2018年10月22日 (月)

■1022■

南雅彦プロデューサーが明かす、「ボンズが20年間もオリジナルアニメをつくりつづける理由」【アニメ業界ウォッチング第50回】
T640_783040このインタビュー記事は、『ひそねとまそたん』のBD-BOXが来月発売なので、個人的応援のつもりで企画したものです。ただ、法人としてのボンズさんにもメリットが必要だと思ったので、「20周年記念展開催の告知も入れますので」と広報の方にお話しして……と、記事を成立させる条件を考えるのが、いちばん面白いです。
そして、南さんの修羅場をくぐりぬけてきた野良犬のようなバイタリティに、ぞっこん魅せられました。この歳でもギラギラしてる人って、本当にいい顔をしてますよね。カッコいいです。


最近、レンタルで観た映画は『ポンヌフの恋人』、『ヴィオレッタ』。それぞれ、公開時に観たきりだった。偶然だが、双方の映画にドニ・ラヴァンが出演している。
Violetta_large『ヴィオレッタ』は、映画倫理機構から「区分適用外」、つまり「審査しないので日本国内で公開するな」と、『ぼくのエリ 200歳の少女』と同様に放置された作品。公開当時は「月刊 創」で配給会社のアンプラグドさん、映倫の大木圭之介委員長(当時)、双方に取材したものです。

いま観なおすと、映画としてはおそろしく稚拙で、映倫の人たちは何を恐れていたのだろう?と、首をかしげてしまう。主演のイザベル・ユペールの下着姿に、グッときてしまった審査委員がいたんだろうな。
3_large「猥褻」という概念は、自分の心の中にしか生じえない。「エッチだ、倫理に反する、見てはならない」と感じてしまう主体は、常に自分だ。その自分の醜さを直視する勇気がないから、誰もが「権力によって罰せられるべき」と責任転嫁する。「児童ポルノ」「性的消費」「18歳未満閲覧禁止」、ぜんぶ権力に判断を押しつける便利な言葉として使い捨てられて、「他でもない、私自身の性欲が歪んでいるのではないか?」と自らを疑う人は少ない。

「欧米に比べて日本は遅れている」、「秋葉原は治安が悪い」、何はともあれ間違っているのは他人であり、優れているのも他人である……と決めておく。改善されるべきは自分ではなく、日本であり秋葉原である。それなら、主体性も向上心も放棄できる。
ラノベの表紙で憤激し、フィギュアのパンツに狼狽し、バルテュスの絵画を見て「児童ポルノだ、禁止せよ」と怯える人々には、何か別の救いが必要だ。
『ヴィオレッタ』を観て、「主演の子がセクシーだ」「かわいらしい」と素直にレビューに書いている人たちは、少なくとも、ストレスなく心穏やかに生きているように見える。


「多分に、怒りの表明という娯楽を楽しんでるんだと思うよ、ご意見を強い言葉で呟く人らは」()、おそらく、そういうことなんだろう。
僕にも、覚えがある。反原発デモに参加していた頃だ。反原発が終わると、次は秘密保護法反対デモだった。原発は今でも止めるべきと思っているが、秘密保護法はなぜ反対しているのか、自分でも分からなかった。みんなで怒鳴っているのが、だんだん気持ちよくなっていったのは確かだ。デモのコールは、いつの間にか「戦争する国、絶対反対」に変わっていた。
Twitterで、「で、次は何に反対したらええんや?」と苛立っている人がいて、ちょっと目が覚めた。デモを何千回くりかえしても、原発はなくならない。原発をやめるには、やめようと主張している僕たち自身が、具体的にコストを払わなければならないはずだ。

正しいと信じれば信じるほど、間違っていく。
原発事故の頃、ひさびさに出会った友人が、「政府が安全だと言っているんだから、安全に決まってるだろう」と、気まずそうに目をそらした。そんな生き方だけは、イヤだと思った。


どんどん話が矮小化していくが……中学校の文化祭で(いや、「祭」は中学生にふさわしくないそうで「文化活動発表週間」と呼ばれていた)、ロックバンドの演奏が禁止されそうになった。
女教師が眉をしかめて、「ロックは禁止、私、ロックはうるさいから嫌い」と言った。僕自身はバンドを組んでいなかったし、ロックも聞かなかった。だけど、「先生が嫌がっているので、あきらめてくれ」と友だちに言うのは、それじゃあ生きている意味がないとさえ思った。だから、辛抱強く職員室で交渉した。

ロックをやっているリア充たちに日和ったわけでも何でもない。彼らの大半は、廣田はアニメ好きで暗くて汚くて、ダサいヤツと思っていただろう。
「なんで教室の隅っこでマンガ描いているようなオタクが、俺たちのために教師と交渉してるんだ?」って、変な顔で見られた。
バンドをやって、女子にモテモテになるのは彼らであって、俺ではないですよ。お前ら、自分のためなんだから自分で戦えよ、とも思った。「なんで教室で愚痴ってるの? 職員室で教師と話そうよ」と言ったおぼえもある。汚らしい、根暗のオタクの分際で、生意気にも。

おそらく、手続きを通して理想を実現しようと、コツコツと実務に励んでいる自分が好きなんだよ。何かに激怒して、相手を罵倒してスカッとした、溜飲が下がったとしたら、それは堕落の合図だね。

(C)Les Productions Bagheera, France 2 Cinema,Love Streams agnes b. productions

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月18日 (木)

■再び広島・呉へ-1■

EX大衆 2018年11月号 発売中
51jzyd5l_sx387_bo1204203200_●アイドルアニメとしてのマクロス
全4ページのうち半分はストーリー紹介とキャラクター紹介です。
編集者から頼まれたのは、『マクロス』に至るまでのアイドル歌手を主人公にしたアニメの略史、戦争と歌を同居させる映画についてのコラム。後者については『地獄の黙示録』でプレイメイトが慰問に来るシーンについて書くつもりが、音楽による威嚇と戦意高揚という意味では、「ワルキューレの騎行」をヘリから流すシーンが向いてましたね。


ジンバブエ旅行まで二週間しかないのに、先月()につづいて、またしても広島・呉を旅してきた。朝6時の電車に乗って、広島に着いたのが11時すぎ。やっぱり、近い。
Kimg2265たまたま、『“のん”ひとり展 -女の子は牙をむく-』が広島パルコで開催されていたので、路面電車の一日乗車券を買って、すぐに八丁堀へ移動。『この世界の片隅に』関連の仕事をするにあたり、舞台となった場所を歩いてみることが目的だったのに、すでにポイントがずれてきている。


先月、土浦で行われた“『この世界の片隅に』ロケ地を見よう会・江波編”に参加してからどうしても行きたくなって、路面電車の終点の江波に移動。
江波だけは地図を印刷して持ってきてあったので、有名な松下商店(隣はお好み焼き屋になっている)、すずさんが何度か歩いた太田川沿いの道、映画冒頭カットの江Kimg2278波港、すずさんが水原のために「波のうさぎ」を描いた江波山を回る。江波山気象会館は、月曜のためお休みであった。
江波港は「たったこれだけ?」と驚くほど小さく、なんとなく、すずさんが幼年期をすごしたエリアのスケール感を把握できた。
まるで大林宣彦の尾道三部作のような古くて趣のある民家が残っているかと思ったら、真新しいマンションやピカピカの一軒屋もあり、どこか他人行儀で、それでいて人懐っこいような、やや寂しい町だった。
江波山への階段で、おじいさんが竹か何かの葉を切り落とす仕事をしていたが、僕が通るときに手を休めてくれた。「こんにちは」と挨拶すると、「こんにちは」と返してくれた。

太田川沿いには遊歩道が出来ていて、この川を北上して、すずさんが中島本町へおつかいに行ったのだなあ……とイメージしながら、路面電車で原爆ドーム近くへ向かう。


おそらく、すずさんが川をのぼって中島地区に上陸したのは、この辺りではないか……と想像した地点から、平和記念公園に入ると、すぐそこでは広島平和記念資料館の本館が工事中。東館のみ開館していた。はからずも、消滅する前の中島地区の写真や原爆被害の資料を大量に見てから、中島地区の「跡地」を歩く順番になった。
Kimg2314その経験は、自分の人生では味わったことのない不条理なものだった。
ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会さんの発行している『証言 記憶の中に生きる町』を、飽くまでも『この世界の片隅に』の資料として読んだところ、当地に住んでいて生き残った方たちのあまりにも生き生きとした思い出語りに「本当にこの町が、一瞬で無くなったのか?」と、なかなか信じられなかった。原爆などではなく、何か別の事情で町が取り壊されただけじゃないのか……。

資料館には、中島地区がたった一発の原子爆弾で消滅した映像がエンドレスで流れているので、僕は「本当に本当なのか?」「この公園が繁華街だったのか?」と、納得いくまで何度も見た。
まだ信じられない気持ちで外(そこは町じゃない、公園だ)に出てから、映画冒頭のに喧騒に満ちた町のイメージを重ね合わせながら、ところどころに建てられた復元地図のプレートを探して歩くと、「何もないこと」「静かで穏やかであること」が、かえって巨大な暴力として感じられた。
『記憶の中に生きる町』も持ってきてあったので、なるべく分かりやすい角にある場所を探してみた。


すずさんがチョコレートやキャラメルを見ていたヒコーキ堂の跡地に立ってみた。そこは本当に、日本のどこにでもありそうな平凡な公園の一角にすぎない。
Kimg2317(左の写真の場所には、つるや履物店があった。右側には三井生命広島支店の大きな建物があったそうだ……劇中で、子供たちがヨーヨーをして遊んでいたあたり。)
ここから、ふと右へ視線を移すと、「レストハウス」と呼ばれるようになった大正屋呉服店だけが、当時の形を維持している。「あっ」と声が出そうになった。地図を見ると、目の前を本町本通りが走っており、元安橋へとつながっている。

すずさんは、消滅した町並みを歩いてきて、そこは迷子になるほど賑やかだった。そして彼女は、唯一、今でも目にして触れることのできる建物に背をもたせかけた。
『記憶の中に生きる町』を歩いてきて、消えてしまった町の形見のような建物に寄り添うから、あのシーンで『悲しくてやりきれない』が流れたのではないか……。


まっすぐ歩くと、映画に何度か登場する相生橋のTの字部分に出る。しかし、すずさんの幼年時Kimg2320代には、まだTの字になっていなかった(春に『この世界の片隅に』資料展を三鷹で開催するときに知った)。
原爆ドーム(産業奨励館)を真正面から見ようとすると、このTの字部分に立つしかない。『この世界の片隅に』は、つい時系列で見てしまいがちだけど、江波から中島地区へ北上して、東へ大きく移動して呉へ移行し、やがて爆心地へ戻ってくる、地理的な広がりをもった物語だった……と考えると、僕には合点がいく。江波から呉へ移動しようとすると、川を通っても路面電車を使っても、中島本町を通過せざるを得ない。物語の中心に位置しているのが、『記憶の中に生きる町』なのだ。
冒頭で江波から中島地区へ移動して、爆心地となった相生橋ですずさんと周作が出会う流れ(『冬の記憶』)からして、物語の中と外とでは意味の重さが違うのではないか……。
原爆で消滅した町を、わざわざ(読者を)歩かせることに意味があったのではないか。この町をアニメ映画として、「生きた町」として復元することが、漫画が描かれた時点ですでに望まれていたのではないか、予定されていたのではないか……という気すらしてくる。

恥ずかしいことに、僕は「片渕須直監督はさすが凝り性だから、昔の町を徹底再現したんだなあ」程度にしか思っていなかった。
監督は、中島本町を歩くシーンを最初に完成させた。当時を体感的に知る人々が高齢で、次々と亡くなっていくからだ。その方たちに一刻も早く見せたいという感覚は、紙の上だけで資料を睨んでいては、決して得られないものだったろう。
そして、映画は「この町は原爆で一瞬にして無くなりました」とは一言も言っていない。それは観客ひとりひとりが遡るべき事実なのだろう。僕は、二年もかかってしまった。

夕方になってきたので広島城近くのホテルへ移動した。
翌朝は、前回と同じく広島港へと移動して、9時20分のフェリーに乗って、呉へと向かう。

(つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月13日 (土)

■1013 一部で18禁指定されたプラモを組み立ててみた■

■GOODS PRESS(グッズプレス) 2018年 11 月号 発売中
Dpwebs9u4aifapd『ニンジャバットマン』監督の水崎淳平さん、キャラクターデザイナーの岡崎能士さんにお話をうかがいました。

アニメの取材は、「編集者に頼まれたら、やる」というスタンスに移行しつつあるので、この記事もプラモデルの特集を一緒にやってきた仲のいい編集者の頼みなので、断り切れず……という側面があります。
次号では、がっつりとプラモデルの記事をやりますよ!


さて、18歳未満に販売禁止なのかどうなのかよく分からないプラモデル、マックスファクトリーさんの「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」()。
43788870_319796821933738_6151905885「あんたがそこまで気にしてくれるなら」と言うことで、テストショットをいただきました。まず、裸体Ver.をザックリと素組みしてみました。
えらく情報量が多いので、組み立てたあとも飽きないです。たとえばお尻の膨らみを構成する面が、やけに多い。また、左右の肩の突き出し方が違うと、それだけで情報量が倍増します。肩から胸にかけての面の広さや方向が左右で違う!とか、無数の発見にあふれています。
同スケールのアニメ系、イラスト系のフィギュアが、どういう方向へアレンジされていたのか、再発見することにもなります。二次元的アレンジの入ったフィギュアは、ストレスなく、気持ちよく見られるように情報が整理されている。

天使もえさんのフィギュアは、誰の理想どおりにもアレンジされていないので、「お尻の横幅って、こんなにあるのか」「ウェストまわりって、こんなに平べったいの?」「ヒジって、こんな角度にひねることが出来るのか」「こうして屈むと、腰に窪みが出来るんだねえ」と、語弊を招く言い方だけど、見るに当たって“ストレス”があります。予想外の方向へ、予想外のボリュームがあったりする。
いろんな角度から見ていくと、それらのストレスが天使もえさんの「肉体の個性」なのだと分かってきて、自分の指先で組み立てたせいもあり、愛着がわいてきます。
成形色が一色なので、形が強く主張してきます。


僕は、この裸体Ver.を組み立てているあいだ、17歳ごろの気持ちになっていました。その歳で初めて異性と付き合ったせいかと思ったのですが、一晩考えてみると、違いました。
美術系の予備校で、裸婦デッサンをやっていたときの気持ちが、蘇ってきたんです。高校三年生から通いはじめたので、当時は17歳前後ですよ。油絵科には、高校二年生もいました。もちろん、男女混合のクラスで。
だけど、裸婦デッサンや、裸婦を油彩で描く授業があって、全裸の成人女性を間近にしていたのです。16歳や17歳の未成年の前に、陰部も隠さないヌードモデルが立つことがあったのです。

興奮するとか戸惑うとかより先に、正確に紙の上にデッサンしないと、講師に頭を叩かれます。たとえ全裸の女性でも、静物や石膏像と見ている側の感覚は変わらない。「裸が見られてラッキー」なんて下心さえ入りこむ隙間がない。あの、「単なるモチーフとして裸体を冷静に観察する」感覚を、「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」で体験できます。
綺麗だけど、興奮はしないです。「裸なんだから、もちろんエッチだろう」というほど、人間は単純ではないです。


そして、このキットの水着Ver.を組んでみると、「なんで布で隠してあんの?」という違和感が生じる。面白いことに、水着のモールドがあると「エロい」という視点が混入してくる。
Dscn0261_6328ようするに、「エロさ」「わいせつ性」とは、文脈が生み出すものではないでしょうか。「道徳的に見せてはいけないから隠す」、「隠されるべきものが露出している」、そうした文脈がないと、「ただの裸」はエロくなりようがないのでは……。
なので、実物を組んだあとで、ボカシの入った「1/20 天使もえ」の商品写真を見ると、ギョッとしますよ。ボカシがあると文脈が加わって、急にエロくなる。あと、顔や髪が塗装されていることも大きい。成形色一色だと、抽象性が高まるんでしょうね。

今回思い出したのは、高校生のときに (ヘアヌード解禁への流れがあった1984年ごろとはいえ)何も身に着けていない女性を前にしていたこと、それを興奮せずに観察していたことです。
もちろん後々、恋愛して付き合った子の裸を見ると、感動や失望や異次元の興奮や幸福に振り回されることになります。それは「人間関係」という文脈があるから。文脈を無視して、「裸だから」「乳首が見えているから」で隠すことは、僕には雑な感性に思えます。

「裸だからではなく、AV女優の模型だから、未成年の前に出すべきではないのだ」としたら、それは職業倫理や未成年の性意識が遡上にあがり、きわめてロー・コンテクストな問題となります。僕に、そこまでの専門性や思考能力は備わっていないので、まずはこのプラモデルがなるべく多くの人の手に渡ることを祈っています。
テストショットを組んだけれど、もちろん予約は取り消してないです。未成年にも買ってもらって、教材として役立ててほしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 6日 (土)

■1006■

『ニルスのふしぎな旅』グラフィック展 本日開催
Dorztpdxcaej6x8_2本日から28日(日)まで、三鷹コラルで開催されています。春に開催した『この世界の片隅に』資料展と同じく、ディレクションを担当しています。

このパネル展の企画は、一年前の『魔法の天使クリィミーマミ』ビジュアル展でお付き合いの出来たぴえろさんからの私への持ち込み。私から三鷹コラル商店会さんに話して、実現しました。だいたい4ヶ月ぐらいかかっています。
『ニルス』の各話演出として参加した押井守さんのインタビューも行っていますが、これは『逆転イッパツマン』のムック本で、押井さんのインタビューを僕が担当していた縁です。そのとき、プロダクション・アイジーの窓口になってくれた方に、「ひょっとして『ニルス』のことでインタビューできませんか?」とお話しして、押井さんのお時間をいただきました。
実績と信頼がないと、こんなこと個人でやれないですよ。

もっと言うと、パネル制作のデザイン会社さんから見積もり書を出してもらって三鷹コラルさんに提出して、期日を決めて打ち合わせをして、ぴえろさんにデザインを監修してもらって……などが続き、絵を選んだり文章を書いたりは、全体の二割ぐらい。八割は、関係各所との調整です。


昨日の『1005 全年齢向けプラモが「18禁」として排除された話』()、このブログにしてはかなりのアクセス数があり、その間もフィギュア・メーカーや出版社の人たちから、さまざまな情報をもらいました。
股間にボカシを入れたのはメーカー側の手落ち、「さあ、18禁にゾーニングしてくれと言わんばかりではないか」と指摘されましたが、実はボカシが入るまでに二転三転あったとも聞きました。僕がいちばん最初に聞いた話は「股間には何もないので、ボカシは入れない」だったし、ランナーは何も隠さず展示してあったんです。
(メーカー側には、しっかり意思統一してほしかったですけどね)

その辺りの話は、映画『ぼくのエリ 200歳の少女』で、股間にボカシが入れられた顛末に似ています()。『ぼくのエリ』の時は配給会社がボカシを入れた犯人のように責められていたけど、実は「ボカシを入れないかぎり審査しない」と映倫が恫喝を行っていたのです。


さて、「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」が通販サイトで18禁製品にされた件、どんなリアクションがあるのかな?と、Twitterを検索してみました。
やっぱり、「AVが18禁である以上、AV女優のプラモデルも18禁であるべき」「裸なんだから、18禁に決まっている」との意見が多いように受け取りました。
「18禁」って、便利な言葉だと思いましたよ。みんな未成年のことなんて考えてなくて、「ゴミ箱」みたいな感覚で使っている。厄介なものは「18禁」というゴミ箱に放り込んで、そこから先は感知しない。

もうひとつ、僕のブログの文章や主張が「キモい」と笑いあっている人たちを発見しました。
「間違っている」ではなく「気持ち悪い」と言ってしまえば、そこから先の思考を放棄できるし、反論を封じられる。自分が言われてみて、初めて分かりました。
ライトノベルの表紙でも萌えキャラでも「気持ち悪い」で機先を制すれば、言ったもの勝ちで話にならなくなる。「18禁」「気持ち悪い」で、どんな議論も停止できる気がしてきます。

「裸なんて18禁」と言っている人は、「萌え絵なんて気持ち悪い」と言っている人と傾向が似てますね。自分からは、主体的に働きかけようとしない。だけど、自分の要求だけは通したい。


「18禁と決められたからには、18禁でいいだろう」と、完全に思考放棄している人もいました。
だけど、AV女優の裸だから表現規制だとか、メーカー側の表現の自由が……とか、そんな大げさな話ではないんです。

僕がライターになりたての頃、「バカバカしい」という言葉を原稿に書いてはならないと怒られたことがありました。理由を聞くと「バカは悪い言葉、人を罵倒する言葉だから」とのことで、文脈は無視。「バカ正直」という言葉をカットされたこともありました。
くだらない話のようだけど、表現規制って日常に忍び込んでいるから、誰にとっても大事な話題のはず。別に、エロ表現とヘイトスピーチだけが表現規制の対象ではないです。
だけど、いちいち筋を通していたら面倒。「決まりは決まりだろ」で意志も思考も放棄したほうが楽。物事に異議をとなえる人は「パヨク」で片付けてしまえばいいし、世の中の良くないシステムは「アベ政権」のせいにしておけば、自分は無力なままで鬱憤だけは晴れる。

「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」にボカシが入ったり、18禁に追いやられたことは、「面倒だから、誰か適当に処理してくれ」という怠惰な社会の、ほんの末端で起きた象徴的な出来事です。
だって、本気で「18歳未満に売ったらダメ、買わせてもダメ」と主張するなら、18禁製品に区分される前に予約した未成年の販売分は、キャンセルしないとダメですよね? だけど、Amazonもユーザーも、そんな面倒なことしないでしょ?  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月29日 (土)

■0929■

真木太郎プロデューサーが振り返る、もうひとつの「この世界の片隅に」戦記。 【アニメ業界ウォッチング第49回】
T640_779694アキバ総研では片渕須直監督に二回インタビューして、丸山正雄さん、松尾亮一郎さんと現場に近い方たちに聞いてきて、「次は真木さんだ」と担当者と話しているうち、一年以上も経過してしまいました。
『この世界の片隅に』を夢見られる企画から、現実的な事業へとシフトさせた人がいるはずで、それが真木さんだと思います。
真木さんと同じように、公開前に「いい作品になるだろうけど、お金は出せない」と、僕も言われました。背景画集やすずさんのフィギュア企画をどこか出してくれないかと、松尾プロデューサーと相談しながら営業していた頃です。
(唯一、公開前に商品化に踏み切ってくれたのがフジミ模型さんでした。それ以外は「お断りします」か、ノー・リアクションでした。)

公開後に「こんないい作品にお金を出さないなんて、バカですよね」と声をかけられましたが、公開前の「……ホントに大丈夫かな?」という冷たい空気は忘れられません。
『マイマイ新子と千年の魔法』がラピュタ阿佐ヶ谷で連日満席だった頃、ロビーで監督やプロデューサーたちと「今後どうすべきか」話したことがありました。その時のピリピリした空気感に、ちょっと近い。


最近はテレビドラマ版の『この世界の片隅に』が最終回を迎えたので、『この世界~』自体が終わったかのような雰囲気になってしまう。なぜなら、ドラマの方が観ている人の数が多いだろうから。
それはさすがに癪なので、12月公開予定の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を自分の仕事の範囲内で支援しよう、という気持ちになりました。年内実施予定の大きな企画が動いています。土浦や広島・呉に足を運ぶのは、そういう意味もあります。

ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会さんの編纂された『証言 記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町』()を読むと、またどうしても広島に行かざるを得なくなってしまいます。アバンタイトルの意味が、まったく違って見えてくるので、徒歩で中島本町を感じたくなってしまうのです。


おかげさまで、あちこちで「廣田さんは、プラモデルの記事、がんばってますね」と言っても42689803_1899286676831904_557801391 らえるようになりました。全日本模型ホビーショーのチケットをいただいたので、昨日の業者招待日に行ってきました。

ロボットアニメの製品化は、80年代だけでなく90年代の作品にまで広がりつつあります。当時小学生~中学生だった団塊ジュニア世代がボリュームゾーンを形成しているからです。
また、タミヤMMは中年向けのレトロ路線を継続しているように見えますが、本気で若い世代をお客にしたいのであれば、「頑張って塗装しろ、塗装しなくては作ったことにならない」70年代の価値観から脱却する必要があると思います。艦船模型やカーモデルは、それが出来ています。ズベズダやモンモデルがスナップフィットの戦車を出してはいますが、メジャーではないですよね。


昨日のホビーショーでようやくランナー実物を見られたのは、マックスファクトリーさんのPLAMAX Naked Angel 1/20『天使もえ』。
42686427_1899328483494390_1677407_3水着とオールヌードのAV女優のプラモデル・キットで、展示はともかく、メーカーの画像では、何もモールドされておらずツルツルの股間に、思わせぶりなボカシが入っています。『ぼくのエリ 200歳の少女』のひどい修正(「ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう」)を想起してしまいます。一部の情報サイトでは、なぜか18歳以上向けに設定されています。一体、誰から何を隠したいんでしょうね?
幸い、製品の予約状況は好調なようですが、プラモデル業界・フィギュア業界は表現規制への認識が甘い(というかまったくの無防備)ので、リベラルな方たちが「女性をモノ化している」と抗議したら、一体どうなってしまうことか……。

だって、「新潮45」が話題になっているから手に入れようと思ったら、休刊でプレミア価格がついていて中身を確かめられない、息苦しい世の中ですよ?
「新潮45」を読みたい、と言っただけで「お前も差別主義者か?」と恫喝されかねない。自由とは程遠い、ひでえ世の中になっちゃいましたね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月25日 (火)

■0925 タミヤMMとガンプラのこと■

月刊モデルグラフィックス 11月号 本日発売
663●ひそまそ実写化計画
『ひそねとまそたん』を実写化するとしたら?という妄想に基づいて、いろいろな分野の方に取材する企画。今回は、元自衛官のタレント・かざりさんにインタビューいたしました。
かざりさんが星野絵瑠のコスプレをしている写真をTwitterで見て、編集部の返事を待っている間、どんどん交渉を進めて、マネージャーさんに取材の約束をとりつけました。
こういう取材は、条件が揃うのを待っていてもダメです。出来ることからどんどん進めて、出来た結果でベストを尽くすんです。

●組まず語り症候群 第71夜

今回はバンダイ製の「The特撮Collection 1/350 冷凍怪獣ペギラ」です。

月刊ホビージャパン 11月号 本日発売
616_2 ●タミヤMMが作りたい!
巻頭特集にて、「塗らずに素組みで成形色を楽しむ。」計4ページを構成・執筆しました。
これは、私が企画・構成した「ホビージャパンエクストラ」のページを見た編集者からの提案で、1/35スーパーシャーマンとアーチャーを塗装せずに、組み立て作業だけを徹底的に楽しむ企画になっています。

スタジオで組み立てながら撮影するので、完成ページをイメージしながら即断即決して、カメラマンさんに指示を出す必要があります。

塗装した瞬間から、プラモデルは「上手い/下手」の評価軸に組み込まれてしまうと思います。本人が気にしなくても、他人に見せたら「上手い/下手」の評価を下されてしまうでしょう。
最初から誰とも競わず、誰とも勝負しないフィールドで、孤独にプラモデルを楽しんでもいいはずです。少なくとも、僕はここ2年ほど毎日プラモデルを塗装しないで組み立ててきて、パーツ構成の発見があったり、あるいはメーカーの個性や姿勢や癖を理解したりして、楽しく過ごしています。別に色を塗らなくても、十分に面白いのがプラモデルという製品です。
「プラモデルなんて作ったことない」「色を塗らないとダメなんだろう」と思い込んでいる、模型誌なんて読まない人にも、気軽な楽しみ方を伝えたい(本当は伝えなくても、自然と浸透している状態が望ましい)。


『地獄の黙示録』公開の1980年ごろ、プラ板細工やパテの使い方を教えてくれた友人は、今ではまったくプラモデルを作っていません。たまに「今のタミヤのプラモデルは凄いよ」と目の前で買ってきたものを見せても、「工具がない」と言います。

『ガールズ&パンツァー』のヒットで、戦車プラモの人口は増えたと聞きます。だけど、工具や塗料がハードルになっていると思います。キットの内容以前の話です。
ガルパンのヒットを好機と捉えて商品開発したのは、プラッツさんだけではないでしょうか。極端に言うと、工具や塗料を自主的に買わない人は、お客さんと見なされていなかったのではないか。そうこうするうち、ガルパンの作品展開は「細く長く」のスパンに入ってしまいました。


先日、タミヤMM50周年を祝う会に出席したのですが、話す相手がいないので、早めに帰ってきました。ようは、内輪の集まりです。
ガンプラ50周年は再来年ですが、バンダイやサンライズがイベントを仕掛けるだけでなく、ムックがいっぱい出て一般誌が特集するだろうと思います。「ガンプラ50周年を祝う会に来てください」と街中で募集したら、10人ぐらいすぐ集まるんじゃないでしょうか。
今はガンプラを作っていなくても、思い出話で盛り上がる。というか、ガンプラの集まりではなく、同窓会でも「昔みんなガンプラ作ってたよねえ」と話題にできる。これはメディアとして強いです。

バンダイさんが「工具も塗料もいらない」商品形態を作り上げてキープしている努力は、大変なものです。1990年前後から成形段階での色分けをスタートさせ、塗装という概念を追い出してしまった。反面、どうしても塗りたい人のためにガンダムマーカーを出しつづける。上から下まで、右から左まで全方位、全世界に発信している。
40年前のキットが定価で売られているので、懐かしアイテムとしても機能している。このメディア力は、本当にバカにできません。驚異的です。


さて、タミヤMMはガンプラ発売前に隆盛を誇ったシリーズです。僕が小学生のころ、1970年代中盤には誕生会のプレゼントに最低一個はタミヤMMが入っていました(70年代後半にかけて、それがスーパーカーに変わっていきます)。
また、祖父や父親が頼んでもないのにタミヤMMを買ってきたり、親戚の叔父さんが74式戦車を買ってきて「俺も塗装してみたいから、道具を貸して」と頼まれたりしました。もちろん彼らは、模型雑誌も何も見ていません。オモチャ屋の店頭で、なんとなくタミヤMMを手に取っていたのだと思います。それはそれで、凄いことです。

その当時は、タミヤさんのメディア力がアニメ・ロボットのプラモデルを凌駕していたのでしょう。ガンプラ・ブームが沈静化した後、今度は完成品トイの巨大ブームが1990年代後半から世界を覆い尽くします。ガンプラがMGブランドを開始してステップアップしたのも、1995年のこと。
残念ながら、スケールモデルだけが取り残された形だと思います。この時に塗装済みでもスナップフィットでも何でもいいから、70年代とは別路線のスケールモデルを出していたら、現在の勢力図は塗り変わっていたと、僕は思います。
戦車プラモを食玩にアップデートして一般流通させたのはタカラトミーさんであり、海洋堂さんでしたよね。老舗のプラモメーカーではなかった。


さて、ガンプラ・ブームと完成品トイ・ブームを経て、スケールモデルの現在を見ると、やはり「塗装してなんぼ」の敷居の高い世界だけが、孤島のようにポツンと残れされています。
「ニッパーを持ってない」人は、お客ではない。お客になってもらうには、お客にコストを払ってもらう。こんな客まかせの商材って、他にあるのかなあと腕組みしてしまいます。
模型誌だけに閉じこもらず、一般誌でもプラモデルの記事を増やしていこう。いま企画も取り上げてもらっているし、実際に取材もしてもいます。まだまだ、やれることはいっぱいありますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月16日 (日)

■0916■

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の主人公は、なぜロケットの座席に座ったままなのか?【懐かしアニメ回顧録第46回】
Dngredrvyaa5hegこの連載には、いつも悩みます。カットワークや構図のことを書ける機会が少ないので、なるべく演出の話をしたい。だけど、それでは読んでもらえない。なので、最後には誰もが「やっぱり良い作品、優れた作品だよな」と共感できるような、どうとでも解釈できる曖昧な結論を持ってくるしかない。
でも、主人公のシロツグが戦場で椅子に座っているだけなのは、特筆すべきと思います。戦闘機で初めて飛ぶときも、操縦は後席のパイロットが行い、シロツグは座ったまま。だから、「主人公が何もしてない」ように見える。
シロツグが主体的にやったアクションといえば、リイクニを押し倒したこと。あと、暗殺者を刺殺したこと。ようするに、道徳的に悪いことだけしている。そこから、この作品の倫理観が垣間見えるような気がします。


仕事の関係で観ておかねばならなくなり、『地獄の黙示録』(特別完全版)。
9848view0021980年代にテレビ放送で見て、その後は撮影の舞台裏を映画化したドキュメンタリー、『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』公開時にレンタルで観たので、1991年か。27年ぶりの『地獄の黙示録』は、若いときよりもずっと衝撃的だった。
僕は、劇映画の様式は1950年代に完成してしまい、あとは様式を壊す時代に入ったと思っている。70年代以降は、フレームの中の被写体をどう珍奇にするかしか、映画の進む道がなくなったのではないか……。

『地獄の黙示録』も、その説を裏づける。次から次へと、見たことのない戦場の様子が映しだされ、それだけで興味をつないでいく。冒頭は極端なクローズアップとオーバーラップが続くが、キルゴア中佐の登場する河からの上陸シーンで呆気にとられた。
Mv5bnzfkotfjn2etzjiwyy00mmflltk1odeカメラは長い時間かけて横移動しながら、河から戦場へ侵入してくるボートを追う。着陸する何機ものヘリコプター、小屋を押しつぶして上陸する装甲車、もうもうたる煙……。
フレームの中を、それはそれはギッシリと珍奇な被写体が埋めつくしているのだが、それをなめらかな横移動で撮るセンスがいい。


有名な「ワルキューレの騎行」を流した攻撃シーンも、ヘリからの主観カメラを主体に、たえずカメラが動きつづけている。地上からの視点では、PANでヘリを追う。
Mv5bnjgznwi4ywitnmrlms00nmy1lwe1zweフレーム内で起きていることは暴力だが、カメラの動きは優雅。そこが狂っているのだと思う。もしカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した理由が“芸術性”ならば、被写体と動きとのギャップに、それが宿っているんだろう。被写体そのものは通俗的なので、撮り方によっては凡百のアクション映画になっただろう。
撮影は、80~90年代にかけて大作を続々と撮ったヴィットリオ・ストラーロ。


だけど、『地獄の黙示録』はオタク向けというか、内にこもった映画だと思う。
兵器や美女を「本当はこうじゃなかったんだろうな」「面白く描いてるんだから面白がってもいいよな」と、無責任に観ていられる。同じ戦争を描いていても、『カティンの森』や『サラエボの花』のように社会に向けて告発する映画ではない。
『地獄の黙示録』を観ている間だけは、映画のために映画を観るだけのシネフィルや素人評論家でいても許される。「芸術として評価される余地」とは、すなわち「ビール片手に笑いながら見られる領域」という気がする。ゾンビ映画を笑って見るのは当たり前なので、それとはちょっと違う……賢しらぶっている自分を楽しむというか。

先日、広島と呉を歩いて『この世界の片隅に』、ひいてはフィクションへの認識が変わったように思う。歩くことで、頭の中の地図が出来上がっていって、自分の限界を少し壊すことが出来た。

(C)Zoetrope Studios

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月27日 (月)

■0827 『ペンギン・ハイウェイ』■

映画公開から31年――。「王立宇宙軍 オネアミスの翼」展を前に、山賀博之監督の心境を聞く【アニメ業界ウォッチング第48回】
T640_773974記事中に出てくる“1987年、僕は渋谷の映画館で「王立宇宙軍」を見たのですが、外に出たら見慣れているガードレールや横断歩道が、まったく新しいものに見えました”、この一言に同意してくれたのは、なんと今回の山賀監督だけでした。31年間、『王立宇宙軍』についてはずっと孤独だったとさえ言えます。
何かコネがあったわけではなく、例によってぶっつけで取材依頼しました。


取材も打ち合わせもない平日なので、立川シネマシティで『ペンギン・ハイウェイ』。
Twitterでは、「おっぱい」「オネショタ」ばかり言われていて、森見登美彦さんのアニメ化作品は生理的に苦手なところがあって、「つまんなかったら途中で帰ってもいいや」って気分だった。
640_51/3ぐらいしか座席の埋まっていない劇場で、最初の30分は「いくら3D背動だからって、そのカメラワークはないだろ」「小学生役なら、ちゃんと子役を使おうよ」と、文句しか浮かばなかった。いじめっ子の描写には、最後まで疑問符がつきまとった。

だけど、憧れのお姉さんが謎のペンギンと関連があると分かるバス停のシーンから、俄然のめり込んだ。
端的に言うと、美術設定が良かった。終点だから、バスがぐるっと円を描けるような不思議な空間で、背後が山になっていて、水溜りができていて。
漆原友紀さんの短編マンガに、同じようなバス停が出てくる。既視感とノスタルジアを喚起する空間で、ちょっと寂しいところがいい。


だからといって、情緒で泣かせるような映画ではなくて、主人公の少年は徹頭徹尾、不思640 議な出来事をロジックで解析しようとする。最初から最後まで、一秒たりとも気を抜かない。ハードボイルドな主人公。
茶化しているわけではなく、彼には強固な研究心と哲学があって、どうすれば自分を含めた人類が今より利口になれて、どうすれば家族や友人が悲しまずにすむかを考えている。何とかして、今よりちょっとはマシな存在になれるだろうか、常に努力している。「子供なんだから無力に、可愛らしく描いておけ」って甘えや驕りがない。

少年のライバルとも言える、クラスメイトの女の子だって、自分のプライドや美学を侵害されると激怒する。かつては誰だってそうだったし、大人になった今でもそうあるべきだ。あの頃より、僕たちは怠惰になった。「大人と子供は違う」と線引きして、あぐらをかいている。
アニメって、大人だろうと子供だろうと女だろうと男だろうと、実線と色の面で描くしかない。そういう意味では、原理的に年齢性別の区別が発生しえないのがアニメの世界。大人も子供も、同じ材料から出来ている。
だから、アニメって子供をバカにせずに描けるわけ。そう考えていくと、大人の声優が子供を演じるのも、そんなに悪いことではないような気がしてくる。


アニメーションらしい動きのダイナミズムも、とても効果的だった。
Dll73uzuuaiuiji特にキービジュアルになっているペンギンの大群のシーン。シチュエーションとしては悲壮というか、無邪気に喜べないシーンなんだけど、それでも力強く進まないとダメな状況。そういうシーンでは、アニメって、物量を投入するしかない。いっぱい枚数を描くとか、背景を3Dでモデリングして動かすとか。アニメーターたちがいっぱい仕事すると、必ず画面の情報量が増す。
あと、少年が熱を出して寝込んでいるシーンでは、ちょっと画材を変えて違うテクスチャで見せるとか、実験精神も旺盛。たくましいし、図太い映画だよ。日常芝居は演出も含めて荒っぽいんだけど、ダイナミックで堂々としている。明日も明後日も、まだまだアニメをつくるぞ!って勢いだ。

なんで大人になっても、こんな独身のオッサンになってまで、平日にひとりでアニメ映画を観にいくのか? 何だか、『ペンギン・ハイウェイ』が答えてくれたような気がする。
アニメ映画って万人向けで、必ず親子で楽しめないといけないの? 親子連れは客席にいっぱいいたけど、オッパイ好きを隠さない主人公に、さぞかし気まずい思いをしただろうと思う。でも、作画フェチ的にオッパイが揺れるカットって、まったくなかったと思う。そういう、屈折したマニアにだけ目配せするシーンはまったくない。そっちの方向は向いてない。
さりとて、「夏休みのアニメ映画なんだから、親子を泣かせとけばいいだろ」って映画でもない。世界と対峙する孤独というか、いきなり「死」が怖くなったり、突如として「永遠」を意識するあの瞬間は、大人のほうが分かるだろう。

オタクの玩弄物でもなく、いま流行りの「泣かせアイテム」「SNS用の号泣自慢グッズ」でもなく、ド直球で「表現」を投げつけられて、昼間に観て、夜中になってもまだ呆然としている。それは、この映画に対して正しい態度だと思う。

(C)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月25日 (土)

■0825■

モデルグラフィックス 2018年 10 月号 本日発売
Dlwgigov4aihjfq●組まず語り症候群 第70回
今回はエアフィックス社のエンジンのプラモデルで、ひさびさにメカメカしい雰囲気のページとなりました。

●ひそまそ実写化計画
アニメ『ひそねとまそたん』を実写化するとしたら……?というゴール不在の企画、第一回は東宝で特撮美術を担当していた長沼孝さんが、『ひそまそ』全話を見てどのシーンをどう特撮で再現したらいいのか、余談たっぷりに語ってくださってます。
CGは使わず、あえて昭和の技術にこだわっている点がポイントです。


レンタルでヒッチコック監督の『トパーズ』、ジョン・フォード監督の『黄色いリボン』。僕はやっぱり、ベテラン監督が円熟期に、時代を味方につけて手堅くつくった映画に惹かれる。

『トパーズ』は1969年の映画で、『サイコ』『鳥』で路線変更した後、スランプに陥っていた時期の作品だ。キューバ危機を背景にしたスケール感がヒッチコックには似合わないし、劇中で起きていることは難解だ。それでも、部分部分でハッとするような撮り方をしている。
She_wore_a_yellow_ribbon_trailer_2『黄色いリボン』の原題は“She Wore a Yellow Ribbon”、「彼女は黄色いリボンを着けていた」と、過去形である。騎兵隊が、隊長の夫人と姪を駅馬車の停車場まで護衛していく。姪はキリッと軍服を着て、騎兵隊のシンボルである黄色いリボンを髪に結っている。それだけで洒脱というかキュートというか、どれだけ品位のある映画か分かるでしょう?
確信したんだけど、ジョン・フォードは男たちは横に並べて、視線の高さ(アイレベル)で凡庸に撮っている。そして、女性だけが画面の奥から手前に歩いていくる特権を有している。「カメラ位置に対して特権を持たせる」ことで、登場人物に敬意をはらう。映画というメカニックだけで表明可能な美学ではないだろうか。


ヒロインである姪の登場カットは、彼女が建物の二階のベランダからひょいと下をのぞきこむ仕草を、アオリで撮っている。それまでの男たちのやりとりは、すべてアイレベルで横位置だったので、アオリで撮るだけで彼女が「特別な存在」だと分かる。優雅だし大胆だし、息をのむぐらい美しいカット。
僕は、映画のそうした機能、叙述方法が好きだ。びっくり箱のような種明かしで気を引く映画は……それこそヒッチコックが始めて、ヒッチコックが終わらせたのだと思う。彼が『鳥』を撮らなければ、ゾンビ映画というジャンルは生まれなかっただろう。

『カメラを止めるな!』に盗作疑惑が持ち上がっているそうだけど、ああいう構造で見せて感心を誘う映画ってよくあるじゃん……としか思えない。
『カメラを止めるな!』は、「低予算でもアイデア次第で面白い映画はつくれるんだ」「それを理解している俺たちって根っからの映画好きだよね」という共感の部分が大きいのであって、それ自体は良くも悪くもない。そして、盗作はいけない、いや盗作ではない……といった映画の外で起きていることに感心が集まったり、潔癖なまでのオリジナリティ崇拝が露呈するのも今日的だ。

そういえば、ワンカットで丸々一本の映画を撮るのは、70年前にヒッチコックが『ロープ』でやっているよね。『カメラを止めるな!』は手持ちカメラだからテクニックの方角が別なんだけど、原理的・構造的に劇映画の叙述法が70年前から大きく進歩したわけではない。それぐらいは認識しといても損はないと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月21日 (火)

■0821■

Jウィング 2018年9月号 本日発売
Dlcszsjv4aat83d●『ひそねとまそたん』特別企画 それゆけ!女性自衛官 特別編/岐阜基地 基地渉外室 甘粕ひそね 2等空曹
当企画にて、突発的に始まったJウイングさんの『ひそねとまそたん』短期集中連載はいったん終了です。
ひそねのインタビュー記事を掲載しよう、という話は最初の打ち合わせから出ていて(確か編集長からの提案)、たまたま「版権イラストに予算がいくらかかって納期はこれぐらい」と知っていた僕が、イカロス出版さんとワーナーさんとの間で話し合いをもってもらい、形にすることが出来ました。
予算とスケジュールの提案まで含めての「企画」です。

そして内容に関しては、自衛隊にパイプのあるJウイングさんが、航空幕僚監部を通じて岐阜基地・基地渉外室に取材申請しました。
誌面を見ると「ふーん」って感じかも知れませんが、それぞれが得意技を出し合って、4ヶ月じっくり準備して成立した企画です。僕は絶大な自信をもっています。

●「千と千尋の神隠し」に秘められた「解放への道」を、シーンとキャラクターから探る【懐かしアニメ回顧録第45回】
T640_773816いつも冗長になってしまうコラムなので、今回は簡素にまとめました。キャラクター自体が「道」であり「場所」であり、それゆえに束縛もするが脱出口にもなるという視点は、そんなに的外れなものではないはずです。
だけど、アニメ作品を深読みするとしたら、「カオナシの正体とは?」など謎本のような企画か「このシーンが好き!」といった共感を誘う感情的なものが受けます。画面を凝視して解析するというスタイルは、「流行らない」と断言できます。


アニメ作品の評論は、『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットした95年以降、けっこう盛んだったはずです。氷川竜介さんがたてつづけに単行本を出して、新作旧作とわず分析や研究が盛んだった時期がありました。
それ以前、『宇宙戦艦ヤマト』ブーム下の1977年にロマンアルバムが発刊されて、設定資料・名場面・インタビュー・グラビアで構成するスタイルが生まれました。そのフォーマットに落とし込めば、どんなアニメでも書籍化できるんです。

今でもたまに、「各話解説」「各話レビュー」「インタビュー」でアニメ特集いっちょあがりな企画を見ます。『オトナアニメ』や『Febri』で、僕も手を貸していたから偉そうなことは言えない(笑)。ああいう記事に、カットワークや作画のことを書くと、編集部にいやがられるんです。解析ではなく「思い」を書いて共感を得ることが、あの手の特集だけではなく、レビューの目的になってしまった。プロの映画評論家すら「ただただ、泣いた」と書いてしまう時代になった。
図書館で映画評論の本を探すと、構図の効果だけひたすら研究したり、フィルムからカメラ位置を割り出してる人もいます。アニメ研究家は何人もいらっしゃいますが、専門知識なしには出来ないものなんです。ただ、ネットというかSNS的には流行らない。
「流行なんて関係ねーや」という気持ちに、最近ようやくなれました。流行らなくても、本当に自分が面白いと感じたことだけを解説していこう。


もうひとつ気になっているのは、ロマンアルバム的な書籍に「公式」と銘打たれるようになったこと。「公式」って言葉には権威を感じられるから、出版社も読者も安心なのでしょう。
企画者や編集者が絶対の自信をもっているなら、「公式」という言葉に頼らなくてもいいはずだと、僕は思います。世の中全体、与党精神が衰えてますよ。

「公式が認めたんだから間違いない」って考え方が芽生えたのは、ここ十年ぐらいでしょうか。あと、仕事がらみで「~様」を誰もが乱用するようになりました。僕だったら「アキバ総研様に記事をご掲載いただきました」とでも言えばいいんだろうか。仕事って、発注側も受注側も対等の関係のはずですよ。いったい、誰に何を遠慮しているのか。やっぱり、波風たてず穏便に……という世相なのでしょう。
心からの敬意と感謝をかんじたときは、僕も「~様」をつけるでしょう。だけど、何かの保障のように「公式」「~様」を連発すると、当事者意識が逃げていく。空虚な世間体だけが残るような気がしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧