■0413■
火曜日は二日酔い気味だったため、人の多い都心ではなく、バスで行ける練馬区立美術館へ。
「本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション」展、本の展示は面白くなかったが、後半は油彩画が増えていく。
ペッタリした本の羅列を見たあとに絵の具の盛り上がりや光沢などの不規則なテクスチャを見ると、本とは情報の質が違うために見ごたえがある。ネットにある客観的な会場写真では、まったく何も伝わらない。自分の足で歩かないと、展示の流れによって生じる驚きは実感できない。
絵の前にいるのは、ほんの数秒である。だが、それは近所を散歩する数秒ではない。知覚や認識力が総動員された数秒なのである。
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さて、中村橋から阿佐ヶ谷へバスで帰るのだが、阿佐ヶ谷北一丁目あたりが好きなので、途中下車して歩く。
並木道の前後が、ゆったりした坂道になっていて、音もなくバスが登ってくるのが遠くに見える。
高校時代、好きな子と歩いていた通学路を思い出す……が、正確にはこんな並木道ではなかった。16歳ぐらいの頃は知覚が鋭敏だから、ただ強く記憶が残留して反応しているだけなのだろう。おそらく、当時目にしていたCMや映画の印象とも、溶け合っている。遠い遠い、未知の記憶に触れている感触。
ここ2~3年は、ずっとこんな甘美な感覚に捉われている。陽光や木漏れ日、あるいは雨を含んだ曇天、ビルの谷間に溜まった光、すべて美しい。いつどの瞬間も懐かしく、しかしそれは新鮮で、生き生きとしている。
まるで自分の肉体は何十年も前になくなっていて、生きていたころの美化された記憶をビデオデッキで再生しているような恍惚感。しかし、それは追憶に逃げ込むような、後ろ向きな気持ちではない。明日どこへ行こうかな?と、「これからのこと」を楽しみに思っている。
(阿佐ヶ谷北の並木通りには、喫茶店が2店舗ある。広い窓から、向かいのビルに落ちた木漏れ日を眺められる店に入った。窓際の席には座れなかったんだけど、他の客の頭ごしに、ちらちらと外を眺めていた。)
数年後も、この世界の美しさを感じていられるだろうな、という確信がある。貯金がなくなってホームレスになっても、世界は輝いたままだろう(それぐらい、僕は収入が途絶えて路上生活する可能性を案じてもいる)。
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そういえば、練馬区立美術館へ行くバスの中で、中年の女性に話しかけられた。
その人は、座席に座ったまま財布の中のレシートなどをガサガサとずっと整理していて、次にはカバンの中を忙しく確認しはじめた。こういう人って、たまにいるよな……たいていお金が溜まらないタイプなんだよな、と冷ややかに見ていた。
しかし、僕が乗り物の中や店舗で猛烈に発汗するように、精神的な不安から意味のない行動をとってしまうのは、まあ分かるよなと考え直した。僕はその女性の後ろに座ったのだが、その人は振り向いて「すみません、いま何時ですか?」と、かなり大きな声で聞いた。僕はスマートフォンを取り出して、時刻を見せながら、「0時6分です」と答えた。
その人は「ありがとうございます」と言って、さらに自分が降りる時に「先ほどは、ありがとうございました」と、はっきりした口調で言った。僕は無言でうなづいて、頭を下げるだけだった。彼女のように他人に明朗快活な態度をとれない自分を、少し恥じた。
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最近観た映画は、『あなたの名前を呼べたなら』、『ザ・ブルード 怒りのメタファー』、『独裁者と小さな孫』。
『独裁者と小さな孫』は、架空の国を舞台して抽象的な童話のような映画にしたかったのだと思う。
実写映画をリアリティのない寓話にするには、余計な情報を落としていくしかない。映画冒頭の10分ぐらいは豪華な衣装など、装飾性が強いので、その試みは上手くいっていた。しかし、独裁者が孫と逃避行するうちに服装は貧しくなり、生活感が前面に立ちはじめる。そのプロセスで、俳優の身体性が赤裸々になっていく。
物語の背景にある政治体制や思想を曖昧にしてあるため、登場人物たちが不平や不満を叫ぼうと嘆こうと、間が持たないのだ。途中で言うことがなくなって来ているのにカメラが長回しするものだから、そわそわしているのが分かってしまう。「この人殺し! 悪魔!」と独裁者を罵っても、具体性がないからすぐ語彙が尽きて、手持ちぶさたになっているのが伝わってくる。俳優の表情も、どうして登場人物たちが苦しそうにしているのか根拠がないので、もっともらしい神妙な顔をしてばかりいる。
実写映画の本質は、ドキュメンタリーなのだと思う。映画を撮るためにハリボテのセットを作り、俳優を集めて本物っぽく見せる。「本物」ではなく「本物っぽく見せている現場の記録」、それが実写映画だ。演劇は「現場」そのものだが、映画は「現場の記録」なのだ。
「制作者や俳優が作品をつくろうと四苦八苦している」事情、生っぽさをいかに糊塗して、「作品」そのものを出現させるか。それが、実写映画に課せられたテーマなのだと思う。しかし、『独裁者と小さな孫』は「寓話的な実写映画にしたかった」記録、痕跡でしかない。
では面白くないのかと言うと、最後まで、それこそエンドクレジットまで飽きずに見られた。自主映画のように無様ではあるのだが、「思った通りには出来なかった」と正直に告白していもいるように見える。かと思うと、たまに息をのむほどシャープなカット割りがある。かなり奇妙なバランスの映画だと思う。
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