2011年1月15日 (土)

■0115■

体が疲れているはずなのに、脳が眠ってくれないときは、『ギャラクティカ』シーズン3のバル66_01_2ター裁判のくだりを見ていたのだが、ここ2~3日は、シーズン4のクーデター話をくり返し、見ている。
アダマ提督が「反乱に加わった者に、これだけは言っておく。お前たちを許しはしない。恩赦もない!」と激怒するシーン、吹き替えもいいけど、原語で見ると、より爽快だ。
(写真手前にいるのは、名誉の死をとげたジャフィ一等兵)

銃を両手に、つぎつぎと突破口を開いていくカーラ、『ダイ・ハード』そっくりに黙々とトンネルを這っていくチロル、誰もが素晴らしい活躍を見せる。


もはや、そこいらのプロ編集者などかなわぬ執念で作り上げられた『メガゾーン23』同人誌、7568_l 『2325』、COMIC ZINさんで通販が始まっています。→こちら

『メガゾーン』は、版権をめぐる争いで、作品の秘めているポテンシャルが削がれてしまった。作り手が権利だ金だと騒いでいる間に、この同人誌のメンバーは、せっせと手を動かしていたわけであって、ページをめくるたび、「プロなんかクソくらえ」という気持ちにさせられる。

「大人は汚い!」とこぶしを振り上げた『メガゾーン』の意志を引き継いでいるのは、この同人誌だけだと思う。


『ぼくのエリ 200歳の少女』に対する、映倫の表現規制問題を風化させないために――。
「切られた猥褻 映倫カット史」を読んでいる。昭和31年公開の『太陽の季節』(原作:石原慎太郎)が、映倫の組織改組のきっかけとなったのは知っていたが、詳しく読むと、仰天である。

『太陽の季節』のヒットを受け、大映は石原原作の『処刑の部屋』を映画化。その公開直前、朝日新聞が夕刊二面トップで、大映社長に公開質問状を叩きつけたのだという。しかも、「井沢淳」と記者の名前入りで。
この公開質問状は、「映倫の審査基準は甘い、もっと規制しろ」という批判なのだが、勇気のある記者もいたものだ。下手をすれば、クビが飛ぶ。

『ぼくのエリ』のために、誰が何をしてくれただろう? せめて、映倫が配給会社に圧力をかけ、「映っていない性器を消させた」事実は語りついでいこう。ペンは剣よりも強し。


「マイマイ新子と千年の魔法の本ができるまで」ブログ、毎日更新中。→こちら
俺は「やる」と言ったら、やる男だぜ。おそらく、ギャランティの範囲を大きく越えていると思うのだが、この本は金のためにやってるんじゃない。作品に対する、感謝の気持ちなんだ。

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2010年12月23日 (木)

■『新子』本、制作日誌20■

早起きして、ラフ2ページを終わらせる。
仮眠して、栄養ドリンクを飲んでからテキストを書けば、とりあえず、カラーページは形になるはずである。
『新子』本の制作は、一日も休まない!

昨夜、ある友人と「去年の今ごろ、同人誌で『新子』の資料本を出そうなんて話してたよね~」と、しみじみ。
一年前は「大人のためのマイマイ・ナイト」に毎日通っていたのだから、よっぽどヒマだったんですね。あ、防府巡りの同人誌は買いに行かないとなあ。

今日はカラーページのテキスト終わらせて、明日からモノクロ・ページに戻る予定。


仕事の合間を縫うようにして、キネカ大森へ。
101223_12050001デジタル版『ぼくのエリ 200歳の少女』。2本立て1,300円とお得なので、未見の方はどうぞ(明日24日まで)。

何も引かない、足さない、水のような映画。
エリの内面からほとばしる生命力に、震えるほど圧倒される。ラストの列車のシーンには、何か肉眼で見ているものとは別の、つまり、「今の私」がそこに映っているような気がした。「作品と関係を結ぶ」とは、このような体験をいうのだろう。

二度目のせいか、ディテールの繊細さにも、目を見張った。どうやら旅立ちを決意したらしいオスカーが、部屋に飾ったミニカーのドアを、ひとつひとつ閉めていく。
それが、どんな意味なのか説明はできないよ。でも、それがどうしても欠かせないカットであることだけは、なぜか分かる。

この映画を見た以上、「何かをあきらめる」とか、「生きることに消極的になる」とか、そんなことは許されない気がしてくる。エリの、あの瞳に凝視されてしまった以上は。


さて、肝心のモザイクですが、フォトショップの「ぼかし」ツールで消したような処理になっており、初見の方は、何が映ったのもかも気がつかなかったと思います。事実、同行したお姉ちゃん(キャバ嬢ではない)は「えーっと、どこにモザイクが?」と首をかしげていた。
この処理なら、僕も見逃したと思う。

しかし、忘れてはいけません。映画倫理委員会は、性器さえ映っていないのに、このカットの処理を配給会社に命じたのです。回答書には「事前に申請者に伝えてある」という意味のことが書かれていますが、これは事実ではありません(配給会社に電話で確認済み)。
実写映画においては、すでに表現規制は始まっています。そして、日本に映倫を止める機関・団体は存在しません。

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2010年12月14日 (火)

■『新子』本、制作日誌12■

いかん、いかん。
起きたら、女史からガッツリと添付ファイルが来ていた。ちなみに、仮眠映画は『インベージョン』というやつであった。こんな最近の映画でも、ぐっすりと眠れてしまった。

いつのまにか女史が作ってくれていたラフに、文字数を入れていく。
101214_00410001昔なら、このpdfをプリントアウトして、ボールペンで書き入れて、FAXしているところだが、今はいろいろなソフトが出ているので、いきなりpdfに書き込んで、そのまま送信できる。

なので、FAXは使わない。FAXは、嫌い。朝9時からFAXでプレスリリースを流してくるようなメーカーってどうなの?……と、ある編集に話したら、試写状のたぐいは、コピーされないようにFAXで流すのだとか。

でも、あのヘロヘロしたFAX用紙に「出席か欠席に○をして、送り返してください」って、どうなの。慎重にやらないと、絶対に紙づまりするじゃん。

あとは、○○ページと□□ページのサムネールを手書きして、スキャンして送信。FAXなぞ、一度も使わずにすむではないか。
○○が手に入らなかった(というか、存在すら知らなかった)皆さん、ついにこの本で復刻されますよ!

発売まで、45日! いま、南米ジャブローあたり。


都条例、15日に成立。

『ぼくのエリ 200歳の少女』のモザイク処理に激怒したら、映倫という検閲機関にブチ当たった。映倫は、なんと私の生まれる、はるか前から存在していたというではないか。
自国の映画にモザイクを入れられるなんて、さぞかし恥だろうと思ってスウェーデン大使館に連絡したら、「日本の法律に従います」という意味不明の返答がかえってきた。
さすがに映画館は観客の味方だよね、と全興連(日本中の映画館の組合)に連絡したら、「映倫の指示なら、仕方ない」とのことだった。

そして、映倫に質問状を送ったら、虚偽の返答が返ってきた。かろうじて好意的だったのは、配給会社だけである。
映倫の独裁を半世紀も容認してきたのが、この国なのだ。倒すんなら、まず映倫からだろう、というのが私の実感。

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2010年11月 4日 (木)

■プレゼント■

『ぼくのエリ 200歳の少女』、結局どうなったの?と聞かれました。
まずは、映倫からの回答書→こちら
この回答書現物のコピーを配給会社のショウゲートへ送付し、その上で電話しました(10/25)。ショウゲートさんは、私に文書で返答すべく準備中だったそうですが、長引かせても悪いので、その電話で、お話を聞きました。

結果、映倫からの回答にある「未成年者の性器の描写については、一般の映画館で上映するために修正する必要があると申請者に伝えてあり、修正の方法は申請者にまかせております。」――これは、虚偽だと判明しました。少なくとも、ショウゲートさんには、何の通達もなかったそうです。
ここで、映倫に再度、質問をしたところで「申請者には伝えてあります」の一点ばりでしょう。彼らは、嘘をつくことに慣れている。

それにしても、『ぼくのエリ』にかぎらず、映像作品の不自然な修正は、もう少し疑問視されてもいいんじゃないかと思っていたのですが、実はみんな、たいして気にとめてないんですね。
「モザイクがあるのは、問題があるシーンだろ」「モザイクが入らないなら、問題ないんだろ」程度の認識みたいです。「何か問題なら、しかるべき機関が何とかするだろ」的なスタンス。まして、「なぜモザイクを入れた?」と当事者に抗議するなど、思いもよらないのでしょう。

と、ここへ来て、『ぼくのエリ』に関しては、まったく別の方向から動きが出てきました。来年になってしまうでしょうけど、この問題に一石を投じることが出来れば……。


朝早くから打ち合わせだったのだが、こんなものをもらった。
101104_13270001中身は高級品だし、抱えるようにして電車に乗ったら、こういうものを気にするのは、やはり女性であった。結ばれたリボンは、ただそれだけで、ひとつの物語だ。

萩尾望都の『アメリカン・パイ』を読んだ。深窓の令嬢のくせに、少年のような格好で街をふらつくリュー。性別はもちろん、過去からも自由なリューは、それゆえに死にさらされ、永劫の時という深淵をのぞいてしまう。
リューという個体は滅びても、その存在が忘れ去られても、彼女の想いだけは残りつづける。
自由とは、執着を忘れること。実は、とても死に近いのだ。


『アルプスの少女ハイジ』、ペーターがそりを手作りする話。工具の使い方が、どんどん上手くなっていく。これは、実際に工具を使ってみないと描けないよ。
こんな作品を当時の子供たちが理解し、CS放送とはいえ、いまだテレビで流れつづけているという事実。


たまには、アカデミー賞候補作も見なければ、と思い、編集に教えてもらった『ブラッド・ダImagesイヤモンド』。紛争ダイヤだけでなく、少年兵の問題も扱っている。

すっぱりときれいに終わるんだけど、こういうモチーフは、どこか不合理な割り切れなさを残したほうが、問題意識が残って良いのではないかと思う。その暗いドンヨリ感が、次へと興味をつないでくれるから。

(C)Lonely Film Production,cortesy of WBEl

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2010年10月25日 (月)

■憂鬱な月曜日■

『ぼくのエリ 200歳の少女』の件。
ショウゲートさんと、電話でお話させていただいた。あいかわらず誠実な対応で、これ以上は、ご迷惑をおかけするわけにはいかない……。
映倫からの回答書を読んでいただけただけで、ありがたいと思っています。
出版業界の方から「いっそ、この件を雑誌に書いてみてはどうか」とのお誘いも受けたが、今のところは、飽くまでも観客のままでいたい。記事にするのは、もう最後の手段だと思うので。

この週末から、『マイマイ新子』の巡回ポスターを貼ってくださった川越スカラ座さんで『ぼくLettherightonein1942_2 のエリ』が上映される。関東で見られるのは、これが最後のチャンスになりそうだ。→上映予定
映倫指示のモザイク(スクラッチ)、この目に、しかと刻みに行くか。
無論、初見のかたには表現規制など気にせず、一本の映画として堪能していただきたいと思っている。モザイクは問題視してほしいけど、本当に見てほしいのは映画の中身なんだよなあ……。


僕がこの件で目指しているのは、『ぼくのエリ』無修正版の国内上映です。
しかし、モザイクを外したがために、観客はグロテスクな手術痕を見せられることになる。「見たくなかった」「知りたくなかった」という人も、出てくるでしょう。むしろ「これこそ倫理に反する」と怒りだす人もいるかも知れない。しかし、それが自由の代償だと思います。

先日、初音ミクの『メルト』が嫌われている件を取り上げましたが、作品を公にした以上、「苦手だ」「キモい」という人が出てきても当然だと思います。表現の自由を守る、とは「あらゆる批判を許す」ことでもあります。

10年ぐらい前、ある友人がコミケの帰りに、「○○のエロ同人誌があった。正直、吐き気がした」と電話してきました。僕も本の内容を聞いて「確かに、気持ち悪い」と言いましたが、「でも、俺たちがどんなに嫌悪感をおぼえても、存在そのものを否定しちゃいかんよ」と、友人は穏やかに言いました。
いまこそ、彼の言葉を噛んで含めたいと思います。僕らは抑圧されるだけではなく、いつでも抑圧する側になれてしまう。そして、どっちが悪でも、どっちが善でもない。善悪で割り切れるような、そんな単純な時代を、僕らは生きていない。

せめて、迷いながら、疑いながらも、足を止めないことかな……。しんどいけど。


まったく関係ない話題ですが、あの怪作アニメ『TAMALA 2010 a punkcat in space』が、N518yd3m4ejl__sl500_aa300__2 HK総合テレビで復活していた(「マチ★アソビ」に行ったとき、徳島空港で見た)。

このアニメを一人で映画館へ見にいったときは、本当に怖かった。「悪夢のような」という紋きり表現がピッタリ。NHKでやった方も、かなり怖そうなストーリー。
でも、こういうはぐれ者というか、崖っぷちにいるような作品には、心がひかれる。

(C)EFTI_Hoyte van Hoytema
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2010年10月16日 (土)

■彼らは、われわれの倫理につけ込む■

EX大衆 11月号 発売中
Ex_taishu
●西田麻衣 グラビアポエム執筆
今回は、袋とじ。だったら、もうちょっとエロいポエムにしたのに、見本誌が来てから分かった。

ポエムを書くときは、自分を「下賎なケダモノ」にする必要があるから、気分をそっちへ持っていくのに、数時間かかる。執筆自体は、10分ぐらい。


『ぼくのエリ』のその後。ショウゲートの配給担当さんに、映倫からの回答書のコピーを送りました。話を蒸し返すようで、本当に気が引けるのだが、関係者全員が沈黙してしまった以上、やむを得ない。

コメント欄にも書いたけど、「黙っている」ということは、つまり映倫の方針に賛成なんですよね、皆さん?
全興連が、映倫に付和雷同するだけの形骸であることは分かった。それでも、このボカシは異常ではないかと、声をあげる映画館主の一人さえいないとは……。
観客にここまでさすなよ、情けない。


電車の中で、ひさびさにゾッとする広告を見た。
ビール酒造組合が05年からやっている「STOP! 未成年飲酒」キャンペーン。過去の広告ギャラリーを見ると、とにかく必死で無理やりなキャッチコピーに苦笑してしまう。しかし、今年の広告コピーは笑えない。

「10代の飲酒。どんなに価値観が多様化しても、全員一致で×です。」「社会がNO! ルールだからNO!」「お店がNO! メーカーがNO! STOP!未成年飲酒!」
Ca270219……笑えない。だって、10年後、いや5年後の日本って、いやひょっとしたら今現在、部分的には、もうこういう国になってるよね? 野暮なことは言いたくないけど、映画業界がすでに、映倫ファッショ体制でしょ?

映倫の大木圭之介委員長は、映倫のHPで「言論・表現の自由は民主主義の基盤をなすものですが、近年、メディア規制の動きが加速しています。残念なことに、市民も規制を望んでいるといっても過言ではありません。」なんて言ってるぞ?
市民が規制を望んでいる? いつ、誰が望んだ? でも、誰もつっこまないでしょ。このビール酒造組合のキチガイ広告には、さすがに抗議のメールを出した人がいるそうだけど、言論って、こうやって統制されていくんです。

だって、心の中では「確かに未成年の飲酒は、法律で禁止されてるもんなあ」とか「いくら表現の自由でも、未成年の性器を映画に出しちゃマズイかもな」とか、すでに抗えない倫理観が刷り込まれてるでしょ? その倫理観の上に、彼らは自分たちの都合を「乗っける」んだよ。みんなの心の中に漠然とある倫理の上に、自分たちの思想を、さも直結しているかのように「上乗せ」する。絶対に逆らえないように。

アグネス・チャンが「子供の裸を見なくても、死なないでしょう」と、国会で恫喝したのと、まったく同じ。彼らは、われわれの倫理につけ込む。利用する。
ああ、いつかのBOOK-OFFの強制参加ボランティアも同じだね→これ。「だって、子供たちがかわいそうじゃないんですか?」という脅迫だったからね、あれは。
こちらが黙ったら最後、「全員一致で×」「ルールだからNO」で押し切られてしまう。

沈黙は、権力者への恭順を意味する。怖れずに発言しつづけることだ。


第一期『けいおん!』の再放送を見て、あらためて、戦慄すべき珠玉のカットをいくつか発見した。『それでも町は廻っている』は、音を聞いているだけで、多幸感につつまれる。またいずれ、そんな話もできたらいいなあ。

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2010年10月15日 (金)

■映倫からの返答■

映画倫理委員会に、『ぼくのエリ 200歳の少女』でのモザイク(ボカシ)に関する質問状を、内容証明郵便で送付しました。
こちらが勝手に決めた「一ヶ月以内」という期限どおり、昨日14日に、映倫からの回答がポストに投函されておりました(普通郵便です)。

封筒の裏にも、便箋(ワープロ打ち)にも、「2010年10月12日」と明記されており、消印も同様ですから、まずは誠意ある対応と言えるのではないでしょうか。便箋には、映倫委員長の大木圭之介さんの名前の上から、押印されています。

こちらから送ったものは「公開質問状」とし、ネットでの公開も自由とさせていただいたので、以下に全文を掲載します。
文中の「当該カット」とは、例のモザイクのことです。

 

映画「ぼくのエリ 200歳の少女」に関する回答書

 

 

 

 

 

 

 

 平素は当委員会の活動につきましてご理解、ご協力を賜りましてありがとうございます。この度廣田様よりご質問がございました下記4件につきましてお答えいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

質問1 私は「ぼくのエリ 200歳の少女」を配給している株式会社ショウゲートを、2010年7月23日に訪れ、当該カットが引っかき傷だらけになった経緯を聞いてまいりました。担当者から、映画倫理委員会が「何らかの方法で当該カットを視聴不可能にしないかぎり、審査はしない」と通告したと聞きました。これは事実でしょうか。

 

 

 

回答 事実と異なります。申請のあったものはすべて審査をしており、「審査はしない」と申し上げることはございません。

 

 

 

質問2 もし、映画倫理委員会の通告が事実であるとしたら、どのような観点から、そのような判断を下されたのか、具体的にお聞かせください。

 

 

 

回答 回答1の通りです。

 

 

 

質問3 「ぼくのエリ 200歳の少女」を海外で鑑賞された方から、当該カットには女性器も男性器も映っておらず、手術跡(特殊メイクであり本物ではない)が映っているだけだと聞き及びました。これは事実でしょうか。

 

 

 

回答 映倫では申請された作品について審査しております。海外で上映された作品には関知しません。

 

 

 

質問4 もし、当該カットに映っていたのが手術跡ではなく、女性器あるいは男性器であった場合、やはり、「何らかの方法で当該カットを視聴不可能にしないかぎり、審査はしない」と配給会社に通告したのでしょうか。通告したのであれば、その理由もお聞かせください。

 

 

 

回答 回答1の通り「審査はしない」と申し上げることはございません。未成年者の性器の描写については、一般の映画館で上映するために修正する必要があると申請者に伝えてあり、修正の方法は申請者にまかせております。

 

 

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 


……藪の中ですな。プランBを延期し、もう一度、ショウゲートさんに当たってみるしかないか。だって、映倫の回答が真実なら、私は配給会社にだまされたことになるわけだから。

それにしても、たったこれだけのことが、どうしてこんなにも不透明で不鮮明なのだろう? なぜ責任者にかぎって、他人に「まかせてある」などと言えるのだろう? 実体も中心もない、思想や主張すらも存在しない、この得体の知れない世の中!

だってさ、上の4番目の回答の最後の一文って、「未成年のチンコとマンコには、あらかじめ、お前らが工夫してボカシ入れて来るんだぞ、いいな」って、配給会社に通達してあるって意味でしょ?
それを表現規制というんだよ、映倫の大木委員長!

そもそも、『ぼくのエリ』には未成年者の性器なんて、出てこないだろう……。


つまり、この目に見えない霧を、僕は消し去りたいわけだ。だとしたら、霧の中を進むしかない。
ここで、『ぼくのエリ』を見失ったとしても、また別の霧の中に迷い込むだけだ。日本中、どこへ行っても、何を見ても、誰と会ってもそうなの。本当のことなんて、誰も教えてくれないの。

そんな気色悪い国に生きてしまっているという事実を認めたなら、さあ、出口を探そう。エリが200歳なら、僕は100歳まで戦う。

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2010年10月 8日 (金)

■映倫は、登場人物の自由をさえ、もぎとる■

いよいよ、徳島でのイベント「眉山山頂秋フェスタ×マチ★アソビ」の開催が、明日に迫りま0801した。
「アニメ評論家徹底トーク! アニメ業界ここだけの話 アニメ語り ここまで話すと気持ちイイ」は、10日(日)の14:15~開催です。

友人が自分用に作成した、スマートフォン対応の非公式タイムテーブルが、細かくカテゴリ別けされていて、便利かも→こちら

では、眉山山頂でお会いしましょう!


映画『ぼくのエリ』表現規制について。
全興連から、3度目の回答が来ましたが、あまりに実務的なので、載せる必要はないでしょう。向こうも面倒になったのか、事務局長の名前を外してきました。全興連は映倫の下部組織ですから、まあこんなとこでしょう。

その映倫への質問状ですが、回答期限まで、あと一週間となりました。このままバッくれた場合、プランBが発動しますので、映倫の先生方、よろしくお願いします。


私が問題にしているのは、『ぼくのエリ』のスクラッチ(引っかき傷)に代表される、過剰な自主規制の押しつけです。全国で公開される映画が、たった5人の審査委員の独断のみで平然と傷つけられ、観客の「見る権利」が侵されている。

「北米版のDVDを買えば、ノーカットで見られる」ことは解決策ではない。「日本で戦争が起Bokueli_sub1_large_2 きたら、海外へ逃げればいい」と言っているのと、同じこと。
これは、個人の自由であると同時に、国家の品位の問題なんです。

繰り返しになるが、『ぼくのエリ』で、エリの股間(手術跡があるだけで、性器は映っていない)を隠したのは、世界中で日本のみである。
この体たらくでは、「日本は表現の自由もない、頑迷固陋な規制国家」と指さされても、言い訳できない。『ぼくのエリ』を後援しているはずのスウェーデン大使館、全国の映画館の加入している全興連が役立たずである以上、映倫に抗議できるのは、窓口で入場料金を払った観客のみだ。


これから書くことは、いわば傍系的動機、私的な憤りです。

『ぼくのエリ』の「ヒロイン」であるエリは、吸血鬼であるがために、昼間は外へ出られません。また、人間の生き血を飲まないと生きていかれないので、罪のない人を殺さざるを得ない。つまり、エリは、「自然」と「社会」から拒絶されたマイノリティです。

その一方、エリは200年以上も生きており、老いや死から解放されています。
また、原作を読めば分かりますが、「彼女」はかつて少年でした。しかし、男性器を切り落とされたため、少年ではなくなりました。かといって少女でもない。しかし、少女として振舞う自由を「彼」は手に入れたわけです。

エリは、自然や社会からは忌避された存在ですが、心の中は女でも男でもない。性差にとらわれない自由さが、エリの旺盛な生命力のみなもとです。
男でも女でもないからこそ、主人公のオスカーと、恋愛や友情をも越えた、深い命の絆を結ぶことが出来たのです。
そんなエリの自由の証が、映画では「股間に残った手術跡」が映るワンカットだったはずです。
その自由のシンボルを、わが国の検閲機関は、醜く塗りつぶして、「性の自由などない」ことにしたのです。こうして書いていても、胸をえぐられる気分です。
映倫は、映画の自由だけではなく、登場人物の自由をさえ、もぎとっていく。

――このような個人への抑圧を、「そういう時流だから」程度の理由で、軽率に行っていることが、また許しがたいのです。


今さらですが、『戦場のピアニスト』を見ました。ドイツ兵は、ユダヤ人を殴るとき、いちいち理由を言いませんね。映倫も、フィルムに傷をつけるとき、何の説明もしません。

(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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2010年10月 4日 (月)

■全興連、観客が規制に怒るのは「致し方なし」■

日曜夜、立川シネマシティにて『おにいちゃんのハナビ』。
100430_hanabi_main77席中、5人ぐらいの入りだったかな。
今まで、ゾンビや死霊を演じてきた谷村美月が、いまさら坊主頭になっても、あまり驚くファンはいないだろう。本人も、インタビューではケロッとしてたし。

映画の前半では、白血病の谷村が、ひたすら引きこもりの兄をはげまして、地元で有名な花火大会に出るよう、すすめる。
いやはや、これは強引な展開だ。谷村演じる妹に、そこまで兄をリードしなくてはならない動機がない。でも、無茶を納得させるのが、常に谷村美月という女優に与えられたミッションだから。

谷村美月は、野球でいうとキャッチャー。ピッチャー(制作サイド)が、どんな魔球を投げてきても、泥まみれになって受け止める。
『おにいちゃんのハナビ』も、そうですよ。明るく健気で、行動的で、ユーモアのセンスもあって……って、こんな都合のいい妹、いるわけない。でも、谷村は、パーフェクトに演じきる。パーフェクトに、客を説得してしまう。


女優って、顔がよければいいとか、演技力があればいいってわけじゃないんです。
映画のために、自分を殺せる女優こそが女優であって。「私が、私が」って、我を通すような人は、好きじゃないです。
そういう意味では、ストーリーには泣けなかったけど、谷村の徹底した仕事っぷりに泣かされた。「うわ、こんなダサいセリフ、言わなくてもいいのに……」と思うんだけど、セリフを丸暗記してくる谷村は、ちゃんと血の通ったものにしてしまう。

今年20歳。もう、女子高生役も限界でしょう。高校の制服が着られなくなってからが、勝負だと思うんだけど、どうなるかな。『明日やること ゴミ出し 愛想笑い 恋愛。』は、社会人役で主演。今週末から、新宿バルト9で公開。


さて、本日も『ぼくのエリ』関連のニュースです。
Bokueri日本のほとんどの映画館が加盟している全興連に、さらなる質問をしたところ、やや遅れて回答が来ました。眞保徳義事務局長、「全興連も黙りこんだ」などと書いてしまい、大変失礼しました。

ひとつめの質問は、私の単なる揚げ足とりだったので、割愛します(要望があれば公開します)。
問題は、ふたつめの質問「2.画面の一部を傷つけ、それを見て憤慨した観客については、どうお考えですか?」
それに対する、眞保事務局長の答えは、以下です。

2.につきましては、一部修正された映像を見せられたお客様の残念なお気持ちは分かる気もしますが、現在のありようの中では致し方ないのではないでしょうか。

致し方ない? ようするに、映倫の決めたことだから、お客様は我慢しろ、と?
そして、「現在のありよう」とは何か。なぜ、表現規制を認めた本人たちは、このような抽象的な言い方しかできないのでしょうか? スウェーデン大使館は「日本の法律に従う」と言いましたが、いったい、日本のどの法律に従っているのかは、教えてくれませんでした。

私たちも、スウェーデン大使館も、全興連も、「空気」に口をふさがれている。 
繰り返しになりますが、この状態が「規制をされている」「統制されている」ということなのです。

『ぼくのエリ』(映倫検閲バージョン)は、現在も公開中です→劇場情報

(C)2010 「おにいちゃんのハナビ」製作委員会
(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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2010年10月 3日 (日)

■ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう■

Twitterを検索していたら、興味ぶかいツイートを見つけました。

今やってる『エル・トポ』にはエル・トポJr.のイチモツにボカシが入っているらしいです。現在大人気の『十三人の刺客』の立ちション少年にはボカシ無しなのに変な話です。映倫って、思い付きでボカシや年齢制限を決めてんですかね?

答え→その通りです。
思いつきというか、映倫の審査委員のうち「誰が担当するか」で、審査結果が違うそうです。「Aさんなら通してくれたのに、Bさんが来たからダメだった」という、クジ引きのようなことが起きているそうです。
ふだん、審査で苦労させられている人から聞いたので、間違いないでしょう。


またこんな話をすると、「読まなかったこと」にしてスルーされるんでしょう。
みんなが「まあ、しょうがないね」と通りすぎること、それがつまり、「抑圧」だというのに。
『ぼくのエリ』については、スウェーデン大使館が沈黙しましたよね。全興連が黙りましたね。そして、観客は抗議すらしない。

ふと、気がついたんですよ。「ああ、児童ポルノ法が規制強化されたり都の青少年育成条例が改正されると、こういう空気になるのか……」と。

なんだ、もうとっくに始まってたんだ、と拍子抜けしました。もはや法改正するまでもない。そんな必要はないんです。先に、みんなが口をつぐんでくれるから。
だから、表現規制って、現在、稼働中なんですよ。


『ぼくのエリ』は、公開館数が少ないので、なかなか理解してもらえないのですが……。
Eliエリという少女の股間がアップになったとき、無数のひっかき傷が入って、性器があるとおぼしき部分が隠されるわけです。

だけど、あちこちで画像がアップされていますが、モザイクの下には、女性器も男性器もありません。特殊メイクかCGか分かりませんが、「去勢された後の傷」があるだけなんです。
つまり、エリは、少女でも少年でもない。
だけど、女優が演じていますから、観客は「女性器が映った」と誤解してしまう。「ないものを隠す」ことによって、「ある」ことにしてしまう。
――こういうミスリードって、これまでも歴史の中で、何十回、何百回、何千回と行われてきたんでしょうね。ナチス・ドイツがそうでしょう、魔女狩りがそうでしょう。

「非実在青少年」のように、「ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう」。
それがまず、『ぼくのエリ』という小さな映画の中で、試みられた。僕もてっきり、未成年の性器が映ったのだと思い込んでしまった。怖ろしいことに、映ってもいない、存在すらしていない「エリの性器」が、脳の中で像を結んでしまうのです。制作者の意図とは、無関係に。
事実とは正反対に、「あの映画には、未成年の性器が映ってるんだぜ」と、観客は刷り込まれてしまう。

表現規制の何がおそろしいかって、「思考に影響を与える」ことです。


昨年、アグネス・チャンが国会に招聘されたとき、「そんなに子供の裸、見たいですか?」と、恫喝めいた発言をしてましたよね。
『ぼくのエリ』のモザイク問題に関しても、まったく同じ反論が成立してしまう。私は、スクラッチ(引っかき傷)のない、プレーンな状態で映画を見たい。だけど、「どうせ、エリの性器を見たいだけなんだろ?」と反論されてしまう。
その羞恥のために、みんな黙ってしまう。為政者にとっては、ますます都合がいい。

しかし、僕は黙らない。みんなが黙っているぶん、発言しつづけます。

(C)EFTI_Hoyte van Hoytemahttp://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/154212_1.jpg

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