2020年9月22日 (火)

■0922■

「超時空世紀オーガス」の「モラーバー・マーイ」(アリイ製)を作って、“女性キャラの乗る異世界ロボ”に酔いしれろ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第3回
T640_873484
今回から、撮影は編集部のスタジオでお願いしているので、これまでよりバージョンアップしました。ノリノリで書いているので、来月分の原稿も出来てます!


金曜日は、友だちの原健一郎氏が展示物に協力している「百才」へ。民家改造のカフェであり、展示スペースもある。
119771289_3312087502218474_7128090830107
飲み物を注文してから、座敷で待つ。座敷の奥の棚が、小さな展示スペースになっており、裏手には工房のようなところもある。
119835686_3312087188885172_4514949769120
これといって何もない、東村山という立地も込みの「デザイン」だと思う。喫茶店も空間デザインだし、居酒屋で何を注文してどう酔うか考えるのも「デザイン」ではないか、と思える。快楽を調律していく、というか。面白さの設計こそが、人生の醍醐味だろう。
119916808_3312086872218537_8180731020988
午後は東村山から所沢を経由して、中村橋へ。練馬区立美術館へ行った。
しかし、展示は今ひとつであった。作品も稚拙なら、展示の仕方も雑で、テープを貼った痕跡などが見えてしまう。区市町村の美術館など、こんなレベルなのだろうか? 
15時ごろ、バスで荻窪に立ち寄って、昼飲みしてしまった。平日、昼から営業している大衆居酒屋で……チェーン系で十分。しかし、これが3000円ぐらいかかってしまう。趣味としては、喫茶店めぐりより破格に高雅だろう。しかし、70歳ぐらいの男女が合コン状態になっていたり、平日昼だからこその風景を楽しめた。


月曜日は、日本橋にリニューアルオープンしたアーティゾン美術館(元ブリジストン美術館)。
119861850_3312084792218745_2055006413296
三つのフロアで、3種類の展示。ヴェネチア・ビエンナーレの日本館を90%に縮小して再現した『Cosmo- Eggs| 宇宙の卵』が、ダントツに良かった。
宮古島に残る津波石に取材し、それぞれをモノクロ映像に収めて、室内のプロジェクターに映写。中央にオレンジ色のバルーンが置かれており、それに人が座ると、天井のあちこちに吊られた自動演奏機へ空気が送られて、「ブォー」という不気味なフルート、「カカカカッ」という石か木を打ち鳴らす音が不規則に響く。その音が不気味で、気持ちがいい。
120027956_3312085788885312_7208275333364
津波石を撮ったモノクロ映像には音がないが、よく見ると、周囲に鳥が飛んでいたり草木が風に揺れていたり、波が打ち寄せたりしている。静なる動、というか。プロジェクターの背後の壁には、太古の石や島をめぐる短い神話が、独特の書体で刻まれている……が、ついたてのように垂直に突き出した壁をさけながら、洞窟に潜るように歩いていかねば文字は読めない。複雑に構成された空間が、能動性を喚起する。
立ったり歩いたり座ったりして空間に身を浸していると涙腺が緩むほど雄大な、幻想的な空間。他のフロアの展示に飽きて、再び戻ってしまったほど魅了された。
119896008_3312085335552024_8290999967156
だが、この展示が面白いのは、単なるヴェネチア・ビエンナーレ日本館の再現ではなく、日本館を作るまでの製作資料を展示した「メイキング」である点だ。
120039585_3312085442218680_2239756726068
壁新聞のように、制作過程を記した紙。テクスチャーのある紙に紫色のインクで印刷して、わざとシワが入るように貼ってある。四隅には、金属の細いピンが立ててあり、スクラップ感が増す。
先ほどの90%サイズで再現された日本館は、ベニヤ板が丸出しで建てられている(わざと映画のセットのようにしてあるのだ)。資料類は、ダンボールを重ねた物で囲われている。こうした素材の見せ方、構成の仕方は、書籍編集に通じる物がある。
他のフロアも展示の技術は高いと思うのだが、「Cosmo- Eggs」は何よりも素材が良かった。素材のよさに見合う展示のセンス。それを何時間でも観ていられるのだから、安いものだ。


映画は、配信レンタルでトリュフォーの『華氏451』、『リング』など。映画館には、まるっきり行かなくなった。

Twitterで、リベラルだとかフェミニストだとかの甘ったれた暴言を見ていて、いろいろ沸き起こる感情はあるのだが……。彼らは、他人に対する支配欲を抑制できないがため、彼らが言葉のうえでは嫌悪しているはずの権力側・加害側・いじめっ子と化してしまっているのだろう。見かねる発言は通報しているのだが、暴言系のフェミニストさんのアカウント()が、しっかり凍結されていた。それで十分というか、言い争う気も起きない。
Tumblr_n9gwkbaasb1rlitzfo1_1280_20200923100901  
EX webの連載「社会に萌えキャラの居場所はあるのか?」)は、次回は表現規制サイドに聞くつもりでいたけど、彼らは取材に応じないんだよね。彼らは公平な場での自由な討論になんて興味なくて、自分だけが圧倒的有利になれる特権的な立場が欲しいだけなんじゃない? 他人を支配したい系のクレーマーは、下駄を履かせてもらって勝つことを恥ずかしいなんて思ってないんだよ。

書いていたら腹が立ってきたけど、美術館と喫茶店へ積極的に行くようになってから、自分の日々をどう面白くアレンジするかにしか興味が向かない(笑)。これが、人生の勝利なのだろう。高校~大学時代、まるで多額の借金のようにコンプレックスを抱えて、女性に救われようと涙に暮れていた日々を思うと、ウソのようだ。

| | コメント (0)

2020年9月17日 (木)

■0917■

DIME(ダイム) 2020年 11 月号 発売中
119508378_2637394403144734_3132160520634
●森口博子 ガンダムとの運命の絆
歌手の森口博子さんに、単独インタビューいたしました。以前(2016年、『THE ORIGIN IV』上映時)は、ぶら下がり取材のみだったんです。今回は、せっかく単独取材なので、富野由悠季監督へのインタビュー経験の豊富さも生かせたと思います。
そして、この上なく丁寧に原稿を構成したつもりです。


今週は取材も原稿もないので、フラリと金沢へ泊りがけで行ってきた。
金沢21世紀美術館が、主な目的。レアンドロ・エルリッヒの作品『スイミング・プール』は観光客に大人気のようで、10時すぎに入館したのに、プール内に入れたのは11時20分! 途中で帰ってしまう人もいたので、この待ち時間は事前にアナウンスするか、整理券を発行する必要があっただろう。
119182161_3293830380710853_5299921312878
52_o
しかし、地下道を歩いて抜けた先に、いきなり水中のような空間の広がっている驚きと幻想味は、自分で体験しないと分からない。十分に並ぶ甲斐はあるし、企画展の入場券を買ったのに、プールだけ見て帰ってしまう人さえいた。

企画展は『de-sport : 芸術によるスポーツの解体と再構築』。独特の円形の建物のせいか、ボリュームは足りない。
119625652_3293855114041713_5268964378062
119629297_3293854527375105_8754802808793
ザ・ユージーン・スタジオの《Mr.Tagi’s room and dream》。架空の楽器を2人の男が叩いている様子を、ナレーションも何もなくただ撮った映像を、複数のスクリーンに映写している。部屋に入ってきた観客は、どれかひとつのスクリーンを見て意味を読みとろうとするが、どうしても視界に他のスクリーンが入ってしまう。
室内を歩き回っているうち、部屋の中央に斜めに吊り下げられたスクリーンが、刻々と部屋のイメージを変えていく。
映画館では、ただひとつのスクリーンから意味を読みとるよう、僕たちの脳は集中する。夾雑物を排除して、純粋にひとつの意味を心の中で結像しようと試みる。しかし、このインスタレーションは、その試みを放棄させる力を持っている。視点は分散せざるを得ない。スクリーン内の情報は部屋の中を縦横に飛び交い、それは僕たちの歩く速度、どこにいつ視点を向けたかによって、秒速で変化する。
映画館の中で、僕たちは限りなく静止しようとする。ゼロになろうとする。この作品の前では、まったく逆だ。「歩く」という主体性が、作品の構成要素になる。ちょっと部屋をのぞいて立ち去ったとしたら、作品の価値はグッと低くなってしまう。自ら歩いて、どこにも視点を傾けない散歩しているような状態になったとき、初めてこの作品のラフさ、美術館という空間の自由さを感じられる。


柳井信乃の作品《Blue Passages》も、同じような構造を持っている。
119457485_3297837496976808_5594860146199
聖火をくべるたいまつが部屋の中央にあり、左右の壁にモノクロとカラーでたいまつを手にして歩く女性の姿が映し出されている。
中央のオブジェを見ようとすると、どうしてもスクリーンが視界に入ってしまう。スクリーンは、オブジェの背景だ。背景だけを見るには、自分で最適な位置を見つけないといけない。「どこから見るの?」と考えている暇があったら、自分からどう見るか考えないといけない。
そうやって、空間と時間を自分で調整していくのが、美術館の面白さだ。
9_o
企画展とは関係ないが、すべての壁が台形になり、真上の空に向けて窓のひらかれた部屋。この部屋それ自体が、ジェームズ・タレルの作品だ。時刻や天気によって、刻々と表情を変える。日光までもが、作品の一部だ。
9_o_20200917200701 
この緑壁は、パトリック・ブランの作品。あちこち通り抜け禁止になっているが、ガラス張りなので恒久展示はどこからでも見られる。どこか、遠い未来に残された廃墟のような寂しさが漂う。東京の美術館には、こういう侘びはなかなか感じられないかも知れない。
館内で働く女性たちのユニフォームは、ミナ・ペルホネンの皆川明さんデザイン。独特の柔らかさ、穏やかさも感じられる美術館だ。


喫茶店で休んでから、近くにあった石川県立美術館へ。
9_o_20200917203301
こちらはまあ、江戸時代の刀とか屏風とか。蒔絵はデザイン性があって、なかなか面白かった。全体に堅苦しい美術館だったが、国宝と呼ばれるものは見ておいたほうがいい。

前の夜、ホテル近辺の居酒屋があまりに高くて、しかも料理がチャチだったので、東京へ帰る前に何とかして美味いものを食べたくなった。
美術館からはちょっと距離があるのだが、近江町市場というところまで歩いてみた。右も左も、海鮮丼の店が櫛比している。こういう競争率の高いエリアなら、ハズレはなさそう。「席、ありますよ」と声をかけられ、ふらふら入店。
9_o_20200917201701
9_o_20200917201702
まだ14時台だが、かまわずビール。明日なんて言っていられない、欲しいときに飲めるように日々を設計していく。
さざえのつぼ焼きが品切れだと店のお姉さんは言うが、おすすめのホワイトボードには、「石川県産さざえ」の握りがあると書いてある。出来るかどうか聞いてみると、水槽の中から板前さんがさざえを取り出し、そのまま調理してくれた。
こうやって、「確実にある」と分かっているものより「あるかどうか分からない」ものを頼んでみる。「ありますよ」と言われたときの喜びが大きい。ちょっとしたリスクが、人生のスパイスになるわけだ。「どうせ無いんだろう」「どうせ駄目なんだろう」などと言っていては、こうやって泊りがけで美術館へ行く贅沢な日なんて絶対にやってこない。来週かぎりで人生が終わると思って、貪欲にどんどん行くんだ。自分で求めていかないと、人生は面白くならないぞ。


映画は、配信レンタルで『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』、『ヒッチコック/トリュフォー』。
どちらも、ヌーヴェル・ヴァーグの存在意義の感じられる優れたドキュメンタリーだった。貴重な音声や映像がいっぱいで、映画の引用も適切なシーンばかり。

| | コメント (0)

2020年9月11日 (金)

■0911■

■法的な問題は何もなかった“アベノマスクブラ”ポスター【新藤加菜さん独占告白】
Eraknote9  

第1回(
第2回(
第3回(

ひとつの記事として書いたのに、三つに分割されてさらに細かくページ分けされてしまって読みづらいと思いますが、是非ひとりでも多くの方に……。
この選挙ポスターは、萌えキャラ擁護の人たちからも見放されていたような気がします。「NHKから国民を守る党だから、いくら表現の自由でも擁護する必要はない」という冷たい態度の人もいました。
この記事では、自分の体をつかって表現した主体であり、批判されて自主規制に追いやられた主体である新藤さんに、バックボーンも含めてインタビューしました。

新藤さんを標的に、批判キャンペーンを行った池内さおりさんには取材拒否されたので、批判した側の言い分を聞くことは出来ませんでした。こうやって、Twitterで言うだけ言って投げっぱなし、特に目的も結論もなし……という無責任なパターンが、あまりに多いと思います。ハッシュタグをつくって法案に反対だとかTwitterデモとか、一時的な賛同を得られて気が晴れればすぐ忘れてしまう人たちばかりで、「しょせん本気じゃないんだな」と溜め息がでます。


「本気じゃない」という意味でいうと、昨夜配信で観た映画『ソラニン』。恋人と同棲していて、音楽の才能があるとかないとか程度の悩みしかない若者たち。福満しげゆきさんの漫画に出てくる、簡単に自己肯定できてしまって貪欲になれないバンドマンたちを想起した。
Eraknote9_20200911215201
表現に必然性がないから、ボートから落ちてびしょ濡れになったとか、交通事故でいきなり恋人が死んだとか、何とかして派手に見せようと頑張っている。「日常が満たされてるから、それほど頑張らなくても十分に幸せだ」って結論にはならないんだよね。だから、恋人を前ぶれもなく死なせて、悲劇を構築しないと間が持たない。

言っちゃ悪いけど、人生まあまあ楽しいリア充の人たちが「何か問題意識を持たなきゃカッコ悪い」と焦ると、すぐ反体制・反政権に走る。とりあえず反対していればいいから、楽なんだよね。『ソラニン』はそういう政治的な映画ではないけど、リア充独特の生ぬるさを知るには、よいサンプルと思った(ひでえ言いようだけど……この路線で、生ぬるく満たされた若者たちの空虚な焦りを描く映画はアリではないかと思う)。


左翼という意味では、連合赤軍が仲間に些細な難癖をつけて、「可愛く着飾ってるから」「一人で美味しいもの食べたから」なんていう理由でリンチ殺人にいたった経緯がどうにも理解できず、彼らを描いた映画を探していた。
で、レンタル屋で高橋判明監督の『光の雨』を探し当てた。連合赤軍の山岳ベース事件を描いているのだが、その『光の雨』という映画を撮っている監督や若いキャストたちに着眼したフェイク・ドキュメンタリーのような多層構造をとっている。
20200617_14h37_12
山岳ベース事件は、森恒夫と永田洋子、ふたりの派閥争いの側面もあったわけだが、『光の雨』では(役名が違うとはいえ)森恒夫役に山本太郎。永田洋子役に裕木奈江! ミスマッチというか、ピッタリの配役であった。山本は冷徹な森を演じる一方、「元漫才師の現代の青年」役でもある。森役から離れた彼は、「統括とか革命とか、ほんま意味わからんわー」とボヤく平成の青年だ。(山本太郎さんは、俳優としてはすごく良い。見直してしまった。)

そして、この映画の見どころは、理解しがたい異様な概念だったはずの「統括」を、若い平成の男女が楽しい飲み会で仲間に迫るシーン。連合赤軍の役を演じているうち、映画の中の価値観が現実に染み出してきてしまうわけだ。
「統括」は、身内をいびり殺すのにもってこいのパワーワードなのだ。今なら「キモイ」かも知れないし、「性的搾取」かも知れない。まあ、それっぽい理屈で私刑が出来れば何でもいいわけだ。仲間はずれをつくりたがる残酷な性癖は、昭和も平成も変わらないのではないか……と思わせるところが、この映画のキモだ。

ラストシーンで、リンチ殺人された役も生き残った赤軍メンバーの役も、俳優たちみんなが手をとりあって撮影終了を喜びあう。
それは無邪気な平成の若者たちの姿であり、同時に、あり得たかもしれない赤軍メンバーのもうひとつの姿なのかも知れない。


本日は、東京都現代美術館へ行って来た。
企画展は三つなので、すべて見られる通し券を買った。予約販売ではないせいか、かなり混んでいた。
 Eraknote9_20200911222901
前に現代美術館へ来たのは、皆川明展のときだった。あの時は楽しくてニコニコしてしまったのだが、今回はすべての企画展が説明不足で、ちょっとガッカリした。オラファー・エリアソン個展『ときに川は橋となる』は、最後のふたつの作品が良かった。
Eraknote9_20200911223901
ひとつは暗い室内に霧を発生させて、たったひとつのスポッライトで虹を見せるというもの。
もうひとつは、上の写真だ。部屋の中央に水を張って、12個のライトで照らす。水面にさざ波が起きると、12種類の少しずつ違った模様が、天井に照射されるのだ。どんな模様が生じるのか、自然現象なのだから誰にも予想できない。
思いがけずフワーッと美しい模様があらわれると、まるで皮膚の中にさざ波が入り込んで、神経を撫でられているような官能的な気持ちになる。なんて幸せなんだろう。

常設展で、鈴木昭男氏の「作品の上に立って音を聞く」作品、“no zo mi”に再会した。石段のうえに立つと、美術館の外を走る車の音や空調の音が、わずかの間だけ「作品」と化す。
119240338_3278845245542700_2459459802574
つい先日、森美術館で観たばかりの宮島達男さんの壁面デジタル時計も、やはり好きな作品だ。温かみがある。
人生の成功は、別にお金持ちや有名人になることではない。こうした自由な一日を、好きなように穏やかに過ごせること。ネガティブな感情にとらわれ、他人がどうしているか常に気になってイライラするのは、自由ではないからだろうな。

(C)浅野いにお・小学館/「ソラニン」製作委員会

| | コメント (0)

2020年9月 8日 (火)

■0908■

「涼宮ハルヒの憂鬱」第9話は台詞と構図を連動させて、登場人物の「関係」と「距離」を描く【懐かしアニメ回顧録第70回】
こうしたカットワークや構図の意図は、本当は無意識に感じられるものなので、無理やり言語化しないほうがいいのかも知れません。しかし、「とにかく泣きました」「よく分からないけど感動しました」という無防備で無責任な状態が、僕は怖いのです。なので、これからも映像の意図を読みとり、なるべく言葉に変換していくと思います。


昨日は森美術館へ、『STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ』を観に行った。あいかわらず駅からのアクセスが悪い(エレベーターで待たされる、昇った先で入り口が分からない等)が、展示はすっきりしていて、とても良かった。
Comsuit01
村上隆さんの作品を最初に持ってくるのも、まず入ってきた人をビックリさせる(等身大のフィギュア、“Ko²ちゃん”が客を出迎える配置)意図として、とてもよく分かる。不愉快な人は、さっさと次のコーナーに行けばいい。そうやって自分で鑑賞体験を調整できるところが、美術館の良さ。

宮島達男さんの展示は、ひとつの部屋を池のようにして、手すりにもたれて鑑賞するスタイル。水の音が聞こえ、あちこちにデジタルカウンターが置かれている。まるで、ホタルのように点滅している。
Comsuit01_20200908104101
その池(水を張ることは出来なかったので水音を入れたらしい)が何であるのか、ビデオで宮島さん本人が丁寧に解説している。すると、単調に思えたカウンターの見え方が変わってくるわけだが、それが良いことなのかどうかは、ちょっと難しい。
学芸員の解説パネルも、たまに解釈が入りすぎて邪魔に感じる場合がある。かといって、「感性」なんてものに体験の価値をまかせてしまうことに怖さも感じる。知識も必要なはずだ。その葛藤こそが、アート作品を見る面白さなのだ。

最後は、写真家・杉本博司さんの映像作品。横4メートル、縦2メートルぐらいのスクリーンだろうか。
映画館の大スクリーンに比べれば小さいじゃん……と思うはずだが、スクリーンのすぐ横に隕石なんかが置いてあるため、画面に映った花びらなどを「大きい」と認識してしまう。映画館でスクリーンの横に何か展示してあったら、邪魔なはずだろう。だけど、美術館ではスクリーンの物理的な大きさが映画館とは別の意味をまとう。つまり、劇映画を見ている間、僕たちは心の内側にスクリーンを持っている。美術館で見る映画は、肉体の外にある。


最近、レンタルで観た映画……『天気の子』。
まあ、これを観て中高校生が元気に生きていけるなら、それで存在価値は十分にあるだろう。やっぱり、今の若い世代をストレートに応援してくれる映画が少ないとは感じるんだ。
Comsuit01_20200908121101
コンビニ食やインスタント食をおいしそうに描いたり、現状肯定的、保守的なところが気になった。だけど、それは妬みなんだろうな、オジサンの。若い世代には、「今が一番いいんだ」「君たちは祝福されているよ」って、力いっぱい言ってあげないといけない。それが大人の責任なんだろう。

もう一本、『トラ・トラ・トラ!』。これには、度肝を抜かれた。僕が三歳のころに公開された映画だが、『スター・ウォーズ』が霞むほどの圧倒的な戦闘描写。本当に、わが目を疑った。
Comsuit01_20200908113401
滑走路から離陸しようとする戦闘機が、地上で走りながら爆発してしまう。よくあるアクション映画のようにバーンと粉みじんに吹き飛ぶのではなく、骨組みをむき出しにしながら並んでいる同型機に突っ込み、整備兵が逃げ惑う。戦闘機からは、回転したプロペラが機体から飛び出し、そのまま滑走路を跳ねる。
これらはリモコン操作で走らせたレプリカの戦闘機を実際に爆発したもので、ミニチュアではない。偶発性のかもす迫力。しかし、映画自体はオープニングからして、丁寧に構図が設計されている。それゆえ、予想外の爆発やアクシデント的な破壊シーンが生々しく感じられる。
この映画に対して、「何が言いたいのか」「メッセージが分からない」といった批判を読んだが、まったくナンセンスな話と思う。


“えぇっっっ!

この電通さんのデザイン料200万円!

高すぎる!と率直に思った件”

悪いんだけど、また共産党。根拠も示してなければ、代案も具体案もない。これじゃあ、素人の難癖じゃないか。国会議員の歳費は2千万以上と言われているんだから、問題だと思うなら具体策を提示しないと。「えぇっっっ!」なんてツイートしてる暇があるならさ。
本村伸子議員にはメールで意見を送ったけど、何の返事もない。Twitterで「えぇっっっ!」と驚いているだけで何の対策も考えられない国会議員なんて必要ないよ。ソースを示さないなら、同じ構造でデマを流布できてしまう。なんでこんなに無責任なの?

俺だって電通は嫌いだよ。確かに、政府のお金の使い方には不透明な部分が多すぎるかも知れないよ。だから、それを解決するのが国会議員の仕事じゃないの? 「えぇっっっ!」と驚くのが仕事なの?
うっかり、「また共産党」と書いてしまったけど、三鷹市の共産党議員に意見を送ったら、返事をくれたし、市民のために活動していることをちゃんと立証してくれたよ。そういう誠実な姿勢は、俺はどの党であれ評価しますよ。無責任に曖昧に、問題の所在をウヤムヤにするくせに自分の感情だけは最優先にする、その卑怯な態度を責めている。

(C)2019「天気の子」製作委員会

| | コメント (0)

2020年9月 3日 (木)

■0903■

ホビージャパン ヴィンテージ Vol.4 本日発売
Ce0c6d64edd344a8a6f83cd9f70b8e5b
6月ごろから準備してきて、ようやく発売となりました。イマイ製キットの素組みレビューを中心にした、構成・執筆です。河森正治さん、宮武一貴さん、高荷義之さんへの各インタビューは、取材交渉の段階から自分で行いました。
すでに次号のアイデアもいくつか提出しましたが、従来とは考え方を進歩させて、メリハリのある迫力ある誌面にしたいと思います。


昨日は、猛暑の中を歩いて歩いて、原美術館へ。場所が分かりづらくて汗だくになってしまったが、着いてからは建物の放つ静謐な雰囲気に飲み込まれた。
5b
開催されてるのは「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」で、出品作家は3人。展示スペースは狭いわけではないが、一階と二階で5部屋なので妥当だろう。
一階の広いサンルームに、カンバスを裏にしたような板が、たくさん立てかけられている。一見すると、まだ展示準備なのか?と思ってしまうほど雑然としている。よく見ると、壁のほうを向いた面にはオレンジやグリーンの鮮やかな蛍光色が塗られていて、その色が壁に反射する。少し時間をおいて見に行くと、その反射具合が微妙に変わっている。部屋に照明はない。
部屋の隅にはスピーカーが置かれ、かすかなノイズのような音が聞こえている。すると突然、窓の外の蝉の声が意識された。そのノイズを聞いてからは、建物の空調の音さえも効果音として機能しはじめる。

二階へ上がると、iPodを渡される。自分でイヤホンを持ってきていたので、音を聞きながら展示室に入る。
すると、展示室はライティングされているだけで、室内には何ひとつ置かれていない。しかし、ヘッドホンから聞こえてくる声は、この部屋に彫刻があると仔細に説明する。小説を読むように、鑑賞者は何もない部屋に彫刻を想像することになる。無いものを、そこに見ようと努める。
もうひとつの部屋へ進むと、新しい音声が聞こえる。真っ暗な部屋の中で、荒れ狂うようにライトが回転しており、耳元では「あなたは私が守ります」と呟くような声がする。彫刻の置かれている(と想像させる)部屋も不気味なモノローグだったが、今度は鑑賞者の恐れに寄り添うように、声が内面に侵入してくる。


一階へ戻り、コーヒーを飲んだ。
5b_20200903191201
古い洋館を改造した原美術館は、建物も作品だ。いま見てきた数個の作品を反芻すると、すっかり意識が変わっているのが分かる。作品は僕の内側に潜入し、少なくとも建物の中にいるかぎり、作品の呪縛から逃れられない。感覚が変容している。
雨が近づき、窓外からの光線の具合が変わった館内を、もういちど歩いてみる。僕は作品から意味を読みとり、言葉に置き換えようとする。それは欺瞞なので、僕は思考を追い出そうと努める。そのような、心の葛藤をお金で買うのが美術館だ。

二階へ戻り、常設展をもういちど見直した。壁の一部がくり抜かれ、配管がむき出しになっている。そこへ鮮やかな紫色の花が絡まっており、スポットライトで照らされている。世の中のどこかで、人目の届かない場所で起きた奇跡的なドラマを、特別に覗かせてもらっているような気持ちになった。そういう異種体験を安全に提供するのが芸術作品であろう、とも思う。
映画でも漫画でも、どんなエンタメであっても、安全圏にいながら非日常を買うものだと思う。下劣な作品は、安全圏からくだらない日常を買わせようとするんだよな。地べたから離れようとしないというか。


映画は、デ・パルマ最悪の作品と呼ばれる『虚栄のかがり火』。
押見修造さんの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の原作本を買った。(映画版の感想はこちら→
Kyuyongeom
映画版では、原則的に「いい人」たちしか登場しないが、原作漫画ではモブシーンのクラスメイト(ほとんどがヤンキー)がこってりと醜く描かれていて、世界観が強烈に出ている。教師も母親も、無神経で無能な大人として描かれており、押見さんの苦悩の深さをうかがわせる。

青春漫画、エンタメ漫画としては予定調和を逸脱する脱臼ぶりを見せている。映画化にあたって志乃と加代が路上ライブを成功させて、ひとつの曲が別の曲となり、服装が変わり、ふたりがどんどん仲良くなり……という祝祭的な盛り上げ方をしたのも、理解はできる。脱臼した部分に、接木しようとしたんだ。
しかし、原作では加代のライブは笑われて終わる。志乃はラストシーンで超法規的に救われるが、加代の救いは描かれない。
人と普通に話せないことの、あの怖さを何とか映画に出来なかったのだろうか……と、未練は残る。ただひたすら、対人恐怖という現象と、誠実に向き合ってほしかった。そんな簡単に、人の戦いの勝ち負けを決めてくれるなよ……という気分。

今年は海外旅行へ行けなかった。海外へ行くと、自分は構造的に「言葉の話せない人」になる。だから、「人と普通に話せない」欠点を気にする必要がなくなる。日本社会で被っている硬直したお面を外して、裸になった状態で人と接することになる。だから、解放感がすごい。
僕はブサイクでキモいかも知れないが、その尺度すら日本社会との関係から生まれてくる概念にすぎない。海外の社会が優れているわけではない。僕が、たまたま生まれた国の関係性から逃避して解放感を満喫しているだけであり、「逃げるが勝ち」というヤツだ。

| | コメント (0)

2020年8月29日 (土)

■0829■

カップヌードルのプラモデルって、本当に組み立てて面白いの? BANDAI SPRITSさんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第62回】
32455263_1363680497064736_63414108118644
話題のプラモデル製品、成形の難しさ・面白さについて聞いてみました。
この取材はリモートだったため、僕も編集部も慣れずに苦労しました。そこをインタビューイの寺田 塁さんが、絶妙の手際でカバーしてくださいました。普通、取材相手が言葉を書き足すと、ポイントが増えて分かりづらくなります。しかし、寺田さんの加筆はポイントを押さえた見事なものでした。
大いに助けられて、とても面白い記事になりました。ぜひ読んでみてください。


最近観た映画は『ミスティック・リバー』、『兵隊やくざ』、『ハウス』、『あしたのジョー』、『座頭市』(1989年版)、『燃えよドラゴン』など。昨夜は、押見修造さん原作の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』をレンタル配信で。
6_n
映画としては、「まあ、こんなもんじゃない?」といった感じ。最近の青春映画はみんなそうだが、紙芝居のような構図の中で、脚本に書かれた台詞をハキハキと喋って、だけど泣くようなシーンでは俳優のアドリブで生っぽい演技にして……可もなく不可もないと思う。
この映画を見たのは、『惡の華』の主題歌も担当したASA-CHANG&巡礼と押見さんのコラボ曲がキッカケであった()。

例によって変わった音楽だなあ……と思って聞いていたら、何度目かで「これは吃音のため、自分の名前を普通に言えない人の歌だ!」と気がついた。可愛らしい声でドモりつづける「おおしま・しの」という名前をネットで検索して、映画にたどりついた。
ASA-CHANG&巡礼の曲のほうが、ドモりに悩む少女の告白が、“表現”できていると思う。女優に「お、おおおお、大島です」と言わせても、それはドモった台詞の書かれた脚本を読んでいるだけじゃないだろうか。「本当は普通に話せる女優さんだよね」と、思ってしまう。
ところが曲のほうは、いちど喋った言葉を分解して、サンプリングで機械的にドモらせている。つまり、「本当に話したい言葉」をまず録音して、出力する段階で壊しているわけだ。それこそが、表現だと思う。本当に言いたい言葉が確かにあるのに、その通りに言えないことがドモりの怖さなのだから。

映画で表現するなら、ひととおり俳優の演技を撮っておいて、編集でドモらせても良かった気がする。それこそ、トリュフォーがワンカットの中でコマを抜いたり止めたりしたように。
6_n_20200829133001
コミュニケーションが「壊れている」ことが、ドモりの本質なのだから、スムースに普通に映画を撮ったところで、その苦悩が表現できるとは思えない。映画の原理の部分で、なにか工夫しないと。
……まあ、素直に良かったシーンを誉めてやりたいんだけど、決して高望みではないと思う。


『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の話題をつづけると、欠けた部分のある若者同士が依存しあいながら互いを厳しく責め合う、息の詰まるような人間関係は押見修造さんの独壇場と思った。人間関係って、少量なら薬、多量なら毒……というだけなのかも知れない。

『志乃ちゃん』はドモり。僕の場合は、猛烈な発汗。赤面症を笑われている同級生もいたっけ。他人からは、「気にしすぎ」「誰でも人前に出れば緊張する」「我慢しろ」「甘えるな」などと言われつづけた。
6_n_20200829191801   
大島志乃が映画のクライマックスで鼻水をたらして叫んだように、「なぜ?」「どうして?」と思う。今でも発汗することがあるし、話し言葉が他人には聞きづらいらしく、インタビュー中でも「えっ?」「はい?」と、必ず聞き返される。これが、いまだにグサッとくる。

父親が高圧的で、突発的に大声で怒鳴ることがあったため、萎縮しながら幼年期を過ごしたような気がする。僕が口の中でモゴモゴ話すものだから、父親は眉をしかめて「ああ!?」と、ヤクザのような聞き返し方をした。それが怖くて、ますます黙りこんでしまった。
学校でハキハキと喋れなかったのは、そんな家庭環境のせいかも知れない。小学三年のとき、イジメ気質のある同級生に「無口さん」とあだ名をつけられたが、黙って耐えていた。
その理不尽な抑圧の中から何とかして自分の……頼りない武器を見つけ、度重なる挫折の中で、その武器を少しずつ磨いて……これ以外の生き方は、自分にはなかった。だから今、こうして好きなことだけで暮らしていけることを、誇りに思っている。この安寧は、自分の力で手に入れたんだ。

しかし、今でもたまに、「廣田は教室の隅っこでウジウジしていたヤツだろうから、いじめても大丈夫だな」という加害欲求をむき出しにしてくる人がいる。中年になっても、まだそういう感覚の人がいる(笑)。仕事の上で、陰湿な嫌がらせをしてくるタイプ。一言でサッパリとすまさず、ネチネチと長文メールで責めたてる人(父親がまさに、そういうモラハラ男だったけどね)。
僕たちは、考えの違う人ともこの世界をシェアして生きていかねばならない。だけど、向上心がなく攻撃本能で生きているケダモノは、そんな風には考えてくれないからなあ……。

(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

| | コメント (0)

2020年8月16日 (日)

■0816■

「六神合体ゴッドマーズ」の戦闘メカ「パンドラ」(バンダイ製)を組み立てて、“作画と模型の関係”を考えよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第2回)

背景布にシワがよる安い撮影ボックスを買ったせいもあり、写真がヒドすぎて見てほしくない記事ですが……そこそこアクセスを稼げているそうで、ありがとうございます。次回からは編集部で、カメラの得意な編集者に撮ってもらうので、かなり写真はレベルアップするはずです。
(本当は、この連載だけやっていきたいぐらい、入れ込んでいるので)


ここのところ観た映画は、レンタルDVDでは『コラテラル』、『ファイトクラブ』(二回目)、岡本喜八『吶喊』、配信では久々に『どついたるねん』と『時計じかけのオレンジ』、最近作ではアニメ映画『プロメア』、そして実写版の『惡の華』。
Jcparksurvivor
監督の井口昇さんは、特撮ヒーローやアイドル系の人であって、決して青春映画を撮るタイプではない。なので、まあ、こんな程度でいいんではないか。
いま邦画界を覆っている「原作どおりでないとファンに叩かれる」「よって原作そっくりのコスプレが似合う、売れている俳優を探してくる」「しかし、売れている俳優に無理をさせると関係各所から怒られるので、こじんまりと破綻なく収める」パターンには、なかなか抗えないのだろう。
ひさびさにアニメ版『惡の華』を一気に見て、「そういえば実写映画版ってどうなの?」と気になったわけだが、アニメ版が表現形式のアイデンティティを問うようなシャレにならない作品だったので、両者を比べても意味がないような気もする。


監督が井口さんだと思うと責められないんだけど……、ボードレールの本の表紙の「惡の華」のキャラクターを、CGIを縦横に使って絵のとおりに作ってしまうのは、別に井口さんだけではない。そういう「原作と寸分たがわぬ再現度」しか尺度のない即物性が、僕は怖い。
漫画原作の映画って、ぜんぶコスプレばかり。原作のエッセンスだけすくって、しっかり監督の映画にしてしまおう……という次元では、ハナっから勝負しようとしていない。最近では是枝監督の『海街diary』 ぐらいじゃない、監督の作風に染めあげた映画化作品って? 俺は、映画が映画なりの主体性をもってアレンジするんなら、『翔んだカップル』や『花のあすか組』ぐらい、原作を無視してワガママをやっていいと思う。
まずは、原作そのままのビジュアルやストーリーでないと「原作と違う」とわめく即物的な感覚しかもっていないファンたちが邪魔をしている。そして、保守的なファンの反応を気にしてビクついている映画製作者たちも、主体性を捨てている。その行き着く先は、有色人種の役を白人俳優が演じてはいけないというハリウッドのたどりついたポリコレ地獄、デッドエンドだ。

主体性の欠落は別に、映画業界にかぎった話ではないと思う。出版業界の末端で仕事していても、「誰かの許可がないと好きに仕事してはいけないのではないか」「勝手なことをしたら、誰かに怒られてしまうのではないか」という根拠のない萎縮が、日本社会で常態化しているのが分かる。ちょっとした取材でも、「いったん会社に持ち帰って検討します」「上司の判断をあおぎます」。個人が決断力を発揮しようとしない。個人の意見は学校や会社などの組織に封殺されるし、その窒息状況の中で個人は「自分独自の考え」から逃避しつづけて、そのまま大人になってしまった。
でも、『惡の華』はそういう“普通人間”のクソつまんない生き方にツバを吐いて、ドロドロのグチョグチョの“真実の変態”を目指す漫画でしょ? だから、映像化のアプローチにも厳しいものが問われてくる。

長濵博史監督のアニメ版『惡の華』は原作の絵柄の向こう側へと深く潜行して、決死の思いで「ドロドロのグチャグチャ」を片手に生還し、もう片方の手で作品として社会的なフォーマット(1話30分のアニメ番組)として定着させることに成功した。
Jcparksurvivor_20200816213501
ロトスコーピングでつくられた違和感だらけのアニメ画こそが、仲村さんが死ぬ気で超えたかった「向こう側」を炙り出す、おそらく最もマシな手段だったんだと思う。


ロトスコーピングの過程で、実写映像のもっている曖昧さ、複雑さは整理されていく。
情報が快楽原則によってデザインされすぎてしまうから、たぶんアニメ絵は「気持ち悪い」んだろう。作者の好きな物だけで構成できる漫画やアニメは、嗜好性が前面に出すぎる(その単なる嗜好性に、技術によって説得力を持たせるところに価値があると僕は思っている……そして、アニメ絵を批判する人たちは、この「技術」の部分を丸ごと見落としている)。

『惡の華』も、他のアニメと同様、線と色の面で構成されたセル画にすぎない。だが、思ったように可愛いキャラを描いてやろう、気持ちいい動きだけを描こう……という意志は、実写をトレースする工程によって阻まれる。トレースの結果、生身の肉体だけが持つ予測のつかない動き、だらしのない仕草まで、すべてセル画として描かざるを得ない。
Akunohana02-83
生身の人間の「見たくない部分」が、セル画にすることによって、デザイン的に炙り出されてくる……これぞ、ドロドログチャグチャの「向こう側」の世界ではないのか? これこそ、原作漫画が絵柄のうちに秘めた本質ではないのか? テーマが、表現方法を選択するとは、こういうアニメ化のことを言うのではないか?

つい熱くなってしまったが、アニメ版『惡の華』は単に手法だけが優れているだけでなく、未成熟な中学生同士のいびつな社会を、絶妙な構図やカッティングで痛々しく表現している。主人公を新人、脇をかためる女性たちをキャリアのある声優が演じることで、なんとも言葉にできない間合いの悪さ、気まずさ、空回りする必死さを、一呼吸ずつ丁寧に伝えてくる。

どうしてこんな作品本位の、ワガママかつ誠実な仕事ができたのだろう? いまの社会では不可能な気がしてしまう。
僕は基本的にひとりで生活しているので、ついSNSばかり目にしてしまうが、どんどん即物的に、簡単なことはとことんまでやる癖に、面倒な手続きは回避する無責任な社会が形成されていくようで、怖くてならない。映画の感想を読もうと検索しても「あらすじ・ネタバレ・考察」とテンプレのようなサイトばかり、あらすじは書き手の解釈ではなくてウィキペディアのコピペ……こんな雑な、右から左へハンコを押すような感覚で、作品の価値なんて測れるんだろうか?

(C)押見修造/講談社 (C)2019映画「惡の華」製作委員会
(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会

| | コメント (0)

2020年7月25日 (土)

■0725■

「ベターマン」では、“身動きのとれないキャラクター”が世界の秘密を握っている?【懐かしアニメ回顧録第68回】(
T640_867204
割といつも気にしている、「自由に動き回れない人物に感情移入してしまう」現象について書いています。

このコラムでは第1話についてだけ書きましたが、超人モノというか超常現象アニメ『ベターマン』は面白いです。1999年ごろは、まだまだ『エヴァ』ブームの余熱が冷めていなくて、作家性・企画性の強い自由奔放なアニメが、それなりの予算とスケジュールでつくられていた時代。90年代はシャープな線のシンプルなキャラが多くて、枚数が少なくてもそれなりに動きが映えるところもいい。
「スペシャルコンセプター」「造形師」など、今ひとつ役割の分からないスタッフもいて、豊かな時代だったと思う。06年ごろからソフトの売り上げが落ちて、失敗しないよう慎重な企画が増えてしまった。
90年代後半については、今後どんどん取材して、ゆっくりと検証したい。


さいきん観た映画は、DVDレンタルではパトリス・ルコント監督『列車に乗った男』、大学時代に授業で観た『宗方姉妹』など。
しかし、若松孝二監督が低予算で自主的に撮った『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』、アマゾンプライムで見はじめたら、あまりの迫力に度肝を抜かれた。
T640_867204_20200725222701
男優・女優ともルックスの整った人を揃えており、「ハイ、ここは悲壮なシーンですよ」「ほら、このシーンは残酷でしょう?」と認識しやすい音楽の入れ方をしているのだが、どこかでフッと撮影現場の荒々しさ、俳優の生身が覗いてしまう瞬間があった。訓練されているはずの機動隊員が、雪原でずっこけたりするのだが、それがリアリティにつながっているのだ。
一方で、山荘で人質になる管理人の奥さんを奥貫薫が演じており、無用なお色気を発散しているのが気になる……これでは、普通の商業映画じゃないかと思う。
しかし、だからこそ、同じようにルックス重視で抜擢されたにキャストに違いない坂井真紀の演じる赤軍メンバーが、自分で顔を殴るよう強要され、ボコボコに腫れ上がった自分の顔面を鏡で見て慟哭するシーンの凄みが出る。

ルックスが武器であるはずの女優が連合赤軍のメンバーを演じるのは、映画を社会にスムースに流通させて、より多くの観客とコミュニケーションするための方便でしかない。「皆さんご存知の坂井真紀さんが出演してますよ、これはただの演技ですよ」と、商品的なインターフェースを整えるわけだ。
ところが、坂井の演じる役は「化粧をしている」「髪を伸ばしている」「オシャレをしている」と責められ、「二度と男に色目をつかえないよう、目もちゃんと殴れ」と命じられて、まぶたが腫れるぐらい顔が変形してしまう。
劇の内部において、女優という職業を、売りであるはずの顔面を、文字どおり「潰して」いるのだ。坂井の泣き方が痛切で、このシーンには戦慄した。


坂井の演じるメンバーを「オシャレを捨てられない」と責め立てる永田洋子に、ちゃんと男性の恋人がいるのには驚いた。
自分と同時代を生きていた若者たちが政治的理由から仲間殺しをした連合赤軍事件の異常性に興味がわいて、この映画を観たわけだが……なんだか、Twitterでのハッシュタグによる稚拙な政権批判、ツイフェミと呼ばれている人たちの男性への憎悪ツイート、同性への「男に媚びてる」などの批判ツイートを想起してしまう。ようするに彼らは、理不尽に暴力的なんだよ。

よく知っているはずの人が、唐突に「検察庁法改正案に抗議します」なんてハッシュタグを使いだした時は、怖かった。政治的だからではなく、その唐突感、理不尽さが。
赤軍派は「総括」などという誤魔化しの、いかにも政治っぽい頭の良さそうな難解な用語で、日常のさまつな苛立ちを解消しようとした。あの時代の「革命」がいま、「反アベ」に入れ替わったに過ぎないのではないか? 安倍総理はそのうち辞めるか死ぬかするだろうけど、そうしたらまた別の何かにブチ切れるんでしょ?

日常がつまらない、人生がうまくいかない。家庭環境に問題があった、学校でいじめられていた……結局、ネットに臓物のようにブチまけた罵詈雑言、不平不満は自分が直面してきた私的な問題が発生源だ。どうすれば楽しくなるのか、幸せになれるのか、それはやっぱり自分で工夫しなければ良くならない。自分の内部から目をそむけているから、暴走する政治が悪い、男たちの性的消費が悪い等、解決しようのない漠然とした理由を外部から接木していくハメに陥る。
彼らは、よく「ヘルジャパン」だの「日本、地獄かよ」と不満を口にするが、あなたの人生、あなたの直面している現実がつまらないのであって、自らの問題を先送りにしている膠着状態が「地獄」なんじゃないの?
ツイフェミの人、男性嫌悪の人が例外なく「反アベ」なのは偶然ではないし、ましてや彼らが正しいからでもない。慢性的なイライラを他人や社会や属性のせいにしたがり、自らは決して努力も工夫もしない性格傾向に過ぎない。

解放されて自由に生きている人間は、ああまで次から次へと怒りや憎しみの原因を探してこられないよね。そうでしょ?

| | コメント (0)

2020年7月20日 (月)

■0720■

500円の“アートフィギュア”が、僕たちの価値意識を革新するかもしれない――株式会社SO-TAのカプセルトイ【ホビー業界インサイド第61回】
Bandicam-20200720-084703156_20200720092501
造形作家のムラマツアユミさんのツイートから株式会社SO-TAさんを知って、すぐに取材を申し込み、段取りはとてもスムースでした。最初の返事がもたつくと、たいてい後味の悪い取材になりますが、SO-TAさんは打てば響くような返事でした。メールの返事が早いだけで、信用に値します。

インタビュー記事って、インタビューイの話したことをそのままベタ起こしのように書いていると勘違いしている人が、いまだに多いです。
彼らは、インタビュー記事には、インタビュアーの意志なんて入ってないと思いたがる。実際には、何を聞きたいか、聞けた話にどう価値を見つけて、読んだ人にどんな気持ちになってもらいたいか、インタビュアーがすべてを意図して編集・構成しているのです。
「インタビューイが話したとおり、そのまま書きました」だったら、動画を撮って未編集で流せばいいのです。自分に主体性のない人ほど、他人の仕事もしょせん意図も意志もないものと見下して、ニヒリズムの中に安住したがるものです。


ヒッチコック監督の『舞台恐怖症』を、DVDレンタルで観た。冒頭30分、ひとつの殺人事件が回想にさらに回想を重ねて、バトンリレーのように人から人へ広がっていく描写はエキサイティングだった。
Bandicam-20200720-084703156
大女優が夫を殺したことに始まり、それが愛人へと伝わり、その愛人から名もない新人の舞台女優へと主役の座がスライドしていく。新人女優は、大胆な推理力をもった父親を心強い相談相手にして、事件の真相へと迫ることになる。そこまでが、ざっと30分なのだ。

見どころは、大女優の頼みを聞いて、愛人が殺人現場へ服をとりに行くシーンだろう。
カメラは、まず床に落ちた暖炉の火かき棒を映す。それは、大女優と殺された夫との争いの痕跡だ。カメラは愛人の視線をたどるように、ゆっくりとPANする。すると、クローゼットの前に、不自然な格好で倒れている夫がいる。夫の死体が、クローゼットの扉を邪魔しているのだ。では、どうやってクローゼットを開けて、服を取り出せばいいのか?
Pdvd_002_20200720105901  
カメラは、クローゼットを開こうとする愛人の上半身だけを撮る。愛人は、扉を開けようとするが、足元へ目を落とす。そう、そこに死体が転がって扉をふさいでいることを、僕たちは直前のカットで知らされている。だが、カメラは扉をふさいでいる死体を映さない。「死体を邪魔に思っている愛人の上半身」だけを映しつづける。じれったい。そして、僕たちの感じるじれったさが、クローゼットを開こうと必死な愛人の感じているじれったさとシンクロしていくのだ。

何をフレームに入れて、何をフレームから排除するか? 観客は何を知っていて、何を知らされていないか? 認識を、図像によってコントロールするゲームが映画なのだと思う。


“言論人といえば弱者に寄り添うもので、アーティストといえば差別を告発するもので、正義といえば加害者を絶対に許さないことで、連帯といえばRTとハッシュタグで実現するものになってしまった世界においては、ぼくの居場所はまったくない。この状況は10年ぐらいで変わるのかな。変わって欲しいなあ。”

そう、アーティストといえば判で押したように反体制、スタイル、ポーズとして反戦・反差別。自分が反対しているものの本質と対峙することなく、詮ずるところ、自分だけは清廉潔白な立場をキープしたい。

アーティストにかぎらず、クラスで孤立することなく平均点をとり、これといって劣等感や焦りを感じてこなかった凡人が、何か政治的な発言をプラスオンしようとすると、わかりやすい反体制・反権力の物語を鵜呑みにすることになる。
彼らは苦悩した経験がないから、浅いところで「分かりました」「私も同じこと考えてました」と理解したがる。何を見ても「カッコいいですね、これ欲しいです!」「すげー感動しました! もう、ボロ泣きです!」と、簡単に感情表現したがる。手痛い失敗をしてきた人間は慎重に、自分の感情すら疑ってかかるものだ。
幼稚な人間ほど、「傷ついた」と言えば、すべてが正当化されると思っている。


Twitterは、もはやトレンドが1~2日で移り変わる世界になってしまって、昨日は「いらないおじさん」であった()。
僕の根底には“自虐”があるので、「いらないおじさん」と言われるとドキッとしてしまう。コロナで自粛警察やってる我の強いおじさん達は、人間としてのレベルは低いけど、本人は醜悪なまでの強烈な自己肯定感に満ちていてるから、うらやましくもある。
(レジ袋が有料となり、袋が必要かどうか聞かれて、大声で「いらない!」と怒鳴るおじさん……同性から見ても、うんざりする。)

ただ、僕は人間として堕落したまま、向上心もなく生きていくことをイメージできない。無理なく好きなことだけやれる安穏とした人生を手に入れたが、緊張感を失うことが怖い。

| | コメント (0)

2020年7月13日 (月)

■0713■

“メカメカしいけどかわいい”! 「テクノポリス21C」のスキャニー(アオシマ製)を組んでハートがときめいた!!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第1回
Ecixvr7u8aaynjv
新連載、始まりました。
やっぱり根が屈折しているので、「おっぱいパーツはどう処理している?」という頭の悪い話になってしまいました。でも、バランス感覚なんかより変態性が自分の売りなので、今後も好きなように続けていくつもりです。


最近、DVDレンタルで観た映画は『マディソン郡の橋』、『大脱走』、『リンカーン』、いちぱん良かったのはジョン・カサヴェテス監督の『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』。
T640_863709
予告を見ると銃撃シーンを主に構成してあるし、ジャケット裏には「フィルム・ノワール」と書かれている。確かに主人公は人殺しをせざるを得ない状況に追い込まれるが、彼はストリップ劇場の経営者だ。
上のカットは殺人を請け負って、怪我を負ったその直後なのだが、自分の店に電話して「ショーはどんな感じ?」「どの演目をやってる?」「曲はどれ使ってる? この曲か?」と、電話に向かって歌いだしたりする。それぐらい主人公は、自分のストリップ劇場を愛している。

そして、ストリップ嬢はひとりひとり個性的で、場末のショーにこんな完成された裸体の美女たちが出演するのかよ?とは思うのだが、皆とても愛らしい。ショーの進行役で道化を演じる「ミスター伊達男」が、映画の終盤で「ここの出し物は、俺のグロな芝居が欠かせないと思う」と、謙遜しながらも誇りをもって語るところが良かった。フィルム・ノワールどころか、底辺のショービジネスの美学を語るような、風変わりな映画になっている。


主人公は殺人を請け負った際、腹に銃弾をくらって、なんとそのまま治療もせずに数日間あちこち忙しく歩き回って、映画のラストでは劇場に来た観客たちに挨拶する。
T640_863709_20200712233801
一応、腹のあたりから赤い血(というか、明らかに赤いペンキ)が垂れてはいるのだが、瀕死の重傷というのは比喩的な意味であって、そういうリアリティのアバウトさ、出鱈目さはヌーヴェル・ヴァーグっぽい。ラフな、ドキュメンタリックなカメラワークもヌーヴェル・ヴァーグゆずりだ。

さて、上の挨拶のシーンで、主人公は無愛想なバーテンダーやウェイトレスたちを、初めて観客に紹介する。ウェイトレスたちがまた可愛くて、衣装がウェスタン調に統一されている。決して上品ではないのだが、主人公があれこれ考えて決めたんだろうなあ……と、映画が終わる頃には、すっかり共感できるほどになっている。
俳優でもあったカサヴェテス流の、エンタメ論なんだろうな。犯罪映画としての内実を脚本的にも演出的にも破壊して、人間臭さだけ残した。ラフなカメラワークが、温かみをかもす。


さて、ラブドールと性加害の関連性は否定できない、その関連性を疑問視する我々を「性加害応援団」と呼んだ大貫憲介弁護士。
Screenshot_20200603101643
大貫弁護士の所属する第二東京弁護士会あてに、懲戒請求を行いました。結果次第では、大貫弁護士を告訴します。
最初は、編集者を通じて、取材を申し込んでいたんです。それが最初は返事がなくて、さらに追及してもらったら「コロナで溜まっていた仕事があって、忙しいので」と断られたそうです。せっかく弁明の機会を与えたのに、まあ、しょうがないね。

北区都議補選で、アベノマスクをブラジャーにした選挙ポスターを「女性を差別し続け性的に消費し続ける」という宣言と勝手に受け取って、ハッシュタグまで作って自分より若い女性候補を追い詰めた池内さおりさんも同じく。事務所に取材を申し込んだが、何の理由もなく「遠慮します」との返事
あのね、Twitterで他人を蔑む人って、結局は公の場に出てこない。組織に囲われている卑怯者。おいおい、池内さおりさんは「ヘイトスピーチ許さず」「加害の事実に向き合う」とプロフに書いてるよな? じゃあ、向き合えよ。臆病者。組織にかばってもらって、恥ずかしくないのかよ。ひとりの人間としての誇りはないのか?
アベノマスクブラの件で、しんどうかな候補が演説中に泣いたり、配信で「身の危険を感じる」とまで言っていたのは誰のせいだ? あれだけ責め立てておいて、後はだんまりか? 何が加害の事実と向き合うだ、表面ばかりカッコつけたハリボテの偽善者が。

しかし、大貫弁護士に対しても、池内さおりさんに対しても、俺は頭ごなしに罵倒しようなんて気はないですよ。そこまで失礼はしない。ここではヒートアップしてしまったが、最低限の礼儀は尽くしたうえで、話を聞きたい。別に、人間に幻滅してもいないので。
なぜ意見の違う他人を「性加害応援団」なんて罵倒するのか、合法である選挙ポスターをつぶすためネットや組織力を使うのか、それを落ち着いて聞きたい。まずは、相手の言い分をじっくりと聞く。思想がどうであれ、会って話せば意外と悪い人ではなかった……という経験が、過去にたくさんあるから。
漫画の規制に賛成していた土屋正忠・元衆議院議員、公開討論では話が折り合わなかったけど、別に喧嘩別れはしてない。「声かけてくれて、ありがとうね」という感じだったんです。堂々と、批判覚悟で出てくるということは、僕も相手も同じぐらいリスクを背負っているので、恨みっこなしなんです。少なくとも、敵ではない。こそこそと逃げ回るヤツ、責任転嫁するヤツ、組織を隠れ蓑にして力だけ行使するヤツラを、全身で軽蔑する。
でも、だからといってハッシュタグを流布させて、数の力で相手を追い詰めようなんて卑怯なことは考えないわけ。俺は堂々と、自分の足で立っていたいから。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧