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なんとか時間をつくり、国立近代美術館へ行ってきた。
企画展は「重要文化財の秘密」。国宝とか重要文化財とかタイトルにつくと、平日でも混む。
それはさておいて、だいたい60代ぐらいだろうか、パッとしない垢抜けないオジサンたちをチラホラ見かける。はっきり言うと、元いじめられっ子……という雰囲気。会社で出世したとか、責任ある立場とか、そういう成功と縁遠い人たち。僕も、彼らと同じに見えるだろう。
実を言うと、御茶ノ水の美大受験の予備校へ入って、一浪して日大芸術学部へ入れたとき、同じような安堵感をおぼえた。高校までと違って、はみだし者、変わり者の集まりだったので、ようやくホッとできた。
でも本当は、そこでホッとしてはいけないんだと思う。この後に書くことに通じるけど、「はぐれ者」というフィールドに留まっていても、それだけでは人生は面白くならない。どこに居ようと、負ける者は負けるのだ。大企業の経営者だろうと資産家だろうと、負けつづけている人はいる。……というより、たいていの人は人生がつまらない、こんなはずではなかったと思い悩んでいる。
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Twitterで、ピンとくる言葉に出会った。
「制限された中で最適化していくと、人生がどんどん不自由になっていく」。……これ、20~30代のころ、貧困にあえいでいた僕。
僕は貯金のないアルバイトなんだから、食べるものはチェーン店の牛丼しかないと思い込んでいた。クーポン券で50円引きなら、それで得した気になっている。僕は何の取り柄もない無能なんだから、キツくて安い短期アルバイトをするしかない……と、勝手に委縮している。
自分から狭い世界に閉じこもって、そこで我慢していれば損しないはずだという一種の信仰なんだよ。貧乏になる秘訣だと思う。
本当は、ひどい状況に耐えてはいけない。自分から抜け出ないと、もっと酷い目に合わされる。
でも、現実を直視する勇気がないから、「自分が負けている」状況に逃げこんでしまう。そして、「負けている」状況に甘えて、それを維持するため「仕方がない」「それが世間の常識なんだ」「誰だって我慢している」と、様々に合理化する。「負けている」状況を維持しているかぎり、自分が虐げられている本当の現実と向き合わなくて済むから。
あれもこれも全て政府が悪い、現政権が悪いので皆で声をあげましょう、選挙に行って彼らを落としましょう……と年がら年中、繰り返している人たちは、野党とか反〇〇とかいう「負けている状況」を自己目的化している。自分が与党になるためにはどうすればいいのか、決して具体的に考えようとはしない。
本当は、自分が不甲斐ないだけなのだ。勇気がないだけなのだ。その認めがたい現実を受け入れると、そこから道が開ける。というより、道があることに「気がつく」。
喫茶店は、ドトールやスタバだけではない。同じ街の名も知れぬ個人経営の喫茶店へ、同じ値段で入れる。店の広さ、インテリア、食器、多様な楽しみがあることに「気がつく」。
別に、誰か友達と行かなくたっていい。一人のほうが気楽で自由であることに「気がつく」。みんな、一人が怖いから仲間だ友達だと群れ合っているだけではないのかと、これもやはり視野が広がったから気がつけたことだ。
面白さに対して貪欲にならないと面白くならない。働くからには満員電車に乗らなくてはダメ、マスクしていないと変な人に思われるから暑くても我慢、いつも遊んでばかりだと不謹慎だからほどほどに……本当にそうか? 胸に手を当てて考えてみればいい。
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最近観た映画は、『神は見返りを求める』、『最後にして最初の人類』、『禁じられた歌声』、『オールウェイズ』など。
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