■ヨルダン旅行記-4■
ヨルダンから帰国して、早くも一週間が経ってしまった。
もう思い返すのも面倒なような、これからやってくる経験に比べて、遠ざかりゆく過去を文字化して固定することに前向きな意味を見出せないような気もする。経験は、身体の芯にはしっかり残っているので。
■ワディ・ラム-1
今回の二週間の旅のなかで大きな決断は、ペトラ遺跡の町に執着せず、一日繰り上げてアカバへ帰ったこと。アカバで一泊して、翌朝にバスでワデイ・ラムの砂漠へ向かった。アカバはバス・ステーションがあるし、宿にも飯にも困ることがない。暗くなってから帰ってきても、必ず何とかなる。Wi-Fiさえ繋がれば、スマホで宿を予約できる。
アカバからワディ・ラムへは、ペトラへ向かったのと同じ時間帯(朝8時)のJETTバスの券を買ってあった。タクシーでの移動は高額になりそうなので、カードの使えるJETTバスで全ルートを押さえておいたのだ。
ワディ・ラムのビジターセンターでバスを降りたが、他の乗客はアカバへ日帰りするのだろう、早々と入場券を買ってツアーに参加するための交渉を始めた。僕は目的地であるムーンバレー・キャンプの名前をスマホに表示させて、ツアーの勧誘をしてくるベドウィンたちに「ここへ行かねばならない」「このキャンプは何処にある?」と聞いてみたが、「何の話か分からん……」という顔をされた。
(当初の計画どおり、夜分に無人のビジターセンターに着いていたら……と考えると、ゾッとする)
とりあえず腹が減ったので、ビジターセンターに併設されたレストランに入って、サンドイッチを注文した。
店の人は「ソーダとポテトの付くお得なセット」を指さした。そのメニューは、Google翻訳でカメラ撮影して日本語に訳して理解できた。観光関連業者の誰もが英語ができるわけではないし、僕も「あなた英語はできないの?」と何度も聞かれたほどなので、Google翻訳は頼りになった。しかし、店の人はソーダを忘れていたようだ。この手のセットを頼むと、たいていコーラが付いてくる。
ビジターセンターの駐車場で、タクシー運転手から声をかけられた。
僕の予約してあるムーンバレー・キャンプの場所は分からないそうだが、何度も地図を見直して、「あそこだよ。線路をこえて歩いて行くんだ」と指さした。彼の誠実な態度に腹は立たなかったが、それは別のキャンプ場だった。
僕がスーツケースを引きずって砂漠を歩いていくと、キャンプの事務所(というか食堂のような共有スペース)からベドウィンの男性が出てきた。彼は「どうした?」「なんでここに来た?」と言う。僕は「ムーンバレー・キャンプ」と表示されたスマホを見せたが、彼は英語は話せても読めないようだ。
そのキャンプのゲートから走り出てきた車の運転手にも「どうかしたのか?」と呼び止められたが、僕の英語は下手すぎて通じなかった。彼の隣には、中国人らしいアジア系の女性が座っていた。「ひょっとして、あなたと言葉が通じるんじゃない?」と運転手は彼女に話しかけた。「僕は日本人ですけど」と言うと、そこで会話は止まった。
「彼は英語は通じるの?」と運転手が女性に聞くと、「たぶん……」と彼女は答えた。ちょっとムカつくけど、そういう低レベルの英語であることは確かだ。車は走り去り、僕とベドウィンの人は食堂へ引き返した。彼の仲間が、チャイを淹れてくれた。なんと親切な人たちだろう。
ベドウィンの人はあちこちへ電話して連絡をとり、お互いに翻訳ソフトで英語とアラビア語をやりとりした。「向こうのキャンプは電話に出ない」「5ディナールで、誰かに連絡させる」「それか、10ディナールで車で送ってもいい」……言うまでもなく、車で送ってもらった。ツアーでよく使われる4WDだ。ムーンバレー・キャンプまで、10分近くかかった。
しかし、ゲートが閉まっている。運転を買ってでてくれた人はクラクションを鳴らしたり、キャンプへ電話したり、あれこれしてくれた。しばらくすると、太った男性が「すまなかったな」とゲートの向こうに現われて、ようやく僕は目指すキャンプに入れた。
しかし、男性はスマホを差し出し、僕は電話の向こうの老人に「何泊する?」「食事はどうする?」などと聞かれた。この時に気がつくべきだったが、予約が通っていなかったのだ。僕はフラリと砂漠に現れた、アジア人の風来坊でしかなかった。
だとしても、現地でも孤立したように誰からも知られていない古いキャンプに、わざわざ車で現れるだろうか? 予約したとおりトイレとシャワーとエアコンのついた部屋に泊まれたし、いまだに腑に落ちないのだが。
■ワディ・ラム-2
荷物を降ろすと、太った男性(彼はKITCHENと書かれた厨房で働いていたので、ただのコックだったと思われる)にカードではない実体のキーを渡された。最初に泊まったアンマンのホテルほど不潔ではなかったが、タオルはない。
コックは、「晩飯は何時にする? 6時、7時、8時……」と聞いた。7時にしておいた。彼は僕と同レベルで、片言の英語しか出来ないので話しやすかった。
アラブ式トイレのハンドシャワーは勢いがよく、用便には困らなかった。それと、気候が乾いていたせいか、砂漠で汗をかくようなことはなかった。
Googleマップによると、歩いて30分ぐらいのところに小さな町があり、レストランもあると分かった。とりあえず、そこへ行ってみよう。アカバでビールは4本も仕入れてあるから、町に売ってなくても困らない。
■ワディ・ラム-3
歩いて見ると、車道に近づくにつれて大きなキャンプ・サイトが2つほどあると分かった。
近代的なハイテク・テントが沢山あって、入り口には広い駐車場もあり、JETTバスも何台か止まっている。貸し切りで、直接キャンプへ客を運んでいるのだろう。そして、ツアー客を乗せた4WDが何台も行き来しているのが見えた。
歩いて着いた町は、ほとんど廃墟ではないかと思えたのだが、もう少し奥へ進むと八百屋やパソコン屋、おもちゃ屋まであった。しかし、車の解体や修理がもっとも盛んな様子だった。
ジュースでも買おうと店に入ったら、その店の主人はピータのようなパンを並べて、いろいろ具材を挟んでいるところだった。主人はファラフェルと呼ばれる小さなコロッケを、僕の口元へ差し出した。遠慮なく食べると、美味しい。すると今度は、ソースにつけてもう1個、食べさせてくれた。ジュース代のつもりで適当に札を出してあったのだが、金額も見ずにアラビア語で「これとこれ、入れようか!」「これも入れる?」とノリまくって、サンドウィッチを1個つくってくれた。
値段は、どうもこの町ではハッキリと決めない様子だ。他の店でポテトチップスを買ったところ、ポケットにあった小銭を適当に出したら「もうこれでOK」と手で止められた。このサンドウィッチとジュースで3~4ディナールぐらいだから、別に高いわけではない。
予期せずして昼飯にありつけた。店の前の椅子で座って食べていると、西洋人の女性が隣のパン屋で何か買っていた。隣にアラビア人の男性がいたので、結婚して町に住んでいるのかも知れない(店の並んだ奥に、平屋の住宅街のようなエリアがあった)。
少し英語を話せる若い男性に「よお、どこから来た?」「へーっ、日本?」「日本といえばさあ…」と、あれこれ話しかけられた。つまらなそうに、手持ち無沙汰にうろついている子供もいた。
さて、ゆっくり歩いて車道から砂漠へと分け入り、我がムーンバレー・キャンプへ帰る。『バグダッド・カフェ』の主題歌「コーリング・ユー」をスマホで聞きながら歩くと、風の吹き抜ける砂漠にはピッタリだった。
よく見て欲しい。看板のうえに何か紙が貼ってあって、キャンプ場の名前が読みとれない。
僕以外は誰も泊ってないように見えて、翌朝は隣の建物から中年の男性が出てきたりした。食堂に、二人ほどの関係者?が寝ていたり、マイクロバスが停まっていることもあった。その割には、それほど大人数が滞在している気配はない。どうにも不思議な雰囲気なのだが、この方が観光客でいっぱいのキャンプより、明らかに僕に向いている。
1日目の晩御飯は、こんな感じだ。
僕ひとりしかいないのに、3人前ぐらいある。左側はイモとタマネギなどをケチャップのような調味料で炒めたもの、真ん中はよく見かけるトマトとキュウリのサラダ、左側はピータの下にチキン(これもあちこちで出てきた)。
これらを、コックと70歳はとうに過ぎている老人(電話に出た宿主だろう)が黙々と運んできて、カップ入りの水と紙ナプキン、つまようじを机に置いた。
とても食べきれないので1/3ほど残すと、翌日はさすがに量が半分ぐらいに減っていた。つまみとしてポテトチップスを買ってあるけど、食後はビールを飲む気さえなくすほど満腹だった。
食堂のほうがWi-Fiの入りがいいので、ひさびさにYouTubeを見たりした。翌朝は、この食堂の前から定例ミーティングに出席した。
そういえば、持参したWi-Fiルーターが不調なので日本のレンタル会社にメールして、改善策を聞いたりもした。ペトラ遺跡では、ホテルで寝ているときに日本からの電話を普通に受けられた。日本の部屋にいるのと、大して変わらない気さえする。
夜中3時に起きると、噂に聞くほど星が沢山あるわけではない。風がすごいので、コートにくるまってビールを飲んだ。どこへ向かうのだろう、飛行機の翼端灯が、小さく頭上を通りすぎていく。
キャンプには、やはり僕のほかには誰もいないようなのだが、孤独ではない。後から事件が起きるにしても、僕にしかコーディネートできない、あまりにも自分らしい旅だった。
(つづく)
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