2018年2月24日 (土)

■0224■

モデルグラフィックス 2018年 04 月号 本日発売
Dwpvhu8u8aaido_●組まず語り症候群
第94回目となる今回は、プラッツさんの「1/12 リアリスティックハンドガン」を取り上げました。

●1/12 バンダイ ハン・ソロ コラム
顔面塗装済みで発売されるハン・ソロのキットについて、ヘッドライントピックスでコラムを書きました。
ちょうど、他媒体でバンダイさんに取材して、テストショットを目の前に説明を聞いてきたばかりだったので、正確な情報と印象を書いています。


ヒッチコック監督の『トパーズ』とタルコフスキー監督の『鏡』、レンタルで。
Mv5byzdjntnjnwqtm2m0ni00mjc5ltg0zde 『鏡』は1975年の作品だが、僕が大学生だった1986年に『サクリファイス』が公開されたため、ちょっとしたタルコフスキー・ブームがあった。タルコフスキーを好きだという人と話してみると、「映像が美しい」。ほぼ例外なく、こんな感想が返ってきた。僕も草原だとか炎だとか、分かりやすい映像美を記憶していて、それでタルコフスキーを理解した気になっていた。

いまタルコフスキー作品を見ると、その長回しぷりに驚く。カメラは人物の前に後ろに回りこんで、刻々と構図を変えていく。ワンカットの中で雨が降り出したり、タイミングよく風が吹いたりする。ロケ現場に装置を仕込んで、何度もリハーサルを繰り返したはずだ。
(海外のメイキング画像を見るとヘリコプターが映っているので、ヘリコプターを飛ばして風を起こしたのかも知れない。)


『鏡』ではカットを割るかわりに、手持ちカメラで人物の間を歩きながら構図を変えていく。さまよい歩く人物の後ろに密着して、えんえんとカメラを回す。タルコフスキーはカットワークに興味がないかのように思える。
だが、後半の会話シーンではかなり凡庸な切り返しが使われていて、ちょっと驚く。2人以上の人物を使って会話劇を撮ろうとすると、ロングの長回しで撮るか、アップの切り返ししか選択肢はなくなる。「劇」が、映画表現にカセをはめていることは間違いない。
とはいえ、政治的な記録映像まで使った『鏡』には、ストーリーらしきものはない。なので、後半の単純な切り返しが浮いて見える。

たぶん、僕の見てきた映画の七割以上はハリウッド映画だと思う。ハリウッド映画は『カサブランカ』あたりで効率的な撮り方、「劇」「ストーリー」の伝達方法や約束事を完成させてしまい、音楽や俳優の美しさに酔いしれるなど、観客の消費行動もパターン化された。
第二次大戦後、ハリウッド・スタイルの撮り方や消費のされ方に反旗を翻すように、自由で獰猛でドキュメンタリックな映画群が、イタリアとフランスで発生した。
それらの映画を昨年は追いかけて見たつもりだったが、人生の半分を1940年代に完成されたハリウッド・スタイルの映画に埋没させてきた事実は変わらない。いまだに、単純なカットワークで「劇」を進行させる映画に出会うと、安心感をおぼえる。
その安心感は、いわば「習性」でしかない。「習性」は、もっとも感動とは遠いものだ。


どれだけ派手なアクションや爆発や暴力が描かれていようと、カットワークが凡庸なら、それは保守的な映画である。われわれの「習性」を利用しようとする映画は、ちっとも過激ではない。

僕は「習性」に甘えて、眠りこんだまま人生を終えたくない。容易に了解できない、生の驚きに裸眼で接してみたい。

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2018年2月20日 (火)

■0220■

荒牧伸志×神山健治 2人の監督がつくりあげる“楽しいアニメ制作の現場”【アニメ業界ウォッチング第42回】
T640_752346昨年夏に荒牧監督にインタビューした際、作品タイトルが発表になったら、神山監督とのダブル・インタビューをさせてくださいとお願いしました。今回は、モーションキャプチャーの収録現場を見学させていただいたうえでの取材です。


記事中に「果たして、モーションキャプチャーを使った方法を“アニメーション”と呼ぶのかどうか」という発言があるように、モーキャプの現場は実写映画の撮影に近かったです。
撮影というより、「記録」といった方がいいのかも知れない。実写映画はカメラで俳優を記録することによって、一秒あたり24枚の静止画をつくる。
アニメーションは、2Dであれ3Dであれ、あるいは人形アニメーションであれ、俳優を使わずに24枚分の静止画素材をあらかじめ用意して、それをカメラで記録する。映画評論誌が選考対象からアニメ映画を外したとき、なぜか、アニメーションの原理の話にはならなかった。どっちが上か下か、「アニメを差別するな」といった感情論しか見かけませんでした。

実写映画で、俳優が「今の動きは何コマ分だ」と計算することは、それほどないと思います(監督は、撮影中にコマ数を考えると聞いたことがあります)。
アニメーションでは、「この動きに何コマ使う」という計算が最初にあります。だから、偶発的な要素が入りづらい。「原理として」予定された動きしか入らないわけです。先に素材を用意せねばならないから、貧しい動きになる場合もあれば、現実離れした豊かな動きも描ける。それどころか、用意できた素材が乏しい時にだって、予想だにできなかった表現が可能となるのです。


ただし、実写映画でも、セットを建てるお金もなくプロの俳優も用意できない貧しい現場から、ドキュメンタリックで先鋭的な表現が生まれてくる場合もあるので、一概に何が上とか下とか言えないはずです。
だから、「五点評価をやめろ」と言うのです。数値化できない、予想できないから表現は面白いはずであって。昨日つまらなかった映画が、明日には面白く見えることだってあるし、厳然と評価を決めつけた瞬間に、作品との流動的な生き生きした関係はたちまち硬化して、あなたの人生は枯渇するよって話です。

まったく同じように、「アニメはゼロから動きを生み出す、実写映画より凄い表現だ」と言った瞬間、ごっそりとアニメの価値が損なわれると思うのです。
僕がアニメを見つづけている理由のひとつに、「見やすさ」があります。原理的に、用意された材料のみで構成されているから、安心して見ていられる。絵があまり動かなくても、声優さんの演技で理解できてしまう。それで白ける場合もあれば、救われる場合もあります。「まあ、そこそこ面白ければいいじゃん?」という気軽さは、むしろ実写映画に対しては抱けないのです。

視点や視野をしょっちゅう変える柔軟さがないと、何を見ても面白くないだろうし、面白くないからこそ「○○の方が高尚だ」と、強引に権威づけしたくなるではないでしょうか。

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2018年2月13日 (火)

■0213■

主役メカは左右どちらを向いている? 「超時空要塞マクロス」の対立図式を“メカの向き”から解読する!【懐かしアニメ回顧録第39回】
514csart4wlこの連載は、ここ何度か新しい切り口が見つからずに悩んでいますが、被写体が向いている方向によって対立関係を示すのは、基本中の基本です。というより、2人の人物がどちらも右を向いたまま会話していたら、誰と誰が話しているのか分からなくなるから、イマジナリーラインが必要なんです。

どちらが右方向から来て、どちらが左方向から来て、それぞれどんな効果があるのかは富野由悠季さんの『映像の原則』にも書かれています。


僕がすぐに思い出すのは、ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』の冒頭シーンです。右から歩く足と、左から歩く足とが交互に映される。最終的に、この2人の人物はぶつかります。
2人がぶつかるようにシナリオに書かれているなら、右から撮ろうが左から撮ろうが関係ないだろう……と思っている人がいるかも知れないし、実は、いきなり人物の左右が入れ替わってしまう映画やアニメも、たまにあります。すると一瞬、誰が誰だか分からなくなる。
その違和感を、わざと狙った演出もあります。

だけど、ほとんどの人はキャラクターだとかストーリーについて話すのが好きで、それは構わないのですが、最近は「好き」について話すことが「正しい」と見なされる風潮が強くなっている気がします。
普段から「好き」の感情だけを最優先しているから、小部数のマイナー映画評論誌が、たかが年に一度の選考作品からアニメを除外しただけで「あいつらは間違っている」「差別するな」「アニメは正しい」の大合唱になってしまう。しかも、その声が多数派か少数派かで正しさを証明しようとする。

アニメや映画の演出、原理に興味をもって接していれば、アニメと映画の差異について考えるキッカケに出来たはずです。
「ネタバレあり/なし」「星五つで何点か」、これは海外にもある即物的レビュー方式ですが、観客の認識力を低下させ、動物的な反射を促進し、心の余裕と主体性を奪うだけなので、関わらないほうが良いです。


細馬宏通さんの『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか―アニメーションの表現史』によると、初期のアニメーションには実写パートがあったり、ショーの一環として生身の興行師がアニメの画面に飛び込むような演出があったそうです。
最初は絵が緻密に動く新奇さが売りで、カット割やズーム、PANなど実写映画の演出が導入されたのは、もう少し後のようです。しかし、リップ・シンクや遠近法など、アニメにはアニメならではの技術面での進歩がありました。こうした面白さは、「好き」「嫌い」を超越したもの、数値化できないものです。

娯楽にかぎらず、政治でも社会問題でも、考える前に「相手は敵か味方か」「自分は多数派か」ばかり即断されていって、怖いです。
マイノリティの人が、「力で相手をねじ伏せる」権力者の論理を平然と行使しているのを見ると、絶望的な気持ちになります。

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2018年2月10日 (土)

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フィギュアメーカーが提案する“組み立てキット”の役割とは? 田中宏明(グッドスマイルカンパニー)、インタビュー【ホビー業界インサイド第32回】
T640_751506元バンダイの田中宏明さんに、良いタイミングでお話をうかがうことが出来ました。取材はご本人への直接申し込みだったので、段取りはスムースでした。
サターンロケットはスケール表記こそされていますが、手すりなどスケールキットでは確実に折れそうなパーツは太めに成形され、さまざまな状態を再現するプレイバリューに重きが置かれています。
最近は中国の新興メーカーのプラモデルを組み立ててきましたが、やはり時間とお金に余裕があると、際限なく細かいパーツ分割になってしまうのかも知れません。今までプラモデルとは縁遠かったユーザーを迎え入れるには、スケールキット、もっというとプラモデル文化にすら距離感のある田中さんのようなフレッシュな人材、因習にとらわれない発想が必須と思います。

けれども、こういう話題を模型雑誌に載せようとすると、「さあ徹底的にディテールアップしましょう、カッコよく塗装しましょう」という古い切り口しか許されない風潮があります。だから、僕は「アキバ総研」に居場所をつくったのです。


先週、4,400円もする国内メーカーのスケールキットを買ってきたんですが、あまりにもパーツの精度が大雑把で、1/3ぐらいまで組み立てた時点で、放棄せざるを得ませんでした。
ただでさえ見づらい説明図を何度も見返しながら組み進めても、パーツの誤差が1mm以上あって、接着面積はもっと狭い。なんとか接着しても、その次の工程でミシッと割れてしまう。これが何十年も前のキットなら分からなくもないけど、一昨年発売されたものですからね。信じられないです。
他の商材で4,400円もとっておきながら形にならないなんて、決して許されないと思います。本なら落丁・乱丁レベルなので。だけど、プラモデルはユーザーに組み立てがゆだねられるので、「買ったヤツが頑張って完成させろ」という話に落ち着いてしまう。「初心者は修行して、ダメなキットでも完成できるように精進しろ」とか、精神論でごまかされてしまう。

工具も塗料も接着剤も別売り、箱を見ても中身がどれぐらい細かいのか、どれぐらいの精度かも分からない。説明図を開いて、ようやく「ドリルで穴を開ける」工程に気づかされる。こんな不親切な製品を売っていおいて、「作れないヤツは上達しろ」。そんな状況を許しておいて新規ユーザーが増えない、模型人口が減ってるとしたら、そりゃ当たり前ですよ。
だけど、みんな老舗メーカーに愛着があるから悪口を言えない。メーカーも、その風潮に甘えている。とてもじゃないけど、未来を感じられません。


オマケ程度に無駄話をすると、模型文化の退嬰は、よく「小さな町の模型屋さんが潰れる」と言い換えられます。実際にはアマゾンや量販店で買い物しているくせに、甘美なノスタルジアで都合のいい犠牲者を仕立て上げる。その無責任な懐古趣味もまた、「模型文化」の一断面なんですよね。「いまの子供たちはモノ作りの楽しさを知らない」とか、実感を欠いた決まり文句。
模型文化が退嬰するとしたら、その原因は「初心者は上級者に学んで上達すべし」という幼稚な体育会的な根性論で一見さんを追い返す排他的なムードですよ。
学びたい人にだけ教えればいいのであって、それで何かを救った気になるのは、やはり傲慢だと感じる。

僕は誰にも学びたくないし、どのキットを買うときにも、永遠に初心者でいたい。上手いとか下手とか、誰かの設定したレースに乗る気はない。競争したくないし、誰かの上に立ちたいとも思わない。ひたすら自由でありたい。「本気を出すと上手い」とか、そういうポテンシャルにも興味ない。バカにされてもいいから、いつも素手でいたい。好奇心だけ持っていたい。

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2018年1月28日 (日)

■0128■

タイムボカンシリーズ 逆転イッパツマンCOMPLETE  BOOK
Duimkkmu0ae7lip●インタビュー① 笹川ひろし×小山高男(現・高生)
●インタビュー② 押井 守
●インタビュー③ 天野嘉孝(現・喜孝)

合計4名の方たちにインタビューさせていただきました。押井さんの絵コンテも掲載されており、ちょっとしたコラムも書かせてもらっています。

内容はエピソードガイドや膨大な設定資料のほか、キャラクター原案やメカ作画の分析、オープニング絵コンテや関連グッズの紹介など、「これ以上は不可能」というぐらい完璧な資料集となっています。


レンタルで、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』。
Mv5bnjk5mdc0nzexm15bml5banbnxkftztgこれもまた、中学時代にテレビで観たぐらいで分かった気になっていた一本。
冒頭とクライマックスに、数十人が入れ乱れた尽きることのない銃撃戦がある。適当に「撃つ」「撃たれる」画を繋いでいるのではなく、誰が誰を撃ったか、なるべく因果関係が分かるように編集している。最初に肩や足を撃たれ、次に胸を撃たれて倒れるといった段取りを丁寧に踏んでいる。
馬に乗った男が大きくフレームインしたかと思うと、二階のベランダから床ごしにライフルを撃つ敵がいる。床に穴があく、もうひとつあく、あわてて馬で逃げようとする、追いかける……といったプロセスをワンカットずつ割って、一秒以下のフレーム数で繋いでいく。

また、建物の屋上で撃たれた男が地面に落下するのを、3カットに分けて、他の銃撃の合間にはさんでいる。その落下するカットはスローモーションだ。
さらに、馬に乗って逃げようとする男が撃たれて、洋服屋の中に倒れる。ガラスが割れて男が店内に倒れこんでくるカットを、四つに分けて、その間に、やはり別々の銃撃戦が入る。馬と男がガラスを破って倒れる派手なカットは、やはりスローモーションで撮られている。
つまり、ここには一秒間24コマの世界と一秒間48コマ、あるいは72コマ以上の世界とが共存している。男が屋上から落ちる、馬が洋品店に突っ込むアクションは、他のカットを見せている間に終わってしまうほど短いはずだ。だが、スローモーションで撮ることによって、他のカットと併走可能になっている。


すさまじい銃撃戦の中、砂埃の中を抱き合って立っている幼い子供たちがいる。彼らのアップの次に銃撃戦がつづくと、まるで子供たちが間近に銃撃戦を目撃しているかに見える。
だが、その視覚効果が錯覚にすぎないことは、1922年にレフ・クレショフが証明している。一秒間のアクションを48コマで撮影して時間を引き延ばすことも、いわばルール違反だ。だが、映画という手続きによってしか存在できない純度の高い「映画的な」時間と空間が、『ワイルドバンチ』の銃撃シーンには露呈しているといえる。


アニメ映画『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』、どうも今週金曜(2/2)で終わってしまうらしい。Twitterで本国公開時から情報発信していたアカウント、「大聖の水道工場」さんの作成したキービジュアル()に心が震えた。転載させていただきます。
Clxhuojukaekivh
中国で大ヒットしようと、それが日本国内でのセールストークにならないことは百も承知だ。マスコミ試写に来ていたはずの業界人たちは、この映画を黙殺した。悪いんだけど、「見る目がない」ね。話題性が保証されてないと何も動こうとしないあなた方の情けなさ、ぜんぶ上に書いてある。

お客さんや読者さんのこと考えて仕事してるかよ? 上司のごきげんがとれれば、自分の名前に箔がつけば……そんなことばかり考えて仕事した気になってないか? 映画が存在するのも公開されるのも、世の中を良くするためだよ。俺たちの仕事も、記事を読んでくれる人たちの心をちょっとでも明るくして、世間の風とおりをよくして、良い方向へ回すためだろう?
どうやら、そう考えている人が少ないようで、ガッカリさせられる局面が多いんだが……。

「気が変わりやすいやつ、過去を捨てられぬやつ、真面目な顔で出鱈目を言ってるやつ、いい加減に生きているやつ、堕落しているやつ、始めを恐れ、終わりも恐れているやつ」、ヒーローが死んだと聞いて喜んでいるやつ。「キミもその中の一員?」
世の中でいちばんみっともないのは、勇気がないことだよ。違うかい? 

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2018年1月26日 (金)

■0126■

モデルグラフィックス 2018年 03 月号 発売中
0000000033962●組まず語り症候群 第62回
今回は、クリアパーツにメッキを施し、その上から部分塗装までされた「輝羅鋼」パーツを紹介するため、連載5年目にして初のカラーページとなりました。
今号の77ページに、かねてから聞かされていたハン・ソロとルークの頭部塗装済みキット()も紹介されています。完成品フィギュアで使われている技術の転用らしいのですが、組み立てキットに応用されると「タブーを侵している」ように受け取られる点が面白いです。
組み立てと塗装は別の楽しみなのに、「模型は塗るもの」という固定観念が強すぎたんじゃないでしょうか。僕は誰が組んでも同じ成果が得られるプラモデルの民主化、大歓迎です。


『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』、3度目の鑑賞。「もう十分だ、もう分かった、終わりにしよう」と思いながらも、あと一週間しか上映しないらしいので、すでに4度目を観るつもりになっている。
Twitterでは、主役の斉天大聖に恋する女性ファンが相次ぎ、ようやく盛り上がってきたのに……本当に、もったいない。『マイマイ新子と千年の魔法』のように、第二のウェーブを起こすにはどうしたらいいのか、考えてしまう。

『西遊記』というメインタイトルが、あまり良くないのかなとも思う。ファンの人たちが「ヒーロー・Duxq2trvwactluy イズ・バック」と、サブタイトルで呼びたがる気持ちはよく分かる。『西遊記』なら子供の頃に見たよ、知ってるよと敬遠されてしまうのかも知れない。せめて英文タイトルに準じて『モンキー・キング』という邦題なら、もっと新鮮な、クールな印象を与えられたのではないだろうか。
また、ディズニー&ピクサーやドリームワークスのような米国のCGアニメと比較され、それらに追いつくべき発展途上の作品と誤解されがちな点でも損をしている。パンフレットを読めば分かるが、『ヒーロー・イズ・バック』は「黄色い白人(外見はアジア人だが中身は白人同様の華人)」の演技にならないよう、かなり苦心しているし、工夫もしている。キャラクターの造形と質感はもちろん、背景の透明感、シズル感は欧米のアニメでは決して見られないものだ。曖昧さを残した繊細な感情表現も……。
『西遊記』と冠しておきながら、ほぼオリジナルな展開である点からも、作家本位の「尖った作品」なのだと思う。やはり、単館でのレイトショーが似合っている。
(中国でも、最初は田舎の小さな劇場一館のみで公開された。)


さて、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』日本語版の主演声優である咲野俊介さんの仕事を見たくて、『テッド2』を借りてきた。前作は、原語版で映画館で鑑賞している。
Main_large咲野さんはテッドではなく、『フラッシュ・ゴードン』オタクのマーク・ウォールバーグの吹き替え担当。最初から最後まで、まんまと面白かった。
ところで、僕らはジャージャー・ビンクスを毛嫌いするくせに、なぜテッドの存在を許せるのだろう? 『テッド2』のクライマックスはコミコン会場で、多数のコスプレ・キャラが登場する。それらは俳優が着ぐるみをまとって演じているが、テッドはCGキャラだ(なのに「今日は三度もイウォークに間違われたよ」とぼやくところが粋なのだが)。

俳優はフィルムに記録されたものだが、CGキャラは後から付け足されたものだ。実物を記録したものではない。しかし、誰もテッドを「本物ではない」などとは攻撃しない。
むしろ、僕らはCGキャラが俳優と会話する違和感を積極的に楽しんでさえいる。「ぬいぐるみが勝手に動くわけがないから、何かのトリックを使わねば成立しない」と、どこかで自分を納得させている。『テッド』を観る上でCGキャラを受け入れるのは、いわば映画の提出した議定書にサインすること、映画と協定を結ぶことなのだ。


だが、『テッド2』は観客との約束事に甘んじることなく、周到に外堀を固めている。ラストカットは主人公たちの暮らす建物からカメラがトラックバックしていくのだが、このショットは丸ごとCGで作成されている。ファーストカットはユニバーサルのロゴから地球へ、さらに教会までワンカットで寄るので、やはりCGだ。
最初と最後のカットをCGで作成して、ブックエンドのように映画全体をCGでサンドイッチしてリアリティを相殺している。儀礼的な構造だし、何よりも品がいい。下品なジョークの応酬にも関わらず、理性的な映画なのだ。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)Tippett Studio/Universal Pictures and Media Rights Capital

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2018年1月21日 (日)

■0121■

【ホビー業界インサイド第31回】女子高生を1/35でキット化! 「35ガチャーネン -横山 宏ワールド- JKフレンズ」に秘められた “理想のプラ模型像”を、海洋堂・宮脇修一センムが語る!
T640_749784カプセルトイといえども、インジェクション・キットとして女子高生フィギュアを成形しているのだから、プラモ文化という側面から光を当てるべきと考え、取材をお願いしました。
結果、文房具屋で売られていた“吊るしプラモ”、エアフィックス~フロッグ系の英国製プラ模型の質感など豊かなお話を聞くことができました。というより、宮脇さんの「プラ模型」という素朴な呼び方が、すでにガンプラ登場以前の概念を言い表していると思います。
こういう実体験的なお話は、ガチャーネンが売れるとか売れないとか、出来がいいとか悪いとかは直結しないように思います。「熱い」とか「こだわりがある」「プラモ愛」って誉め方も、ちょっと論点が違うような気がします。○○愛って言葉は、危険ですね。


アキバ総研の担当編集さんのスケジュール管理能力……というより、危機管理能力のおかげで、海洋堂さんへの取材申し込みと記事掲載はスムースでした。
実は、来月掲載分の取材も、昨年中に終わっています。僕が早め早めに申し込んでいたせいもありますが、担当さんが「もしコレがダメなら、以前に話が出ていたアレでいきましょう」と先手を打ってくれるから、一回も休まずに続けていられるんです。(それと、責任分担がハッキリしているので判断が早い。)

どんな仕事でも、段取りが8割でしょうね。実力だの才能だのは、僕は2割以下だと思ってます。2割以下で比率が低いから手を抜くのではなく、2割しかないんだから、実作業はおのずと一生懸命やることになる。実作業に集中するには、スケジュールに余裕がなければならない。
いつまで経っても、それが分からない人がいる。「誰かがどっかで無理すれば終わる」と漠然と、曖昧に考えている。「スケジュール」という概念がない人たちがいて、その人たち同士で仕事を回しあっている。ダメな人たちは、ダメ同士でかばい合ったり誉め合ったりするから、すぐ分かる。
危機を察知する感度が高ければ、ピリッと緊張感をもっているはず。ナアナアでやっている人には、独特のだらしなさがある。


レンタルで、『サウンド・オブ・ミュージック』。
Mv5bmtk5mzq4odi0mf5bml5banbnxkftzty『鴛鴦歌合戦』()は、歌が映画を駆動させていたのに、『サウンド・オブ・ミュージック』は飽くまでも俳優が歌っている。四角四面に「ここからここまでが歌です」と決まっている。

『鴛鴦歌合戦』はトーキー化から10年後の映画だが、そこには無声映画から掬い上げた「形として」美しい肉体が力強くダンスしている。
そして、無声映画の残した遺産はトーキー化によって、どんどん忘れられていったのだろう。『サウンド・オブ・ミュージック』を見ると、よく分かる気がする。

(C)20th Century Fox - All Rights Reserved

 

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2018年1月 9日 (火)

■0109■

アニメ業界ウォッチング第41回:“やさぐれた孫悟空”の中年らしい魅力を引き出す! 「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」日本語吹替制作監修、宮崎吾朗の語る3DCGアニメの魅力とは?
T640_748636この取材記事は、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会の翌日に企画して、すぐに宣伝会社に申し込みました。それから10日間も音信不通で、配給会社へは年末ギリギリになって連絡があったそうです。まあ、はっきり言うと宣伝会社はやる気がない。公式Twitterでも、試写を見た人たちの感想をリツイートもしない、映画の魅力が伝わるツイートもない。
そんな逆風の中で、「宮崎吾朗さんが監修ではダメだろう」「吹き替えは山田康雄さんが良かった」など、思いつきと当てずっぽうの下馬評ツイートがチラホラと目に飛び込んできて、これはもう、興行はダメだろうな……と、覚悟はしています。短いところでは一週間のみの公開ですので、志ある方は13日(土)の公開初日に駆けつけたほうがよいでしょう(上映劇場→)。

記事を読んでもらえれば分かるように、宮崎吾朗さんが日本語版の監修についたのは、監督からの直接のお願いであって、別に箔付けのためではないんです。宮崎さんも、ご自分の立場をよくわきまえておられるだろうと思います。誠実な仕事をなさっています。
「宮崎吾朗だからダメ」「中国アニメだからダメ」、そうやってどんどん、自分の世界が矮小化していくんですよ。


レンタルで、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』。
640ヒューマンで痛快だった『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・ヴァレ監督なので借りて見たが……、前半、ほぼ主人公のナレーションで進行する。その日に何があったか、今どう思っているか、ぜんぶ細かなモノローグで説明する。
トーキー映画の利便性は、こういう安易なシナリオを生んでしまう。むしろ、過剰なナレーションで埋め尽くすスタイルを徹底させれば、どこかで映画のメカニズムとカチッと噛み合ったような気がする。
ところが後半、出会うべき人物と人物が揃った時点で、ナレーションは後退して、いつもの、切り返しによる表情と会話による「演劇」だけが残される。
そしてみんな、「劇」の中身の話ばかりするでしょ? 主人公に共感したとか、あんな男は許せないとか、最後に二人は結ばれるとか別れるとか。それらはすべて、映画の内側に入り込んだ「劇」の感想であって、映画の感想ではないわけです。

僕も「劇」だけを素直に楽しんでいた時期もありました。今は、そういう気持ちにはなれないです。そうすると、借りてこられる映画の種類が減ってしまうんだけどね。


これは、ちょっと前から気になっていた事件だけど……。

とある新聞の「児童ポルノ購入者」の職業が完全に名指しをしている件について
検事や議員、警察官の実名は出さないけど、『るろうに剣心』の作者と書いてしまったら、もちろん仕事はなくなるし、社会的に抹殺されますよね。なぜなら、「児童ポルノ」と聞いたら、誰もが「自分の頭で考えられる最悪」を想像してしまうから。
僕も警察に電話して、どういうものがアウトなのか具体的に教えてほしいと聞いたけど、「ケースバイケース」と誤魔化された。その時は過去に出版された写真集だと思ったが、今回は何? 記事では「わいせつDVD」と書いているから、わいせつ性が問題視されているわけですよ。つまり「少女を見て興奮しているヤツは罰する」「そして身内である警察官の名前は隠すが、漫画家ごときは実質的に実名を出すから覚悟しておけ」ってことでしょ?

何より気になっているのは……、一年前、二年前であれば、漫画業界が猛然と抗議したんじゃないだろうか?ってことです。同士である漫画家が晒し者にされたのに、シーンと静まっているのが、僕にはちょっと怖い。
「われわれは漫画やアニメの表現を規制から守りたいのであって、少女のわいせつDVDを所持していたら、たとえ漫画家だろうと守るに値しない」ってことなんだろうか? いずれにせよ、ついに「わいせつな」「児童ポルノ」を理由に、漫画ファンが漫画家を見捨てた。そのように見えるのは、僕の勘違いだろうか? 警察は警察官をかばっているぞ。こんな世の中を受け入れるのか?

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation, Demolition Movie, LLC and TSG Entertainment Finance LLC. All Rights Reserved.

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2018年1月 4日 (木)

■0104■

【懐かしアニメ回顧録第38回】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード」のストーリーを前に進めるのは“セルで描かれたおいしそうな焼き肉の質感”である!()
61rvij0nyzl『栄光のヤキニクロード』は、アナログからデジタルへの過渡期の作品で、後半ではポリゴンのしんちゃんも出てくるし、ワンカットだけ手描きの背景動画ではなく、3DCGの背景もありました。その一方で、70年代のアニメのように、キャラクターが絡まないかぎりは、洋服も食べ物も美術として描いています。今なら、テクスチャを貼って質感を統一するところですが、実務的な都合から、焼き肉がセルだったり美術だったりする。
だけど、セルで描かれた肉は人間に近い、柔らかくておいしそうな感じがします。人間は必ずセルに描かれるので、セルに描かれたものは温かくて柔らかいものに見える。そこに鈍感であってはならない、すべてが脚本に描いてあるとは限らないのです。


レンタルで『無防備都市』と『映画に愛をこめて アメリカの夜』。
Mv5bndyyzdqxntitnzc1my00zji2lthlnju『無防備都市』は初見だった。ロッセリーニ映画祭で観たのは『ドイツ零年』のほうだった。それぐらい、両者は作風が異なる。ありがたいことに、レンタルDVDなのに文字による解説が入っていて、すさまじい物質不足の中で撮影されたことが分かる。ニュース映画用のフィルムを使ったそうなので、ワンカットが短いのはそのせいかも知れない。カットワークが、ちょっと白けるぐらい端正で手堅い映画だ。

それよりも重要なのは、ムッソリーニが欧州のハリウッドを目指して建設したチネチッタ撮影所が空襲で被害をこうむったため、オールロケで撮影が敢行されたこと。スタジオで撮影できないため、苦肉の策でロケしたわけだが、その逼迫した制作状況がネオレアリズモのスタイルを決定したのだろう。


しかし、プロの俳優がずらりと並び、女優はメイクを決めた美人ぞろいだ。(通りすがりの人Mv5bndm4nda5mjitytk1nc00nzfmlwfhnwe を撮るのではなく)エキストラを集めているし、カットワークもしっかりしているし、ドキュメンタリーのような生々しい迫力はない。オールロケとのことだが、ドイツ将校たちがくつろぐ大広間は、まるでセットのように広々としていて、照明もしっかり組まれている。
三年後に公開された『ドイツ零年』のほうが、敗戦国の窮乏した環境を生々しく伝え、ひとつひとつのシーンにのっぴきならない切実さが漂っていた。お金がなくて環境が悪化すると、劇映画は、ウソで固められたヴェールを脱ぎ捨てていく。セットが使えないと構図は限られてしまうし、フィルムの無駄使いを抑えようとすると、カット数を減らさざるを得ない。

『無防備都市』は戦勝国のアメリカで公開され、大評判となった。イングリッド・バーグマンは作品に惚れこんでロッセリーニに手紙を書き、映画史に残るスキャンダルを起こした。
そんな華やかな尾ひれも含めて、どうも『無防備都市』には誠実さを感じられないんだよなあ……。


『アメリカの夜』は大学時代に観て、かなり好感をもった映画だ。
Mv5bmjqyogzmmjitzdhmnc00ndezlwfhytgトリュフォーは、『大人は判ってくれない』『ピアニストを撃て』で映画を街中に解き放つと同時に、熱烈なシネフィル、優れた評論家としても活躍を続けた。彼はロケ撮影を好んだが、その一方でセットを組んでフィルターで昼間の風景を夜にする「映画のウソ」への偏愛を隠さなかった。『アメリカの夜』で撮られる劇中劇は、街をまるまるひとつ作ったセット、雇われたエキストラたち、消防車を動員した雪の再現など、バカバカしいまでに大仕掛けなハリウッド式の劇映画をなぞっている。
処女作『大人は判ってくれない』でデビューしたジャン=ピエール・レオも出演しているし、トリュフォーの創作・言論活動の集大成のような映画だ。

小道具係の持ってきたネコが言うことを聞かず、有能な衣装係が別のネコを調達してくる。画面は、ネコを撮影している“カメラの主観カット”となり、画面外から「ピントが外れたぞ」など撮影スタッフの声が入る。映画は、意図とメカニックによって成立している。
だが、劇映画の構造を“劇映画の形のまま”あけすけにしたのがゴダールであり、初期のトリュフォーだった。あの過激さは、十数年をへた『アメリカの夜』には見られない。
トリュフォーが十数年の間、何をしていたのか、敷衍するような映画だと思う。分かりやすく噛み砕いたから、世界で大ヒットした。20歳そこそこの僕でも、理解できたのだ。

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2017年12月24日 (日)

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ホビー業界インサイド第30回:株式会社WAVE・阿部嘉久社長が振り返る、1983年・吉祥寺周辺のホビーシーン
T640_747174高校時代、店頭コンテストに出品して何度か最優秀賞をいただき、初めて商品原型の仕事を回してくださったのがWAVEさんでした。大学に入ってからは、帰りに事務所によって、何かしら原型や塗装の仕事を手伝っていたので、若くて未熟で鬱屈していた僕にとっては居心地のいい場所だったのでしょう。

阿部社長は、両親や教師以外で初めて出会う大人であり、思うように生きる、やりたいようにやる自由人でした。今でも変わらず飄々として、新しいことに興味津々な方です。


レンタルで、ロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』。
Mv5bmda1zti2m2utzdlhmy00m2q5ltljmtc佐藤忠男さんの『ヌーヴェルヴァーグ以後』を読んで、20代のころに見ていたはずだが、この歳で見直して良かった……。なにしろ、「夫婦が車に乗ってイタリアを旅する」程度しか、内容を覚えていなかった。若いころの経験なんて、たいして当てにならんのだなと再認識。

『イタリア旅行』は1954年の公開。ネオレアリズモ映画として捉えると、かなり後期に属する。しかし、ゴダールの『勝手にしやがれ』が1959年だから、ヌーヴェル・ヴァーグとは直結する。
街中にカメラを持ち出して、当時そのままのイタリアの風景をラフに撮るスタイルはトリュフォー、ゴダールに受け継がれている。
ただ、『イタリア旅行』はちょっと凝っていて、イングリッド・バーグマンが車内でクラクションを鳴らす(車内はスタジオで撮っている)、人々が車を避ける(ロケ撮影)。ちゃんとシーンが繋がるよう、ある程度は演技や編集を見越して撮影している。しかし、車を避ける人々はエキストラではなく、たまたまその場に居合わせた本物の通行人だ。


そのような即興的スタイル以上に驚かされたのが、茫洋としたプロットである。
関係の冷えきった夫婦がイタリアを旅行する。夫はパーティに出かけて女たちと仲良くなるが、妻はやることがないので、美術館や観光名所を訪れる。後者に尺を多く使っており、特に何か事件が起きるわけではない。美術品ばかり撮っていて、人間すら映っていないカットが続く。だが、シーン全体にピリピリとした緊張感が漂っていることは確かだ。

夫と妻は、ついに離婚話を始めるのだが、間の悪いタイミングで、現地の知り合いにポンペイの遺跡へ案内されMv5bm2fkowzlzgytzji3mc00zmvilwexn2qる。かなり唐突な展開だ。遺跡から男女二人の遺体が発掘されるのを見て、妻はその場を立ち去る。夫婦は車で移動するが、祭のパレードに出くわして、立ち往生する。祭の日を狙ってロケ撮影しているらしく、臨場感がすごい。俳優もカメラも、人波にもまれている。

人混みにまぎれこんでしまった妻は、懸命に夫のところにたどりつく。そして、いきなり夫に「愛している」と告げて、二人は離婚を撤回する。劇的な必然性は、ほとんど感じられない。しかし、街中に無防備に投げ出された俳優、コントロール不可能な群集を見ていると、なんとなく流れに納得がいくのである。
脚本段階で綿密に組み上げられたプロットでなくとも、時間とともに変化していくフレーム内の情報が説得力を発揮する場合もある。「映画」と「ストーリー」との距離は、おそらく言葉のない、何をも指し示さない映像の中に存している。「ストーリーがない」「物語の内容がない」と言われようとも、必ず誰かが覚えておかなくてはいけない。

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