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17日火曜日は、東京都庭園美術館へ。
「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」……この狭い館内に、貴重な家具類を大量に持ち込むのは凄まじい労力だっただろう。
しかし、この企画は知的レベルが高すぎて、無知な僕には価値が測りかねた。ただ、うかがい知れない価値を感じさせるだけの凝った展示であることは間違いない。
目録と照らし合わせて、熱心に見ている女性がいた。彼女には知識があるから、僕より深く楽しめるのだろう。
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庭園美術館の近くに、とても良い喫茶店を見つけた。小さなカップで、試供品のようにおススメのコーヒーをサービスしてくれた。
コーヒーに詳しい地味な女性と、快活で髪の色を明るく染めた女性とが2人、まるで映画に出てくるように生き生きと仲良く働いていて、調和した雰囲気を醸しだしている。初めて入った僕に、コーヒーのことをあれこれ説明してくれたのも良かった。
ただし、この写真は近所のモーニングである。誰にも知られたくない、写真すらアップしたくないお店だってある。
昨日は、リモート会議が早く終わったので、玉川上水を歩いて、井の頭公園の休憩所へ行った。これも、店名は書かない。
この店に来るのは、11日ぶりだった。すでに100回ぐらいは昼からビールを飲むために通っているとは思うが、この毎度の静寂と喧騒のバランスは天国に近い……と感じている。妙な言い方だが、「今日死んでもいいな」と思ってしまう。
こうやって景色を眺めたり、おいしい酒やコーヒーを口にすることが良いガス抜きになっている。ちょっと嫌なことがあっても、気持ちが軽くなる。
僕がこうまで毎日穏やかに過ごせているのは、どうやったら自分が満足するか精密に測ってきたからだろう。『賭博破戒録カイジ』に出てくる「欲望の解放のさせ方」を、一人でじっくり吟味してきた自信がある。
自分が何が欲しいのか真摯に考えず、漠然と「誰かが何とかしてくれるだろう」と雑に考えている人は何をしても楽しくないだろう。「楽しい」「幸せ」は具体的な何かというより、心の形なのだ。
あと10日後にはヨルダンへ旅立つが、それは僕が裕福だからではない。相変わらず、貯金は数十万円しかない。お金よりも、海外へ行く価値を学んでいて、なおかつ未知の驚きを怖れてもいない“心の状態”のほうが大きい。
海外へ行くたび、その体験は他にない財産となって残りの人生を照らしてくれると、僕は知っている。
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ようやく、過剰なコロナ対策も収束の気配を見せている。
でも、通常の人生が苦痛な人にとっては、コロナ対策の「どこへも遊びに行くな、イベントも中止」「子供たちにも我慢させろ」という圧迫感は、痛みを和らげてくれる鎮痛薬だったんだと思う。
僕が喫茶店で出会った足の悪いオジサンは「マスクしねえバカがいるからよお!」「だってコロナで人が死んでるんだぞ?」と聞こえよがしに当たり散らしていた。彼は思い出したように「生きてても、何ひとつ面白いことねえよ」とボヤいていた。そっちが本音で、マスクだとかコロナだとか他人の死だとかは、気をそらしてくれる手近な材料にすぎないのだろう。
(……僕も20代の極貧時代は、世の中や現実が怖いし、痛かった。だから、記憶をなくすような酒の飲み方をしていた。)
人は、自分の心に嘘をつく。本当は自分の心と向き合い、少しずつ改善しないと人生は楽しくならないのに、たとえば「与党や政権がズルしているぶん私は損をさせられている、彼らのせいで人生がつまらないのだ」といった短絡的な図式で不満を合理化しようとする。
左翼的なアイデンティティだけでなく、ネトウヨの考え方も同様の構造をもっている。「在日朝鮮人が特権を行使しているから、彼らのせいで俺は本来の権利を得られない」という合理化。その図式に「コロナのせいで」も代入可能で、ようは自分から改善しようと主体的に取り組んでいないから不幸なのだ。
(萌えキャラが公共空間にあるせいで苦しい、などと主張するフェミニストや反出生主義者も同じような図式で論点を誤魔化している。)
コロナ対策に過度に依存している人を見ていると、『俺はまだ本気出してないだけ』という漫画のタイトルを思い出してしまう。「本当は人生すごく楽しいんですけど、今はほらコロナだから我慢してるだけで……」と言い訳しているように見えてしまうのだ。
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最近観た映画は『父親たちの星条旗』、『シンシナティ・キッド』、『レナードの朝』。
『シンシナティ・キッド』の冒頭近く、列車のシーンについて書くつもりだったが、それはまたの機会にしよう。何しろ、『レナードの朝』の“外”の描写に唸らされたからだ(91年の公開時には気がつかなかった)。
まずタイトルあけ、大きな精神病院に赴任してきたロビン・ウィリアムズ演じる医師の背後で、青々とした木々が風にざわめているのが印象的だ。ザーッという効果音もいい。実は、その木々のざわめきは感情表現として何度か使われる。
眠ったように過ごしていた患者たちが、音楽に反応するシーンで、窓の外いっぱいに広がった木々が風に吹かれている。ロバート・デ・ニーロの演じる患者が目覚めて、ひとりで初めて歩き出すシーンで彼は窓際にいる。外では、やはり木々がざわめている。木々が彼らの心の動き、変化や躍動を表現している。
患者の目覚めた翌朝、外の木々は止まっている。しかし、患者は室内の扇風機の風に気がつく。次に、窓格子の外の風景に興味を持つ。風が、彼の心を動かしているのだ。
「窓」は、また別の役割を担っている。
閉鎖病棟に閉じ込められた患者たちの異様な振る舞いに、ロビン・ウィリアムズの医師は窒息しそうになって窓を開け放つ。そこから見える病院前の小さな歩道が、とても美しい。左下から右上にかけて芝生を歩道が横切っている。6:4ぐらいの比率の安定した構図だ。5か所ぐらいに、それぞれ子供たちが集まって遊んでいる。十字になった歩道の左側から、大人が歩いてくる。落ち着いた構図に、ほどよいノイズ。
僕はこの美しい歩道のカットに心を奪われたのだが、なんと、もう一度出てくる。医師が思案しながら、鉄格子を外して窓をあける。あの美しい歩道を今度はゆっくりとPANする。女の子が“ケンケンパ”をして遊んでいる。それを見た医師は、解決策を思いつく。(余談ではあるが、この2つのカットは同じ日に撮影されたためだろう、劇中では別の日なのに同じ服のエキストラが何人か歩いている)
「窓をあける」……このアクションは、ラスト近くで医師が献身的な理解者である看護婦を呼び止めて、2人のロマンスを予感させるシーンでも使われている。僕はこうした映画の構造、仕組みに美しさを感じる。なぜ美しいと感じるのか、解き明かしたいと思っている。
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