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2023年1月14日 (土)

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13日金曜日は、朝から暖かったので、ひさびさに喫茶店へ出かけてモーニングを食べた。
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平日の朝8時なのに、女性の2人連れなど客が結構いる。オープンから半年以上は経つと思うけど、リピーターがついたんだな。
しかし、このピンクのコップは店の知的なイメージにあわない。今までは、透明かチャコールグレー。カトラリーには凝っているが、カップやコップはそうでもないか、ちょっと妥協のしかたを覚えはじめたのかも知れない。こうして変化していくから、個人のお店は楽しいんだけどね。


朝食後、まずは六本木のサントリー美術館へ行ってみたが、かなりの行列だったので上野へ移動、東京国立博物館へ行った。
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お目当ては「松林図屛風」なのだが、さすが国宝と宣伝しているだけあって、平日でもそこそこの人だかりである。確かに、繊細な筆致は見ごたえがあるのだが、自分が能動的に魅力を発見した高揚感はなかった。「行列が出来ているほどのラーメン屋なのだから美味いに決まっている」と同じバイアスがかかってしまうのだ。
僕の気に入る作品って、他のお客さんが2~3秒だけ見て「ふーん」と通りすぎてしまうものが多いのかも知れない。僕だけが足をとめた時、そこから自分なりの固有のテーマが発生する。そうやって拓けた道筋を、丁寧にたどっていくのが孤高の楽しみなのだと思う。

博物館から近いので、以前、大行列ができていて入れなかった東京藝術大学大学美術館へも寄ってみた。
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テーマは地味だし、展示の工夫も乏しいんだけど、粘り強い実直な研究のあとが見てとれて好感をもった。
国立博物館、大学美術館ともにマスク未着用の人は「できません」の札をさげる決まりだが、そういうのはちっとも苦ではない。お手数をかけてしまうので、しっかりお礼をする。


年末に、「ちょっと高いし次はないかな……」と思っていた谷中ビアホール、やっぱり寄ってしまった。博物館から、ちょうどいい距離。
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ほんの二週間前に来たばかりのせいか、店のお姉さんには「いつもありがとうございます」と挨拶されてしまう。
ここはIPAが1種類しかないので、3/4パイントで一杯だけ飲む。本当は、1/2パイントがあって800円ぐらいだと嬉しいんだけど、おそらく外国人観光客がグイグイ飲むせいだろう、量は多めである。

そのまま谷中銀座へ行く。
近道をおぼえていて、すぐ日暮里駅前に出てしまったので、あえて騒がしい商店街の中を通る。そして、夕焼けだんだん坂を登って、ふーっと一息ついたところに目指す中華料理屋がある。観光地特有のごみごみした雰囲気が途切れて、「もう楽しいことはおしまい」とでも言ったような、不思議な“抜けた”風情がある。
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(餃子をかじりかけに見えるが、お箸で2つに切り分けただけです)
年末と同じように、70~80年代の聞き覚えのある洋楽が流れ、ほの明るい店内は閑散としている。まだ15時だから、客は少なくて当然かな……と思っていると、僕と同じようにこんな時間から「中ジョッキ」と注文するオジサンがいる。

誰にも邪魔されない、この浮遊した時間。天国があるとしたら、こんな穏やかな場所なのだろうと、いつも思う。


前回、小学生時代のいじめられ体験を書いた。おかげで、いろいろ心の整理がついた。
僕はここ2~3年、「友達」という概念を消そうと努めている。確かに年に何度か、「ひさびさに飲むか」と連れ立って出かける相手はいるのだが、「友達だから」という空虚な先入観を消す。たまたま利害が一致したから……程度に捉えて、彼が僕に聞いてほしいことがあれば耳を傾ける。また、こちらも「今の彼」にだったら聞いてほしいこともある。それ以上は、追求しない。そこまで相手に期待しないし頼らない、裏切られても憎まない。
「そうは言っても友達なんだからさあ!」という余計な固定観念が、僕たちを呪縛する。

どんな人間関係も、ちょっとずつ支配的なんだと思う。被支配的な隷属を自ら望んでしまう人も、意外と多い気がしている。友達と同じブランドの服を買って、同じような髪色に染めて、同じ所へ遊びに行く。旅行も趣味も、ぜんぶ言われるまま同じ……こうして書くと、僕の結婚時代は奥さんの支配下にあったんだな、と痛感する。
婚姻関係は置いといて、「彼は友達なんだ」という思い込みが、支配/被支配の関係を見えづらくする。「この前はよく考えず彼に従っていたけど、今回は俺が強制してしまっているな」と、少しずつ支配したりされたり……それが社会なのだ、人間関係とはそういう抑圧を最初から含んでいるものなのだと前提しておけば、何があっても大きな心のダメージを受けずにすむのではないだろうか?
「俺は支配なんてしていない、彼とは対等なんだ」……この純粋な思い込みが、いつの間にか重圧になっていく。親子・夫婦・親戚など言うまでもなく「他人」にすぎない。「他人をそこまで追わない」「期待しない」だけで、かなり気軽に生きられるはずだ。
(いつも言っているように、賢い人はこだわらないがバカは固執する。)

ポケットを空にしておくと、そこに思いがけないものが飛び込んでくる。ジンバブエで出会う人たちみんなに助けられた体験()などが、いい例だ。一人で穏やかに過ごしていられるからこそ、人間という生き物の美しさが分かるのだ。


そういえば、来月1日から2週間、ヨルダンへ旅行する。
帰国時に3回接種の証明書が必要なので、6日の夕方に打ってきた。市役所近くの接種会場へ行く前、バスでお気に入りの喫茶店へ寄った。
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あいかわらず、店主が大声でカウンターの客たちと雑談していて、それが一種の風物となっている。
ワクチンが契機になって死亡した人も、少なくない数いるのだろう。しかし、打たないと帰国できないというリスクを受け入れられるところまでは考えた。もし運が悪くして死ぬとしても、母の命日が近いんだから、それはそれでいい気もした。
今は大きな仕事を抱えているけど、今日死ぬとしても、それほど後悔はないというか。人間の醜い部分をたっぷり見てきたけど、よく考えたらそんなに悪い人生ではない。こうして、好きな喫茶店でゆっくり過ごせることが何よりの証だ。
酷い目にもあったけど、その何十倍も良い思いをしてこられたよな……と、本気で思えた。オセロのコマが引っくり返るように、暗く惨めな過去は今の自由のためだったんだと、納得がいく。

もうひとつ、思ったことがある。
日本のスーパーでパック入りの納豆を買うと、「開け口はこちら」「納豆のたれ」「こちら側のどこからでもカットできます」「液が飛び散るのでかからないように」など、狂ったように注意書きが書いてある。割り箸にも「つまようじで指を刺さないように」などと、子供に言ってきかせるような幼稚な注意書きが印刷してある。
もともと、ちょっとしたリスクを極度に恐れる国民性なのだろう。本多勝一『アラビア遊牧民』によると、日本は異民族からの激しい侵略を受けてこなかったので、あっさり相手に謝ってしまうのだという。


最近観た映画は、『関東緋桜一家』、『硫黄島からの手紙』(2回目)、『グッドモーニング、ベトナム』(2回目)。
『硫黄島からの手紙』、伊原剛志の演じる西竹一中佐が、米兵の遺体からその母親の手紙を見つけて、塹壕のなかで読み上げる。それは飼い犬が逃げ出して騒動になったとか、ごく日常的で常識的な内容だ。まるで自分に宛てた手紙のように感じたのだろう、銃を構えて待機していた若い兵たちが一人、また一人と立ち上がる。カットが切り替わると、その場にいた数名が西中佐を囲んで立っている。
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最後に主人公の二宮茂樹が立ち上がり、カットをまたいで彼の背後の兵士も立つ。誰もが無言である。余計な台詞はひとつもない。
「立つ」というアクションが、厳粛に感情を描写している。シーンの直後、爆撃が起きて情緒に流されないのも良かった。映画全体としては「なぜイーストウッドが監督?」と思うが、若いころに見たときは、こうしたスマートな演出効果に気がつかなかった。

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