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早稲田のスタジオによく出かけていくのだが、仕事前にいつも立ち寄っていた喫茶店が、今月で閉店してしまった。
これは、閉店を知ったときの最後の写真。過去のFacebookの日記を見ると、歩くのがキツい真夏にはタクシーで行ったりするぐらい、気に入っていた。「人生でベスト3」「大好き」と何度も書いていた。
この店の大きな窓ガラスから早稲田通りを眺めると、まるで水槽のように静まりかえって見えた。通りの向こうに、ガラス張りの建物があることも関係していただろうし、グレーと水色に塗り分けられた店内の色調も作用していただろう。
僕は人の顔を覚えられないので特に誰、というわけではないのだが、何人かの女性店員が接客していたことも大きいと思う。たまに、厨房で調理しているお兄さんが出てくることもあったが、テーブルの間を行き来するのは女性店員だった。
何しろ顔を覚えられないぐらいなので、特に誰が気に入っていたというキャバクラ的な感覚ではない。しかし、女性の目にさらされる機会の多い店だから、恥ずかしい格好をして行かないようにと、前夜から服を選ぶほどだった。
もちろん、お店の人たちは僕の服装なんて見てないだろう。「他人からどう見られるか」ではなく、「自分で自分をどう思うか」なんだ。「ちょっと背伸びして出かけよう」という向上心を維持しないと、人間は早々と堕落する。惰性ではなく「あの店は特別だ」「あのお店に相応しいお客でありたい」という上向きな気持ちを喚起してくれたことは間違いない。
Facebookには「この店に、片思いしている」とまで書いた。この店の透き通った価値観、美意識に自分を合わせようと頑張っていた。背筋を伸ばして、静かに、丁寧にふるまおうと。だから閉店してしまった今、こんな喪失感を味わっているんだろう。
まずは、その話をしておこう。
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他にも、休業してしまった喫茶店がある。
1月に訪れたその喫茶店は、70代の女性がひとりで経営していたが、ヨルダン旅行から帰ってきた2月中旬以降、いつ行ってもシャッターが閉まって「事情により休業いたします」の貼り紙がしてあった。
先日行ってみると、シャッターは半分ほど開いていて、何とか人が入れる。どうしようかな、と迷っていたら、たまに見かける常連のおじさん(この人も70代だろう……年末の大掃除を手伝っていたのは、この人だったと思う)が、ヒョイとシャッターをくぐって入っていった。
じゃあ、いいのかなと思って、僕も後につづいた。
店の中には、女性が二人ほどいて、70代の女主人もいた。お弁当が置いてあったので、これから三人で食べるのだろう。
「こんにちは!」と、女主人は元気に僕に挨拶した。話によると、ここのところ病気で休んでいて、今からまた療養生活に入るので、またしばらく休業だという。「でも、生きて帰ってきます」と笑顔だった。「楽しみにしてます」と、僕はその場を辞した。
先に店を出たおじさんが、「残念だね」「(女主人は)痩せたね」と呟いた。この人と話をするのは、初めてのことだった。僕は店の人と話すことはあっても、常連客とは話さない。だけど、3年も喫茶店を回っていると、必然的に人間関係が出来てしまうのだと分かった。
女主人は、僕の「ヨルダンへ旅行に行くんです」という一言をきっかけに、自分の父親のこと、人生観や人間観を話し出したことがあった。
唐突には感じなかった。なんとなく、お互いの距離感や深度を測れていたから。仲がいいとか気が合うとか、そういうのでもない。年齢とともに、心の形がそうなっていった……とでも言うのだろうか。
30歳ぐらいでも、それなりに人生経験を積んだ人は、他人とほどよい距離感を保っていると思う。それは人による。年齢のせいではないんだろうな。
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30代の僕は未熟だったから、他人に頼り、甘えた。他人に過剰に期待し、愛されたい・認められたいという執念・怨念で生きていた。
ところが今は、ほとんど誰とも口をきかない。このブログを読んでいれば分かるだろうが、他人蔑視が激しい。凡人をバカにしまくっている。
反面、自分がダサくて気持ち悪い男だと蔑まれても、そういう見苦しい生き方をしてしまっている自分を認めるぐらいのゆとりがある。
その心の在り方が、焦って他人を求めてばかりいた若いころと、決定的に違う。他人に嫌われても憎まれても、そういう流れなんだから仕方がないんじゃない?とあきらめられる。あきらめた心の隙間に、穏やかな気持ちが流れこんでくる。
その仕組みを知っているんだよ、今の僕は。なるようになるんだから、焦らない。
僕は、運がいい。離婚して家族が凄惨な死に方をしたけど、だからこそ自分の心が納得いくように考え抜くことが出来た。何が幸せなのか、どうするのが好きなのか、嘘をつかずに追求できた。あの時、僕は一度死んだのだ。だから、今の穏やかな暮らしがある。一周めぐって、運がいい。
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最近観た映画は、『異端の鳥』。長いので、3回ぐらいに分けて見終わった。
僕らしくひねくれた事を言うと、上のスチールの戦争シーン。全体に硬質、静謐な映画なのに戦争・虐殺シーンは別の映画のようにカットワークが激しい。独特のムードをもった映画なのに、ここだけ普通の映画から借りてきたように見える。
それは、現場に集まったのがアクションの得意なスタッフだったからじゃないか。ロケ場所、スタントマン、メイク、小道具、スケジュール。そういった外的・物理的な要素でしか映画は成立しない。「思い」なんてものでは、映画は成り立たないのだ。
「思い」を物理要素に分解して、作業・事業として遂行させる。それが、映画の実質である。逆に実務として遂行可能なレベルに分解できたら、映画は必ず完成する。そういう考え方を、こういう芸術性の高い映画から学ぶことだって出来るわけだ。