■0304■
魚河岸の顔「ターレットトラック」のナゾ 実は名前すら曖昧? 何度もプラモ化されてきた“魅力”(■)
小さいけれど、ひさびさに仕事の告知。「乗りものニュース」にプラモデルのコラムが掲載されました。
メーカーさんに自分で連絡して、画像を提供してもらって……という細かい実務はいとわないけど、小さなウェブ媒体で少しずつ書いていく機会は激減してるし、よほどの事情がないかぎり、やらないと思います。
いまメインでやっている仕事は早くて3ヶ月後、半年後……というスパンです。そういう仕事をする時期に、自分は入ったのだと思います。
■
水曜日は東京駅近辺、アーティゾン美術館とインターメディアテクへ行ってきた。
アーティゾン美術館はダムタイプの展示が楽しみだったが、あまりにも規模が小さかった。ただ、余白を怖れない大胆な会場の使い方は見習うべきなのかも知れない。お化け屋敷のような、暗闇を効果的に使った展示だった。
インターメディアテクは入場無料なのに特別展示がふたつもあり、どちらも凄く参考になった。上の写真は 『被覆のアナロジー —組む衣服/編む建築』、これも十分に凝ったレベルの高い展示だが、目当てにしていた『極楽鳥』は夜~朝焼け~昼(天空)へと背景のパネルの色が置き換わっていく。
会場全体が青空に変わるところは、新しく壁を斜めに立てて、角を折れると、視界が一気に明るく変わるよう工夫してある。その瞬間が気持ちよくて、つい何度も同じ場所をうろうろしてしまう。
■
ヨルダン旅行から帰国して、早くも20日間が経過して、なじみの喫茶店にモーニングを食べに行くようになって、すっかり日本の日常に戻ってきた。
ただ、あらためて土日や祝日に飲食店へ行ってはいけないと思い知らされた。土日にしか来られない客が集まるので、(いつもの静かな店なのに)周囲に無遠慮に資料やパソコンを広げるような客がいる。これでは、チェーン系の喫茶店と変わらない。
でも、せっかく僕は平日昼間からウロウロできる身分なのだから、僕のほうから土日祝日は出かけないようにするーーこれが最も頭のいい対策だろう。
「土日祝日には飲食店へ行かない」……これはマナーや身だしなみの本で知った概念だが、なかなか説明しづらい。
10人の客しか探しあてられない個人経営の喫茶店と、ほっといても100人の客が集まるチェーン系の喫茶店では、後者の方が「世間」の平均に近づく。雑多で、マナーの悪い人も多く混ざっているのが「世間」というものだと理解し、「世間」が正しいわけでも優れているわけでもない……とあきらめれば、おのずと自分の属する次元の選択肢が浮かび上がってくる。
(他人に期待するぐらいなら、自分の心の中を整備したほうが効率がよいし勝率が上がる。他人に頼るのは、そもそもハイリスクな選択だ)
■
何度も書いていることだが、20代の僕は「チェーン系の牛丼屋に行かないと食事できない」「なぜならお金がないから」と信じていた。
よく探せば、同じ金額でもっと多様な食事ができただろうに、食事に対する好奇心も探求心も薄かった。お金ではなく、精神的な余裕がなかったのだ。
だから、ろくに探しもしないで街中で目立つチェーン系の店へ、習慣で通っていたに過ぎない(チェーン系の店はスマホアプリのように、怠惰な人でも気がつくようデザインや色彩が設計されている)。なのに、それが唯一の選択肢だと頑なに信じていた。
「貧しさ」とは、つまり狭くて安易な「価値意識」のことなのだと今なら分かる。人生に何も付加価値のない人に残るのは、「せめて長生きしたい」。これは、いい尺度だと気がついた。
■
最近観た映画は『バグダッド・カフェ』(3回目)『ダイアモンドの犬たち』、『バハールの涙』、『漁港の肉子ちゃん』(2回目)、『アンデルセン物語 にんぎょ姫』、あと『フードインク』(確か2回目)、『ショックウェーブ』などのドキュメンタリー。
『バグダッド・カフェ』は、映画冒頭でカフェへ持ち込まれた魔法瓶の色が、映画の随所に使われている。給水塔、窓に貼られたセロファン、そしてカフェ側の登場人物の服装が、ちょっとずつレモンイエローになっている。異邦人であるドイツ人の婦人も、最後の最後でレモンイエローのシャツを着る。
綿密に設計されたデザインではないが、象徴的な色として意識しているのは間違いない。
『バハールの涙』は、クルド人の女性たちが小規模のゲリラ部隊を結成する。一種の戦争映画だ。
主人公バハールの部隊が、苦難の末に敵の拠点を制圧する。バハールは電波塔によじ登り、そこに掲げられていた敵の黒い旗を投げ捨てて、「自由クルディスタン万歳!」と叫ぶ。ここはロングである。次のカットは、くすんだオレンジ色の空に黒々とした雲が流れていくだけ。夕闇に染まっていく空だろう。ズーン……と重たい音楽が流れる。
その次のシーンは拠点外観のロング、そして内部なので、空と雲のカットは時間経過ぐらいの効果しかない。しかし、雲はスロー撮影で動きを早く加工してある。すなわち、実時間ではなくバハールの心理描写、心の中の風景だとも捉えられる。
こういう瞬間があるから、僕は映画を見ている。『バハールの涙』自体は、古典的なヒューマン・ドラマに過ぎない。しかし随所に、ストーリーやドラマに還元できない感覚的な描写が散りばめられているのだ。
| 固定リンク
コメント