2017年6月25日 (日)

■0625■

月刊モデルグラフィックス 2017年8月号 発売中
Dc_wbfavyaaipdg●序文「HGUCバーザムが逆照射する、ガンプラという文化」執筆
●インタビュー「バーザム語り場外乱闘!」構成

後者は、超音速備忘録()のからぱた氏に登場してもらいました。「作例を載せました」「開発者にもインタビューしました」だけでは、バーザムが発売されたことの事件性を証明することはできないように思ったので、「ガンプラ(ロボット・キャラクターの組み立てキット)を作るとは、そもそもどういう体験なのか」、語ってもらいました。
結果、特集全体を裏から有機的に貼り合わせる、接着剤のような役割を果たしてくれたと思います。

●組まず語り症候群 第56夜
今回はASUKA MODELの1/24カーモデル用アクセサリー、三種類を取り上げています。


【懐かしアニメ回顧録第31回】“見る”ことと“聞く”ことで深化する「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」の世界
この土日は、アキバ総研に記事が大量にアップされますが、このコラムだけは、ぜひ読んでください。
カットワークや構図については、ほぼまったく触れていません。アニメーションに映されているものは、実写の被写体とは質が異なるので、カットワークや構図の効果については慎重になるべきでしょう。

その代わり、誰が何を見たり聞いたりしたのか、脚本レベルのことを検証しています。
アル少年がビデオカメラでガンダムの秘密に触れ、それが物語の序盤を牽引していることは、誰にでも分かると思います。
終盤でも、やはりビデオカメラが重要な小道具となります。アル少年のビデオカメラで撮られたバーニィの遺言を、われわれは“アル少年の代わりに”直視して、バーニィの死がいかに無駄であったか、そうとは知らずに彼がどれほど真摯に戦いにおもむいたのかを眼前に叩きつけられて、呆然とするわけです。
だから、アル少年にとっての戦争は、ポケットに入るほど小さなビデオカメラの中に秘められている。
あるいは、ビデオカメラが「戦場」への入り口と出口の役割を果たしている……という受けとり方もできるでしょう。

ただ、僕は空港で酔った女が恋人に電話するシーンに触れたかったので、バーニィは「聞く」ことで主体性を獲得する、という読み方をしました。
すると、アル少年が物語の終わり近くで「見る」よりも「聞く」ことが多くなっている、バーニィから「聞く」ことを求められているのではないか……こういう仮説が立てられなくもないはずです。(ビデオカメラの重要度は変わらないので、もちろん反論もあるでしょう。)


一年戦争を舞台にした『ガンダム』シリーズは、『ポケットの中の戦争』から9年後に発売されたゲームソフト『ギレンの野望』によって、物語ではなくキャラクターやメカニックを集積したデータベースとして整理されました。正確には、ゲームより以前、プラモデル化によってモビルスーツはデータベース化されています(商品化に際して、リファインされたモビルスーツには新たな形式番号が与えられます)。

『ガンダム』にかぎらず、アニメ作品は好みのキャラクターを検索するためのデータベースとして重宝されているような気がします。二次創作を楽しむためには、物語よりもシチュエーションが大事なはずです。
だから、物語や演出を批評・評論する機会が減るのは、必然なのでしょう。だとしたら、データベースとしていかに優れているか……という批評のかたちがあってもいいような気がします。


昨日土曜は、タミヤファクトリー新橋まで、トークショーを見学に。
Kimg01581/6スケールのオートバイ・キット「Honda CRF1000L アフリカツイン」の実車とキット、双方の担当者が出席。
モータージャーナリストの方が、オートバイに試乗するためにアフリカまで行ったとか、とにかくスケールが違うんだよな……そういう世界の模型、ミニチュアを組み立てることってどういう体験なんだろう? という興味が生じて、ついつい、買うつもりのなかった1/6アフリカツインを購入。

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2017年6月16日 (金)

■0616■

EX大衆 7月号 発売中
Dcq_rpixkaa8x8m●富野由悠季インタビュー! サンライズ栄光の全史
編集部の立てた企画で、「サンライズのロボットアニメを全7ページで特集してほしい、冒頭はカラー」との依頼。
担当編集と熟考しつつ、僕からはサンライズのライツ事業部に「なにか要望があるなら、先に言ってください」と連絡。結果、冒頭は『機動戦士ガンダム Twilight AXIS』のモビルスーツ紹介と金世俊監督のミニインタビューとなりました。
さらに担当編集が交渉して、富野由悠季監督インタビューが実現しました。サンライズからは『無敵超人ザンボット3』を中心に……と、各所の希望を調整した結果、なかなか厚みのある特集となり、読者からの評判もいいようです。


さて、Twitterは漫画家に警察が「申し入れ」を行ったという話題でもちきりです。
漫画家・クジラックス先生、警察の「申し入れ」報道についてあらためて説明 「前例ができたと思ってほしくない」

作家がどう思おうが、前例ができてしまったことは間違いありません。
自分の取材した範囲でいうと、映画倫理委員会(映倫)は、警察が映画館に乗り込んできたり、映画監督をいきなり検挙するような事態が起きないよう、防波堤の役割を果たしています(もっとも、権力の介入をおそれるあまり、表現を萎縮させている面も大いにあります)。
漫画家の場合、そのような防波堤がないため、予告なしに警官が自宅を訪問する事態になったのだと思います。


どうにも気になるのは、クジラックスという方が「たいしたことではない」となだめるような態度をとっていることです。
人がオタクになったり、漫画やアニメを愛好するようになる理由には、いろいろなバックボーンがあると思います。しかし概して、遵法意識の強い保守的な人が多いように見受けられます。嵐が通りすぎるまで知らんぷりをする、事なかれ主義ですよね。
漫画に比べて、アニメやフィギュアの世界で表現規制に興味をもつ人が少ない(というより皆無に等しい)のも、事なかれ主義のあらわれだと、僕は思っています。

「やられっぱなしで、くやしくないわけ?」と思うんです。
僕は漫画よりもアニメに思い入れた中高校生でしたが、当時は体育の時間が涙がでるほど屈辱的で、人付き合いが苦手なので友だちもできづらく、本当に日々が苦しかった。「廣田って、アニメの話をするとき以外、暗いよな」と聞こえるように言われても、ただ黙っているしかなかった。
そういうマイナスの経験があったから、力の強い人間たちに一方的に蹂躙されるのは二度とごめんなのです。自由を、自尊心を死守したいわけです。

だけど、僕と同じような人生観のオタクって少ないみたい。嵐がすぎるまでおとなしく待つ人のほうが多いようで、廣田は過激で好戦的だと見なされているんでしょうね。
うろ覚えだけど、大学時代に読んだ『第二の性』に、こんな意味のことが書いてあった。「自らの怒りを大地に刻みつけられないことは、おそるべき失意である」。
どんどん声に出していかないと、失意のまま人生が終ってしまう。負けっぱなしの人生はイヤだよな、巻き返したいよな……と、今はこんな程度のことしか言えません。
この事件は社会の問題でもあるけど、個人の生き方が問われているようにも感じるのです。

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2017年6月10日 (土)

■0610■

Febri Vol.42 12日発売
Db3hjnkuwaecq6u●Febri Art Style
今回は『神撃のバハムート VIRGIN SOUL』の背景美術にスポットを当てました。
もちろん作品が面白いから取り上げさせていただいたのですけど、前作でムック本を担当したとき、美術監督の中村豪希さんのインタビューが、演出面にまで踏み込んでいて、とても面白かったので。
元・小林プロの美監さんたちは、主張がしっかりしています。次は何を手がけるのか、いつもマークしています。


NHK クローズアップ現代 2兆円↑アニメ産業 加速する“ブラック労働”(
入江泰浩さんが最後に仰った、「NHKさんを含むテレビ局にお願いしたいことなのですが、コンテンツとして今後もアニメーションをつくることが決まっているのであれば、制作費を倍にして、さらにアニメーターが安心して創ることができる、そういう環境をつくっていただきたいと強く思います」、これに尽きるのかも知れない。
だって、『3月のライオン』は製作委員会方式で、NHKも名を連ねているものね。当事者ですよ。番組としては「コンピューターの導入による現場作業の効率化」に話をそらしていたけど、入江さんが話を軌道修正してくれた。

入江さんには、アニメに加えられる表現規制について、月刊「創」でお話をうかがったことがある。だから、アニメと社会のかかわりに関心の高い方だとは思っていた。
Twitterを検索すると、現役アニメーターの方たちが現場環境について、さまざまに発言なさっている。この問題をアニメ業界に取材して生活費を得ている僕らがスルーするのは、恥ずかしいことだと思う。

「スルーしてるんじゃなくて、難しいデリケートな問題だから、うかつな発言を控えているのだ」と仰るだろうけど、こういうのは性格の問題だろう。社会と対峙するには勇気が必要だけど、勇気にもいろいろな種類がある。


たとえば、都議選に出馬予定の女性に「日本のアニメでは下品なロリコンポルノが一般的に流通している」などと言われてしまうのは、アニメ業界にもその周辺にも、表現規制に反対する人が、ほとんどいないから。敏感に察知して行動に移している人は、兼光ダニエル真さんぐらいじゃない?
漫画業界には、論客が多い。だから、おいそれと漫画文化を叩けないムードが形成されている。発言するって大事なんですよ。

アニメ業界の次にボコられがちなのが、フィギュア業界だと僕は思うんです。やっぱり、「児童ポルノ」呼ばわりされたとき、業界内に立ち上がる人がいなかったから。僕の署名には、模型雑誌の編集者が名を連ねてくれたけど、メーカーは黙ったままでしたよね。それで、叩きやすいムードが生まれてしまった。
『コップのカドでグリ美ちゃん』が販売されたとき、僕はゲームセンターやコンビニの店頭からは撤去してもらうよう、電話やメールでお願いした。「売るな」「作るな」ではなく、むしろ今後も自由にフィギュアを売ったり作ったりするためには、「ここは我慢するから、ここは見逃してくれ」と調整していくしかない。反対意見を「論破する」なんて硬直した態度では、いまの社会に聞いてもらえないと思う。


児童ポルノ規正法で容疑者が書類送検されたとき、愛宕警察署が押収したフィギュアを並べたときも、「どんなに少なくてもいい」と開き直って、署名を集めた。
「フィギュア・ファンにはうるさい連中がいて、うかつに叩けないぞ」というムードをつくることが第一。そのためには、業界に近い誰かが動いた証拠を残すしかない。

話をアニメ業界に戻すと、入江さんが番組中で「制作会社もアニメーターも、交渉することに慣れていない」とおっしゃっていたでしょ? 確かに、「業界独特の学生気分のような雰囲気が好きで」という監督さんもいるし、「とにかく現場が楽しかった」という話は、本当によく出てきます。その仲間同士で楽しくやっている一種の“緩さ”につけこまれているのかも知れないけど、僕は、現場の面白さ、良さを伝えていきたいと思っている。別に、問題提起したいわけじゃないんですよ。
「やっぱりアニメは面白いよな」「プラモデルは面白いよな」と思う人が増えなければ、僕の仕事だって存在価値を失うわけだし、それよりも何よりも、世の中を柔らかくしたい。
この前も書いたように、僕は体育の時間に恥をかかされて、いまだに対人恐怖が治っていない。そういう人を増やしたくないわけ。アニメやフィギュアが息抜き、あるいは生きがい……という人たちにとって、生きやすい世の中になってほしいってだけなんです。

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2017年6月 8日 (木)

■0608 「すべてのプラモデルは接着剤によって平等に組み立てられる権利を持つ」■

Goods Press 7月号 発売中
Goodspress1707_509x720●いま再びの模型魂
戦車プラモの全8ページ、静岡ホビーショーの『スター・ウォーズ』コーナー、担当させていただきました。
戦車プラモの記事では『ガールズ&パンツァー』シリーズについてプラッツの二神泰徳さん、フィギュアについてイエローサブマリン秋葉原本店★ミントの詫摩詠規さんにインタビューさせていただきました。

Goods Pressさんのプラモデル特集を手伝うのは昨年のミリタリーモデル特集につづいて二度目なので、今回も特集全体の構成を見せていただき、マックスファクトリーの高久裕輝さんにアドバイスをいただきました。高久さんも、タミヤのF-14のレビューを書いています。


とは言え、誌名どおり「グッズ」としてのプラモデルに迫っているかというと、半分はカタログ、もう半分は塗装やディテールアップなどのハウトゥです。
だけど、プラモデルは、ディテールアップしなくてもプラモデルです。塗装しなくてもプラモデルです。作らなくても、棚に並んでいるだけでもプラモデルです。当たり前すぎて、専門誌ですら「商品」「グッズ」としてのプラモデルに肉薄できないでいるのです。

「プラモデルが上手い」という場合、たいてい「プラモデルに色を塗るのが上手い」「プラモデルを加工するのが上手い」ことを指します。
僕だって、「これは命を削って作ってるなあ……」「もはやプラモというより“作品”だよなあ……」と、呆然と見とれることはしょっちゅうです。
その一方で、塗装も加工もしない、箱の中の材料を接着剤で貼り合わせただけの、誰の目の前にも確実に、平等に現れる「プラモデルの原初の姿」は、忘れられがちです。

「色も塗ってないようなプラモデルなんて、未完成」なのでしょうか? とんでもない、メーカーはありったけの工夫を盛り込んで、「商品として完成させて」キットを世の中に送り出しているはずです。
いやもちろん、ありったけの工夫どころか、盛大に手を抜いたキットもありますよ? 説明図を見ても、形にならないキットもありますよ? そんなキットには価値がない? だけど、“幻の名盤解放同盟”のスローガンに倣って言えば、「すべてのプラモデルは接着剤によって平等に組み立てられる権利を持つ」のです。 


今日、秋葉原での取材の帰り、ヨドバシカメラの模型売り場で40分ほど悩んで、レヴェルの自動車のキットを買いました。「LEVEL 4」なら、前に作った「LEVEL 3」よりは凝ってるだろうと思って。
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別に、車に詳しいわけじゃないんです。車のプラモデルを、出来るだけ多く組みたい。バイクでもいいし、艦船もあまり組んだことないし、もう何でもいいんです。知らないメーカーでも、知ってるメーカーでも。すべてのプラモデルは、平等だから。
模型売り場で、「予算3,000円以下で」「戦車はこのまえ作ったから、飛行機で」と条件を決めて、あれこれ悩んで選ぶのが楽しい。
メーカーが、僕のような通りすがりの手ぶらの客に、何を体験させてくれるのか。そこに興味がある。

「ちょっと手を加えるだけで、脱ビギナー!」などの記事は、プラモデルを「塗ったり」「加工したり」することを前提にしている、「いずれは上達すべき」という縦軸の価値観から出てくるのだと思います。
縦軸が悪いわけではなく、横軸やナナメ軸の価値観もあるような気がするぞって話です。

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2017年5月29日 (月)

■0529■

アニメ業界ウォッチング第33回:吉田健一が語る「キャラクターデザイン」に求められる能力
T640_728722吉田さんとは『Gのレコンギスタ』のパンフレットとムックで、二度お会いしただけです。だけど、Twitterのダイレクトメールでちょっとやりとりしたこと、また舘野仁美さん、安藤雅司さんのお2人がそれぞれ吉田さんのお話をされていたので、いい頃合だと思い、取材をお願いしました。

結果、思いがけず、『君の名は。』評をお聞きすることができました。“「君の名は。」の作画は、2時間見ていても疲れない”……これは線が少ないとか、形をディフォルメして単純化してあるという意味ではないと思います。
たとえば、『ドラえもん』の劇場アニメは、(作品によりますが)動画の線を途切れさせて情報量を増やしています。テレビのシンプルな絵のまま、2時間見せられたら、それこそ疲れるんじゃないでしょうか。映画として見せるのに適切な情報量を、探っていると思うんです。

『この世界の片隅に』は、片渕須直監督ご自身が、かなり初期から作画のタイミングについて語っておられたので、動きが評価対象になっていたように思います。『君の名は。』の作画については、どうでしょう? 僕は試写を見て、作監の安藤雅司さんにインタビューしたきり、ぜんぶ分かった気になっていました。


吉田さんの“「君の名は。」の作画は、2時間見ていても疲れない”という指摘でピンと来たのは、僕が実写映画とアニメ映画とをレンタルしてきたら、「アニメ映画のほうが楽に見られるな」と、無意識に比較していることです。

仮に退屈したとしても、実写で退屈させられるほどの拷問ではないだろうとタカをくくってしまいます。なんというか、アニメで退屈したとしても、実写映画とは退屈さの質が違うような気がします。
アニメ映画は、脚本や構図やカッティングなど、劇映画から大枠を借りているので、ついつい劇映画の論法を借りて批評しがちです。それが罠であるような気がしてきました。
大枠を借りてきているだけで、成り立ちはぜんぜん違います。批評のしかたも異なって然るべきではないでしょうか?

「映画秘宝EX 劇場アニメの新時代」の安藤雅司さんのインタビューを読んでほしいのですが、アニメでは「普通の女の子」でも、つい可愛く描いてしまう。だから、安藤さんは『思い出のマーニー』では脚本に介入して、セリフで説明してもいいから、その子のマイナス要素を足してあげたんだそうです。脚本で工夫したうえで絵にして、ようやく「普通の女の子」になるのではないか、ということを作画監督が考えている。
同じ脚本で実写映画を撮ると、ちぐはぐな結果になる。そういう方向性の差異を考慮しなくていいのかな……と考えてしまいます。どっちの表現が上とか下とかいう話ではなく。


大学時代、名前は忘れてしまったけど、「映画は、どこからどこまでが映画なのか」「何をもって映画と定義づけるのか」考える授業があって、僕はその授業だけはノリノリで聞いていました。映画のDVDは、ただの記録媒体であって、映画ではない。映画を「これが映画だよ」と手渡すことは出来ない。
あの授業を、まだひとりでやり続けているような気がします。

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2017年5月22日 (月)

■0522■

ホビー業界インサイド第23回:美少女フィギュアか伝統工芸か? 永島信也が彫る“美少女根付”は、どこへ向かう?
T640_728241初めて永島さんの作品を見たのがどこだったのか、もう覚えていません。だけど、インタビューだけはさせていただきたいと、ずっと思ってきました。
羊毛フェルトを材料に使う土方クロネさんもそうでしたが、こういう方たちを「フィギュア」作家として認識したいと、つねづね思っています。「フィギュア」の概念って、もっと広いんじゃないかなあ……と。


レンタルで、ヒッチコック監督の『泥棒成金』。
Sub_largeこんなチャーミングな映画を観てなかったことを、誠に恥だと思う。義務感でヒッチコックの映画を観はじめたのだが、この作品のロマンス、サスペンス、ユーモアのさじ加減には、すっかり魅了された。
ただ、それでも僕はカメラワーク、特に構図の話をしたい。

ケーリー・グラントの演じる「猫」とあだ名される元・宝石泥棒が、ふたたび盗みを働きはじめたと警察に誤解され、やむなく逃亡をつづける。逃げる途中、グレース・ケリーの演じる美しい富豪の娘と知り合う。その娘は強気な性格で、自分の知り合った男性が「猫」だと見抜いている。飄々と追求をかわしていた「猫」は、彼女の強引な誘いに乗せられて、どんどんペースを崩していく。その過程が、ロマンチックで素晴らしいわけです。
さて、ケーリー・グラントの「猫」は、映画の前半では、画面の左側に立っている。歩くとしたら、画面左から右へと歩く。窓の外を見るとしたら、左側に立ち、右下を見る。
誰かと話すシーンでは、いくつかの例外を除いて、「猫」が左側、もうひとりが右側に立っている。

このルールが、娘と出会うあたりから、崩れはじめる。
娘は母親を含めた4人で会話するが、彼女はまず、「猫」が占有していたはずの画面左側のポジションを奪う。彼よりも、娘のほうが左側に座っているのだ。
次に、娘は「猫」を海水浴に誘うため、彼を部屋に呼びつける。そのシーンでは「猫」が画面右側に立っており、娘が画面左側から悠然と歩いてくる。
つまり、娘がペースを握りはじめると、彼女は画面左側を支配するようになる。それまで画面左側に落ち着いていた「猫」は、強気な娘に定位置を奪われてしまった……と考えると、この構図の逆転に説明がつく。


もうちょっと、分かりやすい例をあげよう。
「猫」は、真犯人をつきとめるべく、単身で行動を開始しはじめる。だが、彼の正体を知っている娘は、「猫」を待ち構えていて、強引に運転手役を申し出る。車もお弁当も用意してあるからと、「猫」を説き伏せる。
そのシーンでは、「猫」が左側、娘が右側だ。しかし、あまりに強引な娘の申し出に「猫」が折れると、娘はヒョイと「猫」を追いこして、画面左側に移動するのだ。それはつまり、主客転倒した、娘が主導権を握った……という意味にならないだろうか?

そして、娘がハンドルを握った車は、画面右から左へと疾走する。冒頭、「猫」の車が警察の車を振り切ったときには、画面左から右へと走っていたのに、完全に逆方向となる。
Catch_a_thief_photo僕の分析は早急すぎて雑とは思うが、主人公の立つ位置や向かう方向が、映画の前半と後半で逆転しているのは偶然なのだろうか? 「どっちでもいい」「どっちに立とうが向かおうが、面白さに変わりはない」んでしょうか? だとしたら、「構図」って何のためにあるんですか?

俺は、構図やカッティングに「ぞわっ」と来る人間なので、その真意や秘密に気づかぬまま死んでいくのは、まっぴらごめんなのです。
だから、つねに敏感でありたいし、考えることをやめたくない。

(C)1954 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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2017年5月 5日 (金)

■0505■

【懐かしアニメ回顧録第30回】躍動的な「破裏拳ポリマー」の世界と、視聴者とを媒介する“動けないキャラクター”
Nbc11すべての秘密を知っていながら、作中人物にそれを教えることのできないキャラクターは、テレビの中に入れない視聴者に、最も近い存在なのではないでしょうか?

だするなら、『破裏拳ポリマー』では“男爵”というセントバーナード犬に着目する必要があります。“男爵”だけがポリマーの正体を知っているのですが、それを誰も伝えることができません。
自由自在に動き回れるスーパーヒーローは、実は視聴者からもっとも遠いところに位置しているため、作劇上の工夫なくして、感情移入させることは不可能なのです。


レンタルで黒澤明監督『どですかでん』。
10010418_h_pc_l中学のころにテレビで観て、「黒澤明はカラーで撮るようになってからダメになった」という俗説を信じこみ、それで分かった気になっていた。いま観なおすと、色の使い方は前衛的かつ野心的で、創造する喜びに満ちている。

仲のいい2人の日雇い労働者が、それぞれ赤と黄色の服を身に着けている。彼らの手にする小道具、家の外装、内装、すべて赤と黄色にパッキリと塗り分けられている。中盤から、2人は妻を交換して暮らしはじめるので、一見して判別できる目印がなければいけない。2人を一瞬で見分けるために、赤と黄色の衣装が機能する。
後半、妻を田中邦衛(赤い衣装)にゆずったはずの井川比佐志(黄色い衣装)が酔っ払って、自分の家(黄色い家)に帰ってきてしまう。家の中は、ほとんどの小物が黄色で占められている。その黄色い家へ、赤と紺の衣装を着た田中邦衛が入ってくる。
すると、ちゃぶ台の代わりに使われていた道路標識が倒れて、画面左側に大きく映りこむ。「止まれ」と書かれたその標識だけ、赤と紺で塗られている。つまり、画面左側に位置する田中邦衛と道路標識だけが、赤と紺なのだ。そして、彼は黄色い家を出て、赤く塗られた自分の家へ戻っていく――この配色や位置関係は、はたして偶然なのだろうか?

誰が何色の服を着ているか……それは、ディテールに過ぎないのだろうか? 灰皿や洗面器が、黄色と赤に塗り分けられていることは、映画の本筋と無関係なのだろうか?
セリフに振り回されていないか、警戒したほうがいい。たとえセリフがまったく聞こえなくとも、田中邦衛と井川比佐志が家と妻とを交換したことは、(色分けしたおかげで)絶対に誰にでも分かるように組み立てられている。セリフではなく「画面」が関係性を提示し、画面と画面の連なりや衝突がストーリーを構築していく。その刺激的なプロセスを、『どですかでん』では目撃することができる。


しかし、何よりも圧倒されたのは、たくさんの男と寝てきた女(楠侑子)が、大きな腹を抱えながら悠然と歩くシーンだ。
楠が戸口から外に出ると、道端で働いていた男たちが立ち上がり、彼女の後を追う。カメラは楠の歩調にあわせて、ゆっくりと移動しながら、彼女を正面にとらえている。そこへ、別の男たちが右側からフレームイン、左側からフレームインし、次々と彼女に声をかけたり、体に手を回したりする。そのたび、楠は手で払いのけたり、無視したりする。
楠が「縦の動き」をしているなら、男たちは「横の動き」をしていると言える。また、ひとりで歩く楠が「個」なら、男たちは「群」。楠が「静」なら、男たちは「動」。いくつもの対比がぶつかりあい、また調和しながら、この力強いカットを編み上げている。

この映画は、あらゆる対比で占められている。仕事している者の奥には、なまけて酒を飲んでいる者がいる。平坦な道の左右には、うずたかく瓦礫が積まれている。その鮮やかな構図に、黒澤明なりの「世界の把握の仕方」を見てとることが出来る。
そのような豊かで生き生きと機能しているカット、構図、動きに出会うことが、映画を観る目的だ。誰もがストーリーが、あらすじが、テーマが……と言いすぎる。
まずは、何が映っているのか、どう撮られているのか、色眼鏡を外して見つめることだ。カメラの動き、俳優の動きは「ディテール」なのだろうか? ストーリーが、映画の「本質」なのだろうか? 自分が何に感動しているのか、立ち止まり、振り返って、よく確かめてほしい。

(C) 1970 TOHO CO., LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2017年4月29日 (土)

■0429■

ホビージャパンエクストラ 2017spring 発売中
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●バンダイ『スター・ウォーズ』ビークルモデル
●バンダイ『ファインディング・ドリー』クラフトキット
●マックスファクトリー、コトブキヤ、バンダイ、各社の美少女プラモデル
上記のレビューというか、それぞれ「どこか商品として面白いのか、特筆すべきか」分かりやすく書きました。
昨年出た「模型のホメかた。」同様、作例だとか作り方だとかは載っていません。組み立て前のランナー、組み立て途中、塗装していない素組みが、美しく大きな画像で掲載されています。
果ては、説明書とデカールの写真が見開きで載っていて、パーツすら映っていないページもあります。その記事では、キットの説明書のどこがどう優れているのか、何の知識もない人にも分かるよう、丁寧に書いてあります。説明書がなくては誰もプラモデルを組み立てることは出来ないので無視するほうがどうかしているし、記事は「しかし、果たして説明書どおりに組み立てている人はいるのだろうか?」という視点から書かれています。

ようするに、プラモデル・メーカーが「ここをセールスポイントにしたいので、ここを見てください」とアピールしたい点は、ほとんど見ていない。書き手が「ここが凄い」と主体的に感じた部分を、真摯に書く。正攻法のアプローチで、プラモデルという商材の魅力を炙り出しています。
商業媒体のレビュー記事は、だいたいメーカーのアピールしたいポイントだけを列挙してますよね。そして、メーカーの言うことをおとなしく聞くのがライターの仕事だと言わんばかりに、コピペのような記事を量産している人もいます。「います」というか、大多数です。
しかし、僕は知っています。「プラモデルは、もっと面白い!」「メーカーが意図している以上に面白い!」 そんな当たり前のことを、商業媒体は外部に届く言葉で発信してこなかったと思うのですよ。


僕は、自分でキャンプをしたり山登りしたりするわけでもないのに、アウトドア用品の雑誌を買うことがあります。それは単に、文章に豆知識のような面白さが込められていたり、写真やレイアウトが魅力的だからです。アウトドア趣味のない僕にも、ストレートに届くものがある。僕からすれば、雑誌として面白くて美しくさえあれば、アウトドアでも料理でも、何でもいいのかも知れません。ファッション誌もスニーカーの雑誌も、服や靴は買わないけど、眺めていて楽しいから見るわけです。
そういう自由な場所に、模型雑誌は立てていないような気がするのです。表紙に超絶テクニックで工作・塗装された作例が載っていても、そのプラモデルが何をモチーフにしているのか知らないと価値が分からない。そもそも「これはプラモデルです」と書かないと、実車や実機と区別がつかない場合も多い(だから、号によってはカー雑誌の棚に入れられてしまう……)。

それは「本物そっくりに組み立てて仕上げなければ、プラモデルに価値はない」という思い込みに、模型雑誌が数十年ほど縛られてきたためです。だから、外部から来た人に「こんな大変なの、僕には作れない」と敬遠されてしまう。
どんなに大変でも、塗装や工作に面白さを見出した人は、トライするんです。情報がなければ探すんです。エアブラシも試してみたいから買いもするし、練習もします。
だけど、塗装や追加工作は、プラモデルの魅力の一側面にすぎないと思います。
たとえば、あるプラモデル・シリーズの「箱の数字をそろえる」ためだけに、えんえんと買い集めている人がいます。その楽しみ方は間違っているのでしょうか? 「数字をそろえることが面白い」という人に向かって「とにかく作れ! 作るからには塗れ!」と頭ごなしにルールを押しつけ、無理やりレースに参加させてきたのが我々だったのではないでしょうか。


だけど、僕は知っています。プラモデルは「次に何を買おうかな」と考えるだけで、すでに面白い。パーツが多いキットにしようか、たまには大きなものを組み立ててみようか、飛行機にしようか船にしようか、あのメーカーのキットはまだ組んだことがないぞ……と検討するだけで、最高に楽しい。
ヤフオクで単に「プラモデル」と入力して検索し、無造作に羅列され、詰めあわされたプラモデルの写真を見るだけでも面白い。プラモデルマニアが出品しているわけではないので、年代も種類もバラバラなんですよ。こうして書いてるだけで、もうワクワクしてきます。
こういう気持ちになっている僕に向かって、あなたは「ちゃんと色を塗れ」「合わせ目を消せ」と強いるのでしょうか。もうそういうのは飽きたし、好きにやらせてくれってのはナシですか? 「作れない言い訳はやめろ」とでも言うのですか?
たまに、そうした脅迫的空気を感じることがあります。「パーツ数の少ないものから作るといいですよ」と、求めてもいないアドバイスをくらったりもします。塗装や工作の上達を目指すのは、価値観のひとつにすぎないのに、アドバイスした本人は、それだけがプラモデル趣味の楽しみ方だと固く信じているかのようです。

けれども、僕は知っています。買うだけ、選ぶだけでプラモデルは面白い。色を塗らず、メーカーが苦しまぎれに選択した成形色で、へんな配色の完成品になったとしても、むしろそのほうが面白い。そして、「塗るのが楽しみ」だという人に、「塗るな」とは僕は言いません。
今号のホビージャパンエクストラだって、塗装を前提にした評価も載っています。
だけど、最終的に塗るのか、組み上げるのか、そもそも買うのかどうかは別問題なのです。僕が、山登りしないのにアウトドア用品の雑誌を見るのと同じことです。誰かから「見てばかりいないで、ちゃんと山登りしろ!」と怒られたりはしないわけです。いきなり、「初心者はこの山に登るといいですよ」などとアドバイスを投げつけられたりもしないのです。

そういう当たり前の自由さを、プラモデルの世界に広げてあげたっていいじゃないか。
途中で投げ出しても、そもそも買わずに眺めているだけでもいいんじゃないの? 「次は、これ買うぞ!」「あれがプラモデルになったら……」と夢想するだけで面白いって、すごい趣味じゃないですか。みんなで上達だけを目標にした窮屈な世界にしてないか、立ち止まって考えてみてほしいと、たまに思います。

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2017年4月25日 (火)

■0425■

月刊モデルグラフィックス2017年6月号 発売中
0000000033332●組まず語り症候群 第54夜
今月は、ゲームズワークショップの「SPIRIT HOST」というプラ製ミニチュアです。
ゲームズワークショップさんのミニチュアを取り上げるのは2年半ぶり、二度目なのですが、あまりこの連載は読まれてないので、新しいプラモデルの形態を紹介するには、適していないのかも知れません。先月の「ハコルーム」も、あまり認識されていないのでは……。


レンタルで、黒澤明監督の『影武者』。
武田信玄亡き後、彼とそっくりの盗人が影武者に仕立てあげられ、屋敷で暮らしはじめる。
Detail_25_main映画がなかばを過ぎたころである。影武者は、信玄の側室二人に左右から囲まれて、酒を飲んでいる。「どうだ、最近のわしは顔が変わっただろう?」と、影武者が二人に聞く。「お顔は変わりませんが、お声が変わりました」「そう言われてみれば、お顔も少し……」と、側室が左右から影武者の顔をのぞきこむ。自分から問いかけておいて、影武者は正体がバレるのではないかと焦りはじめる。
このシーンをどう撮っているかというと……

●真正面から影武者のバストショット。
●右から影武者と側室のロングショット(上の画像)。
●左から影武者と側室のロングショット。

この三方向のカメラから、側室に囲まれた影武者を撮っている。左右から、同じサイズで人物を撮って、会話の途中で、頻繁にカットを切り替える。すると視点が複数になり、影武者が「左右から交互に見られている」ように感じる。ひとつひとつのカットは安定した構図で、ごく当たり前の落ち着いた画である(上記画像のとおり)。
しかし、左右から撮った画を交互に繋ぐと、せわしない動きと時間が加わり、「焦り」が生じる。

ウソだと思ったら、このシーンだけでも見てほしい。信玄をよく知る側室に左右をふさがれ、さらに左右からカメラで撮られることで、影武者の「正体がバレてしまうのではないか?」という焦り、居住まいの悪さが、映画に芽生えはじめる。映像として物理的に捉えることのできない感情を、構図と編集だけで可視化している。


「もはや、ここまで」と腹をくくった影武者は、「わしは信玄の影武者なのだ」と側室たちに明かす。だが、側室たちは信じない。「おたわむれを……」と笑いだす。「いや、本当だ。わしは雇われただけなのだ」と繰り返す影武者だが、やがて側室たちと一緒に笑いだす。
僕は、このシーンを二度見て、二度泣いた。映画の機械的原理(構図とカット)と文学的な描写(セリフと演技)が見事に連携して、十全に「感情」を表現していることに、心打たれた。

なにも、登場人物に共感するから泣くとはかぎらない。表現が、そのメカニズムを十分に生かしている瞬間、人間の知恵と工夫の素晴らしさに感動することがある。芸術を味わうとは、こういう瞬間を言うのではないだろうか。
多くの感動は、おそらく表面に露出した「機能」によって喚起されている。だのに、僕たちは「表層」を見ようとしない。「表層」を無視して、いきなりテーマやストーリーに触れたがる。抽象的な感想を語ることを「答え」だと思っている。小学校で、頭の悪い教師たちから刷り込まれた態度を、何十年も改めようとしない。感覚が鈍磨していることに気づかない。大人になっても勉強しなければ、感覚など鈍って当然だ。

怠惰なくせに、他人の「頭の良さ」には敏感で、嫉妬深い。「努力など無意味」「恵まれているのは一部の天才だけ」と安易なニヒリズムに陥っている。僕らは、手に負えない、救うに値しない矮小な獣に育てられた。
だから、灰色の学校を抜け出して、映画を見る必要があった。暗闇で、得たいの知れないものたちに対峙する必要があった。
曇りのない本当の答えは、汗と泥の中に埋もれていたんだ。
僕は、何度でも思い出す。無限に映画を見る。見ては疑い、疑っては探す。世界を美しくしているメカニズムを、裸眼で直視するために。

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2017年4月24日 (月)

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アニメ業界ウォッチング第32回:“自分の創作の原点に立ち返りたい”――いま、山本寛監督が「薄暮」をつくる理由
T640_726752孤立無援、徒手空拳でありながらも、決して絶望はしない山本寛監督。今回はクラウドファンディング企画『薄暮』の話ですが、僕自身も震災後に救援物資の搬送や現地の方への取材を行い、あげく『マイマイ新子と千年の魔法』の上映会まで開催してしまった福島県いわき市が舞台……と聞いて、「これは取材させていただくしかない」と、3年ぶりに連絡をとりました。
記事掲載後、支援額が1,300万円を超えました。取材した時点では、700万円でした。この数字の伸びは、「物言わぬ支持者」の存在を示唆していると思うのですよ。


昨日は、17日から一週間にわたって開催されてきた『三鷹在住の漫画家 宮尾岳 複製原画展』の最終日でした。
14時からサイン会で、宮尾先生と約束した13時に三鷹コラルに行くと、すでに閲覧用のファイルにセル画を整理されているところでした。「セロテープと貼っても剥がせるテープがあればなあ……」とおっしゃるので、コラル三階まで買いに走りました。

あとは、『アオバ自転車店へようこそ!』最新刊の表紙に書かれている自転車のオーナーさDscn3883んが、コレクションを二台も持ち込んでくださり、コラルの方が周囲にチェーンを設置するのを手伝ったり……。
そうこうするうち、サイン会を主催する啓文堂書店さんがお客さんを整列させるためのテープを床に貼ったり、ネームを記したノートを設営したり、サインをするのに疲れないような当て木を用意したり、飲み物とコップを並べたり……と、プロの仕事を見せてくれました。
人員整理は僕がやらないといけないのかと思い込んでいたので、整理券順にお客さんを呼ぶ段取りの見事さに、安堵感をおぼえました。


もうひとつ、「展示しなかった複製原画をプレゼントにしよう」と提案したら、宮尾先生がDscn3951ご自分でジャンケン大会を始めたこと。これも、僕が「自分でやらないとダメかな」と思っていたので、先生のコミュニケーション能力の高さに、感服させられたのでした。
サイン会では、少年画報社の方たちがサポートについていたので、僕は写真を撮りながら、ブラブラしていられました。
こんな風にして、さまざまな方面からプロが集まって、何十人というお客さんの集まった会場を取り仕切って、誰もが不愉快な思いをすることなく、笑顔で晴れた日曜日を楽しむことが出来たのです。

一時間半後にサイン会が終わると、関係者の皆さんは4階の飲食店街の「柏や」さんで、休んでいました。僕は席がなかったので、いちど帰宅して、18時からの撤収作業へ向かいました。
そのとき、展示会のデザインと施工を担当してくれた「もくきんど工芸」の方が、「お疲れさま」と笑顔で肩を叩いてくださいました。その瞬間、「自分の仕事を、ちゃんと終えることができた」と実感して、一年ほどかかった準備の日々を想起しました。


お客さんとして訪れてくれたレナト・リベラ・ルスカさんが、僕が取材をうけた番組(J:COMチャンネルの「デイリーニュース 武蔵野三鷹」)の画面を、撮影してくれました。
Camw_vyaal_p9この取材の日は、たまたま宮尾先生が三鷹にいなかったので、やむなく僕が対応しました。地元だからこそ、フリーランスだからこそ発揮できる機動力です。
そもそもの発端は、三鷹駅前でアニメやマンガのイベントをできないか?と、地元の市議会議員に相談したことでした。その日、議員は三鷹コラル商店会の理事とアポをとっていて、引き合わせてくださったのでした。

何度か打ち合わせするうち、宮尾岳先生の名前を僕から出して、「連絡をとってみましょうか?」と提案しました。それが、一年ぐらい前です。先生とお会いするうち、イメージキャラクターや原画展の話が持ち上がり、少年画報社に連絡して、先方へ打ち合わせに行ったら、地元側から「そんなに性急に事を進めないでほしい」と、ストップがかかりました。
地元側の体制を固める間、半年ぐらいブランクがあったと思います。「予算が確保できそうなので、地元向けの企画書を書いてほしい」というオーダーがあり、そこから再始動です。


宮尾先生と少年画報社の担当者と再会し、「三鷹のことを描いた『アオバ自転車店へようこそ!』特別篇を描きましょう」「これから描くとなると、ちょうど開催時期に掲載誌が発売されますから」という話がまとまり、ネームを送っていただき、どれぐらいのボリュームの展示会になるか考えます。
三鷹コラルさんは「20枚は展示できる」と言います。僕としては、モノクロ原画だけでなく、カラー原画も展示したい。コラルさんは「三鷹の風景を描いた絵なら、写真と対比させたい」とおっしゃいます。では、写真はいつ誰が撮るのか、検討します。
カラー原画については少年画報社さんに相談し、複製原画を受けとりに行く日時も決めます。

どんどん時間がなくなっていくので、デザインをしてくださる「もくきんど工芸」さんとお会いして、少ない時間と労力でベストな形になるよう、図面を見ながら仕様を決めます。誰に何を見せたいかでデザインが決まるので、余計を要素を落として、どんどん決断していきます。
その翌日、宮尾先生とお会いして完成原稿のPDFを見ながら、16枚の原画と4枚のカラー原画を選び、それぞれ解説をお聞きして、すべてのコメントを録音します。

帰宅してすぐ、録音データを聞きながら、展示する原画に合わせてテキストを書き起こしていきます。宮尾先生からお借りしたロケハン写真があるので、それも原画と対応させてラフを作成します。いつも、本業でやっていることなので、要領はつかんでいます。その日の夜、宮尾先生に原稿を読んでいただき、赤字を反映させた完成テキストを「もくきんど工芸」さんに送り、パネルを作っていただきます。
Dscn3721_257316日夜、設営作業に立ち会いました。
しかし、パネルが出来るまでの間、送信した画像データの確認だとか、新たに加える要素はないのか等、ひっきりなしにやりとりが続きます。設営時には、写真があるパネルを2Fに、それ以外は4Fに貼るよう、お願いしました。人通りの多い2Fに三鷹の写真を貼ったほうが、地元の方の興味を呼べるからです。
……こうして思いかえすと、中学や高校で熱心に取り組んでいた文化祭に似ているのかも知れません。

僕自身は、何か創作できるわけではありません。だからこそ、創作できる方に、強いリスペクトを感じるのです。その気持ちが、原動力になっているのではないでしょうか。
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