2019年2月25日 (月)

■0225■

ハセガワ製、「クラッシャージョウ」ファイター1から考える“キャラクターモデルとスケールモデルの最適な距離感”【ホビー業界インサイド第44回】
T640_801778ハセガワさんに直接取材をお願いしたのではなく、サンライズさんから薦められて、取材を組んでいただいたパターンです。
タイミング的に、自分で製品を予約して、素組みした直後にお話を聞くことが出来ました。

メディアミックス爛熟期に生まれた「フリクリ」が喚起する、アニメと漫画の深い関係【懐かしアニメ回顧録第51回】
90年代末~00年代初頭のアニメは、本当にターゲットを想定せず、好き勝手につくっていたんだなあ……と、改めて思いました。ただ、『フリクリ』はどこかニヒリスティックで、日常に充足しているくせにオタクぶっている感じがして、僕は好きではないです。
僕は屈折した人間なので、恥ずかしさや苦悩や葛藤の痕跡が残った作品が好きです。


土曜日は、友人と『アリータ:バトル・エンジェル』を鑑賞。
640_1ヒロイン・アリータの複雑な表情、向こう側の景色まで透けて見える繊細な関節の造形、そして日本語吹き替えの声音に、ただひたすら溜め息を漏らしつづけた。

映画理論家のルドルフ・アルンハイムによると「映画はモノクロであり、またサイレントであるがゆえに、豊かな色彩と音響にあふれた現実の世界とはまったく別個の、自立した世界を構築することができた。つまり現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術として価値付けられた」(四方田犬彦『映画史への招待』より)。
アリータというキャラクターは、女優を撮影しただけの「現実の再現」ではない。CGIなので、映画の中でしか存在できない、純粋に映像的な肉体だ。そこに不気味さもあれば美しさもあるわけだ。


原作の『銃夢』が連載されはじめたのは1990年のことで、同じ年、東映はVシネマ・ブランドから『女バトルコップ』を発売した。
『女バトルコップ』は1988年公開の『ロボコップ』、あるいは1987年発売のOVA『ブラックマジック M-66』など、サイボーグやアンドロイドを主役とした当時最先端のSFX映画やアニメとは別世界、東映のメタルヒーローや刑事ドラマに属する泥臭い作品だ。

だが、1980年代後半、大手映画会社が製作~配給まで支配して身動きとれなくなっていた邦画界の、最果てと言ってもいい現場ですら「美女型ロボット」が企画の遡上にのぼっていた事実を素通りしていいものだろうか。
刑事ドラマや特撮ヒーロー番組をつくっていたオジサンたちでさえ、「アニメ好きの若い連中が夢中になっている女のカタチの戦闘ロボ、あれはアリだよな」と思わせた何かがあったはずで。
640それは異性……彼岸にある女体をシンボライズして、いわば「モノ化」して、永遠に愛玩したい欲望ではないだろうか。
30年も前の日本の漫画に着想を得た『アリータ』とて例外ではない。アリータは当初、殺された娘のために用意されていた華奢な義体しか与えられなかった。アリータをカスタマイズした医師のイドは、彼女を娘の理想化された亡霊として、ずっと手元に置いておきたかったはずだ。
(原作漫画には娘の設定がなかったため、イドはずいぶんフェティシズムの強い変人に見えたものだった。)


斉藤環が『戦闘美少女の精神分析』で、サブカル作品に登場する戦う美少女、メカ少女にスポットを当てたのは、2000年のこと。
戦うメカ少女を実写化するにあたって、「現実の機械的な再現」と手を切って、肉眼では見ることのできない(映像として鑑賞するしかない)CGIを選択したのは、果たして誰だったのだろう。
ジェームズ・キャメロンだとしたら、彼が人間そっくりのアンドロイドや(人間が現実と接触するための)人造生物をクリエイトしつづけるのは、何故なのだろう?

30代の前半までは、実体験の少なさゆえに、現実逃避を正当化する理由ばかり考えていた。球体関節人形に魅了されたのも、その頃だ。乏しい読書体験にすがるしかなかったあの鬱屈した日々を、僕はすっかり忘れていた。
『アリータ』は、僕を自閉的な若者へと引き戻すぐらい、強烈な引力をもった映画だった。

(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2019年2月22日 (金)

■0222■

モデルグラフィックス 4月号 25日発売
Dz8euymw0aasprb●『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』特集
企画・構成・執筆でクレジットされています。
序文やアニメ素材の解説パート、片渕須直監督のコメント、モデラーさんとの対談などを、まとめて書き起こしています。自分で撮影に立ち会ってラフを切ったページもありますが、艦船や飛行機パートは編集部にお任せして、ハウトゥ記事だけではなく監督のコメントや対談を入れてもらえるよう、先回りしてテキストを書いておきました。
そのテキストがなかったら、『この世界の片隅に』特集とは呼べないので、編集部が独自にまとめてしまう前に、先に書いて割り込ませておくのです。
しかし、コメントを個別に録音している時間はありませんから、打ち合わせの合間合間に、監督に「この演出ってどういう意味ですか?」と聞いておくんです。後からテキストとして使いやすいよう、聞き方を工夫して。その段取りこそが、ライターの技能ですよ。

また、昨夜のイベント【模型言論プラモデガタリ】で見せた「撮出しデータ」を、この特集では多用しています。
撮出しデータは監督との打ち合わせとは別に、僕が何度かMAPPAへ行って、監督から直接受けとってきました。次に、新作カットのデータを使ってもいいかどうか、東京テアトルさんに確認をとります。
それから、ひとつひとつのデータを開いて、編集部に渡せる状態に区分けしてファイル変換して……と、僕がやったのは主にそういう作業ですね。書くより先に実務、実務の連続です。


昨夜、阿佐ヶ谷ロフトAで行われた【模型言論プラモデガタリ】第2回は、モデルグラフィックス誌の販促イベントとして成立させることが出来て、おかげさまで大盛況でした。
モデグラ誌の自分の担当パートを早めに終えて、イベントのプレゼン資料を作っていくうち、やっぱり、撮出しデータを生の状態でお客さんに見せたくなってきました。
Kimg2922金色はどうして金色なのか考えて、『アリーテ姫』で具体的な表現技法に置換したように、空気感や水や光の質感をレイヤー単位で構築していくエンジニア的手腕も、片渕監督の技能のひとつです(ほかに、エンターテイナーとして脚本を書く才能があることは、『名探偵ホームズ』での大抜擢を考えれば、誰しも納得いくでしょう。『BLACK LAGOON』のシリーズ構成も、優れた計算力の為せる仕事です)。

「感動」や「美しさ」の裏には、必ずメカニックが働いています。「なんとなく良いな」と感じるからには、必ず理由があります。
アニメーションは実写よりは素材を分けやすい(というより、素材を作ってから記録するので実写とは順番が逆)ので、「感動」の秘密を発見しやすいと思います。
ところが、アニメの制作素材を模型趣味と結びつける人が、ほとんどいなかった。いえ、模型趣味を切り離して考えても、現場の制作素材がアニメファンの目に触れる機会は、稀ではないでしょうか。かつては制作資料の詰まっていたアニメ誌は、いまや「版権イラストの載った絵本」です。
「公式」という概念が強くなりすぎて、ひとりひとりの受け手が探究心をもって開墾していけるフィールドが貧しくなっているのではないでしょうか。僕のテーマは、公私ともに「名もない個人が自由に、主体的に力を行使して、理想を実現すること」です。イベントを毎月開催することも、そのひとつです。


“登壇者筆頭の廣田恵介さんは、「マイマイ新子と千年の魔法」のとき、続映を求めるネット署名をしてくださったり、書籍「メイキングオブ マイマイ新子と千年の魔法」の編集をしたりしていただいたのですが、実は、映画学科監督コース出身でありつつ模型雑誌ライターをしておられた方で、さて、今回は。”(

この片渕監督のツイートは、イベント後に気がついたのですが、嬉しいです。
アニメの取材仕事を減らしつつも、アニメと映画と模型をシームレスに、建設的な関係にできないか?と、ここ2~3年は模索していて。日芸時代に撮影・現像・編集でフィルムを触っていたこと、サンライズ在籍時にセル画末期の時代の「撮出し」を見せてもらえたことが、今回のモデグラ特集に繋がっています。

それにしても、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』特集を入稿しおわった古屋編集長Kimg2921_3 がイベントに登壇することになり、楽屋で仕事抜きの話をしている時間、そこにクリーム色のセーターを着た片渕監督が、いつもの包容力をもって現れて、とりとめない話を始めたときの和んだ雰囲気は忘れられません。

僕の身内に不幸があったとき、監督が「私も廣田さんの友達のつもりでいます」とメールをくださったこと、忘れてないです。
監督自身も、つらい目やイヤな目に遭ってきただろうと想像します。初めてお会いした10年前より、とてつもなく人間の器が大きくなりました。しかし、頑固なところは頑固なままだし、こちらの仕事に対しても一定の厳しい目を持っておられます。
書店に並ぶモデルグラフィックス誌は、そういう人の目を通過した本なので、期待して手にとってください。

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2019年2月17日 (日)

■0217■

J Wings (ジェイウイング) 2019年4月号 21日発売予定
Dzh5um2vsaa968z『素組みだからよく分かる! プラモで学ぶ 最新鋭機F-35B 前編』
企画・構成・執筆しました。ハセガワさんの1/72 F-35ライトニングII (B型) “U.S.マリーン”を素組みして、編集部と一緒に「どうしてこういう構造になっているのか?」「このパーツ割りは、実機に比べてどうなのか」と検証しつつ、どこも改造せず塗装もせず、ひたすらキットの美しさを愛でながら、同時に機体構造も勉強しよう……という短期集中企画です。
僕からの持ち込みとはいえ、編集部からの逆提案もあり、おおいに助けられました。また、模型誌以外に、プラモの素組みレビューを載せる!という野望を、まずひとつ満たせました。


本日のダルデンヌ兄弟監督映画は、サスペンス・コーナーにあった『午後8時の訪問者』。
640 ある女医の病院で、扉を閉めた後にチャイムが鳴る。研修医の青年が「急患かも」と立ち上がるが、女医は「無視していい」と青年を止める。
そのチャイムが雪だるまのように大きくなっていき、実は殺人事件の起きるトリガーだったと判明する。

女医は、助けを求めてチャイムを押したのに殺されてしまった黒人女性の映像を、後から警察に見せられ、愕然とする。「あの時、私がチャイムに反応していたら…」と罪悪感にかられて、被害者の死因や名前を探り出そうと歩き回る。
ラストになって、またチャイムが鳴る。モニターを見ると、殺された黒人女性そっくりだ。いわば、「チャイムと黒人女性」で映画全体をサンドイッチする「ブックエンド形式」のプロットだ。

ただ、プロットに頼りすぎ、真相はすべてセリフとして語られるのが、今ひとつだった。
むしろ、カメラがゆっくりとPANして対象物をとらえ、再び人物の顔に戻ってきたとき、すっかり構図のありようが変わっている。その計算されたカメラワークに目を奪われた。手持ちカメラではあるが、常に最適の構図を確保するため、膨大な技術が投入されていると気づかされた。


「お前やってることは法律に引っかかってんだよ!」 コインハイブ事件、神奈川県警がすごむ取り調べ音声を入手

性犯罪者は、かよわそうな反撃してこない女性を狙うそうですね。権力者も同じです。弱そうな相手をマークして、恫喝する。NHKの集金人、税金の催告状、すべてそうです。脅して屈服させる。話し合いで説得しようという発想が、そもそも抜けている。
正論では勝てないので、「犯罪だから」「法律だから」でねじ伏せようとする。

上のニュースを見たとき、仮想通貨を先日の改造フィギュア()に置き換えてみた。
取調室で、「こんな少女の人形なんかをいじって、お前は変質者だろ! 恥ずかしくないのか!」ぐらいは言われたでしょうね。容疑は著作権法違反で、いま違法ダウンロードの刑事罰化が進んでいるので、警察を批判しただけで即逮捕になりかねない。
そして、警察職員だけでなく、マスコミも一般市民も「逮捕されたら有罪確定」と信じている。この国の人権意識など、その程度のものだ。しかし取調べ段階ではもちろん、刑が確定しても人権は消滅しない。それが民主主義だ。主権は、我々にあるのだ。

なので、諦めてはいけない。

(C)LES FILMS DU FLEUVE - ARCHIPEL 35 - SAVAGE FILM – FRANCE 2 CINEMA - VOO et Be tv - RTBF (Television belge)

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2019年1月28日 (月)

■0128■

コラム集発刊記念! 高橋良輔監督が語る“文字と言語の作品世界”【アニメ業界ウォッチング第52回】
T640_796850高橋良輔監督にインタビューするのは、『勇者王ガオガイガー』のBD-BOX封入のブックレット以来です。その時、「水陸両用整備装甲車」「機界31原種」などのネーミングは高橋監督の発案では?と質問したのですが、明快な答えは得られませんでした。だけど、その経験が今回のインタビューに繋がっています。

“宇宙用ヘルメット”を使って登場キャラクターの心情を描き出す、「プラネテス」の視覚効果【懐かしアニメ回顧録第50回】
連載コラムです。透明バイザーを使って、キャラクターの顔とキャラクターが見ている対象物を同時に映せる……そこに着眼したまでは良かったのですが、どうにも冴えない文章になってしまいました。文章を書いている時間だけはテンションが上がるので、要注意です。


「ラブライブ!」魔改造フィギュア販売で逮捕…どんな権利侵害があったのか?

先週末に弁護士ドットコムで記事になり、再び話題になった。
(ニュース直後の僕の意見→
取材された弁護士が「改造が許されている例外的なケースでない限り、違法となる可能性がありますので、どうしても趣味で改造をしたい場合は、権利者(著作者)に連絡して許可をとってからにした方がよいでしょう。許可はできれば書面、少なくともメールでもらっておくとより安心です」、つまり個人が趣味でフィギュアを改造する場合でも著作権者の許可をとった方がいいと発言したことから、「そんなバカな」と憤った人が多いようだ。

最初のニュースが流れた時点からその傾向はあったのだが、「僕の考えた法律解釈」を根拠に「ここまではセーフ、ここから先はアウト」と線引きして、「だから○○とか言ってる人はアホ」と、見解の違う他者をさげすむ流れになっている。
勝手に法解釈を広げて逮捕に踏み切った警察を責める人は、ほとんどいない。


自説を述べて、「私の解釈だけがエビデンス」で閉じてしまう一般のTwitterユーザーと逮捕権を有する司法警察職員とでは、招く結果が違いすぎる。
しかし、権力に歯向かうのは怖い。だから、「何もかもが怖い人々は、とりあえず最も強そうなものに縋りつく」(斎藤貴男『安心のファシズム―支配されたがる人々』より)。
結果、警察の勝手な法解釈を肯定したままで「逮捕されたヤツが悪くて、自分たちの趣味は逮捕の対象とならない」ための理屈を捏ね回すことになる。警察からすれば、都合がいい。

僕が小学校・中学校の思い出として真っ先に思い出すのは、何度となく繰り返された学級会での「話し合い」の光景だ。
一時間かけてクラス全員で話し合う。話し合いの方法など学んでいないから、最後には多数決に頼らざるを得ない。「先生、こういう結論になりました」と教師に報告する。教師は「そうですか。でも、その結論ではダメですね。先生の言うとおりにしてください」と、話し合いの成果を台無しにしてしまう。
小学校高学年ともなると、どうせ教師に覆されると学んでいるから、意見を聞かれても「パス」とだけ言って、次の誰かに譲ってしまう。どんな優れた意見を口にしても、教師に潰されるから。
そうやって僕たちは、自尊心を奪われてきた。「選挙なんて行っても無駄だ」と考える大人になってしまった。「警察にたてついても無駄だ」「政府の決めたことが正しい」「反発しているヤツはパヨクだ」。


僕は「アベ政権」が特に劣悪とは思っていないし、反権力気質の人が「反対のための反対」を繰り返している姿を肯定も否定もしない。
だけど、フィギュアの改造……伊集院光さんが、ラジオで「とても丁寧に作られたガンプラにはお金を出してもいいと思ってしまうけど、それも違法なの?」と発言したように、自分の趣味を守るのは、自分しかいない。

3年前、児童ポルノ単純所持で逮捕された容疑者からの押収物として、市販フィギュアがテレビに流された。僕は質問状を出して署名を集め、抗議のために愛宕警察署まで行った()。
自由とは、国家や組織に与えられる物ではない。僕たちの筋肉の中に備わっているものだ。「フィギュアを改造してはいけないのではないか」「この程度の改造ならいいのではないか」「誰かの許可が必要なのではないか」「売らなければ大丈夫ではないか」、そう考えて怯えること自体が、自由を鎖でつなぐこと、自分を檻に閉じ込めることなのだ。

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2019年1月25日 (金)

■0125■

モデルグラフィックス 2019年 03 月号 発売中
51wfmpxzonl■組まず語り症候群 第75夜
今回はエクスプラスさんのソフビ組み立てキット、ガラモンです。

次号特集は、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』です。
次号予告には、僕の名前がキュレーターとして紹介されています。編集部は、てっきり僕を外して進めたいのかと思っていましたが、企画発案者として尊重してくれるようです。ありがたいことです。

レンタルで、スティーブン・スピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』。いい邦題だ。なぜなら、「なんか知らないけど重要機密を暴露しようとする人々がいる」、それだけ覚えておけば十分であって、誰がどんな役なのか理解しなくても、彼らに感情移入なんかせずとも、ちゃんと面白いからだ。
640_1たとえば、機密文書が民間に流出するキッカケとなるのは、ひとりのジャーナリストがかけた電話だ。彼は公衆電話で話しており、カメラはロングで彼の全身をとらえている。何の緊張感もない構図だ。
いきなり「次の番号にかけろ」と電話口で言われ、彼は手帳を胸ポケットから出そうとして、ペンなどを路上にぶちまけてしまう。
公衆電話の受話器は、ぶらんと宙に垂れさがり、ジャーナリストは番号を暗記して、忘れないうちに再び電話をかけようと焦る。隣の電話機にコインを入れようとして、今度はコインが地面にちらばる。
コインやダイヤルのアップがある以外、ぜんぶロングの弛緩しきった構図だ。その構図で無様に慌てるジャーナリストの仕草を撮ると、「さして優秀でもない冴えない男のもとに、すごいニュースが舞い込んだ」ように見えないだろうか?
また、地面に散乱するメモや手帳やコインは、彼の溢れ出る好奇心を代弁しているように見えるのだが、いかがだろう?

「私はジャーナリストではないから、彼の気持ちが分からない」? 感情移入するために映画を見るなら、多くのものを取りこぼしてしまう。
彼の気持ちが分からずとも、彼の気持ちを「どのように表現しているか」、そのテクニックやセンスに僕は唸ってしまう。


アップを効果的に使ったシーンもある。
機密文書を新聞に掲載すべきかどうか、キャサリン・グラハム(ワシントン・ポストの発行人)は、複数の人間と電話で討論する。
640_4何人もの関係者の、まったく正反対の言葉を聞いているうち、キャサリンは右を向く。直後、左を向く。この二つのまったく同じサイズのカットが連続していると、彼女が物理的に首を左右に振っているのではなく、「迷っている」ように見える。
大事なのは、正反対の意見を聞いているキャサリンが、首を右と左に振ったことではない。彼女の「迷っている」心理を表現するため、まったく同じサイズで「右を向く」「左を向く」カットをつないだことだ。

心理とか気持ちとかいう目に見えないものを、目に見える方法だけを使って、「いかにして」表現するか。その「いかにして」の部分に、僕はいつも感銘を受けるわけだ。

映画のラスト近く、ベン・ブラッドリー(ワシントン・ポストの編集主幹)がキャサリンのオフィスへ来て、テーブルの上に何紙もの新聞を次々に並べていく。
他紙も、彼らに追随するように機密文書を暴露したのだ。多数の味方を得た彼らの勝ちである。……いや、構図によって「彼らが勝った」と分かるよう、組み立ててある。
640_5新聞の並べられたテーブルは、とても低い。だから、ベンとキャサリンは真下を覗き込むよりないのである。さらに、その2人の顔を撮ろうとするなら、カメラは低い位置から2人をアオリで撮るしかない。ほぼ真下から撮られた人物は、とてつもなく大きな力を得たかに見える。脚本でも芝居でもなく、「構図」によって状況を描写している。
映画は機能であり、メカニックなのだ。「ストーリー」を理解する必要はない、人物に感情移入する必要もない、映画がどのように機能しているか、それを把握しさえすればいい。

いつの間にか、映画における「感動」は「登場人物の内面を理解し、共感すること」に限定されてしまった。それも感動の一種だけど、映画の構造や語り口を誉める人は、滅多に見つからない。

(C)Twentieth Century Fox Film Corporation and Storyteller Distribution Co., LLC.

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2019年1月14日 (月)

■0114■

「ボトムズ」「ダンバイン」「SDガンダム」……バンダイの“ガシャプラ”シリーズが受け継ぐプラモデル本来の楽しさとは?【ホビー業界インサイド第43回】
T640_795183先日、阿佐ヶ谷ロフトのイベントでガシャプラのテストショットをお見せできたのは、こうした取材活動の結果なのでした。
はじめからご縁があったわけでも、コネがあったわけでもなく、こちらからインタビューさせて欲しいとお願いして、「まあコイツなら信用してもいいかな」と思っていただけたのでしょう。


昨夜は、ラピュタ阿佐ヶ谷にて『マイマイ新子と千年の魔法』のアンコール上映。
Kimg282910年前と同じく、夜のチケットを買うために、朝から並ぶ。午前10時前にラピュタに着くと、『マイマイ新子』に資料協力として参加して、以降は普通のファンでいらっしゃるⅠさんが声をかけてくださった。
上映後に再会したⅠさんが「ちょっと飲んでいきましょうよ」と言うので、夜の阿佐ヶ谷の街に引き返したら、「あれ~、どうしたの?」とスタジオへ帰る途中の片渕須直監督に出くわしたりして、そういえば舞台挨拶で司会の山本和宏さんが「あるライターの方が署名を始めまして……」と口にした途端、監督が僕の方を見て「ははは!」と笑ったので、つくづく緩い、ストレスのない夜だった。

山本さんには『この世界の片隅に』のイベントでもちょくちょくお会いしているので、「今日は、山本さんにとっての十年でもありますよ」と、上映前のロビーで肩を叩いた。
「新子も貴伊子も、歳をとらないんですねえ(だから今見ても新鮮なんだ)」と言ったのは、誰だっただろう? とにかく、にぎやかな夜だった。


先日も書いたように、僕は映画館でアニメを観るとき、緊張して猛烈に発汗してしまう。『新子』のときは、なぜか発汗した記憶がない。
特に昨夜は、落ち着いた心境で見られた。
多々良権周防介が初めて登場するカットで、ついさっきまで新子の空想だったはずなのに、すでにもう一本のストーリーが新たに並走していることに気がついて「えっ、これはカッコいい演出だ!」と驚くのは、試写室で見て以来、何十回見ても変わらない。
8558_photo2「千年前」と言いながら、常に「現在」とカットバックさせて、どちらが未来とも過去とも決めつけず、ラストカットはなんと「現代」のふたりから、「過去」のふたりに草笛が受け継がれるところで終わる。「過去」を過ぎ去ったもの、終わったものとして描いていない。
いわば、とこしえの未来だけが躍動しつづけている。死を乗り越えるのではなく、死を巨大な生命の中へと包含してしまう。

貴伊子が諾子の姿となって千年前の世界へ行くのは、かなり突拍子もないアイデアだ。
029_size8_2しかし、ひとつの巨大な「生命」が貴伊子の姿で現れたり、諾子の姿となって現れたりしているにすぎないのではないか? だから、絶望する必要がないのではないだろうか?
新子が夜道で金魚を見つけた直後、なぜか貴伊子が「私、見つけたよ」と言う。ようするに、僕たちみんなが「生命」という媒質によって繋がっていて、互いに同じものであって、それはもちろん死によって分断できる性質のものではない、と。

晴美さんは死んでしまったけど、原爆から生き残った子が北條家の一員となって終わる『この世界の片隅に』のラストは、ひづるという個体が死んでも、赤い金魚が見つかる『マイマイ新子』にそっくり。それはきっと、2人の作家の信じている世界観が似ているということなのだろう。


じゃあ、どうして同じセルアニメ、同じく女子同士の友情を描いた『リズと青い鳥』はしんどいのか?という、先日の話に戻る。
やっぱり、「目を小さくして頭身を高くしましたよ、これなら見られるでしょ?」と言わんばかりのキャラクターデザインが“結界”なんだと思う。その結界の内部に入れれば気持ちいいんだろうけど、僕は弾かれてしまった。単に、好悪の問題なのかも知れない。
「もともとは目の大きなアニメ特有のキャラなんだけど、あえて目を小さくする」試みは、いうなれば、社会にコンセンサスを求めている。そのキャラクターデザインの想定する「社会」は、本当は萌えキャラなんて容認してくれない頑固な大人たちの世界なんだよね? だからコンセンサスを求める必要があるんだよね? 

好感度なんて気にしないで、ひたすら表現欲に徹した映画なら、こちらも我を忘れて見入ることが出来る。『若おかみは小学生!』だって目はでっかいんだけど、表現として受け取れたからね。

(C)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

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2018年12月30日 (日)

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脚本家・小中千昭の体験した90年代後半のアニメ制作現場、そして「serial experiments lain」で試みたこと【アニメ業界ウォッチング第51回】
T640_793618小中さんには気持ちよく取材を受け入れていただき、読者からの反響も多い幸せな仕事でした。
アニメ関係のインタビューというと、たいていは現行作品のプロモーションになってしまい、そういう刹那的な記事なら聞き手・書き手は大勢います。「誰に何を聞きたいのか」、テーマを明確に定めようとすると、それを決められるのは自分だけだし、インタビュー相手もおのずと絞り込まれてくるし、交渉する主体は自分になります。そういう仕事だけを、自分だけが出来る仕事をしていきたいのです。


小中さんにお話をうかがったのは、西新宿に借りた小さな会議室で、その場所のムードが良かった。閉店した中華料理屋のある心寂しい通りで、外国人の学生たちがいろいろな言語で話しながら通りすぎていく。寒くて薄暗いけど、雑然としていて活気があって……まるで、90年代終わりごろの、あの時代の空気そのもの。

どう言ったらいいのか……ちょうど、年の瀬の今時分のように、空気は冷え冷えとしていたけど、アニメやゲームを語る者たちの吐く息は熱かった。不況だったし、ぎりぎり20代だった僕は収入が低くて、生活に苦労していた。家賃の滞りがちな部屋には、何もなかった。
だけど、『エヴァンゲリオン』を録画したVHSテープを友達のアパートに持っていって強引に見せるぐらい、不思議な情熱に支えられていた。80年代のアニメ文化は大人たちから与えられたものだったけど、90年代後半に出会った作品はどれも自分で選びとったものだと、かたくなに信じていた。
VHSテープを持って友達のアパートに行ったのは、夕暮れ時だった。だから、この時代は黄昏の印象が強い。でも、寂しくはなかった。プレイステーションのゲームソフトを、それこそ擦り切れるまでやりこんだ。友達と酒を飲んで、朝といわず夜といわずアニメについて議論した。


2001~2002年頃、ゲーム会社に入社すると、誰もがそれぞれの視聴環境で見られるアニメを見て、どんな内容でどこが面白いのか熱心に布教していた。いや、「誰もが」は大げさで、作品を好きな人間は語る言葉も熱かったので、よく覚えているのだろう。
その頃になるとDVDを所有するのが当たり前になっていて、家ではまだダイアルアップ接続だったと思う。ネットカフェに泊まって、朝イチで会社に来ている若者がとにかく好きなアニメにはぞっこん惚れこむタイプで……あの時代のことは、本当に語りきれない。これから、ゆっくり語っていこう。
そう、渋谷の裏通りを輸入オモチャを求めて行ったり来たりして、道端で買ったばかりのフィギュアを交換したりしたのも、あの頃だった。「ストリート」って言葉の賞味期限は、まだ切れていなかったのだ。

忘れないうちに書き記しておくが、僕は一年の中で年の瀬がいちばん好きだ。静かで寂しいけど、局所的に賑やか……という状況が好き。大晦日が永遠に繰り返されないかなあ、と夢想してしまう。


レンタルで『白い家の少女』と『普通の人々』。ヒッチコック風のサスペンスである前者は、あまりにガタガタのカメラワーク、しょっちゅうPANとズームを繰り返すだらしのなさに唖然とさせられたが、『普通の人々』、これは開幕1~2分で素晴らしさが分かる。
Mv5bmtmznjm3ndm2nf5bml5banbnxkftztc時系列が前後するし、あらすじを説明するのは困難だが、画面に引き寄せられる。それは構図に狙いがあり、カメラの動きが機能的で、編集で意味を膨らませているから。「ストーリー」こそが映画の本質だと思っている人たちはネタバレという言葉に執着するが、僕は映画は構図でありカメラワークであり編集であり……、すなわち語り口だと確信している。
無論、言葉と言葉がすれ違い、衝突し、なんとかその場をとりつくろおうとする人々の演技も迫真だ。会話の中に、即興の歌をまぜこむのもいい。よく計算された舞台劇を見ているかのよう。


いくつか、好きなシーンを挙げておこう。
主人公の少年が、ガールフレンドと喫茶店で待ち合わせる。だが、ガールフレンドは多忙なので、会話もそこそこに切り上げて、席を立つ。彼女は店の出口まで歩いたところで振り返り、少年に「ねえ!」と呼びかける。その瞬間、店内に座っていた見知らぬ人々が「えっ?」と一斉に彼女を見る。彼女はたじろぎながらも、「元気出して!」と少年に声をかける。

もうひとつは、主人公の母親が父親とデパートで待ち合わせるシーン。
彼女はエスカレーターに乗っているが、反対側のエスカレーターから友人に声をかけられて、大声で会話する。その場に乗り合わせた人々が一瞬、「何だ?」という顔で2人を見る。母親はエスカレーターに運ばれたまま、会話をつづける。
これらのシーンの持つ、「人込み」という状況が強いる必然と、それに抗うような言葉の意志。それをワンカットで過不足なく収める構図のセンス、容赦のない編集の知性。

それこそ、浴びるようにして2時間を楽しんだ。テーマがどうとかじゃない、工夫をこらした演出が次から次へと興味をつなぎ、思いがけない飛躍と省略を見せてくれるからだ。ただの2時間じゃない、何年分もの心の動きが凝縮された特別な2時間だった。
5355008ordinarypeople1537463255(ことに不思議なのは、少年のガールフレンドの運命だ。彼女は少年と気まずいデートをした後、自殺したと告げられる。ところが映画のラスト近く、少年はガールフレンドに謝りに行って、彼女はとびきりの笑顔でそれを受け入れる……こうしたプロットの不可解さが、映画に無限の奥行きを与えている。)

(C)1980 - Paramount Pictures. All rights reserved.

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2018年12月26日 (水)

■1226■

“アイレベル”の高低で人間関係がわかる、「RD 潜脳調査室」の機能的構図【懐かしアニメ回顧録第49回】
T640_792978アキバ総研の連載も、早くも50回目直前です。バックナンバーを読むと、「ちょっと考えすぎではないか」「深読みしすぎではないか」と感じるところもあります。作品を二回ほど見返すと、だいたい三つぐらいポイントが見えてくるので、どれか一つに絞らないと、原稿が散漫になります。
だけど、この連載が毎月あるおかげで、わざわざ読んでくれた人に見返りのある内容にしなくては……と、姿勢を正せるわけです。日々の倦怠にまかせていたら、もうアニメなど見なくなっていただろうし、構図やカットワークに注意が向かわなくなっていたかも知れません。
あちこちに、「仕事」「人に見せるもの」という枷を嵌めていかないと、僕の人生も生活も、バラバラにほどけてしまうような気がします。「人に会う機会」をなくしたら、身なりが汚くだらしくなくなっていくようなもので、審美眼にも垢が溜まるものだと思います。


レンタルで、クリント・イーストウッド監督、主演の『ガントレット』。1977年というと、『スター・ウォーズ』公開の年だ。
1977_the_gauntlet_3081069k全編、からからに乾いた荒野が舞台。時おり、嵐のような銃撃シーンが挿入され、ヘリが墜落したりもするが、折れる鉄塔や橋が作り物だとバレている。つくりの荒さも含めて、水分が抜け切った映画。
冒頭、クリント・イーストウッドの演じる刑事が明け方のバーから出てくる。彼が車を停めてドアを開くと、足元にウィスキーの瓶が落ちて割れる。刑事はアルコール依存気味で、上司から「もし殺されても誰も気にとめない」という理由でワナに陥れられてしまう。
彼自身は、自分が優秀だから特別な仕事を与えられたと思い込んでいるのが、よけいに痛々しい。

ソンドラ・ロックの演じる娼婦が、刑事の目を覚まさせていく。
砂漠で野宿することになり、娼婦は刑事がワナにはめられ、無用者であるがゆえに殺されかけていることを指摘する。娼婦の言葉を聞いて、刑事はジッと考えこむ。考えこんだまま、動かない。カメラはフィックスで、刑事の顔をアップでとらえている。
しかし、これは夜のシーンであり、娼婦は寝てしまった。どうやってシーン転換させるのだろう? なんと、カメラが刑事の顔をアップでとらえたまま、オーバーラップして朝のシーンになるのだ。刑事は微動だにせず、数時間も考えこんでいたわけだ。
それほど、娼婦の指摘は刑事にとってショッキングだったのだと分かる。
このシーン、どうやって撮影したのだろう? カメラを動かさず、俳優の座る位置を決めて朝を待ったのだろうか? ともあれ、俳優を止めたまま時間経過だけをオーバーラップで表現する大胆な演出で、刑事の沈思黙考ぶりをシャープに描ききっている。好きな演出だ。


もうちょっと分かりやすいシーンも挙げておこう。
Mv5bztzizje1ntqtote3nc00nwuylwiymju刑事は娼婦を隣の州まで護送して、裁判に出席させねばならない。だが、娼婦に証言されては警察署の上司が女を買って暴行していた事実が発覚してしまう。証拠隠滅のため、行く先々で警官隊が待ち構えている。
つまり、この映画は権力の腐敗ぶりをモチーフに、主人公の正義を証明しなくてはならない。どこかで、警察官の汚さを描き、反権力のポジションを固めなくては終われないはずだ。

それが、八方ふさがりになった刑事が、パトカーを奪うシーンだ。パトカーに乗っていた警官は刑事に銃をつきつけられたまま、州境へと車を走らせる。娼婦は後部座席に座っている。警官は彼女に、「金をとって男と寝る気分はどうだ?」など、下世話な質問を浴びせる。
娼婦は、「あなたたち警官と同じようなものよ」と言って、警察官が裏でどれほど不正をしているか舌鋒鋭く暴きたてていく。最初は「詳しいな」と苦笑していた警官だが、「まだ夢精しているの?」とおちょくられて、ブチ切れてしまう。
2人の会話を聞いていた刑事は、無言で娼婦のほうを睨む。その口元にはやがて、苦みばしった笑みが浮かぶ。それは共感のような、賞賛のような、不思議な微笑である。

いつも書いていることだが、映画の中で自分から動けず、ジッと事態を静観している人物にこそ、観客は感情移入してしまう。
このシーンで、クリント・イーストウッドは銃を警官につきつけているだけで、自らは何もしていない。娼婦と警官の会話を聞いているだけの“観客”なのである。彼は観客の「スッキリした」「スカッとした」「よくぞ言ってくれた」という気持ちを代弁するために、苦い笑いを浮かべるわけだ。
こういうドライな、辛らつなシーン、最近の娯楽映画・大衆映画では滅多にお目にかかれない。1970年代のアメリカ映画に特有の苦味……という気がする。

(C) Warner Bros. Entertainment Inc.

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2018年12月23日 (日)

■1223■

モデルグラフィックス 2019年 02 月号 25日発売予定
Du6ol_uyaenvvu■「組まず語り症候群」第74夜
今回は、松村しのぶさん原型のレジン製ガメラ飛行形態です。
来年は平成ガメラ完結20周年。1995年は『ガメラ』シリーズと『エヴァ』がスタートして、マスターグレードでガンダムが模型化された年です。次世代ゲーム機が各社から発売され、『ウルトラマン』『仮面ライダー』もテレビに復帰して、オタクでいるかぎり決して飽きることのない黄金の日々が10年近くも続いたように思います。

■『ひそまそ』実写化計画
おそらく今回が最終回なので、当初から予定していた品田冬樹さんをお招きしました。タイトルは「品田冬樹とB-CLUB文化」。
模型や立体物が、どれほどアイドルや映像文化と親和性が高いか、あらためて振り返っていただきました。


昨日22日は、『この世界の片隅に』のロケ地を見よう会のため、土浦へ。
48358646_2016202668473637_123921083朝から土浦セントラルシネマズで『この世界の片隅に』を観る都合もあって、前回(9月9日)と同じく、駅前の東横インに宿をとった。前回は駅前のコンビニでおにぎりを買って夕食をすませてしまったが、今回は駅の西側で飲み屋を探してみた。
やはり店舗は乏しいのだが、チェーン系の居酒屋で牡蠣フライと刺身、バルで赤ワインとチーズを味わった。旅先では、ほんの2~3杯で十分に酔えてしまう。

こうして、東京以外に用事のあるときは小奇麗なホテルを泊まり歩いて、喫茶店で時間をつぶしていると、意外と能率よく仕事を進めることも出来るのだが、やはり分不相応な贅沢なのだろう。
土浦から上野までグリーン車に乗車すると、たった二両なのに車内販売があったり、後ろのほうでハイボールを飲みながら話す中年カップルの会話が滋味深かったり、とても楽しかったのだが。ひとり旅が好きだ。


『この世界の片隅に』、映画館で観るのはそれこそ3ヶ月ぶり。
48391252_2016194778474426_635974561映画館は自宅でDVDやウェブ配信を見るのと違い、誰かの意志で、誰かの決めた時間いっぱい、決められた場所に座っていなくてはならない。おのずと、身構えが違ってきて、見せる側の意志を汲み取ろうと集中することになる。
自分でボタンを押して、自分で時間をコントロールできる自宅のほうが、実は受動的に見ているのではないか……。

自宅で観た映画は、クリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』など。まったく見るべきところのなかった映画は、タイトルごと忘れてしまう。


そういえば、土浦で片渕監督はチェックするだけで、いま大変なのは作画の人たち……といった会話を耳にした。
それは、だいぶ事実と異なる。僕らが上手く伝えなくてはならないことだが、監督は自分で特殊効果を描いたり、撮出し素材を徹底的に揃えることで、あの独特の手触り感を生み出している。数学的な計算能力も必要だし、監督だけの持つ技能が全カットに駆使されているのだが、撮出し素材自体、なかなかお目にかかる機会が少ないとは思う。

とにかく、監督は自分でドンドン直してしまうし、ドンドン分け入って歩いていくし、雨が降っていれば傘をさせばいいし夜なら明かりを灯せばいい、というタイプの人だ。「寒いから明日にしよう」ということがなく、細かなところで沢山の我慢を重ねているに違いない。
僕が真に恐れるのは、あの行動力だ。僕のように、今日はいっぱい働いたから明日は酒だ、いや一日寝ていよう――という怠け癖がない。いつの間にか、自分の手で雑事をすませている。人生を無駄にしない。
それが出来ないと、怠け癖のために向上心を失い、性格まで捻じ曲がって堕落してしまうことがある。僕は、それが怖い。「もうオッサンだから」と自嘲するたび、どんどん高度が落ちていく。

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2018年12月18日 (火)

■1218■

筆塗りを楽しむために生まれた味わい深いプラキット「塗るプラ」を、株式会社ボークスが開発した本当の理由【ホビー業界インサイド第42回】
T640_791437ちょっと気になっていたプラモデルだったので取材をお願いしたところ、未塗装のランナー状態を見て、腰を抜かしました。「金型が壊れるんではないか?」というぐらい、モールドがシャープなのです。専業メーカーでも、こんな彫刻はなかなか出来ないと思います。

もちろん、ボークスさんとしてはキットを通じて水性塗料「ファレホ」をアピールしたいわけですが、「上手な人が上手に塗りました」の一点張りでは、やや苦しいと言わざるを得ません。
僕のような第三者が興味本位で取材するメリットは、メーカーさんとは別の視点から製品の魅力を見い出せることだと思います。そういう意味では、「モールドの有機的な表現力が凄い!」という評価になります。たった900円で、これは買いですよ。


【模型言論プラモデガタリ】(
来年1月10日に、阿佐ヶ谷ロフトAでトークショーを開催します。
Ducxlueu8aeud74一緒に登壇するのは、80年代初期に美少女フィギュアをビジネスとして開拓し、現在はフィギュア原型会社MICの経営に携わる秋山徹郎さん。第一回は、キャラクター・プラモを検証することになりますので、アニメの歴史や玩具の文化に詳しい五十嵐浩司さんがゲストです。
五十嵐さんのおかげで、とんでもなく貴重な資料が集まってきました。

版権元さんとも話して、今回は手持ちのキットや資料を使ったトークショーになりますが、ダンバインならダンバインという番組の立場がどうだったのか、オーラバトラーというキャラクターをどう売りたかったのか、アニメ・ロボットのプラモデルとして何を遊ばせたかったのか、検証します。
単に「あのシリーズは出来が悪かった」「ダンバインは好きなアニメだった」と回顧するわけではありません。物事のコンセプトを咀嚼し、デザイン的な視点から検証するので、そういう仕事に興味のある人なら、誰でも楽しめると思います。もちろん、単にアニメ好き、オモチャ好きでもいいんです。
「気楽に参加できて、勉強になる」イベントになります。


僕がモデルグラフィックス誌で連載を始めた数年前、Twitterで「作れもしないくせに……」と悪口を言われたものです。
また、他ジャンルで有名なクリエイターの方が「僕はプラモデルに色は塗れませんし、下手クソなので語る資格はありません……」と口ごもってしまうシーンに、何度か出会いました。「模型雑誌に凄い作品が載ってますよね、あんなのは無理」と言われたこともあります。

だけど、僕の友人でプラモデルは買わないし作らないのに、模型雑誌だけ眺めて楽しんだり、「今度、○○がプラモデルになるんだな」と、情報だけ集めている人もいます。
そういう人たちは、プラモデル文化と関係ないんでしょうか? 「入門」という言葉がありますが、本当に誰もが門をくぐらねば語ってはいけないのでしょうか?

「四の五の言わずに、とにかく作れ! 塗れ!」「努力して、上達してから語れ!」といった根性論の影で口を閉ざしてうつむいている人たちが、安心して座れる場を提供したいんです。
プラモデルなんて、生まれてこの方、買ったことがないって人でも歓迎します。アニメとかロボットとかよく分からん……という人で大丈夫です。「そもそも、ロボットアニメとは何か?」「何のためにロボットアニメが存在するのか?」という次元から、丁寧に語り下ろしますので。
できるかぎり毎月開催するので、「自由な言論とは何か?」ということも含めて、風とおしのいい、何の抑圧もない解放区を目指したいのです。

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