2017年11月23日 (木)

■1123■

月刊モデルグラフィックス18年1月号 25日発売
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●組まず語り症候群・第61回
今回は、日東科学の「キジムナー」です。当時は店頭で見かけなかった80年代のキットで、確かスーパーフェスティバルで買いました。
パッケージから説明書にいたるまで、びっしりと遊びを盛り込みすぎて、最高にウザいキットになっています。そのウザさをキャプションに細かく書きましたので、ぜひ読んでください。


月刊ホビージャパン18年1月号
 25日発売
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●造形と成形の幸せな調和
バンダイのフィギュアライズ・バストを最新作である初音ミクから初期のキットまで振り返っています。この記事のために、家に組み立て済みのものがあるフィギュアライズ・バストを、すべて新たに買いなおしました。
歴史的に無視できないだろうと思って、初めてシステムインジェクションで色分けを行なった1/144 ドラグナー1型も買いました。
また、フィギュアライズ・バストの企画を担当してらっしゃる三宅のぞみさん()にインタビューし、過去に手がけたキットも入手して紹介しました。「企画者」という視点から、プラモデル商品を照らし出してみたかったのです。


レンタルで、仏映画『南へ行けば』と1969年の米映画『真夜中のカーボーイ』。
Mv5bmjg1ngiwotytnmqync00ngnklwjimdg『真夜中のカーボーイ』は学生時代に見たはずなのだが、すっかり忘れているので見ることにした。
社会の底辺から夢を見る男たちを描いた、あまりに哀切な映画だった。フレッド・ニールの『うわさの男』が、冒頭とラスト近くに流れる。小学生のころ、テレビCMで使われていた曲だ。この曲を聞くと、日曜日の気分になる。

ダスティン・ホフマンの演じる“ネズ公”とあだ名された男が、相棒のジョー(ジョン・ヴォイト)を金持ち女のところに送り込み、フロリダで豪遊する夢を見る。お金持ちの婦人たちを周りに集めて博打をしたり、料理をつくったりする夢だ。それらのシーンは、路上に立っている“ネズ公”のアップとカットバックする。
この映画では、未来に起きることがしばしば「現在」に割りこんでくる。あるいは、回想シーンに「現在」の人物がまぎれ込んでいたりする。
ゲイの老人にホテルに連れ込まれたジョーが、病気の“ネズ公”をフロリダに連れていくため、金を奪おうとするシーンもそうだ。老人を殴るジョー、ネズ公をアパートから引っ張り出してバスに乗せるジョー。ふたつのシーンがカットバックする。後者はジョーの空想のように見えるが、そのまま実際にバスに乗り込むシーンと直結する。
「ネズ公をフロリダに連れていきたい」空想が、「現在」へと追いつくわけだ。それはジョーの焦りでもあり、強烈すぎる願望でもある。


ネズ公は、バスの中で息絶える。死んだ彼を振り返ってジロジロと見るバスの乗客たちは、女性ばかり。どうも見覚えのある人たちだと思ったら、ネズ公の空想シーンに出てきたお金持ちの婦人たちに似ている。
唐突に、老婦人がネズ公を無視して化粧しているアップが入る。彼女たちは、ネズ公の夢想とも現実とも関係のない世界に生きている……果たして、そうなのか? 映画はそもそも、無関係に撮影されたフィルムとフィルムを繋いで、因果関係を生じさせる表現だ。
過去と現在と未来、空想と現実をシャッフルすることで、点在している出来事が力強く一本に寄り合わされていく。

僕たちが映画から「感動的なストーリー」を読解するのは、バラバラに撮られた絵を頭の中で繋ぎ合わせるからだ。バラバラの絵から物語を理解するのは、ようするに慣れである。
慣れているからこそ、疑ってみたり、構造を分析することも必要じゃないかと思うんだが、「とにかく良かった」「理由もなく泣けた」が、映画に対する最大の賛辞になってしまった。
冷徹な理性に感嘆したり、人間の残酷さや無理解や不寛容を発見することにだって意味はあるだろうに、激しく心を揺さぶられて「号泣する」ことだけが至上価値になってしまった。

(C)1969 - MGM

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2017年11月18日 (土)

■1118■

アニメ業界ウォッチング第39回:徹底的に心情描写にこだわる、さとうけいいち流アニメ演出術
T640_743634_2 絵コンテを前にしながら、カメラワークやアングルについて、じっくりと話をうかがえる貴重な機会を得ました。特に、アニメで気になるのはパンニングです。アニメのPANって、実写でいえばドリーを使った横移動であって、三脚にすえたカメラを振っているわけではないのです。
ところが、さとう監督はその違いに言及してくれた。ただ、後者のPANをアニメの中でどうやっているのかまでは聞けませんでした。今度、個人的に聞いてみたいと思います。

【懐かしアニメ回顧録第36回】立ち上がったデンドロビウムが対決の構図を熱くする! 「機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光」の図像学
51blwfpdsxl_2 デンドロビウムを劇中のスペックではなく、横長の構図にどう収めているかについて書きました。『ジオンの残光』は上下をカットして横長にした、通称“貧乏ビスタ”で公開されました。レンタルDVDだとスタンダードですが、それでも4:3で横長なわけです。
コラムの中では、横長のフレームの中に気持ちよく収まるデザインであるはずのデンドロビウムが、やたらめったら縦になる(立ち上がる)のはガトーの乗ったライバルメカ、ノイエ・ジールとタメを張るためではないか……と仮定しています。

ガトーとの対決シーンではない、シーマ機を零距離射撃で倒すシーンでも、デンドロビウムは縦になっています。
その理由を考えると、シーマが恩師であるデラーズを目の前で撃ち殺したのに、ガトーは仇を討ち損ねていることに思い至ります。コウは、何度となく真剣勝負を繰り返してきた好敵手・ガトーの代わりに、シーマを撃ってやったように見えるのです。コウがガトーの立場に(精神的に)近づくためには、やはりノイエ・ジールとの対決時と同じく、デンドロビウムは縦になっている必要があったのでは……。
(コウとシーマの間には対立要素が希薄だったので、余計そう思えてしまうのです。)
デンドロビウムが縦になる理由に「正解」はないでしょう。
「正解」を探すのが、作品を見る目的ではありません。あるシーンをエロティックに感じたのであれば、監督が「エロい意味で撮ったわけじゃない」と言い張ろうが、エロく感じた自分を信じるべきです。その一方的な思い込みが、作品の価値を多様にするからです。

観客の思い込みや勝手な解釈を加えられることで、作品は何年も何十年も生きつづけます。今は無名な作品でも、誰かがいつか新しい価値を加えるかもしれない。すべての作品が、「未来の誰かによって新たな評価を与えられる権利」を、平等に有しているべきです。


「無意味な実写化なんてない…世界一叩かれてる実写デビルマンからデビルマンにハマった私が言うんだから間違いない…」(

こちらのツイート、本当に素晴らしい。多数決で「酷い作品」を決めて、「誉めるやつはどうかしている」なんて責め立てられる世界が、果たして創造的なんですかね?
『CASSHERN』、『デビルマン』、『ガッチャマン』のフルボッコに加担した映画評論家や映画雑誌は、それらの作品がどこかの誰かにキッカケを与えたり、経験を積むうちに自分自身の価値意識がゴロッと引っくり返ったりする可能性をまるで考慮してないんでしょうなあ。

「身内で1999年のSF映画ベストワンを決めたいと思うのですが、廣田さんのベストワンは?」というメールがある編集者から送られてきて、「もちろん『スター・ウォーズ エピソードⅠ』でしょう!」と返信したら、「……マジですか? 他の人たちはみんな『マトリックス』がベストで、『スター・ウォーズ』をワーストに選んでますけど?」とのことで、票に数えられなかったらしい。
その雑誌は、数年後になくなりました。多様性のない組織は、外乱に対して弱くなるのです。

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2017年10月28日 (土)

■1028■

ホビー業界インサイド第28回:フィギュア原型師という「職業」と「市場」を切り拓いた男、秋山徹郎の過去と現在(
T640_742387『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』でも取材させていただいた秋山さんに、「是非また取材しに来てください」の約束どおり、お会いしてきました。
こういう記事には「懐かしいですね」とリアクションいただくことが多いのですが、僕は秋山さんがプロデュース側に回って、「フィギュアを作る人たちが食べていけるように」という若いころの理想を実現してらっしゃるから、取材する価値を感じたのです。「懐かしい」なんて動機では、お金をもらって書く記事にはならないですよ。

「懐かしい」も娯楽だし、商売になると思っています。だけど、単に「懐かしい」だけでは誉めたことにならないし、何より発展性がない。「懐かしいですね」と言われると、とても戸惑います。
だから、アキバ総研の「懐かしアニメ回顧録」という連載タイトルには、かなり抵抗しました。結果、「昔は良かった」という情緒的な内容ではなく、シンプルに演出や作劇を探る連載になっているはずです。


高校時代、『マクロス』のプラモデルを教室に持ち寄っていたら、イケメンの無趣味なクラスメートから「そんなもんに金使ってるの? いくらするの?」と聞かれたので、僕らオタク仲間は「700円」と正直に答えました。イケメンは「うわ、信じれない。俺に700円あったら……、メシ代に使うよ」とコメントして、その場を去りました。
僕は700円を趣味ではなく、食事に使うしか脳のないイケメンを気の毒に感じたし、どれほど無味乾燥とした人生を送っているんだと、心の中でバカにしました。
だいぶ後になってから、食事にお金を使わず、少しでも美味しいものを食べようとしてこなかった自分のほうが、むしろ人生を棒にふっているような気もしてきたのです。

自分は食事に無頓着で、コンビニ弁当やインスタント食品、ファストフードが好きでした。
すると、味覚が育たないわけです。いつまでも子供が食べるような食事パターンから抜け出せない。
1989年に発売された別冊宝島『おたくの本』に、オタクっぽい人はイチゴジュースとジャムパンだとか、子供のおやつのような食事が平気と書かれていて、ひそかに赤面したものでした。食事にこだわりがない癖に、「食事なんて、お菓子でいいじゃん」と割り切ることも出来ないわけです。

歳を経たから、自動的に子供時代が終了して、新たに「大人」の設定がインストールされるほど都合よくはないのです。また、子供時代や思春期を、中年になった自分と分断すべきとも思いません。思ったより地続きだろうと感じています。


“詳しい話はしらんで言うんだけど、「パクリ」とか「トレス」とか「資料見て描いたからズルい」とか言いたがる人って、つまるところ、「だから、大した事無い」と言いたいというか、そう思いたいだけなんだよな、多分。”(

僕は、「ネタバレ」にも同じようなニヒリズムを感じています。
電車男が流行したころ、「どうせネタだろ?」という言い方が流行りました。受け狙いのウソ話だろ、という程度の意味です。ネタ=ウソ話には価値がない、信じるほうがバカだというわけです。
「本当はたいしたことないんだけど、秘密にしておくことによって価値があるかに見える」、そのような薄っぺらなニヒリズムが「ネタバレ」という言葉を裏から支えているように思えます。
しょせん、どんな立派に見えるものにも手品のタネがある。タネや仕掛けを先に話してしまったら、秘密が露呈されて見る価値がなくなるかも知れない。だから、タネ明かしせずに黙っておいてやろうぜ、といった傲慢を感じるのです。

僕だけがその映画を見ていなくて、ほかの人たちが見終わっている場で、「えーと…ラストまで話しても大丈夫ですかね?」と、気を使われることがあります。
大丈夫ですよ。あなた方が話した程度で、作品の価値が減じるなんてことはあり得ませんから。たとえ蓮見重彦と四方田犬彦が目の前で話したところで、それでも映画を見る楽しみは損なわれませんので。
作品をつくる人は神ではないし、永遠不変の価値や評価が作品に与えられるわけではありません。ただし、作品と個人との出会いには何千パターン、何億パターンと予想不可能なバリエーションがあり、出会いが多様であるほど、作品の評価軸も無限に広がるのです。今日の僕にとって無価値な作品が、数十年後、あるいは明日、誰かを救うかも知れない。それは自分だけでなく、他人を信じるということです。他人を信じないと、世の中は豊かにならないと思います。

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2017年10月24日 (火)

■1024■

モデルグラフィックス 2017年 12月号 明日発売
Dm48atxv4aesuoc●「旧1/100ZZ、これはこれで」
バンダイ1/100スケール「ZZガンダム」のキットレビューです。
カラー1ページ、「いつもの連載のようなノリで」と言われたので、キットを組み立てて、カメラマンに撮ってもらった写真を構成して……と、ページを丸々つくりました。

●組まず語り症候群 第60回
今回はAIRFIX製のクイックビルドキットのチャレンジャー戦車です。
旅行に行くので、次号分も続けて撮ってもらったり書いたり、いろいろ忙しく過ごしてます。


レンタルで、『スローなブギにしてくれ』。
Suro_nabugi特典映像に公開当時のパンフレットを文字起こししたものが収録されていて、藤田敏八監督の言葉が熱い。「70年代後半、優しさと倦怠に終始した都会の根無し草どもに、今80年、もっと凶々しいさすらいのロマンを! さまよいつつも、生きよ、堕ちよ」
そう、1981年公開だったのだ。僕は『ガンダム』や『イデオン』に熱中しながら、片方の耳で南佳孝のテーマソングをCMで聞いて、それは冷えびえとした煙草まじりの夕方の東京の空気だった。いつか僕にも手の届く大人のロマンがあるのに違いないと、ひそかに思っていた。ところが、憧れは醗酵しすぎると、空虚なセンチメンタリズムへと姿を変えてしまう。


古尾谷雅人の乗ったオートバイが、群青色に沈んだ朝の町を疾走している。
浅野温子が福生の駅に降り立つと、カメラは駅前ロータリーへとPANする。金髪の子供たちが、ローラースケートを履いて遊んでいる。この無国籍感。
だが、所詮は日活ロマンポルノ出身の監督のやること、下品なベッドシーンやレイプシーン、必然性のない全裸のサービスカット、仕掛けが丸出しの血糊などにより、いっぺんに火曜サスペンス劇場と化してしまう。
「片岡義男」と聞いたときにイメージする、あの乾いたポップ感は、とうとう映像化できなかったのだ。大森一樹の『風の歌を聴け』を見たときも、同じことを思った。それはつまり、監督が誰であろうとも、似たようなスタッフが集まると似たような映画になってしまうということ。

ふだん牛丼屋でメシを食い、ふだんパチンコ屋で暇をつぶしている人たちにとっては、その生活感がリアリズムとなってしまう。この時代、映画界にはそういう人材しか集まらなかったのだろう。逆を言うなら、いまは牛丼屋やパチンコ屋が当たり前のように出てくる野暮ったい映画をつくることは不可能だろう。


昭和は今よりも凶悪な犯罪が多かったし、人権意識も低かったと思う。『スローなブギにしてくれ』では、生きている子猫を電線に吊るしたり、窓から放り投げたりするシーンが出てくる。作り物ではない、本物の子猫を投げている。いま、こんなシーンを撮ったら大変な騒ぎになるだろう。

倫理観だけでなく、映像が社会に占める位置も変わった。
ケーブルテレビ用のチューナーで、YouTubeが見られるので、僕は見知らぬ誰かがキャンプしていたり、家族でバーベキューをやって、えんえんと会話している映像を見てばかりいる。とても面白いのだが、これらを果たして「映像作品」などと呼ぶ必要があるのだろうか? YouTuberの生活が、薄いモニター1枚を介して、直接、僕の部屋へ流れこんできているような感覚。

新海誠監督の『ほしのこえ』が発売された15年前、それに近い雰囲気があった。PCで予告Vlcsnap00019 を見て、どこの誰か知らないまま、DVDを予約した。下北沢トリウッドで上映しているといった情報は入ってきづらかったし、そもそも劇場で上映しているかどうかは、あまり重要ではなかった。
新海という人は何を職業にしていて、どこに住んでいるのだろう、ということが気になった。『ほしのこえ』は映画というよりは、「動画」だったのではないか。

その、PCの前に座っている匿名のひとりひとりの部屋に尋ねていくようなセンシティブな皮膚感覚を維持できているから、新海誠という個人は突出しているのではないだろうか。
大幅に話がそれた。『スローなブギにしてくれ』は、映画業界に暮らしていたプロたちの貧しさが露呈してしまっている。その暮らしなり貧しさなりが、いまでは武器になりうる。
権威が消滅したのではなく、権威を気にする必要がなくなった。価値観が変化したのではなく、ただ関係性が変わったというだけの話だ。

(C)1981 角川映画
(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films

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2017年10月21日 (土)

■1021■

アニメ業界ウォッチング第38回:キャラクターデザイナー毛利和昭さんに聞く、「ミスター味っ子」のアクの強いキャラたちの作り方
T640_741792実写映画に染まっていた大学時代、ちょくちょく見ては笑っていたテレビアニメが『ミスター味っ子』でした。今回、取材のために見直してみたら、やはり声を出して笑ってしまうほど面白い。
比喩表現としてビームや爆発が出てきたのに、カットが切り替わると、そのビームや爆発が物理現象として扱われている、パロディ的演出が冴えてました。あの闊達自在なセンスは『日常』あたりにも受け継がれていると思います。


レンタルで、『西鶴一代女』。
Mv5bmtgxntcwnzk0mv5bml5banbnxkftztc溝口健二は、学生時代に『雨月物語』と『山椒大夫』を見たきりではないだろうか。大学を出たばかりの編集者が「溝口はワンシーン・ワンカットどころか、ワーンシークエンス・ワンカットの場合がある」と話していて、唸らされた。シークエンスはシーンの高級な言い回しではないのだ。

松平家の家中が、主君の側室を探して歩く。芸妓屋の前に、ずらりと女たちが並べられている。家中は、彼女たちの間を縫うように歩き、「顔が長すぎる」「ホクロがある」などと文句をつけては、次の女、また次の女と品定めしていく。
芸妓屋の建物は、画面右奥から左手前へ、きれいなパースで収まっている。カメラは、そのパースに沿って進むのだ。家中が女たちの間を右に左に踊るように歩いていく。いちばん手前まで来たところでカメラは止まり、俯瞰で家中の歩いてきた道、女たちがずらりと並んだ風景を撮る。「こんなにいたのか」と驚くほど、ぎっしりと女たちが座っている。
カットの最後で、エキストラを増やしたのではないかと思って、もういちど見てみた。カメラは家中の歩みと一緒に進むので、一度にフレーム内に入る女は3人か4人ぐらい。最後だけ全員をフレーム内に収めるから、とても大勢に見える。よく計算された、音楽のように美しい長回しだ。


長回しは、俳優とカメラの動き、もっと言うなら撮影現場の“実務”の記録に他ならない。
撮影時、構図を変えたとき不自然に見えてしまう(背の高い俳優のほうが小さく映ってしまう)場合、位置を変えたり、俳優を台に乗せたりする。そういう工夫を「盗んで撮る」と言う。
確か、カットとカットを繋ぐときに時間を飛ばす場合も、「盗む」というんじゃなかったかな。いずれにしても、長回しは場所も時間も盗めない、嘘のつけない実務の記録なのだ。

実務とは言っても、溝口健二の場合は、流れるようなカメラの動きで流動的な構図を組み立てていくから、カメラワークに映画的作為が込められている。海外にショックを与えたのも、その流麗なカメラワークだったはずだ。
カメラが俳優と同レベルで、対等に演技している。俳優の演技を記録するだけの装置から脱却し、意志をもって動くところが画期的なのだ。


選挙でも何でも、僕は負けそうだけど、誠実にがんばっている側を応援したい。自分が多数派でいたい、優勢な側に立ちたいとはまったく思わない。

期日前投票も終わらせたし、後はもうどうでもいいんだけど、小池百合子の「東急ハンズにもニトリにもいろんなもの売ってますけども、ちょっと足りないのが希望」という発言()には絶句した。
商品を作ったり売ったりしている人たち全体を、足蹴にしている。額に汗しないで権力を得てしまった大人は、たいてい創造的な仕事に対して無神経になる。ものの価値を知ろうとも分かろうともしないので、幼稚な暴君になる。言っても直らない、話しても分からない、殺しても死なない相手なので、無言で距離を置くしかない。

「バカ」「無知」とか「頭が悪い」より、「性格が悪い」人のほうが圧倒的に多いと思う。そして、バカで無知な人よりも、性格の悪い人が社会に及ぼす実害には深刻なものがあると、マジで思います。

(C)1952 - Toho

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2017年10月14日 (土)

■1014■

Febri Vol.44 発売中
Dl7otjpu8aah1br●Febri Art Style
今回は『メイドインアビス』です。美術監督・増山 修さんにインタビュー、本編で使われた背景美術をカラー4ページに構成しました。
増山さんは「仕事の8割ぐらいはロジックで成り立っている」とおっしゃいます。絵を「感性」や「好み」だけで描いていると思い込んでいる人は、まだまだ多いのではないでしょうか。

【独占インタビュー】早見沙織・下野紘・洲崎綾・斉藤壮馬が語る、「RWBY VOLUME 4」の新展開と新事実
Dl7ikdku8aab7xdほぼ一年前の『RWBY VOLUME 3』公開時に引き続いて、今回は新メンバーにインタビューさせていただきました。
前回は、物語の展開と同じくしっとり静かな雰囲気でインタビューが終わりました()。それが『VOLUME 3』の余韻とフィットして、特に小清水亜美さんの「やっぱり人間なんだな」という感想が緊張感を与えてくれました。
今回はにぎやかで、終盤は雑談と化しているのですが、それが『VOLUME 4』の先の読めない散文的な終わり方と、よくマッチしていると思うのです。『RWBY』関連のインタビューでは、いい仕事をしていると自負しています。


レンタルで、1976年の米映画『スター誕生』。
Mv5bmtq5mzmymji0ml5bml5banbnxkftztc冒頭から、カメラはコンサート会場の中に投げ込まれる。カットを割りながら歌唱するシーンはプレスコを用いねばならず、仕込みが大変なはずである。ところが、主演のバーブラ・ストライサンドの音声解説を聞くと、すべて同時録音なのだそうだ。
同録の甲斐もあって、カメラが現場に殴りこむような、荒々しい撮り方が出来ている。フレームを決めてから、俳優を配置するタイプの映画ではない。


完成度が高いのは、ラスト近くの構図だ。
落ちぶれたロックスターが、赤いスポーツカーで砂漠の中の一本道を疾走している。空撮も交えて、あらゆる角度から撮りつづける。荒々しいショットの連続で、彼が自暴自棄になっていることが分かる。
だが、カメラはその場にとどまり、画面奥へ去っていく車を凝視しはじめる。車はついに地平線をこえて、画面から消える。
カットが切り替わると、画面いっぱいの空である。車が消えた画面奥から、今度はヘリコプターが画面手前へ飛んでくる。トランシーバーを通して、「転倒による事故」「死者は男性一名」などのセリフが聞こえる。
セリフを裏付けるように、カメラがヘリの動きに合わせてティルトダウンすると、横倒しになってクラッシュした赤い車が、大きくフレームインする。横転した車は、いわば巨大な舞台装置として機能する。人々は、車の裏側で隠れるように芝居をする。

地平線の向こうへ消失した車。その消失点から現れるヘリコプター。事前と事後、決定的に違ってしまった二つの世界を表わすには、むしろ構図を共通させたほうが効果的なのだろう。
そして、カメラは去っていった車の手前に回りこんでいて、その悲惨な末路をあけすけに撮りつづける。いわば、観客を出し抜いて、何が起きたのかを目撃している。事故の瞬間を、われわれは見せてもらえない。だが、カメラは事前に知っていたのだ。
構図をどう決めるか、カメラをどう動かして、何を撮るのか。ただそれだけのことなのだが、われわれは個々のカットを頭の中でより合わせて、「とりかえしのつかいなことが起きた」と、事態を勝手に認識してしまう。われわれは、いつも映画に騙される。だから、「疑いながら見る」必要があるのではないだろうか。

(C)1976 - Warner Bros. All rights reserved.

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2017年10月11日 (水)

■1011■

【懐かしアニメ回顧録第35回】キャラクター描写にまで関与する、「THE ビッグオー」のすぐれたロボットデザイン
Dlqk8vzvwaeevoa第12話のビッグデュオとの対決について書きました。
ちょっと分かりづらいかも知れませんが、左目をカバーで覆っていて、右目がむき出しになった男が敵となります。彼の乗るロボットも、やはり左右不対象の顔をしています。そのロボットが、味方であるビッグオーの右目を砕いて、内部のカメラをむき出しにします。
つまり、敵の男とビッグオーが外見的特徴(右目がむき出しになる)を共有してしまうのです。ここで視聴者は「ビッグオーが倒されるのではないか」ではなく「ビッグオーに乗っている主人公が、敵のように狂ってしまうのではないか」を怖れているはずです。

つまり、「ロボットの顔」を通して、キャラクターに変化が起きてしまうのではないか、という不安が生じるのです。
いつも言っていることですが、「画面に何が映っているか」を検証することなしに、作品の価値は測れません。


レンタルで、ポーランド映画『パプーシャの黒い瞳』。モノクロ映画。
Papusza_sub1_large自ら文字を習得し、ジプシー出身の詩人として注目された実在の女性・パプーシャの生涯を、時系列を前後させながら描く。しっとりした溶暗・溶明が印象的な映画だ。
ここにアップしたのは、家族に売られて、望んでいない相手と結婚させられるシーン。左右から女たちの手が伸びてきて、花嫁衣裳を着せられている。ワンシーン・ワンカットである上、スローモーション、ようするにハイスピード撮影である。
きれいに化粧してもらいながら、パプーシャの左目からは涙が流れている。なぜハイスピード撮影かというと、このカットには彼女の主観的な時間が流れているからだろう。撮影はあっと言う間だったはずだ。だが、そのあっという間に、家族に売られた彼女はどれだけ様々なことを考えただろう? それを想定すると、撮影時と上映時の時間の流れを変えて、いわば無慈悲に流れていく実時間に抵抗するしか、「人物の内面」を映画の原理をもって描く方法はないかに思われる。


もうひとつ、印象的なシーンがある。上記カットの直後である。
パプーシャを金で買った男が、花嫁衣裳のパプーシャの前に現れて「これから贅沢させてやるぞ」と得意げにしている。パプーシャはナイフを取り出す。男を刺すつもりなのだろうか。
そうではない。彼女は自分の左頬をナイフで傷つけて、「これでも結婚する気はある?」と問いただす。そこで、画面はフェードアウトする。
しかし、シーンはそこで終わりではない。短いフェードインによって、再び、自らの顔に傷をつけたパプーシャのアップが映る。彼女の声がかぶさる。「大いなる森よ、どうか私の子宮を塞いでしまってください」と。彼女の顔の傷から、血が滴り落ちる。
それから、またフェードアウト。長い黒コマがつづく。画面が明るくなると、十数年が経過している。

いちどフェードアウトで終わったはずのシーンを、なぜまた繰り返すのだろう?
二度目のパプーシャのアップでは、彼女の心の声が聞こえる。つまり、このカットは実時間ではなく、パプーシャだけが感知している「内面の時間」なのではないだろうか?
だから、フェードイン/アウトで包みこまねばならなかった。文章でいうと、( )のように。


「作中人物の内面」などという不可視のものを表現するとき、映画は機械的レトリックを駆使せねばならない。そのレトリックとは、すなわち撮影時に俳優が演技している「実時間」と、上映される「映画の時間」とを乖離させることだ。
Dbpbvbcvyaer1mたとえば、『ブレードランナー』終盤、ロイ・バッティが絶命するのを、デッカードが見ている。あのシーンで使われているのは「コマ伸ばし」。一秒間24コマで撮影した後、ひとつのコマを複数に増やして、スローモーションに近い効果を出している。
コマ伸ばしによってコントロールされたイレギュラーな時間は、一秒を一秒と錯覚させる「映画の仕組み」から逸脱する。そのようなメカニカルな手続きによってしか、「作中人物の内面」にアプローチするのは不可能。それが映画なのだと思う。(演技やセリフは、映画ではなく演劇に属している。)

(C)ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013
(C)1982 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

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2017年10月 4日 (水)

■1004■

メイキング オブ 『マイマイ新子と千年の魔法』 6日発売
03352733_12011年に発売されたムック本が、電子書籍になります。
電子書籍化の話自体は、かなり前から聞かされていました。当時としては力不足でしたし、出来れば作り直したいし、そもそも僕では役不足とも思うし……。
『この世界の片隅に』の大ヒットによって『新子』にもスポットが当たったことは、とても嬉しいです。今後も、ちょくちょく上映されていくことになるだろうと思います。
冒頭の福田麻由子さんのナレーションが「去年の夏」のところで途切れて、また「去年の夏」で再開する、あの音楽のようなタイミング……時間感覚。「これは何にも代えられない、すごく大事なものが始まった」という直感は、何度見ても新鮮なままだし、いまだに何がどう凄いのか言い当てることが出来ません。


この本の発売日に東日本大震災が発生して、そのちょっと前から、僕は母の死の中でこの本を作っていたのだなあ……と、当時のあれこれを振り返ると、買ってくださった方、これから買ってくださる方には申し訳ないけど、いつか『新子』資料集の決定版が、僕以外の誰かの手によって作られるべきだと思わずにいられません。
『この世界の片隅に』を20回も観に行っている人たちは、どんな気持ちなんだろう。
『新子』が上映されるたびに何度も足を運んで、いつの間にかお客さんが途切れなくなってきて、寒い寒い冬から少しずつ春になって、「そろそろ僕が行かなくてもいいかな」と距離を置きたくなった、ちょっと胸がしめつけられるような気持ち。明らかに過剰な思いいれ。

「廣田さんが、そこまで言うなら」と、映画館に一緒に行った知り合いたち。卒業した小学校から歩いて行ける映画館で、映画そっくりにドカンを開催した日。映画そっくりに集まってくれて手伝ってくれた人たち。福田麻由子さんに渡した花束。
貴伊子の母の不在と、タツヨシの父の自死は、どこかで僕の母の死と結びついてしまっている。人生を分け合ってしまっている。この映画と僕とが。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、僕の人生から離れてくれない。他のどの映画とも違う。あのとき親密にしていた他の誰とも、分け合えない。それは「独占したい」とか「俺がいちばんよく分かっている」というくだらない感情とは、まったく違います。「孤独」なのです。この映画のことを思い返すたび。

僕の「孤独」は、この映画の中に溶け込んでいて、分けることが出来ない。僕は、この映画に甘えているのです。あまり、こういう関係はよろしくないな、と思います。


僕の世界観というのは、「何もなくて退屈だとボヤくよりは、ちょっと豊かな気持ちになれるように、ほんのちょっとの慰めがあるように」。映画やアニメも、そのためにあると思っているし。僕の仕事も「ちょっとの豊かさ」につながってくれればいいと思っているし。
広い道は敷けないけど、細くて歩きやすい道を、あまりいい思いをしていない誰かが安心して使ってくれればいいな……と思っています。

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2017年9月30日 (土)

■0930■

アニメ業界ウォッチング第37回:“ぴえろ”創設者の布川郁司が語る、アニメ企画のこれまでとこれから
T640_739353ぴえろの布川郁司さんに、取材させていただきました。布川さんのお名前を記憶したのは、言うまでもなく『うる星やつら』のオープニングです。
この取材は、10/7(土)から開始予定の【三鷹ゆかりのアニメ『魔法の天使 クリィミーマミ』ビジュアル展】の告知の意味もありますが、お話のテーマは、あえて別のものにしています。


レンタルで、1996年のイギリス映画『秘密と嘘』。
Secretsandlies若い黒人の女性が、母親を亡くす。彼女は役所で、自分には生みの母親がいることを知り、彼女に会いに行く。母親は白人で、工場で働きながら成人したばかりの娘と暮らしていた。母親は、黒人の娘が会いにきたことに戸惑う。
まあ、筋立てを整理すればこうなるのだが、最初は三つぐらいのプロットが別々に並走している。母親の兄は、小さな写真館を経営している。そっちはそっちで、妻とのいさかいが絶えない。それぞれ、小さな家族模様が描かれる。

映画にグイと引き込まれるのは、写真館を経営する兄が、家族写真を撮るシーン。おそらく俳優ではない普通の人たちの家族を実際に集めて、カメラの前で正装させて、アドリブで撮っている。次から次へと、さまざまな夫婦や親子、ペットの犬などが画面に現れては消えていく。カメラを覗いている兄の声は、「笑顔でお願いします」「もう少しあごを引いてください」など、画面外から聞こえるだけだ。カメラのファインダーごしに、彼と観客とは一体感を経験する。
このシーン以降、どんな場面が出てきても、親しみをもって場面に没入することが出来る。


この映画は、ほとんどすべてアドリブで撮られている。だから、表情を捉えやすいように、人物は並んでいるか、横顔を見せるような位置に座っている。どうしても切り返しをしなければならないシーンでは、カメラを二台置いて、同時に撮っている。
F_4909083_1クライマックス、バラバラに生きてきた人たちが一堂に会するパーティのシーン。正面の座席には、誰も座っていない。なので、7人全員のリアクションを同時に撮ることができる。
検眼師の黒人女性が「人の目を見ると、その人の性格が分かるのよ」と話すと、写真家の兄が「その通りだな」と相槌を打つ。職業や立場をふまえながら、それらしい雑談を交わしている。
この手の人間くさい撮り方をした映画が好きな人にとっては、至福の二時間半だろう。

特に、黒人女性と彼女の母親とが、どんどん仲良くなっていくシーン。笑いながら店から出てくる二人を、望遠レンズで撮っている。セリフは聞こえない。周囲には、映画と関係ない通行人も映っている。そのラフさが、心地いい。
昼間から酒を飲んでいた母親は、最初は髪も服も乱れていたが、だんだん明るい色の清潔な服を着るようになる。二人が食事する店が、あまり高級そうではないレストランなところもいい。当然、セットなど建てるタイプの映画ではないので、すべてロケである。
しかし、衣装やメイクや撮影場所は、とても丁寧に選択されている。


こういう映画では、カット割りや構図を分析しても、ほとんど意味がない。俳優の生のリアクションを引き出しながら、たまたま撮れた良い表情を選んで編集したりしているからだ。
無理やりなことを言うと、街にカメラを持ち出したという意味では、こういうロケ重視、アドリブ重視の映画はヌーヴェルヴァーグの子孫と呼べるかも知れない。というより、アドリブ重視といえば、ジョン・カサヴェテス監督の『アメリカの影』があった。そっちに近いのか。

結局、いろんなタイプの映画を受容するには、いろんなタイプの映画をあれもこれもと見続けるしかない。そして決して点数などつけず、映画によって寛容に、おおらかに尺度を変えることだと思う。

(C)October Films

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2017年9月27日 (水)

■0927■

モデルグラフィックス 12月号 発売中
Dkikizxvwaax5rs●組まず語り症候群 第59回
今回は、ぞっこんコレクション『まじかるタルるートくん』より、「1/10 江戸城本丸」(バンダイ)です。このシリーズについては、ほぼ歴史の闇に葬られているのではないでしょうか。
ついつい、気を緩めると、この手のフィギュアネタに走ってしまうのですが、「まだそんなことやってんの?」と言われるぐらい、しつこく続けたいと思います。誰が読んでるか分からない、雑然としているけど無限に自由な連載でありたいのです。このブログも、そうですね。


レンタルで、『チャンス』。この映画も、中学生の頃にテレビで見たきり、すっかり分かった気でいた。
Mv5bnzbkzgi0mzitowq3mc00n2izltkymtqたぶん、概要はよく知られているのではないだろうか。生まれてからほとんど外出したことのない無学な庭師が、初めて街に出る。たまたま大統領とも付き合いのある実業家夫婦と知り合ったことで、庭師としての他愛ない発言が勝手に誤解され、政治的影響力を持ちはじめてしまう。
優れたコメディなのだが、後味は悪い。空虚といえるぐらいの人間不信が根底にある。原作・脚色のジャージ・コジンスキー氏の数奇な運命を知ると、その不信感も納得である。


主人公の庭師は、人と会っているとき以外は、テレビばかり見ている。
彼自身が副大統領の代理でテレビ出演するシーンからは、テレビ番組を見ている人々にカメラが向けられて、視点が複数になる。
14706_005庭師である主人公と暮らしていた黒人の家政婦が、黒人ばかり集まったホテルで、テレビを見ている。そのシーンはテレビ画面のアップから始まるのだが、テレビの性能が悪いのか、画面は真赤である。家政婦は「白人なら、この国ではどうとでもなる」「本当は頭が空っぽなのに、白人だからテレビに出られた」と、いわば真実を言い当てている。しかし、彼女が見ている画面は真っ赤で、本来あるべき色ではない。
色眼鏡をかけているのは彼女なのだろうか、それともテレビなのだろうか。


「テレビを見ている」といった、登場人物の受動的な状態を見てしまうと、観客は(自分も映画のスクリーンを見ているかしかないので)登場人物と自分とを重ね合わせてしまう。冒頭から、ピーター・セラーズの演じる庭師はテレビを眺めているだけだ。いやでも映画に没入してしまう。
さらに、「実は彼は世間知らずの庭師にすぎない」と知っているのは観客だけなので、観客は優越意識をもって映画を見ることができる。彼の正体を知る弁護士や家政婦の再登場によって、その優越感は揺らぐ。

もうひとり、庭師の正体に気がついた者がいる。実業家の家に寝泊りして、彼の治療をつづけている医者である。周囲の人間が庭師の言動にうっとりと魅了されているとき、医者だけが不審の目を向けている。
彼の登場シーンにも、ちょっとした工夫がある。庭師は実業家に薦められて、葉巻を吸おうとしている。歓談する2人の背後でひとり、ビリヤードのキューを構えているのが医者なのである。いわば、彼だけが勝負に出ているというか、戦闘状態に置かれている。
そして後半、医者は庭師の情報を外部にリークしようと、電話をかける。そのシーンで、医者は右手を椅子の背もたれにかけて後ろに引き、左手を机のうえ、まっすぐ前に伸ばしている。つまり、ビリヤードで玉を突くのと、まったく同じポーズをしているのである。

映画を見るなら、こういうところを見ないと。「監督の意図ではないから認識する必要はない」「監督の意図を受け取れたものが、正しい観客」という考え方は、文化を萎縮させる。


『けものフレンズ』の監督降板をめぐるTwitter上の騒ぎには、うんざりさせられた。
監督=作家の側を神聖視しすぎ、例によって「僕は彼のことをちょっとは知っている立場なんだけど」と事情通の顔をしたがる者。人気の出た過去のコンテンツについて「実は、あれは俺が仕掛けたんだよね」と得意顔になる者。
第一線で戦いつづけている者は、いつだって「今」と「明日」の話しかしない。「昨日」の話をすればするほど、第一線は遠のいていく。

(C)United Artists Corporation

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