の意見など持っても無駄」と、義務教育で叩き込まれて育った。なので、個人が意志をこめて自分自身を大事にするための勝算の薄い戦いを、ほとんどの人たちはバカにする。


Twitterの反応を見ていると、なかなか面白い。
N国党への嫌悪をあからさまにしている人は、正義感の強い人が多いと感じる。右も左も関係なく、生真面目なタイプが多いのではなかろうか。
(このブログに言いたいだけ意見を書いて、自分のTwitterアカウントは先回りブロックして反論不可能にしたものくるさん()は、臆病者かつ卑怯者だと思うけど……)
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「ああ、なるほど」と納得した言葉にも出会った。
デュープスだ。意味を調べてみると、思い当たる。優れた表現者なのに、自分から物事を調べず、左翼的な発言を迂闊にしてしまう人は、僕の知り合いにもいる(というか、反原発運動に参加していたころの僕がデュープスだった)。
二言目には「アベが悪い」と言う人は、それで気が晴れるなら構わない。「すべては在日外国人の陰謀だ」と同じぐらい、その人にとっては精神安定効果があるのだろう。

駅前図書館まで、盲目の人に肩を貸して、送って行ったことがある。その方は、「この通りは歩道が狭くて、危ないでしょう?」と指摘する。確かに、その通りだ。「これは、今の市長が悪いんですよ。余計な建物にばかりお金を使ってるから」「もっと言うと、アベってのは最悪だよねえ」などと愉快そうに話すので、聞いていて不快にはならなかった。「在日韓国人が悪い」などと言われたら、ちょっと複雑な気持ちだったろう。
左翼思想まで行かず、やや反権力的なスタンスのほうが健全ではないか?程度に、僕は思っている。ただ、すべてアベ政権が悪い、あの件が解決しても今度はこの件が問題だ、日本は狂ってる、日本は滅びると不満と憎悪をエネルギーにかつかつ生きている人は、破滅的で少しも共感できない。海外に移住して優越感を持っているはずなのに、日本国内にアレコレと問題点を見つけては口出ししてくる人も、結局は自分の人生が楽しくない、その根本原因を解決できてないんだろう。
デュープスも、手っ取り早いところに諸悪の根源を設定して、本来、自分が対峙すべき心の問題から逃げてるんだと思う。そういう手近なところに、N国党はスッポリと収まるのかも知れない。デュープスは例外なくN国党を嫌悪して、結局は理不尽な利権組織であるNHKの片棒を担いでしまっているよね。
貴方にとってNHKが必要で、貴方がNHKを信じているなら、今後とも黙々と受信料を払いつづけて、組織を支えてあければいいんじゃない? 俺は嫌だがな。


自分こそが愚かではないのか、無知ではないのか、間違っているのではないかと疑いたくない人が、こんなに多いとは思わなかった。
「新日本婦人の会」の人たち、彼女たちの意識の根底にあるのは「私たちを批判する者は、政治的な敵対者である」という断罪だった。Aに賛同しないなら、反A派に違いない、という危険な考え方。そう断じないと正気を保てない人たちの集まりが、新日本婦人の会なんじゃないか。
だとしたら、気の毒だ。組織力に甘えきった驕った態度には腹が立つけど、日本婦人の会は本気で憎めない。

結局は人生を楽しいと感じられるかどうか、自分を愛せるかどうかの問題なのだろう。
『かんたんプラモデル』だって、どうせ子供たちが読むなら、君たちの指先の仕事はどんな楽をしても構わないし、すべての作業にちゃんと意味があるよ、無駄じゃないよと伝えたかった。「プラモデルって難しいよ、アレとコレを覚えて、がんばって自分の個性を出して」と教えたがる人は、自分の人生をまずは楽しくする必要がある。

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2019年8月15日 (木)

■0815■

EX大衆 2019年9月号
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●ドラゴンクエストの文化史
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』にかこつけて、我が国のハイ・ファンタジー浸透の系譜(文学・映画・ゲーム・漫画の歴史)を、年表にまとめました。『ユア・ストーリー』自体は試写で見て、編集者と意見が分かれました。彼は怒っていたけど、僕は山崎貴監督の映画ごときに腹を立てるのは時間がもったいない、という考え方。メタ・フィクション的なラストは、『ホーリー・マウンテン』をはじめ、珍しいものではない。いろんな種類の映画を見ておけば、驚くことはない。
【プラモデガタリ】で述べてきたように、映画の進歩は1980年代前後で停止しているのだと思う。だから今、80年代にヒットした映画の続編が次々と製作されていてる。90年代以降、世界の映画が抜本的な変化を迎えられなかった証拠ではないだろうか。


NHKから国民を守る党が、有権者をバカにしたマツコ・デラックスの出待ちをしたため、一気に話題をさらってしまった。無論、否定的な意見が大多数。立花孝志党首の狙いどおりと思う。
「国会議員は仕事しろ」という方、あなたの投票した議員は毎月いくら貰って、今日何をしているのだろう? 答えられないと思う。立花議員は、赤裸々にYouTubeで公開している。議員報酬、YouTubeの広告収入、誰にいくら払った、今度はこれに金を使う……など。
国会議員は議会で難しいことを言うか、あとは居眠りしているだけ……というイメージの人が多いのではないだろうか。N国党は政見放送も「ふざけている」と叩かれたが、真面目に難しいことを淡々と喋るのが政見放送だ、難解なのが政治家の仕事だという思い込みがある。どうも皆さん、政治を自分の生活と遠くに置いて、なるべく関わり合いを持ちたくないようだ。

あと、立花議員のふるまいを「狂っている」という声も多かった。
そこまで自分を正常と信じている人の多さに、僕は驚かされた。「常識からすると」「普通の感覚では」と前置きする人もいた。自分を「普通」と考える、その無責任さが恐ろしくないのだろうか。
「日本はここまで狂っているのか」と言うなら、その「日本」の中にあなた自身も含まれているだろうに、どうして高みから評論家のような欺瞞的な態度をとれるのだろう? 当事者意識不在のまま死ぬほうが、俺は恐ろしいわ。


僕は立花議員がN国党を旗揚げする何年か前から注目していたが、それは僕自身がNHKの集金人に恫喝を受けていたからだ。
集金人とのやりとりの一部始終をカメラに収め、堂々とYouTubeにアップしているのが、立花さんだった。それまでニコニコと話していたのに、相手がウソをついた途端、ガラリと口調を変えて凄むさまはヤクザそのものなのだが、何に対してどう怒って、どうすれば納得するのか、見事にスジを通していた。ケンカのしかたが抜群に上手い。警察も呼んで証人として使うし、裁判も山ほどやって、いつも勝つとは限らない。負けたときも、正直に「負けた」と話している。
ズルをして勝ったり、負けたのに勝ったフリをしても空しいだけだと彼は知り抜いている。

そして、路上で怒鳴りあうほど犬猿の仲だった相手が、病気か事故で死んだらしいとの報を聞くと、立花さんは間違っても「ザマアミロ」などとは言わない。「また俺のこと怒鳴りにきてくれよ……」と言いながら、泣きそうになっていた。演技ではなかったが、効果を考えてアップしたのだと思う。クサい演技などたちどころにバレると、彼は知っている。だから、間違えると誤魔化さずに謝る。
そうした戦略の上手さに、僕は惚れ惚れする。


いまTwitterを見たら、「N国党は自民党の別働隊」だそうで、僕は『陰陽師』に出てきた「こちらの心の動揺は 向こうの動力源となる」という言葉を想起してしまう。今になって、みんな慌てている。一週間もすれば、落ち着くところに落ち着くだろう。
N国党を「ナチスドイツのようだ」というお決まりの比喩もあれば、「オウム真理教をこえる危険な組織」と断定しているアカウントもあった。そんなに危険なんだったら、あなた自身が警察に危険性を訴えるなり、訴訟でも告発でもすればいいでしょ? なんでそんな他人事なんだろう? 「ヤバイぞ危険だぞ」って、しょせんポーズだけなんだよね? だから、いつも負けるんだよ。いつも何かのせいにして、自己実現できないままなんだよ。

期末テストの前、「直前まで教科書やノートを見ながら焦る」芝居が中学時代、よく流行っていた。
「ヤバイぞテスト赤点だぞ」って焦ったポーズをとっていないと、教室にいられない雰囲気。言うまでもないが、たかが数分間教科書を見ていたって、テストの結果なんて変わらない。だから僕は、何も机に出さずにジッとテスト開始を待っていた。すると、「余裕だねー」と、これまたお決まりの台詞が飛んでくる。「もう諦めてます」と、僕は心にもないことを言わねばならない。
ああいう芝居じみた世界は、もうご免なんだ。仕事でも「徹夜しちゃいました」、「時間がない」、コミケ前に「原稿やれ」とかさ。「不甲斐ない自分を演じる癖」が、義務教育時代から抜けておらず、その無責任な態度が政治を空疎なものにしている。

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