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正月2日は東京都写真美術館へ行ったが、3日は吉祥寺タップルームで一杯やって、4日はワタリウム美術館へ「加藤泉ー寄生するプラモデル」を観に行って、その日は休肝した。
そして昨日、府中市美術館へ諏訪敦の個展、「眼窩裏の火事」へ。これが、未知の衝撃だった。作者は僕と同い年で、美術界ではエリートコースを歩いてきた人だが、肉親の遺骸という過酷なモチーフに厳然と向き合う意志の強さ、それを解剖学のような冷静な手つきで(描くというよりは)記録していく仕事の精密さには、舌を巻いた。
写真撮影は禁止だったが、下絵と完成した絵をオーバーラップさせる投射、小さな静物画の四角いフレームだけを暗闇の中で浮かび上がらせる細かなライティングなど、展示も丁寧で念がいっていた。
そして、常設展もすごく良かった。半分以上の人が見ないで帰っていたようだが、これが丸ごと見られて700円って……お金がなくなっても、ここまで歩いて見に来てもいいのではないか?とさえ思う(バスの路線がややこしく今ひとつアクセスが悪いので、いっそ歩いた方がいいのだろう)。
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最近、小学生時代のことを、よく思い出す。
放課後、仲のいいY君と歩いていたら、隣のクラスのK君という怖い人がとりまきを引き連れて「お前ら、ちょっと待て」と絡んできた。「口笛を吹いてみろ。吹けたら、俺たちの仲間だ」。Y君はビクビク震えながらも、口笛を吹いた。「よーし、吹けたな。Yは仲間だ、こっちに来い」とK君が言うと、Y君はおずおずとK君のほうへ行った。
「じゃあ、お前は? 口笛ふけるか?」 僕は吹けなかった。不器用なので、今でも出来ない。「お前はダメだ、仲間じゃない」。僕と一緒にいたはずのY君は、K君たちについて歩いていってしまった。なので、僕は一人で帰った。しばらく一人で家にいると、Y君が「さっきはゴメンな~」と笑顔でやってきた。でも、僕は笑えなかった。その後も、彼とはギクシャクした関係になってしまった。
口笛に、どんな意味があるのかは分からない。口笛が吹けたからって、何か得するわけでもない。マスク圧にも、同質のものを感じる。他人に忠誠を誓わせて分断し、人を二種類に区別さえ出来れば、口笛でもマスクでも何でもいいんだと思う。
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小学校時代の話をもうひとつ。
ちょっと汚い話だが、僕が小学4年生ぐらいの頃までは、寄生虫検査があった。それぐらい、当時の家庭は衛生管理が行き届いていなかったのだと思うが、お尻に専用のセロファンを貼って学校へ持っていって検査してもらう制度があった。僕は、一度だけ寄生虫検査に引っかかった。
小学1~2先生の頃は、たとえ寄生虫がいると判明しても、結果はこっそりと当人か家庭へ知らされていた。ところが、小学3年生から担任になった横尾という女教師はモラハラ的な横暴がひどく、クラス全員の前で「〇〇は寄生虫なし」とわざわざ一人ずつ、検査結果を読み上げた。
横尾は僕の検査結果を見てピタリと手を止め、「ああ~……廣田は、寄生虫いたんだ……」と芝居がかった口調で言った。「ええーっ!」と、クラスメイトが一斉にこちらを見た。無論、「汚い」「バイ菌」という嫌悪感だろう。
僕のほかに検査に引っかかったのは、いつもイジメられていたG君と、大人しい女子がひとり。僕はG君とは仲がよかったので、彼と2人で下校していると、気の強いOさんという女子が絡んできた。「Gと廣田は、寄生虫いたんだよね」「廣田は薬(虫下し)を飲んだからいいけど、Gはダメ」と、Oさんは僕たちをからかった。
この当時は、いじめられている子に触ったら「〇〇(その子の名前)菌がついた」という言い方が流行っていた。そうした場合、別の誰かに触れて「タッチ」「つーけた」と汚い物が伝染したような仕草をして、中指と人差し指を組み合わせて「ダブル」と言えば自分は清潔に戻れる……という遊びがあった。他愛のないことのようだが、僕には社会の本質のように思われる。
マスクをしていない人は保菌者で不潔で有罪で、マスクをした瞬間にいきなり清潔になる(無罪で仲間になれる)……という「ダブル」のような状態に、社会全体が陥っている。人間を二種類に分けようとする。分けられない人間は穢れているので、忌み嫌う。殺しはしないけど、無視したり意地悪して、まあ人権を奪うわけだ。
ヒヨコの群れの中で、一羽だけリボンをつけておくと、群れはその一羽を避けて行動するようになるという。
差異を見出して孤立させることは、動物の本能なので良いとか悪いとかの問題ではない。「いじめをなくそう」というスローガンがあるが、いじめを無くしたら、おそらく社会が無くなるだろう。いじめられっ子本人が独自に戦略を練って、自分の居場所を創造する。集団に頼らず、他人を信じず、自分だけの人生を手に入れるかしない。
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今は身なりにかなり気を配っているつもりだが、僕の持っている肉体的な不格好さ、異様な雰囲気は消しようがなく、これからも社会から疎外されて生きていくことになるだろう。それに異存はない。確かに、僕は出来損ないだ。でも、もはや他人に愛されなくても平気だし、僕自身は僕をカッコいいと認めている。そう誇れるようになったのは、12年前の母の理不尽な死がトリガーになっている。
三鷹市役所では、「そのライターとかいう職業で税金を払えなくなったら看護師・警備員・清掃員の仕事でもやってください。まあ、あなたの場合は清掃員かな」と言われた。もちろん、このヒョロッとした僕の肉体を奴隷のように値踏みして、「後はもう清掃員ぐらいしか世の中の役に立たない男だ」と判断したのだろう。
だけど、いつも書いているように「これしかない」と選択肢を狭める短距離の発想こそが、貧しさの正体なのだ。
僕は自分の好きなアニメやプラモに関する本や記事しか作っていないけど、それが巡り巡って読者さんに活力や癒しを与えると信じている、それだけの社会的価値が十分あると信じているからやっているのであって、口座に振り込まれるお金は、その価値を生み出した対価なのである。
どれが正解、というわけではない。どれでも正解に出来るぐらいの広い応用力をもてばいい。そこまで来るのに、社会に出てから30年もかかってしまった。「明日お金を得るには今日どこかでアルバイトするしかない」……その“効率的な”考え方が、貧乏を引き寄せる。
三鷹市役所の職員さんは、確実に僕よりいっぱいお金を稼いでいる。だけど、自分の知らない価値観が世の中にたくさんあることに「気づいていない」。新しい価値を、自分から生み出せることも知らない。その無知が「貧しい」という状態なのだ。
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最近観た映画は、サミュエル・フラー監督『拾った女』、マルセル・カルネ監督『嘆きのテレーズ』、あとは東映動画の長編をたくさん。
何だか退屈そうだな……と見はじめた『嘆きのテレーズ』が、実は最後の最後まで目を離せないぐらい面白かった。
こんなバストショットばかりのモノクロ映画のどこか?と、自分でも首をかしげるのだが、ほぼ室内で展開されるこのドラマ、非常に扉が多く映っている。主人公のテレーズが、気弱な夫と口うるさい姑によって閉じ込められた家の中で立ち尽くすシーンでは、窓が大きく開かれている。やや図式的だが、テレーズの閉塞した環境が、「ドア」「窓」によって強調されている。
しかし、50年代前半にこうした格式ばった文学的な作品が幅を利かせていたからこそ、数年後に現われるヌーヴェル・ヴァーグの存在意義があるのではないだろうか。
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