2020年1月 5日 (日)

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キャラクターからメカニックまで――デザイナー・安田朗のこれまでとこれから【アニメ業界ウォッチング第61回】
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劇場版『Gのレコンギスタ』を応援する意味もこめて、以前からお願いしたかった安田朗さんにご登場いただきました。

複数の透過光が引き立てる「勇者エクスカイザー」の変形シークエンス【懐かしアニメ回顧録第62回】
90年代後半、サンライズに見学に行ったとき、ロボットの合体バンクはQAR(クイック・アクション・レコーダー)を使って、特別丁寧に作画されると説明を受けました。しかし、演出的に評価される機会は少ないと思います。


年末年始に観た映画は、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』、『ダイナマイトどんどん』、『ツィゴイネルワイゼン』、『ブルークリスマス』など。
しかし、たまたまYouTubeで『赤毛のアン』第1話を観て、どうしても続きが気になり、dアニメストアで全50話を観終えた。
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高畑勲さんの作品としては、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』と比較されてか、今ひとつ評価が高くない気がする。宮崎駿さんがレイアウトから抜けた痛手も、後半にくっきりと影響が出てしまっている。回想シーンを多用して作画の遅れを取りもどそうと焦っているのも、はっきり分かる。アンが大人っぽく成長し、マリラが涙もろくなった終盤は、最初のころの生き生きしたムードではなくなっていく。

逆に、どうして前半に魅力的かというと、空想癖のあるアンの世界観を肯定しながらも、マリラの覚めた目線を忘れずに描き、作品の中に「空想-現実」という拮抗する力が維持されていたからだろう。アンが「ああ、なんて悲劇的なのかしら!」と大袈裟に嘆いた直後、マリラの呆気にとられた驚き顔が「止め・無音」でインサートされる。そのタイミングが、くやしいぐらい面白い。
高畑さんの『映画を作りながら考えたこと』を引っ張り出して『アン』について語ったインタビューを読むと、原作を「ユーモア小説」と評していて、なるほど確かに笑える。マリラがアンの大袈裟な言動に慣れてくると、「そんなわけがないだろう」「またバカなことを言ってないで」とリアクションが手馴れたものに変化していき、そこも抜群に面白い。アンの空想とマリラの現実、どちらも対等に扱う姿勢がいい。双方の立場にたって、大真面目に描いている。羽佐間道夫さんの、いっさい感情をこめないナレーションが、作品の姿勢を体現している。


一方で、マリラがお気に入りのブローチをなくしてしまい、アンに盗みの疑いがかけられる第11~12話のサスペンスフルな展開も見事だった。
なぜなら、「空想癖のある少女を肯定的に描く(決して否定はしない)」という作品の基本姿勢を、視聴者が疑いはじめるからだ。マリラはアンがブローチを盗んだものと決めつけて、珍しく長めのモノローグが入る。いつもはアンが喋りつづけるはずなのだが、このエピソードでは逆転している。
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また、アンは自分の空想をマリラとの交渉の武器に転用する。アニメでは、彼女の非現実的な空想を本物のように1クールかけて描いてきたわけで、このエピソードでもアンの空想は本物として、セル画で描写されねばならない。視聴者も、そのいつもの段取りにコロリとやられる。セルに描かれたものはお皿であれ妖精であれ、それが空想なのか現実なのか視聴者には区別しようがない。自分の常識に照らして、「妖精が実在する世界ではないから、これは空想なのだ」と分別するしかない。このエピソードは、視聴者の常識を利用するというか、つけこむのだ。小説なら台詞だけだから、こういうミスリードは生じえない。
(いま気がついたが、現実と空想が等価に描写され、痛々しいほど拮抗する第12話は、富野由悠季さんの絵コンテであった。)

確認のため、第11話と第12話を見直してみたが、マリラ役の北原文枝さんの見事な芝居を聞くにつけ、テレビアニメは声優のものだと思う。キャラクターの印象は、半分は声優が決めている。
『アン』は綱渡りのようなスケジューリングのため、アフレコでは、演技の最初と最後をデルマで印しただけのリールが使われたという。そのような過酷な環境下で、生き生きとキャラクター像をつくりあげる。誉められたことではないのかも知れないが、それも一種の文化なのだと思う。

(c) NIPPON ANIMATION CO.,LTD.Presented by Janime.com

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2019年12月25日 (水)

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モデルグラフィックス 2020年 02 月号
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●模型で読み解く『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』延長版-2
片渕須直監督インタビューも込みの連載第2回は、ピットロードさんへ取材。難易度の高い1/700大和を、初心者が手にとるかも知れない『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』仕様として発売することの意義を聞いてきました。

●組まず語り症候群 第86夜
今回はPLUMさんのプラアクトシリーズから、インジェクション成型のみで再現された「クサリ」を取り上げてみました。


黒澤明の『静かなる決闘』をレンタルDVDで観た翌日、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を立川で観てきた。
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三年前はゼロ号試写に呼んでいただき、「とても泣けるから自分の目で確かめてみて」的な声が多くて、「えっ、そんなに分かりやすい映画?」と違和感をおぼえたものだった。もっと正確に言うと、「確かに泣けるだろうけど、そんなお涙頂戴の映画を貴方がたは求めていたのか? 単に泣かせるために映画を観てもらうのか?」と、反発に近い気持ちを抱いた。
それ以来、『この世界~』には、ずっと疎外感をかんじていた。この映画の意義、価値は着実に認められ、それが多数の受賞に結びついたのは理解できるし、喜ぶべきこと。
一方で、依存性の高い映画とも思う。すずさんはアイドル性があって可愛くて、全体に笑えるシーンが多くて、「おもしろうてやがて悲しき」式に最後は泣くことだって出来る。「愛らしい映画です、号泣しました」とでも言っておけば、それだけで受容される(うまく言えないけど、この映画には「許す」という機能があると思う)。

あと、片渕監督は博識でサービス精神が豊かだから、取材するのが楽なのよ。僕がやってる連載だって、かなり監督の発言に依存していると思う。考えることを監督に任せすぎて、受け手はどんどん楽になる。それでも『この世界~』さえ取り上げれば、一定数のファンは反応してくれる。一方で「今ひとつ、あの輪に入りづらいなあ」という人は、ますます疎外されていく。監督のご機嫌うかがいのような感想ばかりが、果たして健全な反応と言えるんですかね?
そんな予定調和を求めていたの? 『さらにいくつもの』を観ても、やっぱり「うん、確かに別の映画になってますね!」と合言葉を言わないといけないの? そう言わないと仲間はずれにされるんじゃないの? ある種の窮屈さを感じながら、映画館の席に座った。
 
でね、僕は泣くどころか、大きな溜め息をついていた。映画のトーンが、何とも苦い、気まずいものになっていて、笑ったり泣いたりするより「ぐぬぬぬぬぬぬ……」って感じ。すずさんと周作さんの交わすちょっとした会話に厳しい、ビターなニュアンスが加わってしまって、いたたまれなくて席を立とうかと思ったぐらい。でも、これを求めていたんだな。もう可愛い映画ではないし、手放しで泣ける映画でもない。嫌いな人もいると思う。僕は今回のほうが、断然好き。


映画館で映画を観ることの意味って、別にスクリーンの大きさでも音響の良さを味わうためでもないと思う。映画館では、映画に主導権がある。途中で止められなくて、最後まで凝視するしかない。「もうやめてくれ!」と思っても、止まってくれないんです。
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すずさんが周作とリンの過去を知ってしまって、それはもう原作漫画を読んでれば知ってるはずじゃん。「ああハイハイ、このシーンね」とタカをくくっていると、秘密を知ってしまうシーンが、その後のすべての会話に影響していく。漫画なら、読むペースを変えたり、途中でやめたりも出来る。映画は突進していくんですよ。
特に、すずさんと良い関係だった水原さんが泊まりに来るシーン。前作では何もなかったけど、今作ではすずさんと周作さんが気まずくなっているタイミングで来る。「えっ、ちょっと待って!」「今は来るな!」って感じ。
同時に、どうして周作が自分の妻を男と二人きりにさせたのかも、かなり難しいんだけど、前作よりは納得がいく。理由というかヒントぐらいはつかめる。そういうシーンが、いっぱいある。戦争が終わってすずさんが慟哭するシーンも、これだけいろいろ抱えたままなら、そりゃあ泣くでしょう、といった具合に。……大変な読解力が必要とされるけど。

こういうこと書いて、「ネタバレしてる」って思う? あのね、映画館でぶっ通しで観ないと、絶対にこのニュアンスは分からない。原作を読み返しても、あの苦い、切ない、しかし止まることなく突き進んでいく日常、すずさんの心境がどうであろうが、夫が憎かろうが何だろうが、必ず落とされる原爆、必ず終わる戦争、それでも容赦なく続いていく日常のあれこれの力強さ、残酷さは映画の奔流の中にしかない。


晴美さんが亡くなったり、戦災孤児を連れて帰ったりするんだけど、それらはもう「泣かせ」ではない。リンさんの秘密と等価値に感じられる。
逆に、リンさんと周作の過去を抱えたままだから、すずさんは酷い目にあっても生きていけたのかも知れない。戦災孤児を連れ帰れるほどの力が出たのかも知れない。そして、映画が終わっても何も解決してないんだよ。あいかわらず、夫に対して忸怩たる思いを抱えたままなのだろう。失った右手が戻ってこないように。

今回の映画は、そうなかなか依存を許してくれない厳しさがある。
この割り切れなさに、僕は元気づけられたけどね。この後の人生、何とかなる気がしてきた。

©2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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2019年12月16日 (月)

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EX大衆 2020年1月号 発売中
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特集記事「ポケットモンスターが教えてくれたこと」の中で、同人誌研究家の三崎尚人さんに取材、1998年に同人作家が刑事告訴された「ポケモン同人誌事件」を振り返っています。


三鷹市役所納税課から、「オール東京滞納STOP」というキャンペーン(?)の刷られた督促状が送られてきた。「差押えやタイヤロック、捜索等の滞納処分など、多様な徴収対策に取り組んでいます」と結ばれており、いつもにも増して脅迫めいている。脅して払わせるのではなく、税金に対する理解を促して、納得して払ってもらうべきではないのか?
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というか、確かに僕は遅れ気味ではあるが、今月最初に6万円も、都市民税を払ったばかり。これから大きな収入があるから、また払おうという気持ちでいた。脅される謂れはない。
そこで、土曜日でも窓口を開いているというので、30分ほど歩いて市役所まで行ってきた。すると、これ見よがしに設置されたタイヤロックが目に飛び込んできた。これを目にするのが不愉快きわまるので、ずっと市役所には行かず、駅前の市政窓口を払っているんだ。撤去してほしい、とメールでお願いしたことさえある。
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その時の会話はすべて録音して、こちらにアップしてある()。「権力を振りかざしてるじゃないですか?」という僕の問いに、三鷹市職員さんは「まあ、そうですね」と答えてしまっている。
NHKもまったく同様なのだが、「丁寧に話して聞かせて、納得してもらって払ってもらう」努力を放棄させるのが、こうした嫌悪や恐怖を引き起こす力づくの示威行為だ。僕が納税は世のため、人々との助け合いのためだと思っていても、市役所側が「滞納は許しません!」「財産を没収します!」と、最初からケンカ腰では僕の誠意も消し飛ぶ。リンクした動画を見てほしいが、僕が払ったばかりの6万円を女性の職員は「期限内に払ったわけではないから、払ってないですよね」と言い換えている。期限内でないと、いくら払っても納税したことにならないんですと。

もうね、話し合いになるわけないでしょ? 相手は権力と組織にガードされてるから、何とでも言えるわけ。動画の最後、僕は「……恥ずかしい」と言い残しているけど、彼らの脅迫行為が情けなくて、泣いてましたからね。
だって、すべての仕事は他人のため、世の中を良くするためにあるんじゃないの? 市役所は、納税者を脅すことが快感になってしまってないか? だとしたら、俺はあなた方の余興につきあって、せっかく稼いだ金を払いたくない。納得のうえで気持ちよく納税したいのに、ことごとく気分を害しているのは、市役所側じゃないか。喜んで払えるように工夫すればいいのに、バカだよね。企画力がない。


まあ、「廣田のこういうところが嫌いなんだよ」って人も多いだろう。「決まりは決まり」「ひとりだけ例外は許されない」など、小学校の頃から刷り込まれた価値観に、50代にもなればガチガチに脳が硬化させられていく。「自由には責任がともなう」って分かった風な賢しらな言い方があるけど、それ自体が自由を放棄した、身をもって自由を体験したことのない組織人間の悲しい言い訳なんだよ。

僕は自分で企画を考えて、自分で取材して構成を考えて記事を書いて、読者さんに少しだけ暇つぶしを楽しんでいただく。ちょっとだけ楽しい思いをしてもらう。その対価として、お金をもらえているわけだよね。
お金がほしいがためだけに、面白くもないものを「面白いですよ」と宣伝したりはしないわけ。そうしなくていいように、ウソをつかなくても仕事が出来るよう、努力というか工夫して注意してきたよね。他人を脅して、困らせてカネを得ているヤツには分からないだろ? この澄み渡った空気。濁りのない自由。
ちょっとでも、わずかでも世の中が過ごしやすくなるように、誰もがイヤな思いから逃れられるように……そう思って仕事してますからね。理想をもって。
理想がない人は他人を説得できないから、脅迫するしかなくなるんじゃないだろうか。別に役人でなくても、ちょっとした人間関係で優位に立ちたい人って、脅すような威圧的な会話を好む。豊かな理想のないニヒリストは、どんどん冷酷になり孤独の中に篭城していく。


最初から税金を天引きされている方は不愉快だろうけど、僕のように収入に波がある人間は、「税金は払えるときに払う」しかない。「払わない」わけではない。
まずお金を得たら、生活に困るところから埋めていくわけですよ。家賃とか光熱費とか。で、今月は数万多く稼げだぞとなったら、やっぱり映画に行こう!とか、美術館に行くとか本やプラモデルを買うとか、美味い食べ物だとか、まずは幸せになること、心が豊かになることを考えますよね。それを我慢しろ、ひとりだけ贅沢すんなって空気が、本当に日本には充満している。3千円のパンケーキを食うなとかさ。

動画の中でも少し話しているように、僕は貯金が少ない時、税金を払わないでいたら口座を凍結されてしまったことがある。
次に何が起きると思う? 強制的に生活保護を受けさせられる。ちょっと待ってくれ、今月だって少しだけど原稿料が入ってくるし、再来月には数十万入ってくると説明しても、無理やりボロいアパートに引っ越しさせられた。つまり、収入に波があるがゆえに貯金をコントロールして切り抜けていくのがフリーランスなのに、市役所は「定収入がなきゃ駄目!」「清掃員か警備員に転職しろ!」って均してしまう。
人間は幸せになるために生きているのであって、税金はその助けになるべきではないのか? やってることが逆なんだよ。まるで文化的ではない。「納税者」という名前の家畜を飼ってるみたい。


昨夜は、クリント・イーストウッド監督の『恐怖のメロディ』を観て、眠気が吹き飛ぶほど面白かったのだが、また今度。110円でレンタルしてきた映画で、こんなにも充実した時間をすごせるのか。
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お金のない若者に言いたい。少しでも余裕ができたら、映画を観よう。本を読もう。少しでもいい、文化的なことに時間とお金を使おう。あなたは納税する機械じゃない。生まれながらに、自由の翼だ。

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2019年12月12日 (木)

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「マイマイ新子と千年の魔法」は、積み重なった世界を“鏡”で指し示す【懐かしアニメ回顧録第61回】
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10周年記念上映で観て、気になった「鏡」について書きました。
10年も経ったことだし、「初興行時には不入りで、熱心なファンが活動したおかげで……」といった枕詞は、今後は不要と思います。10周年記念でアートブックを作ることになったときも、「当時どういうことが起きたのか記録しておきたい」という案に、僕は賛成しませんでした。他の映画と同様、純粋に作品の価値だけで生き残っていってほしいからです。


最近レンタルして観た映画は、ロバート・レッドフォード監督『ミラグロ/奇跡の地』、フランシス・コッポラ監督『タッカー』、そして市川崑監督『現金と美女と三悪人』。
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『現金と美女と~』、これが圧倒的に凄い。タランティーノの原型みたいな感じ。
このバージョンは短縮版で、原題は『熱泥地』だそうだけど、ラストに地獄のような泥火山が出てくる。もちろん、本物ではなくて特撮。その特撮の泥火山が、ひとつの見せ場になっている。主人公の男とヒロインを追ってきた男が、馬からふり落とされて、泥火山に転落する。『ターミネーター2』みたいに、片手を伸ばしたまま沈んでいく。特撮としては稚拙な部類なのだが、表現としては破天荒で力強い。

つくづく、「泣ける映画」=「優れた映画」という考え方が、いかに狭量で偏向しているか思い知らされる。泣ける要素などひとつもなくて、ショボい銃撃戦や殺し合いばかりだし、ヒロインは変にエロいしドラマはないし、ミニチュアからマットペイントから、ヘンテコな特撮シーンが満載。だけど、その天衣無縫のムチャクチャさが“熱い”んだ。
冒頭が客船の中で(セットと特撮のみ)、途中から山の中に舞台が移るんだけど、狼が遠吠えしてるカットがある。明らかに、普通の犬なんだよね。笑ってしまうけど、だけど「これは狼なんだよ、本物なんだよ!」と映画が訴えているかのようで、かえって感動する。


カット割りも出鱈目で、ラストで主人公たちを追ってきた男が馬に乗っているわけ。馬の走る足と、乗っている男の顔がカットバックするんだけど、ぜんぜん繋がってない。俳優が馬に乗っておらず、スタジオでそれっぽい演技をしているのがモロバレ。だけど、そのほうが「意図」は強烈に伝わってくる。
黒澤明なら、何としてでも俳優を馬に乗せるじゃん? あとクリストファー・ノーランだとか、やたら現物主義だよね。本物の戦闘機を飛ばすと、映画の格が上がる、みたいな即物的な価値観。

だけど、そればかりが映画じゃないんだよ。低予算ゆえの事情が露呈しているからこそ、さっきまでセットだったのにカットが変わるとロケになったりするからこそ、現場の、生身の熱気が伝わってくる。きっと、企画の段階でも撮影現場でも、思うようにいかなかったんだろう。
思うようにいかなかった映画には価値がないの? 監督のイメージを完璧に再現するのが映画なの? 「完成度の高い」映画ばかり観ていると、歳とるのが早くなるよ。


友人とDMでやりとりしていて、たまたま、シュナムルさんの話になった。
彼は、自分から『魔方陣グルグル』の幼女キャラがアカウント名の由来だと告白しておきながら()、「主食はナムル」とか「朱奈」とか、由来を曖昧にして二次ロリコン疑惑から逃れようとしているよね。でも、彼が描く小学生の娘のイラスト()って、このキャラに似てない? 写真は一枚もなくて、奥さんも娘もイラストばかり。
しかも、奥さんは学者で料理が上手くて、娘は小学生で本を読むのが好きなんでしょ? 彼の知性に対する憧れが、イラストに仮託されているように思う。奥さんや娘にこうあってほしいのに、実際は奥さんはお笑い番組見てゲラゲラ笑っているし、娘はハナクソほじってる……って話ならリアルだし、そういう作り話が出来るなら、器がでかいと思う。だけど、理想を理想のまま絵にしてしまっている未熟さが、(嫌味でもなんでもなく)シュナムルさんの魅力だと思うし、そういう意味ではファンなのかも知れない。

Twitterでアベ政権や性表現、何かしらに対する不満を温存しながら悪態をついている人は、実生活に大きな欠損を抱えている。実際にアベ政権がなくなったり、萌えポスターがなくなったら、彼らは次のターゲットを探して、自分の抱えた欠損から目をそらしつづけると思う。「世界に対して恥だ」とか「日本は遅れている」とか、曖昧とした正論らしきものにしがみつきながら。
それでいいんだよ、それが人間だもの。彼らのことは、僕は本気で憎いとは思えない。

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2019年11月30日 (土)

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PLUMの「1/80 中央線」は、昭和~平成の記憶を刺激するプラモデル【ホビー業界インサイド第53回】
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こういう良いネタは、ホビーショーで見て記憶して、自力で取材交渉します。
プレスリリースを待っているようでは、生き生きした記事は書けません。


さて、劇場版『Gのレコンギスタ Ⅰ』「行け!コア・ファイター」である。初日第1回を観るべく、モデルグラフィックス誌の撮影の帰り、調布のホテルに投宿し、朝7時に宿を出てモーニングを食べてからシアタス調布へ向かったのは、通勤ラッシュを避けたいがためである(家から調布へは、バスで30分)。
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――まあ、とにかく驚いた。
途中までは、やっぱりフレームに入る被写体が多すぎ、あちこち説明過多だったり説明不足だったりして、ゴチャゴチャしているのはテレビ版と変わりがない印象(宇宙海賊なのに、地球上の島に基地があるとか……)。モノローグも、ちょっと追加しすぎ。
だけど、タイトルが「行け!コア・ファイター」でしょ? テレビでは段取りっぽかったコア・ファイターの合体シーン。ベルリが活躍するのを、アイーダがサポートしなくてはならない。だけどアイーダは、恋人を殺したベルリの顔を立てるなんてイヤなわけ。この感情描写が、テレビでは希薄だった。劇場版では、アイーダが操舵手のステアに寄り添う芝居に、ほんのちょっと台詞が付加されていた。他にも、いくつか追加があったかも知れないが、アイーダの複雑な心情を、しつこいぐらい丁寧に追っている。

戦闘後、いやいやベルリの活躍を手伝ったのに、ドニエル艦長に促されて(テレビではあっさりしていた台詞が、いささかコクのあるものになっている)、アイーダはベルリにお礼を言わないといけない。ひとりで苦しむシーンが追加されている。
その後、無理を押してベルリにお礼を言う。見ている側は、アイーダの苦しさがピークに達していると分かる。そこへ、クリム・ニックがひらりと飛び込んできて、ベルリに関係ない話をする。見ている側は、クリムをめちゃくちゃ邪魔に感じる。というか、クリムが話している間に、アイーダがフレームから消えているじゃないか。こんなストレスのある流れでいいの?
と、カメラがPANすると(途中で視界を遮るようにモビルスーツが入るのが効果的)、アイーダは狭いエレベータに乗っていた。エレベータで、死んだカーヒルに泣いて謝っている。カメラが引くと、泣いているアイーダの前に、大きく整備兵が入ってきて、大声で何か実務的なことを喚きながら仕事している。すると、アイーダの孤立感がいっそう引き立つ。

……と、コア・ファイター合体の前後から、アイーダの感情描写に徹していて凄いなあと思ってテレビ版を確認したら、大きな流れは、ほとんどテレビのまま! ちょっとした順番の変更やインサートのみで、機能的に情感をかもし出している。
だから、「再編集」の目的が、要約や矛盾点の解消や効率化ではなくて、既存カットに新しい意味を与えて、文芸性を高めることにシフトチェンジしている。やはり只者ではない、富野由悠季。


しかし、わけても気に入ったのは、ベルリにお礼を言わねばならないアイーダが、Gセルフに宇宙用パックを取り付けているのを見て、「ああ、そういうこと……」と力なく呟くカット。つまり、自分の感傷とは関係なく、他のスタッフはベルリを認めているし必要としているし、事態は勝手に進んでいるのだという意味が加わっている。
確認のためテレビ版を見て、びっくり仰天。宇宙用パックの絵は、何ひとつ変わっていないのだ。ただし、パックを見るのはベルリであり、彼は「あれ、僕が使うんだ!」とはしゃいでいる。

アイーダの嘆息とベルリの稚気は、同時に存在しうる。映画版では、アイーダにスポットを当てた。映画というか、フィルムの編集というのは、そういうことが出来てしまう。同じカットを残したまま、それを見ている別のキャラクターのカットを繋いで、意味を変えることが出来る。メカの背中に語らせることだって出来る。だてに、ロボット物の再編集ばかりやってきた監督ではないのだ。
なので、本質的な意味で「映画」のメカニズムを理解したければ、『G-レコ』は見逃せない。


ひさびさに、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』。これがDVDで観られるのだから、レンタル屋ももう少し頑張れる。
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普段は映像の色合いなんてことは気にとめないが、この作品の絵画的な美しさには息をのんだ。「絵画的」とは、ピタリと静止した画面のことではない。むしろ、急速にズームしたりPANしたり、画面は非常によく動く。砂浜で、風にはためく天幕の淡い色調……などが、絵画を思わせるのだ。
映画の前半で、カメラはダーク・ボガードの演じる老音楽家の目の役割を果たす。彼が魅了される美少年の姿を追って、カメラはしきりにPANする。切り返しで、少年を陶然と見つめている老音楽家。背景がボケていると、何となく彼を身近に感じる。一方で、美少年を追うカメラは背景までピントが合っており、どこかよそよそしい。ふたつのレンズが、見つめる者と見つめられる者とを隔てている。

映画の後半では、2人は同じフレームの中に収まることが増えていく。まるで老音楽家が、少年の属する彼岸の世界に近づいていくように感じられる。
なぜそう感じられるかといえば、「少年がピアノを弾いているのを老音楽家が見ている」シーンで、老音楽家が立ち上がってホテルの執事と話しはじめる。会話が終わって老音楽家がピアノの方へ歩き、カメラは彼を追う。しかし、そこには少年はいない。ピアノの音だけは鳴っている。少年は、本当は実在しないのかも知れない。


そのピアノの音をきっかけに、老音楽家の若いころの回想シーンが始まる。
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この売春宿の回想シーンでは、少年が弾いていた「エリーゼのために」を、若い売春婦が弾いている。シーンの最初で、老音楽家は太った女と並んで座っている。壁には鏡があり、反対側の壁に扉があって、誰が出入りしているのか見える。つまり、老音楽家の見ている風景が同一フレームの中に収まっている。ピアノの音は、鏡に映った隣室から聞こえているのだ。
老音楽家は、若い女に促されるようにして、隣室へと入る。すると、その隣室の壁にも、やはり鏡がある。時間経過があって、若い女は下着姿でベッドに寝ている。その姿は、鏡の中のものであった。
鏡の中の部屋に入ったり、性行為の相手が鏡の中にいたりするせいで、このシーンは老音楽家の深層心理に潜入していくかのようだ。そして、「エリーゼのために」が少年と売春宿を繋いでいるということは、老音楽家はやはり少年にセクシャルな欲望を持っているのではないだろうか?


セクシャルな欲望といえば、舞台となるベニスにはコレラが流行りはじめ、町のあちこちに白い消毒液がまかれる。
考えすぎだと言われても構わないが、僕にはこれが精液のメタファーに感じられる。
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老音楽家は消毒液の匂いに耐えられず、何人かに「この匂いはなんだ?」「何が起きているんだ?」と聞いて回るが、誰も本当のことを答えてくれない。ようやく、ホテルの執事がこっそりとコレラが流行っていることを打ち明けてくれる。
老音楽家は、ただちに少年の母親に家族を連れてベニスを立ち去るよう、警告する。その場に現れた少年の髪に、老音楽家は震える手で触れる……のだが、そのシーンは髪に触れるところで終わり、ホテルの執事がコレラの件を話し終えたシーンへ戻る。つまり、本当は老音楽家は家族に警告しておらず、少年に触れてもいないのではないか。
美への羨望、過去、疫病。この三要素が、象徴的な映像でシャッフルされるので、とても受け止めきれない。死が隣り合わせている表現は、生きている者には手に負えない気がする。

(C)創通・サンライズ
(C) 1971 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

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2019年11月26日 (火)

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敵味方のロボット・デザインの差異を無効化する「ブレンパワード」の革新的なメカ描写、君は気がついているか?【懐かしアニメ回顧録第60回】
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『ブレンパワード』は、シリーズ中盤で新主役メカ、ネリーブレンが登場します。ネリーブレンは、ヒメブレンと同じベージュ色だったものが、搭乗者ネリーの死とユウの引き継ぎによって、ユウのパーソナルカラーである青に染まっていくのが、ひとつのドラマとなっています。
当初のネリーブレンのベージュ色は、「ネリーはヒメと似ている」というユウの心証を裏づけるカラーリングです。なので、『ブレンパワード』においては、ロボットの色について無神経では許されない気がするのです。そういう意味で、第1話の評価はやや辛口にならざるを得ない。せめて、ユウのグランチャーを青(寒色系)にしてはいけなかったのか……。

一発で敵味方を区別できるという意味で、改めてザクの一つ目は(『宇宙空母ギャラクティカ』がヒントかも知れないが)、素晴らしい伝達力を持つデザインだったと感心します。対するガンダムが赤青黄色のオモチャ色だったのも、もちろん正解です。
また、『イデオン』の敵メカがすべて非人間型であったことは、同じフレームに入れた瞬間、シルエットだけで敵味方の判別がつく優れたアイデアでした。『ダンバイン』の一本角、『エルガイム』の純白のカラーリング、いずれも見事なアイコンでした。


昨日は、やや風邪気味ながらも、六本木の森美術館で開催されている『未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるのか』へ。
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結論から言うと、僕が美術館に求めているものが目一杯つめこまれていて、大満足。展示物が空間の中にバラバラに置かれ、どれを先に見てもOK。「こっちから見る」と視点が決まっている展示が少なく、自由度が高い。小部屋として仕切られている展示があるのも、視点がバラけて良い感じ。
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美術というよりは、研究物やコンセプトの成果物の展示なのだが、歩いて回るだけ本当に楽しかった。人体改造や人間と他の動物との異種交配など、倫理を踏み越えた見世物くささも素晴らしい。
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みんなが笑顔になっていたのは、上の展示。ひとつの部屋の壁面がすべてスクリーンになっていて、あらゆる角度から撮影された入場者全員が映る。そして、任意の客と客が線で結ばれ、「可能性アリ」「確認された」「距離をおいた」など、意味深なキーワードが表示されるのだ。
思わず、自分と結ばれた初対面の客を探してしまう。そんな、空間を共有する親近感と戸惑いが、ひとつの表現となっていた。


一方で、施設としての森美術館は、やはりあまり好きにはなれない。
今回は、Googleマップで最短と表示された六本木一丁目駅から行こうとしたが、(風邪なのに)土地勘のない曲がりくねった道を20分も歩くことは不可能である。現地でスマホを開いても「バスで移動して、さらに七分間も徒歩で移動」……などの無茶なルートしか表示されない。しかたなく、タクシーで移動した。十数分かかって、1060円。
森美術館のサイトは最寄り駅として六本木一丁目を指定してはいないので、まあ、Googleマップを信じすぎた僕がバカだった。

それにしても、エレベータに乗るたびに並ばされ、エレベータを降りてから美術館の入り口までグルッと歩かされるのはどうなのか。美術館に入ってからは……トイレがないんだよね。そこそこ広い会場なので、一箇所はトイレが欲しかった。塩田千春展といい、内容はとても良いんだよね。


実験者が「あなたの目の前でオッさんに100万円をあげますが、あなたが私に100円渡せば、あげるのをやめます」
と問いかけた際に……

上記ツイート、一瞬、何のことか分からないと思う。
これは要するに、自分と関係ない人が労せずして大金を得ることが我慢できず、自腹を切ってでも他人の幸福を阻止したい……、と望む日本人が多いということ。「ずるい」ってやつです。
生活保護制度に「不正需給が多い」「在日外国人が受給している」などと難癖をつけるのも、「ずるい」で説明がつく。他人の邪魔をしても自分の不遇な生活はまったく改善されないというのに、「他人がどう暮らして何を消費するか」に口出しする権利だけは欲しいわけだ。萌えイラストを広報に使うのは性の商品化と、わざわざ海外から口出ししてくるうるさい連中も、萌えキャラで癒されているオタクたちを「ずるい」と妬んでいるのかも知れない。
他人の幸福が許せない、邪魔したいってことは、あなた自身は幸福じゃないんだよね? 自分が幸福になる努力(というか選択)を、なぜしない?

なんちゅうか……「自分から始める」以外、何もないと思う。自分の得意というか、他のことよりはマシにこなせる分野を見つけて、そこを伸ばしていくしかない。得意なことを伸ばすのは、楽しい。
僕は最近、「名前は隠しているが、実は○○」「今は活動していないが、元○○」という人から「実は俺はけっこう凄い人なので、あなたは俺に一目おくべきなのだ」的に、ぞんざいな態度をとられることがある。いま何をしているのか、堂々と言えない時点で、あなたの負けだと思う。あなたにはあなたの人生があるのに、どうして他人の優位に立ったように錯覚したがるのか。□□に関しては古株です、古参ですってオジサンに多いよね。
自分が充実して楽しければ、他人から見て冴えない職業だろうと無職だろうと、関係ないじゃない? 僕は独身で年収も高くはないけど、ぞんぶんに孤独を楽しんでるよ。

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2019年11月23日 (土)

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半世紀にわたり巨大ロボットを演出しつづけた先に、何が見えるのか? 富野由悠季監督インタビュー【アニメ業界ウォッチング第60回】
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オリコンのインタビューで、クローバーが『ガンダム』の世界観を見ていなかったという富野監督を見て、かなりガッカリしていました。玩具を売るために努力してきたのは、富野さんご本人も一緒でしょう……と、【模型言論プラモデガタリ】で資料を掘り返せば掘り返すほど、確信が強まっていきました。
だったら、玩具会社がスポンサーにつかなくなった90~00年代の作品にロボットが出てくるのは何故なのか、聞いてみたくなりました。それで、サンライズのライツ事業部にコンタクトをとって、何ヶ月かかかって『Gのレコンギスタ』のパブリシティなら時間とれますよ、という話に落ち着いたのです。


レンタルで、『カッコーの巣の上で』。20代のころに見たことは見たのだが、漠然とした印象だけで分かった気になっていた。これだから、映画は怖い。
また、この映画は配信で観ようとすると750円もかかってしまう。110円で借りられるDVDレンタルのほうが、まだブがある。
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ジャック・ニコルソンの演じる主人公が、精神病棟の中で野球中継をテレビで見られるよう、看護婦長の前で多数決をとる。
ところが、婦長は強制的にミーティングを終了させてしまう。主人公は、何も映っていないテレビの前で「さあ、ピッチャー投げました」「打った、大きい!」といった具合に、野球中継が行われているかのように振舞う。患者たちが集まってきて、まるで野球中継を見ているかのように喜ぶ。何も映っていないテレビモニターに、患者たちの喜ぶ姿が映る。映っているのは、いわば民主主義の勝利の姿である。

船を盗んで沖に出るシーンで、港の管理人を騙すために「我々は精神学会の会員で、こちらは●●博士」とそれっぽく紹介し、カメラが律儀にひとりずつ映すのも良かった。そうすると、一見するとルーズな外見の個性的な患者たちが、大変なインテリに見えてくる。管理人は彼らの風格に気圧されて、無言で帰っていく。
このシーンでは、観客である僕も彼らに偏見を持っていたこと、権威主義に弱いことを教えられる。カメラが丁寧に、客観的に患者たちの顔を撮ることで、いわば観客は「我に帰る」のだ。
ああ、映画が息をしている……と、僕は深夜にひとり感嘆する。やっぱり人間は、感動するために生きているのだ。白けるためじゃない、感動するためだ。


最近のSNSは、なかなか疲れる。フェミニスト……という言葉がまったくもって相応しくない海外在住のお気持ちヤクザが「お前は英語話せるのか? 海外で働けるか? まだ実家住まいか?」と、歪んだ優越感丸出しで実直なオタクたちをメッタ刺しにしているのも、見るに耐えない。
海外で働こうが何だろうが、日本人は自尊心の形成に失敗するよう義務教育を受けてるんじゃないか?と思ってしまう。SNSで他人の失敗・失言を待ち受けて、「はい、バカ発見」「俺ならこんなバカはしない」と胸をなでおろして、自尊心の応急処置に必死なのかも知れない。

自分の身に起きたことをもっと書きたいけど、『マイマイ新子と千年の魔法』10周年記念上映の帰り、上映会のたびに飲む人から「廣田さん、武闘派だよ~」と指摘されてしまったので、ここは控えよう。おそらく、名誉毀損罪が成立するぐらいのことを僕はやられてると思うけどね、実名で仕事している身としては。
署名活動なんて始めてしまうと、「俺なら廣田のようにはしない(もっと上手くやる)」と必ず言われる。だったら僕より先に、どうして貴方が手を挙げなかったの? そういう、万年野党みたいな生き方のほうが楽なんだろうけどさ……。

© 1975 - Warner Bros. Entertainment

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2019年11月20日 (水)

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『マイマイ新子と千年の魔法』10周年記念メモリアルアートブック 明日発売
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構成・執筆を担当しました。表紙は、片渕須直監督がレイトショーが始まった頃に原画を転用して制作したイラストを中心に据えて、四隅にある木々は本編美術のBOOKと初期ティザービジュアルからレイヤーを抜き出したもので固めました。
表紙の時は、デザインをお願いした西郷久礼さんに、自分でPhotoshopで作ったビジュアルを送って、なるべくそのまま配置してもらいました。表紙だけで、絶対に自分でも欲しくなるよう、やや失礼なぐらい強気に指示を出してしまいました。

片渕監督がNGを出すようなことはなかったです。キャラクターの大きさ等に、少し意見があった程度。また、エイベックスから、何か決定的なダメ出しがあったわけでもありません。細かな誤字を最後の最後まで、よくチェックしていただきました。
最後の監督インタビューは、挙げられた参考図書も平行して読みながら、創作の初期イメージに迫るみずみずしい内容にまとめられました。このインタビューを読んだら、『マイマイ新子~』に対するイメージは、かなり変わると思います。監督が手を加えて、文章を洗練してくれたのも有り難かったです。


当初は、明日の10周年記念上映で、ファン代表として登壇するようお願いされていたのですが、それはお断りしました(笑)。それで何か盛り上がるようには思えなかったので……。
(吉祥寺バウスシアターで福田麻由子さんに花束を渡したのは、片渕監督に「俺が渡すのは変だよ、廣田さん行きなよ」と背中を押されたからです。)

確か夏ごろに、エイベックスの岩瀬智彦プロデューサー、クラップの松尾亮一郎プロデューサーとお会いして、「10周年を記念して何か作りたい」という話を聞かされたのでした。お二人とも現役で活躍中だし、思い出すのは、意外にも10年前どうしていたか……ではありません。
松尾さんからは、「10年前に何があったのか記録したい」という話も出たのですが、それはDVDのブックレットに掲載されているので、後ろを振り返るよりは、新しいファンにも喜ばれるものを。10年もったのだから、次の10年も。そういう気持ちの方が強いです。あと、この10年の間、気持ちが覚めなくて良かった。
普通に売って、普通にお客さんが増えるという状況が、何よりも作品には望ましいですから。


月曜日は、国立新美術館へ「カルティエ、時の結晶」展へ。入場料1600円もするのに、展示の仕方が凡庸で、肩透かしをくらった。
美術館は来場者がある程度、自由に順路を決められたほうがいい。来場者が受け身にならざるを得ない直線的な展示では、美術館の意味がないとさえ思ってしまう。音声ガイドを試してみたが、これも来場者の行動を画一化している要因だ。
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その代わり、以前に来館したときに目をつけていた会場近くのハンバーガーショップ“Pe’z magic”で昼食。こういう場所では、遠慮しないようになった。ここでケチったら、すべて仕事に跳ね返ってくるような気がする。部屋でコンビニ安酒を飲んでは、生涯飲酒残量がもったいない。貧しい食生活は、仕事内容を貧しくする。
今を楽しくして、その楽しい今を死の瞬間までキープすればよいのだ、と思う。今がつまらなければ、その次の瞬間もつまらない。なので、我慢しない。

レンタルしてきた映画は、岡本喜八監督『座頭市と用心棒』、韓国映画『タクシー運転手』。
後ろ髪を引かれるのは、飼い犬たちに良くしてやれなかったこと。たまに、夢に出てくる。後悔があるとすれば、犬たちのことだ。

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2019年11月16日 (土)

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EX大衆 2019年12月号 発売中
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●“いま考えるべき『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ”
秋葉原の大規模ダンスオフに参加した経験のある御坂しのぐさんのインタビューを含む、作品のディテール分析からオタクの社会的自認などに言及した3ページ記事です。

『ハルヒ』は、放送当時は人に薦められて(「アニメージュオリジナル」周辺では話題にのぼりがちだった)、数話見た程度。今回、第二期分を頭から見て、その批評性に魅了されてしまった。ただ、この記事は作品に対する評価だけでなく、初放送の2006年ごろの岡田斗司夫さんの発言、1981年の「アニメ新世紀宣言」にまで遡り、オタクがいかにして公的な場で自己主張を行ったのかをレポートしています。


時間が出来たので、恵比寿の東京都写真美術館へ。「イメージの洞窟. 意識の源を探る」展。
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800円ならこんなものなのかも知れないが、40分ぐらいで見終わってしまう。地下の「写真新世紀2019」は無料なので、これもついでに見て回る。
「イメージの洞窟」展は、文字通りの洞窟の写真からスタートするのだが、部屋の真ん中にプリントした紙でかこった物理的な洞窟が出来ている。その幕の内側に入ると、画の濃淡で光を通したり通さなかったり、外からでは感知できない情報に触れられる。
それが“展示"なのだと思う。先日の「富野由悠季の世界」が、いかに四角四面で面白くなかったか、ここに答えがある。写真はプリントするかモニターに映すしかないわけだが、それで終わりではない。壁にどう配置するか、壁をどう捉えるか、そこから新しい表現が始まるのだ。


「俺のBakery&Cafe 恵比寿」で玉子サンドを食べてから、秋らしい日差しで彩られた恵比寿を、東から西にかけて歩く。
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うっかりビールなど飲まないほうが、むしろ贅沢に思える。平日昼間をこうして好きなように過ごせるのだから、いい仕事をやれている。これだけ好きに過ごして貯金もあれば、半年後の予定も決まっているのだから。

恵比寿にはモンスタージャパンやミスタークラフトがあったので、高校時代から30代まで、よく足を運んだ。三鷹から恵比寿までは、山手線に乗り換えないと来られないので、ちょっとだけ不安になる。その不安感が、おそらく心地よかった。
ガーデンプレイスでは、クリスマスの飾りつけが進んでいた。


SNSをやっていると、たまに面食らうことがある。年齢が上というだけで説教モードになる人は、まだ分かりやすい。
面倒な相手は、元○○。僕に対してだったら、元ライターなので、実はあなたより身分は上なのだと明かしてくる人。どうして今、そんな凄い貴方がライターで食えてないのか、そこを聞きたい。ほぼ間違いなく、その本人が問題を起こして業界にいられなくなったか、営業努力を怠って仕事が減っていったか、どちらかだ。そしてほぼ間違いなく、本人は周囲のせいにする。
同じぐらい面倒なのは、名前を隠しているが実は○○。名前は違うけど、あなたと同じぐらい凄いライターで、あなたより稼いでいるのだ、どうだ驚いたかという人。一応、「すごいですね!」「負けました!」と挨拶することにしている。ぜんぶ嘘なので、ハナっから相手にしないこと。

その「嘘」というのは、だって証明のしようがないよね、そんな適当なHNでは?という意味。
HNならHN、ペンネームならペンネームで統一されていれば、そこに信頼が生まれる。僕が実名でしか書かないのは、常にリスクを背負っていたいからだ。リスクを冒さねば、信頼は得られない。「匿名で身分は明かせません、でも実は凄いんです、偉いんです」、そんなぬるま湯から相手を信用させたがる、その甘っちょろさを、僕は警戒するし馬鹿にもする。
「自分の現在やっている仕事はコレです!」と堂々と振舞える相手とだけ、仕事をしたい。


最近見た映画は、ドイツ映画『善き人のためのソナタ』。最初から最後まで食い入るように見たが、万人向けの映画だろう。

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2019年10月30日 (水)

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モデルグラフィックス 2019年 12 月号 発売中
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今月の組まず語りは、クラウンモデルの「バリエーションロボ ハリアー」です。
僕の記事は、「色すら塗らないなんて手抜きなんですか?」とよく怒られるけど、そういう方はビッシリと塗った作例がページを埋めているのが模型雑誌……という固定観念があるのでしょう。


一昨日に見て、翌朝に見直したレオス・カラックス監督の『ボーイ・ミーツ・ガール』。レンタル店で、借りてきた。
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上の2枚の写真を見てほしいが、主人公役のドニ・ラヴァン、相手役のミレーヌ・ペリエ、お互いが出会うまで別々にストーリーが進行するのに、同じチェック柄の服を着ている。主人公は冒頭で恋人に逃げられ、書き溜めてあった詩や絵を捨てられてしまうが、そのゴミの中にも同じチェック柄のスカーフが入っていて「彼女(恋人)の好きだった色だ! あの女、何もかも持っていきやがって!」と激昂する。そのスカーフは、悲劇的なラストで、主人公が覆面のように顔にまく……と、その演出は難解すぎて意図が分からないのだが、「やがて出会う2人が、同じ柄の服を着ている」、そのような観念的な世界なのだと、かなり早い段階で理解できる。
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つまり、「2人は同じ店で同じブランドの服を買ったのではないか」などという日常的リアリズムでは、この映画は理解できない。『男はつらいよ』だったら、そのようなエクスキューズが必要だろう。マーベル映画でも、同じ服を着た人物が別々に出てきたら、何らかの説明が必要だ。しかし、映画の種類は、ひとつではない。
「やがて2人は出会う」「同じものを心に抱えている」、そうした文学レベルの「事実」を伝えるには、「同じ柄の服を着ている」視覚情報で伝えるしかない。少なくとも、それがこの映画の構造である。


他にも、抽象的な演出が散見される。
主人公はあるパーティに潜入し(その潜入にいたる段取りが、また入り組んでいるのだが)、ミレーヌ・ペリエ演じる彼女と出会う。
その前に、かつての恋人の新しい彼氏に電話をかける。「電話はどこですか?」と女主人に聞くと、通された部屋は託児室で、赤ん坊がいっぱい泣いている。その部屋を、うんと引いた絵で撮っている。その部屋で彼は元恋人とその彼氏に別れを告げ、ミレーヌ・ペリエ演じる憧れの相手の電話番号を手に入れる。赤ん坊がいっぱい泣いている部屋は、いわば主人公の心の中と解釈することも出来る。

もっと分かりやすいシーンが、後に出てくる。
主人公は憧れの彼女と台所で出会う。彼女の気を引くため、主人公は詩を口にする。すると、横に置いてあったケトルの湯が沸いて、シューッと大きな音を立てる。言うまでもない、彼女と出会えて高揚した主人公の感情を表現するには、湯の沸騰した音を入れるのが何より効果的だろう。
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さて、2人は台所に並んで腰かけて話しはじめるのだが、主人公はまだチェック柄のジャケットを着ており、元恋人の置いていった同じ柄のスカーフを取り出したりする。ところが、ミレーヌ・ペリエはもうチェック柄のズボンは履いていない。やがて、主人公もジャケットを脱ぐ。
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暑いから脱いだのだろうか? この映画の、この場面では「暑いから」ではない。出会うべき2人が出会ったので、新しい関係へ進んだ。そう解釈をせざるを得ない観念性が、この映画では視覚として露呈している。
『市民ケーン』、あるいは黒澤明なら、こういう演出をやる。『ボーイ・ミーツ・ガール』は日常的なリアリズムに縛られた映画ではないけど、やや古典的な側面もある。


ところで、いささかショックではあったのだが、僕が10年前にこのブログで何を書いていたか、どう思っていたか、今ごろ調べて言質をとろうとしている人がいる。僕が過去に何を考えていたか、いちいち気にしている人が、このブログの読者に3人もいる。Twitterと違って、ブログにはブロック機能がないので、防ぎようがない。

確かに僕は過去のブログを残してはいるけど、単純に消すのが面倒なんだよ。それに僕は、昨日よりは今日、今日よりは明日をよりマシな自分として生きるよう努力している。他人の考えがどうなのか、なんて気にしつづけて停滞しているあなたとは違うよ。僕の10年前なんて、いまの僕より愚かに決まってるじゃん。その愚かな僕の発言を検索して調べるなんて時間の無駄だし、そんなことに労力を割いているあなたの人生は失敗作だと思う。

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