2018年1月 9日 (火)

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アニメ業界ウォッチング第41回:“やさぐれた孫悟空”の中年らしい魅力を引き出す! 「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」日本語吹替制作監修、宮崎吾朗の語る3DCGアニメの魅力とは?
T640_748636この取材記事は、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会の翌日に企画して、すぐに宣伝会社に申し込みました。それから10日間も音信不通で、配給会社へは年末ギリギリになって連絡があったそうです。まあ、はっきり言うと宣伝会社はやる気がない。公式Twitterでも、試写を見た人たちの感想をリツイートもしない、映画の魅力が伝わるツイートもない。
そんな逆風の中で、「宮崎吾朗さんが監修ではダメだろう」「吹き替えは山田康雄さんが良かった」など、思いつきと当てずっぽうの下馬評ツイートがチラホラと目に飛び込んできて、これはもう、興行はダメだろうな……と、覚悟はしています。短いところでは一週間のみの公開ですので、志ある方は13日(土)の公開初日に駆けつけたほうがよいでしょう(上映劇場→)。

記事を読んでもらえれば分かるように、宮崎吾朗さんが日本語版の監修についたのは、監督からの直接のお願いであって、別に箔付けのためではないんです。宮崎さんも、ご自分の立場をよくわきまえておられるだろうと思います。誠実な仕事をなさっています。
「宮崎吾朗だからダメ」「中国アニメだからダメ」、そうやってどんどん、自分の世界が矮小化していくんですよ。


レンタルで、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』。
640ヒューマンで痛快だった『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・ヴァレ監督なので借りて見たが……、前半、ほぼ主人公のナレーションで進行する。その日に何があったか、今どう思っているか、ぜんぶ細かなモノローグで説明する。
トーキー映画の利便性は、こういう安易なシナリオを生んでしまう。むしろ、過剰なナレーションで埋め尽くすスタイルを徹底させれば、どこかで映画のメカニズムとカチッと噛み合ったような気がする。
ところが後半、出会うべき人物と人物が揃った時点で、ナレーションは後退して、いつもの、切り返しによる表情と会話による「演劇」だけが残される。
そしてみんな、「劇」の中身の話ばかりするでしょ? 主人公に共感したとか、あんな男は許せないとか、最後に二人は結ばれるとか別れるとか。それらはすべて、映画の内側に入り込んだ「劇」の感想であって、映画の感想ではないわけです。

僕も「劇」だけを素直に楽しんでいた時期もありました。今は、そういう気持ちにはなれないです。そうすると、借りてこられる映画の種類が減ってしまうんだけどね。


これは、ちょっと前から気になっていた事件だけど……。

とある新聞の「児童ポルノ購入者」の職業が完全に名指しをしている件について
検事や議員、警察官の実名は出さないけど、『るろうに剣心』の作者と書いてしまったら、もちろん仕事はなくなるし、社会的に抹殺されますよね。なぜなら、「児童ポルノ」と聞いたら、誰もが「自分の頭で考えられる最悪」を想像してしまうから。
僕も警察に電話して、どういうものがアウトなのか具体的に教えてほしいと聞いたけど、「ケースバイケース」と誤魔化された。その時は過去に出版された写真集だと思ったが、今回は何? 記事では「わいせつDVD」と書いているから、わいせつ性が問題視されているわけですよ。つまり「少女を見て興奮しているヤツは罰する」「そして身内である警察官の名前は隠すが、漫画家ごときは実質的に実名を出すから覚悟しておけ」ってことでしょ?

何より気になっているのは……、一年前、二年前であれば、漫画業界が猛然と抗議したんじゃないだろうか?ってことです。同士である漫画家が晒し者にされたのに、シーンと静まっているのが、僕にはちょっと怖い。
「われわれは漫画やアニメの表現を規制から守りたいのであって、少女のわいせつDVDを所持していたら、たとえ漫画家だろうと守るに値しない」ってことなんだろうか? いずれにせよ、ついに「わいせつな」「児童ポルノ」を理由に、漫画ファンが漫画家を見捨てた。そのように見えるのは、僕の勘違いだろうか? 警察は警察官をかばっているぞ。こんな世の中を受け入れるのか?

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation, Demolition Movie, LLC and TSG Entertainment Finance LLC. All Rights Reserved.

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2018年1月 4日 (木)

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【懐かしアニメ回顧録第38回】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード」のストーリーを前に進めるのは“セルで描かれたおいしそうな焼き肉の質感”である!()
61rvij0nyzl『栄光のヤキニクロード』は、アナログからデジタルへの過渡期の作品で、後半ではポリゴンのしんちゃんも出てくるし、ワンカットだけ手描きの背景動画ではなく、3DCGの背景もありました。その一方で、70年代のアニメのように、キャラクターが絡まないかぎりは、洋服も食べ物も美術として描いています。今なら、テクスチャを貼って質感を統一するところですが、実務的な都合から、焼き肉がセルだったり美術だったりする。
だけど、セルで描かれた肉は人間に近い、柔らかくておいしそうな感じがします。人間は必ずセルに描かれるので、セルに描かれたものは温かくて柔らかいものに見える。そこに鈍感であってはならない、すべてが脚本に描いてあるとは限らないのです。


レンタルで『無防備都市』と『映画に愛をこめて アメリカの夜』。
Mv5bndyyzdqxntitnzc1my00zji2lthlnju『無防備都市』は初見だった。ロッセリーニ映画祭で観たのは『ドイツ零年』のほうだった。それぐらい、両者は作風が異なる。ありがたいことに、レンタルDVDなのに文字による解説が入っていて、すさまじい物質不足の中で撮影されたことが分かる。ニュース映画用のフィルムを使ったそうなので、ワンカットが短いのはそのせいかも知れない。カットワークが、ちょっと白けるぐらい端正で手堅い映画だ。

それよりも重要なのは、ムッソリーニが欧州のハリウッドを目指して建設したチネチッタ撮影所が空襲で被害をこうむったため、オールロケで撮影が敢行されたこと。スタジオで撮影できないため、苦肉の策でロケしたわけだが、その逼迫した制作状況がネオレアリズモのスタイルを決定したのだろう。


しかし、プロの俳優がずらりと並び、女優はメイクを決めた美人ぞろいだ。(通りすがりの人Mv5bndm4nda5mjitytk1nc00nzfmlwfhnwe を撮るのではなく)エキストラを集めているし、カットワークもしっかりしているし、ドキュメンタリーのような生々しい迫力はない。オールロケとのことだが、ドイツ将校たちがくつろぐ大広間は、まるでセットのように広々としていて、照明もしっかり組まれている。
三年後に公開された『ドイツ零年』のほうが、敗戦国の窮乏した環境を生々しく伝え、ひとつひとつのシーンにのっぴきならない切実さが漂っていた。お金がなくて環境が悪化すると、劇映画は、ウソで固められたヴェールを脱ぎ捨てていく。セットが使えないと構図は限られてしまうし、フィルムの無駄使いを抑えようとすると、カット数を減らさざるを得ない。

『無防備都市』は戦勝国のアメリカで公開され、大評判となった。イングリッド・バーグマンは作品に惚れこんでロッセリーニに手紙を書き、映画史に残るスキャンダルを起こした。
そんな華やかな尾ひれも含めて、どうも『無防備都市』には誠実さを感じられないんだよなあ……。


『アメリカの夜』は大学時代に観て、かなり好感をもった映画だ。
Mv5bmjqyogzmmjitzdhmnc00ndezlwfhytgトリュフォーは、『大人は判ってくれない』『ピアニストを撃て』で映画を街中に解き放つと同時に、熱烈なシネフィル、優れた評論家としても活躍を続けた。彼はロケ撮影を好んだが、その一方でセットを組んでフィルターで昼間の風景を夜にする「映画のウソ」への偏愛を隠さなかった。『アメリカの夜』で撮られる劇中劇は、街をまるまるひとつ作ったセット、雇われたエキストラたち、消防車を動員した雪の再現など、バカバカしいまでに大仕掛けなハリウッド式の劇映画をなぞっている。
処女作『大人は判ってくれない』でデビューしたジャン=ピエール・レオも出演しているし、トリュフォーの創作・言論活動の集大成のような映画だ。

小道具係の持ってきたネコが言うことを聞かず、有能な衣装係が別のネコを調達してくる。画面は、ネコを撮影している“カメラの主観カット”となり、画面外から「ピントが外れたぞ」など撮影スタッフの声が入る。映画は、意図とメカニックによって成立している。
だが、劇映画の構造を“劇映画の形のまま”あけすけにしたのがゴダールであり、初期のトリュフォーだった。あの過激さは、十数年をへた『アメリカの夜』には見られない。
トリュフォーが十数年の間、何をしていたのか、敷衍するような映画だと思う。分かりやすく噛み砕いたから、世界で大ヒットした。20歳そこそこの僕でも、理解できたのだ。

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2017年12月24日 (日)

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ホビー業界インサイド第30回:株式会社WAVE・阿部嘉久社長が振り返る、1983年・吉祥寺周辺のホビーシーン
T640_747174高校時代、店頭コンテストに出品して何度か最優秀賞をいただき、初めて商品原型の仕事を回してくださったのがWAVEさんでした。大学に入ってからは、帰りに事務所によって、何かしら原型や塗装の仕事を手伝っていたので、若くて未熟で鬱屈していた僕にとっては居心地のいい場所だったのでしょう。

阿部社長は、両親や教師以外で初めて出会う大人であり、思うように生きる、やりたいようにやる自由人でした。今でも変わらず飄々として、新しいことに興味津々な方です。


レンタルで、ロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』。
Mv5bmda1zti2m2utzdlhmy00m2q5ltljmtc佐藤忠男さんの『ヌーヴェルヴァーグ以後』を読んで、20代のころに見ていたはずだが、この歳で見直して良かった……。なにしろ、「夫婦が車に乗ってイタリアを旅する」程度しか、内容を覚えていなかった。若いころの経験なんて、たいして当てにならんのだなと再認識。

『イタリア旅行』は1954年の公開。ネオレアリズモ映画として捉えると、かなり後期に属する。しかし、ゴダールの『勝手にしやがれ』が1959年だから、ヌーヴェル・ヴァーグとは直結する。
街中にカメラを持ち出して、当時そのままのイタリアの風景をラフに撮るスタイルはトリュフォー、ゴダールに受け継がれている。
ただ、『イタリア旅行』はちょっと凝っていて、イングリッド・バーグマンが車内でクラクションを鳴らす(車内はスタジオで撮っている)、人々が車を避ける(ロケ撮影)。ちゃんとシーンが繋がるよう、ある程度は演技や編集を見越して撮影している。しかし、車を避ける人々はエキストラではなく、たまたまその場に居合わせた本物の通行人だ。


そのような即興的スタイル以上に驚かされたのが、茫洋としたプロットである。
関係の冷えきった夫婦がイタリアを旅行する。夫はパーティに出かけて女たちと仲良くなるが、妻はやることがないので、美術館や観光名所を訪れる。後者に尺を多く使っており、特に何か事件が起きるわけではない。美術品ばかり撮っていて、人間すら映っていないカットが続く。だが、シーン全体にピリピリとした緊張感が漂っていることは確かだ。

夫と妻は、ついに離婚話を始めるのだが、間の悪いタイミングで、現地の知り合いにポンペイの遺跡へ案内されMv5bm2fkowzlzgytzji3mc00zmvilwexn2qる。かなり唐突な展開だ。遺跡から男女二人の遺体が発掘されるのを見て、妻はその場を立ち去る。夫婦は車で移動するが、祭のパレードに出くわして、立ち往生する。祭の日を狙ってロケ撮影しているらしく、臨場感がすごい。俳優もカメラも、人波にもまれている。

人混みにまぎれこんでしまった妻は、懸命に夫のところにたどりつく。そして、いきなり夫に「愛している」と告げて、二人は離婚を撤回する。劇的な必然性は、ほとんど感じられない。しかし、街中に無防備に投げ出された俳優、コントロール不可能な群集を見ていると、なんとなく流れに納得がいくのである。
脚本段階で綿密に組み上げられたプロットでなくとも、時間とともに変化していくフレーム内の情報が説得力を発揮する場合もある。「映画」と「ストーリー」との距離は、おそらく言葉のない、何をも指し示さない映像の中に存している。「ストーリーがない」「物語の内容がない」と言われようとも、必ず誰かが覚えておかなくてはいけない。

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2017年12月22日 (金)

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モデルグラフィックス 2018年 02 月号 25日発売
Drky0hcv4aun88m●組まず語り症候群第62夜
今回はトランペッター社の「1/35 ソビエト軍 2K11A 対空ミサイルシステム クルーグ」で、ひさびさに自主映画『亜空間漂流ガルダス』に触れています!

●ランナーを見比べないと分からない“些細な変更点”を探せ! 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』版キットの本当の楽しみ方とは?
バンダイ製『スター・ウォーズ』キットの、公にされていない些細な仕様変更を編集者に話していたら「それを記事にまとめてほしい」と言われて、ヘッドライントピックスに書きました。完成品では決して味わえない、組み立てキットならではの面白みです。


試写会で、湯浅政明監督の『DEVILMAN crybaby』の第1話~第3話まで。
Devilman_201711_04_fixw_640_hq_2 もしこれをイベント上映しようものなら、ぶっちぎりでR18+です。人間がデーモン化していくシーンは、見たことを後悔するほどのグロテスクさです。セックスシーンもいっぱい出てきますが、例えが古いけど『くりぃむレモン』から続く、セル画のフェティシズムによる予定調和のエロさは皆無で、やはり目をそむけたくなるような描写をされています。海外のエロサイトって、たとえ合法でも生々しすぎてオエッてなるじゃないですか。ああいう描き方をしている。
見たくなかった、今まで見まいとしていた、見なかったことにしていた、だけど醜悪で残酷な現実は確実にそこにある。勇気をもってそこに立たないと、倫理を語ることは出来ない。


デビルマンのアクションシーンは、腕がぐにょっと伸びたりして、カートゥーンのような極端なアレンジがされているんだけど、それがカッコいい。たくましく変貌した不動明が食欲むきだしで食事するシーンも、どちらかというとコミカルなディフォルメがされているんだけど、かえってそれが怖い。「2Dアニメでかっこいい絵とはこういう描き方」「エロい絵とはこういうもの」という固定観念を揺さぶってくる。 

線が多くて、丁寧に影がつけてあって、ロトスコープのような写実的な芝居をするものだけをリアルだと思っていたら、それはアニメーションに対する思い違いなんですね。
『TAMALA2010 a punk cat in space』なんかもそうだったんだけど……、絵のもっている抽象性、見方によって可愛くも気持ち悪くも見える性質を、やや露悪的に使っているとも言える。


見世物小屋を舞台にした『フリークス』って映画があるでしょ? ちょっと感銘をうけたというか、嫌な意味でハッとさせられた話があって。
大学時代だから30年ほど前のことだけど、僕の友達が、『フリークス』のビデオを家で見ていたそうです。人形のように美しい、妖艶といってもいいぐらいの20代の女友達と一緒に。すると、その子が小人症とか半身が欠損した出演者たちが出るたび、それぞれに酷いあだ名をつけて「かわいい!」と言ってゲラゲラ笑っていたそうです。
その女性の人権意識を疑うとかいう以前に、人間ってそういうもんだと思ったんです。僕の中にも、障害者をあざ笑うような醜い部分は絶対にある。あまりに救いがたい現実を前にすると、人は嘲笑することによって、その場を逃れようとするのかも知れない。

『DEVILMAN crybaby』には、ちょっとその感覚がある。
牧村美樹というヒロインは美しいんだけど、美しいがゆえにもっとも汚い部分と繋がりやすい。ただ、脚本がぎりぎりストップをかけている。「こいつは悪いヤツだから殺しても大丈夫」「不動明に理性は残っているから、そこまではやらない」と、暴れ狂う絵を矯正している。
脚本が、絵に対するガイドラインとして機能している。だけど、そのガイドラインを超えちゃってないかな?と危惧してしまうほど、獰猛な表現欲にあふれた作品です。


「マジNHK時間考えろよ。
家までの帰り道、妹からSOSのLINEがきたので交番行って事情説明してミニパトの後ろ乗って静かに帰宅…到着したら、さっきまで居座ってたのに帰ったところだった。
玄関のドアを何度も何度も強く叩き、大声を上げ、玄関先に居座る…」(

上記のツイートを拝見した矢先、“NHK職員を懲戒免職処分 37歳男性職員が受信料58万円着服「言語道断 厳しく対処」”()。記事の最後に「NHKは刑事告訴を検討している」。NHKが被害者なの? 受信料をだましとられた人がNHKを告訴するなら分かるんだけど、なぜNHKが元職員を告訴する? この責任転嫁が、本当に浮世離れしてるよなあ……。

(C)Go Nagai-Devilman Crybaby Project

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2017年12月16日 (土)

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【懐かしアニメ回顧録第37回】ボクサーたちの身体を包むコートやスーツ……、さまざまな「布」が「あしたのジョー」の人間関係を浮き彫りにする!
51dasdha0l「出崎演出」「止め絵」など定番のキーワードに足をとられないよう、新鮮な気持ちで劇場版『あしたのジョー』を見直してみました。
すると、人物同士の別れや出会いのきっかけとしてコートやオーバー、スーツなど、服が効果的に使われていることに気がつきます。
僕には、あらすじよりも演出テクニックのほうが映像作品の「ネタ」に思えます。


映像作品に対する「ネタバレ禁止」「つっこみどころ満載」などの常套句には、本当にうんざりさせられていて、本当は『スター・ウォーズ/Mv5bmje3ndi5njc1n15bml5banbnxkftztg 最後のジェダイ』についても書きたくないのだけど……非常に理知的な映画なので、感心させられた。『スター・ウォーズ』をつくり続ける意義について自己言及した、挑戦的な試みだと思う。

『フラッシュ・ゴードン』など30年代のシリアルを70年代の技術で蘇らせた『スター・ウォーズ』は、誕生した時点ですでに様式化されていたため、数多くの類似作品を生み出した。様式化されすぎているがゆえに、『スター・ウォーズ』らしい、らしくないといった印象だけで判断されがちだ。
前作『フォースの覚醒』は、観客の印象に訴えかけ、動物的な反応やノスタルジアを喚起するだけの空疎な映画だった。『最後のジェダイ』でも、ファースト・オーダーとレジスタンスがどのくらいの規模の組織で、何を巡って戦っているのか、あいかわらず分からない。なぜ両者の戦いにルーク・スカイウォーカーが必須だったのか、『最後のジェダイ』を見た後でも、やはり分からない。もちろん、『帝国の逆襲』で失われたはずのライトセーバーを誰が見つけ出して30年間も保管していたのか、まったく明かされない。多くの欠点を、前作から引き継いでしまっている。
だが、薄っぺらなノスタルジアを打ち砕くパワフルなプロット、シンプルで落ち着いた美術と衣装、一瞬後を予期できないシャープなカットワークに魅了された。SFXでも、ハイパードライブを使った新たな攻撃方法、白い大地を砕きながら赤い土煙をあげて疾走する旧時代のスピーダーなど、高度にデザイン化されたビジュアルが頻出する。

そして、アイデアが斬新であればあるほど、『スター・ウォーズ』の様式は破壊される。様式がどんどん壊されて、作り手が次々と便利な武器を失って、それでも綱渡りのように進んでいく様が、とにかくエキサイティングだった。


面白いのは、若い世代のレイが「あなたは伝説のジェダイ騎士なのだから、かつてのように戦ってほLastjedi_pic_01 しい」とルークに求めるところだ。そのセリフ自体が、すでに様式なのである。みんなの大好きな“『スター・ウォーズ』らしい”セリフなのである。R2-D2が運んできたレイア姫のメッセージそっくりなので、老いたジェダイ騎士に助けを求める展開自体をパロディにして茶化しているかのようなシーンまである。
何よりもルーク自身が伝説化されることに飽き、英雄や神話や伝統に頼る危険性を語るのだから、こんな痛快なことはない。『スター・ウォーズ』の神格化をやめろ、と『スター・ウォーズ』を使って訴えているのだから、あっぱれと言うほかない。

僕らの知っている『スター・ウォーズ』なら、第二作目のラストは「つづく」で終わるところだが、それはもう他の娯楽大作でさんざん模倣されている様式だ。『最後のジェダイ』は、その陳腐な様式を、もちろん破壊する。前作が残した余計な枝葉をきれいにそぎ落として、去るべき人は去っていった。そして、光も闇もない、正義も悪もない、二項対立で考えるから進歩がないんだとベニチオ・デル・トロの演じる脇役までもが、繰り返し証明していく。

これ以上、何を語るというのだろう? もはや解決すべき劇的葛藤は残っていない。次回作など必要ない。僕たちは「キャラクターのその後の運命」を暴きたがるパパラッチと化していたのではないだろうか。意地悪だし、大胆不敵だし、肝の座った映画だった。

(C) 2017 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

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2017年12月11日 (月)

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アニメ業界ウォッチング第40回:美術監督・秋山健太郎が語る「はいからさんが通る」の美術の秘密、手描き背景の面白さ
T640_746299『輪るピングドラム』、『惡の華』でインタビューさせていただいた秋山健太郎さんに、三度目の取材をお願いしました。
『はいからさんが通る』はそろそろ上映が終わりそうですが、背景は見る価値があります。

GoodsPress 2018年 01月号 発売中
特集『傑作品 GP AWARD 2017 ベストバイ』の「プラモデル部門」で、コメントしています。
文章は編集部が書いたものですが、僕からはバンダイ「1/72 ミレニアム・ファルコン」とタミヤ「1/6 Honda CRF1000L アフリカツイン」を推しておきました。


レンタルで、『気狂いピエロ』。1965年のゴダール作品。
Mv大学時代に見たはずだが、「主人公が観客に話しかける」「ダイナマイトを頭に巻きつけて自殺する」など断片的な、どこででも言及されているシーン以外、まったく覚えていなかった。
本に書かれていたことを鵜呑みにして分かった気になる、これは初歩的なミスだ。

図書館で『ヌーヴェルヴァーグの現在』を借りてきて斜め読みしてみたら、“映画の二つ目の真実は「記録」である”という言葉に行き当たった。
「記録」を手がかりにしつつ、またゴダールがドキュメンタリー映画を撮っていたことを念頭に置くと、彼は劇映画ではなく「劇映画が撮影されている状態」を記録していたのかも知れない。ゴダールの作品は「シュールな劇映画」と理解されがちだが、劇映画をつくっていく過程を記録しようとした結果、シュールに見えてしまうだけではないのか。


それまでの映画は、スタジオの中に擬似的な現実をつくり、カットを割ることで時間を再構成して「劇」を成り立たせていた。今のハリウッド映画も、CGを使いながら「劇」に説得力を持たせようとしている。映画批評は、すなわち「劇」への評価になりかわってしまった。

だが、ゴダールはスタジオを抜け出し、街の中で「劇を演じている現実」を記録しようとしたんだ。そのため、カットを割ることをほとんどしない。人々は、撮りやすいように壁を背にしてカメラのほうを向いて会話する。殺人シーンが多く出てくるが、なんと手で突き飛ばされただけでパタリと倒れて死んでしまう。
登場人物の死を伝えるだけなら、それで十分なはずだ。特殊メイクをほどこしてシーンに技巧をこらし、あの手この手で「リアリティ」を与えて観客を騙すより、よほど誠実かも知れない。映画は作り物であっても、「映画を作ること」は赤裸々な現実なのだ。

なのに、若い僕たちは「感性」とやらでゴダールを好きだとか嫌いだとか言い合っているだけだった。「感動した」「号泣した」「心が温かくなった」式の映画批評も、作品と誠実に向き合っているとは言いがたい。
映画が、いかに巧みに「嘘」を構築しているか。そこに目を向けねばならない。嘘そのものではなく「構築」「構造」を評価せねばならないのだ。


NHKから、受信料の督促状が届いた。「受信料制度についての理解促進活動」→「文書・電話・訪問などによるお支払いのお願い」→「裁判所を通じた法的手続きの実施」と刷られている。
僕は文書と無礼きわまる訪問は受けたが、最初の「受信料制度についての理解促進活動」、これを受けた記憶はまったくない。理解できれば、僕は喜んで受信料を払う。集金請負業者からは「ここで個人情報をバラしてもいいんですか?」とマンションの廊下で怒鳴られ、ドアを開けないでいたら電話がかかってきて、無言のまま切られた。
さすがにNHKにクレームを入れたが、一言のお詫びもない。お詫びがないまま、「裁判所を通じた法的手続きの実施」をちらつかせる、その脅迫的態度には抵抗せざるを得ない。

払いたくないというより、脅迫に屈したくないだけだ。

(C)1965 - SNC

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2017年12月 7日 (木)

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〈物語〉Febri  発売中
Dp9c1pnumaa_wb3●Febri Art Style
本誌と同じように、美術監督へのインタビュー+美術ボードで記事を構成しています。
今回は、〈物語〉シリーズのほとんどの美術を担当された飯島寿治さんへの取材で、『偽物語』の放送直前以来、5年ぶりのインタビューとなりました。美術ボードは本誌より多く、計6ページ掲載しています。


昨日は、来月公開のCGアニメ映画『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会へ。
Photoこの映画、ネットでPVを見てから国内公開を心待ちにしていた。2017年公開予定と聞いたきり新たな情報が出てこないまま、今年4月のオーストラリア行きの機内で原語バージョンを観ることができた。
単純明快なプロットに、どこか屈折した、生きることに飽いたようなニヒルな中年ヒーロー。崖だらけの地形を縦横に生かした、乗り物酔いしかねないほど自由闊達、融通無碍なアクションにつぐアクション、アクション、アクション! 3D映画は嫌いだが、これは3Dで見てみたい。試写室の小さなスクリーンでは、ぜんぜん物足りない。
タイトルから『西遊記』のアニメ化だと勘違いする人が多そうだが、孫悟空と猪八戒のキャラクターだけを拝借した、オリジナル・ストーリーである。天竺まで行く旅ではない。

誤解されるのを覚悟で言うなら、『ルパン三世』が『ドラゴンボール』の世界で大暴れするような感じ。殴られるたび、何十メートルも飛んでいって地面にめり込むとか、かめはめ波みたいなビームを撃って、よけると岩が砕け散るとか、どこかで見たような演出センスが気持ちいい。あと30分ほどアクションを足して、2時間の映画にしても良かったのに。
口を開けば不満ばかり出てくる疲弊気味の孫悟空を、咲野俊介さんが魅力たっぷりに演じている。来月13日公開、お忘れなく。


帰宅してから、『LOGAN/ローガン』。
Logan_2017_highonfilmsスチールの雰囲気から、勝手に『都会のアリス』のヒーロー版だろうと推測していたのだが、とんでもない。奇声を発しながら大人の男に飛びかかり、両手の爪でめった刺しにする少女の暴力はショッキングだが、そうしないと生き残って来られなかった不遇な立場の表明ともなっている(本作は、映倫審査でR15指定)。
舞台は、テキサス州のメキシコ国境からノースダコタ州のカナダ国境まで。人身売買され、ミュータントに改造されたヒスパニック系の少年少女たちが国境を越えていく。驚いたことに、まだ12歳のヒロインは、スペイン語で話す。改造されたのはアメリカ国民ではなく、メキシコ出身の子たちばかりなのだ。この凄惨なまでにリアルな設定。


メジャー会社のアクション映画は日本語吹き替えで見るようにしている。ヒロインのスペイン語はさすがに原語のままかと思ったら、なんと12歳の子役が吹き替えしていた()。
640_1『Xメン』シリーズの第一作が公開された17年前は、友人で映画監督だった須賀大観が、推薦の言葉を新聞広告に載せたりしていた。ヒーロー物にここまでのリアリティを持たせられるのかと感心したものだったが、現実感を出そうとしすぎると、こうまで過酷になってしまうのか。

ヒーローたちは「映画の登場人物」ではなく、その後の運命や若いころの体験を根掘り葉掘り暴かれる「キャラクター」として消費されるようになってしまった。『スター・ウォーズ』に新シリーズが予定され、テレビシリーズまで企画されるのは「キャラクター」の保有数が多いからだろう。物語上の要請ではない。
ヒーローだけじゃない、『ダンケルク』に登場した飛行機だって、「キャラクター」扱いされて、映画本編とは切り離されて評価された。


NHK受信料の合憲判決が、ネットを騒がせている。
僕が夜中にテレビをつけっぱなしにして寝るのは、YouTubeで雨や波の音を聴くため。地震速報や天気予報は、スマホから得られる。
テレビの役割、情報の質は激変した。利権を得つづけたい人たちが、鈍感なふりをしているだけ。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2017年11月23日 (木)

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月刊モデルグラフィックス18年1月号 25日発売
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●組まず語り症候群・第61回
今回は、日東科学の「キジムナー」です。当時は店頭で見かけなかった80年代のキットで、確かスーパーフェスティバルで買いました。
パッケージから説明書にいたるまで、びっしりと遊びを盛り込みすぎて、最高にウザいキットになっています。そのウザさをキャプションに細かく書きましたので、ぜひ読んでください。


月刊ホビージャパン18年1月号
 25日発売
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●造形と成形の幸せな調和
バンダイのフィギュアライズ・バストを最新作である初音ミクから初期のキットまで振り返っています。この記事のために、家に組み立て済みのものがあるフィギュアライズ・バストを、すべて新たに買いなおしました。
歴史的に無視できないだろうと思って、初めてシステムインジェクションで色分けを行なった1/144 ドラグナー1型も買いました。
また、フィギュアライズ・バストの企画を担当してらっしゃる三宅のぞみさん()にインタビューし、過去に手がけたキットも入手して紹介しました。「企画者」という視点から、プラモデル商品を照らし出してみたかったのです。


レンタルで、仏映画『南へ行けば』と1969年の米映画『真夜中のカーボーイ』。
Mv5bmjg1ngiwotytnmqync00ngnklwjimdg『真夜中のカーボーイ』は学生時代に見たはずなのだが、すっかり忘れているので見ることにした。
社会の底辺から夢を見る男たちを描いた、あまりに哀切な映画だった。フレッド・ニールの『うわさの男』が、冒頭とラスト近くに流れる。小学生のころ、テレビCMで使われていた曲だ。この曲を聞くと、日曜日の気分になる。

ダスティン・ホフマンの演じる“ネズ公”とあだ名された男が、相棒のジョー(ジョン・ヴォイト)を金持ち女のところに送り込み、フロリダで豪遊する夢を見る。お金持ちの婦人たちを周りに集めて博打をしたり、料理をつくったりする夢だ。それらのシーンは、路上に立っている“ネズ公”のアップとカットバックする。
この映画では、未来に起きることがしばしば「現在」に割りこんでくる。あるいは、回想シーンに「現在」の人物がまぎれ込んでいたりする。
ゲイの老人にホテルに連れ込まれたジョーが、病気の“ネズ公”をフロリダに連れていくため、金を奪おうとするシーンもそうだ。老人を殴るジョー、ネズ公をアパートから引っ張り出してバスに乗せるジョー。ふたつのシーンがカットバックする。後者はジョーの空想のように見えるが、そのまま実際にバスに乗り込むシーンと直結する。
「ネズ公をフロリダに連れていきたい」空想が、「現在」へと追いつくわけだ。それはジョーの焦りでもあり、強烈すぎる願望でもある。


ネズ公は、バスの中で息絶える。死んだ彼を振り返ってジロジロと見るバスの乗客たちは、女性ばかり。どうも見覚えのある人たちだと思ったら、ネズ公の空想シーンに出てきたお金持ちの婦人たちに似ている。
唐突に、老婦人がネズ公を無視して化粧しているアップが入る。彼女たちは、ネズ公の夢想とも現実とも関係のない世界に生きている……果たして、そうなのか? 映画はそもそも、無関係に撮影されたフィルムとフィルムを繋いで、因果関係を生じさせる表現だ。
過去と現在と未来、空想と現実をシャッフルすることで、点在している出来事が力強く一本に寄り合わされていく。

僕たちが映画から「感動的なストーリー」を読解するのは、バラバラに撮られた絵を頭の中で繋ぎ合わせるからだ。バラバラの絵から物語を理解するのは、ようするに慣れである。
慣れているからこそ、疑ってみたり、構造を分析することも必要じゃないかと思うんだが、「とにかく良かった」「理由もなく泣けた」が、映画に対する最大の賛辞になってしまった。
冷徹な理性に感嘆したり、人間の残酷さや無理解や不寛容を発見することにだって意味はあるだろうに、激しく心を揺さぶられて「号泣する」ことだけが至上価値になってしまった。

(C)1969 - MGM

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2017年11月18日 (土)

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アニメ業界ウォッチング第39回:徹底的に心情描写にこだわる、さとうけいいち流アニメ演出術
T640_743634_2 絵コンテを前にしながら、カメラワークやアングルについて、じっくりと話をうかがえる貴重な機会を得ました。特に、アニメで気になるのはパンニングです。アニメのPANって、実写でいえばドリーを使った横移動であって、三脚にすえたカメラを振っているわけではないのです。
ところが、さとう監督はその違いに言及してくれた。ただ、後者のPANをアニメの中でどうやっているのかまでは聞けませんでした。今度、個人的に聞いてみたいと思います。

【懐かしアニメ回顧録第36回】立ち上がったデンドロビウムが対決の構図を熱くする! 「機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光」の図像学
51blwfpdsxl_2 デンドロビウムを劇中のスペックではなく、横長の構図にどう収めているかについて書きました。『ジオンの残光』は上下をカットして横長にした、通称“貧乏ビスタ”で公開されました。レンタルDVDだとスタンダードですが、それでも4:3で横長なわけです。
コラムの中では、横長のフレームの中に気持ちよく収まるデザインであるはずのデンドロビウムが、やたらめったら縦になる(立ち上がる)のはガトーの乗ったライバルメカ、ノイエ・ジールとタメを張るためではないか……と仮定しています。

ガトーとの対決シーンではない、シーマ機を零距離射撃で倒すシーンでも、デンドロビウムは縦になっています。
その理由を考えると、シーマが恩師であるデラーズを目の前で撃ち殺したのに、ガトーは仇を討ち損ねていることに思い至ります。コウは、何度となく真剣勝負を繰り返してきた好敵手・ガトーの代わりに、シーマを撃ってやったように見えるのです。コウがガトーの立場に(精神的に)近づくためには、やはりノイエ・ジールとの対決時と同じく、デンドロビウムは縦になっている必要があったのでは……。
(コウとシーマの間には対立要素が希薄だったので、余計そう思えてしまうのです。)
デンドロビウムが縦になる理由に「正解」はないでしょう。
「正解」を探すのが、作品を見る目的ではありません。あるシーンをエロティックに感じたのであれば、監督が「エロい意味で撮ったわけじゃない」と言い張ろうが、エロく感じた自分を信じるべきです。その一方的な思い込みが、作品の価値を多様にするからです。

観客の思い込みや勝手な解釈を加えられることで、作品は何年も何十年も生きつづけます。今は無名な作品でも、誰かがいつか新しい価値を加えるかもしれない。すべての作品が、「未来の誰かによって新たな評価を与えられる権利」を、平等に有しているべきです。


「無意味な実写化なんてない…世界一叩かれてる実写デビルマンからデビルマンにハマった私が言うんだから間違いない…」(

こちらのツイート、本当に素晴らしい。多数決で「酷い作品」を決めて、「誉めるやつはどうかしている」なんて責め立てられる世界が、果たして創造的なんですかね?
『CASSHERN』、『デビルマン』、『ガッチャマン』のフルボッコに加担した映画評論家や映画雑誌は、それらの作品がどこかの誰かにキッカケを与えたり、経験を積むうちに自分自身の価値意識がゴロッと引っくり返ったりする可能性をまるで考慮してないんでしょうなあ。

「身内で1999年のSF映画ベストワンを決めたいと思うのですが、廣田さんのベストワンは?」というメールがある編集者から送られてきて、「もちろん『スター・ウォーズ エピソードⅠ』でしょう!」と返信したら、「……マジですか? 他の人たちはみんな『マトリックス』がベストで、『スター・ウォーズ』をワーストに選んでますけど?」とのことで、票に数えられなかったらしい。
その雑誌は、数年後になくなりました。多様性のない組織は、外乱に対して弱くなるのです。

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2017年10月28日 (土)

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ホビー業界インサイド第28回:フィギュア原型師という「職業」と「市場」を切り拓いた男、秋山徹郎の過去と現在(
T640_742387『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』でも取材させていただいた秋山さんに、「是非また取材しに来てください」の約束どおり、お会いしてきました。
こういう記事には「懐かしいですね」とリアクションいただくことが多いのですが、僕は秋山さんがプロデュース側に回って、「フィギュアを作る人たちが食べていけるように」という若いころの理想を実現してらっしゃるから、取材する価値を感じたのです。「懐かしい」なんて動機では、お金をもらって書く記事にはならないですよ。

「懐かしい」も娯楽だし、商売になると思っています。だけど、単に「懐かしい」だけでは誉めたことにならないし、何より発展性がない。「懐かしいですね」と言われると、とても戸惑います。
だから、アキバ総研の「懐かしアニメ回顧録」という連載タイトルには、かなり抵抗しました。結果、「昔は良かった」という情緒的な内容ではなく、シンプルに演出や作劇を探る連載になっているはずです。


高校時代、『マクロス』のプラモデルを教室に持ち寄っていたら、イケメンの無趣味なクラスメートから「そんなもんに金使ってるの? いくらするの?」と聞かれたので、僕らオタク仲間は「700円」と正直に答えました。イケメンは「うわ、信じれない。俺に700円あったら……、メシ代に使うよ」とコメントして、その場を去りました。
僕は700円を趣味ではなく、食事に使うしか脳のないイケメンを気の毒に感じたし、どれほど無味乾燥とした人生を送っているんだと、心の中でバカにしました。
だいぶ後になってから、食事にお金を使わず、少しでも美味しいものを食べようとしてこなかった自分のほうが、むしろ人生を棒にふっているような気もしてきたのです。

自分は食事に無頓着で、コンビニ弁当やインスタント食品、ファストフードが好きでした。
すると、味覚が育たないわけです。いつまでも子供が食べるような食事パターンから抜け出せない。
1989年に発売された別冊宝島『おたくの本』に、オタクっぽい人はイチゴジュースとジャムパンだとか、子供のおやつのような食事が平気と書かれていて、ひそかに赤面したものでした。食事にこだわりがない癖に、「食事なんて、お菓子でいいじゃん」と割り切ることも出来ないわけです。

歳を経たから、自動的に子供時代が終了して、新たに「大人」の設定がインストールされるほど都合よくはないのです。また、子供時代や思春期を、中年になった自分と分断すべきとも思いません。思ったより地続きだろうと感じています。


“詳しい話はしらんで言うんだけど、「パクリ」とか「トレス」とか「資料見て描いたからズルい」とか言いたがる人って、つまるところ、「だから、大した事無い」と言いたいというか、そう思いたいだけなんだよな、多分。”(

僕は、「ネタバレ」にも同じようなニヒリズムを感じています。
電車男が流行したころ、「どうせネタだろ?」という言い方が流行りました。受け狙いのウソ話だろ、という程度の意味です。ネタ=ウソ話には価値がない、信じるほうがバカだというわけです。
「本当はたいしたことないんだけど、秘密にしておくことによって価値があるかに見える」、そのような薄っぺらなニヒリズムが「ネタバレ」という言葉を裏から支えているように思えます。
しょせん、どんな立派に見えるものにも手品のタネがある。タネや仕掛けを先に話してしまったら、秘密が露呈されて見る価値がなくなるかも知れない。だから、タネ明かしせずに黙っておいてやろうぜ、といった傲慢を感じるのです。

僕だけがその映画を見ていなくて、ほかの人たちが見終わっている場で、「えーと…ラストまで話しても大丈夫ですかね?」と、気を使われることがあります。
大丈夫ですよ。あなた方が話した程度で、作品の価値が減じるなんてことはあり得ませんから。たとえ蓮見重彦と四方田犬彦が目の前で話したところで、それでも映画を見る楽しみは損なわれませんので。
作品をつくる人は神ではないし、永遠不変の価値や評価が作品に与えられるわけではありません。ただし、作品と個人との出会いには何千パターン、何億パターンと予想不可能なバリエーションがあり、出会いが多様であるほど、作品の評価軸も無限に広がるのです。今日の僕にとって無価値な作品が、数十年後、あるいは明日、誰かを救うかも知れない。それは自分だけでなく、他人を信じるということです。他人を信じないと、世の中は豊かにならないと思います。

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