« 2022年12月 | トップページ | 2023年2月 »

2023年1月29日 (日)

■0129■

ホビージャパンヴィンテージ V0l.9 31日発売
108603
いつものように、巻頭40ページの構成・執筆です。『ボトムズ』は、あまり顧みられない1/48シリーズも取り上げてます。
インタビュー・特集タイトルの題字は、高橋良輔監督。開発者インタビューは、元タカラで創映社の設立メンバーでもある沼本清海さん。そして、1/24スコープドッグを開発した泉博道さん(元タカラ)。こうした方々へは、もうぶっつけでメールしてアポをとるのです。


27日は凍えるような寒さの中、寺田倉庫Gへ。『狭土秀平 土に降る 』、無料で見られる。
Tumblr_6dee1811e02750a9bd0e54df3b0efc60_
Tumblr
床に土や瓦礫を広げる手法はシンプルだけど、確実な異化効果が出る。作品ひとつひとつのインパクトが薄いのであれば、空間を大胆にデザインして意味を増幅することで、満足度の高い展示になる。
Tumblr_20230128234101
(庶民的な喫茶店に行くつもりが、ヴィーガン向けメニューのある意識高い系のお洒落カフエしか空いてなかった。計1900円ほどしたが、若者で混みあった店内で、不思議とくつろぐことが出来た。)

その夜は、英国人アーテイストに取材。素晴らしく博識で研究熱心で、ほがらかな人だった。こういう幸せそうな人となら、また会いたいと思う。通訳してくれた日本人男性も、おおらかで親切で、すっかり好感をもった。
「僕は、感動するために仕事をしているんだ……」と、帰りの電車のなかで噛みしめた。僕は、仕事を楽しんでいる。他の誰からどう見えようと、楽しいんだ。


1/31に巣鴨に前泊し、翌朝に成田から飛行機でヨルダンへ行く。

2/1 成田→チューリッヒ 飛行機移動 チューリッヒ泊
2/2 チューリッヒ→アンマン 飛行機移動 アンマン泊
2/3 アンマン泊
2/4 アンマン→アカバ バス移動 アカバ泊
2/5 アカバ→ペトラ バス移動 ペトラ泊
2/6 ペトラ泊
2/7 ペトラ泊
2/8 ペトラ→アカバ→ワディ・ラム バス移動 ワディ・ラム泊
2/9 ワディ・ラム泊
2/10 ワディ・ラム→アカバ バス移動 アカバ泊
2/11 アカバ→アンマン バス移動 アンマン泊
2/12 アンマン泊
2/13 アンマン→チューリッヒ 飛行機移動 チューリッヒ泊
2/14 チューリッヒ→成田 飛行機移動
2/15 成田着

こうして書きだすと、2週間も面倒だとは思う。せめて、10日間にしたかった。
でも、このままジーッと日本にいたまま、日々の楽しみが美術館とクラフトビールだけという自分は考えられない。思ったよりホテル代などで出費がかさんで不安にはなるけど、やはり何もしない自分は枯れて衰えていくだけだと思う。
海外の価値を知らずに「節約、節約」と小銭を溜めてホームレスになるのと、幅広く見識を広げて体験を重ね、すばらしいアートや美味い酒を知ってからホームレスになるのとでは別世界だと思う。
だからやはり、数十万の貯金があるのに「海外へ行かない」「新しい体験をしない」選択は、あり得ないのだ。


撮影の合い間、クラフトビール好きのカメラマン氏と雑談していて、「自尊心」という言葉が口をついて出た。
ようするに、140円の発泡酒しか知らない状態よりも、同じ量なのに300円以上もするクラフトビールをわざわざ探して、「絶対に美味い」という保証もなしに買って試すことで「自尊心が養われるよね」と、僕は言った。
325582525_734439801422826_38991255945508
「絶対に美味いという保証」……その考え方こそが、貧しさへの入り口だ。駅前のドラッグストアには、酒ばかりか納豆や牛乳やパンまで売られていて、毎日の食生活が一店で完結するようになっている。クーポン券やポイント値引きなど、提供する側にだけ都合のいい予定調和のシステムに飼いならされて、自分で主体的に店や商品を選択する自由から引きはがされてしまう。
ファストフードを自分で選んでいるのではなく、「ファストフードを食べるしかない自分」に慣らされてしまうのだ。僕の20代が、まさにそれだった。

クラフトビールを醸造している人のインタビューで、「日本ではラガービールばかり大量に売られているが、本来のビールは多様性のある飲み物だ」と言っている人がいた。タップバーに置いてあった本に、「どうして大手メーカーのビールが安く買えるのに、わざわざ自分でビールを作るのかって? そりゃ美味いからでしょ」と書かれていて、とても勇気が出た。そう、自分で価値を作ってしまえばいいのだ。
「自分で価値をつくる」のであれば、ホームレスは悲惨とは言い切れない。そもそも、どこからどこまでが悲惨なのだろう? 母が殺され、父が殺人犯となり、兄が50代で変死した僕は悲惨? こんなに自由に生きているのに?
(何が最悪なのかは「何が自分にとって良いことなのか」を精査しないと、決められないはずだ。何も考えてない怠惰な人は、とりあえず「死ぬのは悲惨」「死は悪いこと」「長生きしたい、長生きすべき」という幼稚な価値観に留まりがちだ)

いま、貧困生活を送る人たちのルポルタージュを読んでいるが、彼らは空威張りこそすれ、自尊心が欠けている。貧乏を恥じている。貧乏生活はみっともないし、生活保護は恥ずかしい……自分を誉められない状態は、たとえお金があっても苦しいのではないだろうか?
Tumblr_39e1845b44f57c7535e1203b8e1b0589_
僕が「ホームレス」を連発しているのは、「ただ単に生きるためだけ」の労働をしたくないから。「無職はみっともない、人に言えない」「就職していないのは恥ずかしい」、その意識こそが貧しさなのだが、世間体のためだけに働いている無能な人は多い。無能な自分を受け入れて、自分の納得のいく生き方をすれば楽なのに。
僕がフラリと海外へ行くのもホームレスを選択肢に入れるのも、「何が良いのか」「何をしたいのか」「自分がしたくない嫌なこととは本当は何なのか」を見極めるためなのだと思う。


最近観た映画は、『レナードの朝』がすごく良かったペニー・マーシャル監督の『サンキュー、ボーイズ』。それと、スタンリー・キューブリック監督の『アイズ ワイド シャット』。これは確か二回目。
3255825
『アイズ ワイド シャット』は、もはや構図がどうのという映画ではない。世俗的で、陳腐ですらある性へのモヤモヤと背徳感。トム・クルーズとニコール・キッドマンの美貌が、その陳腐さに一枚のスキンをかぶせる。もしかすると、とても知的で高雅な映画ではないか?といったミスリードが生じるのだ。
しかし、映画は「裸を見たい」「暴力を見たい」という下世話な欲望と切り離せないのだと再確認して、何だかホッとするのである。

| | コメント (0)

2023年1月21日 (土)

■0121■

17日火曜日は、東京都庭園美術館へ。
326226971_731691605250143_59672691578118
「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」……この狭い館内に、貴重な家具類を大量に持ち込むのは凄まじい労力だっただろう。
しかし、この企画は知的レベルが高すぎて、無知な僕には価値が測りかねた。ただ、うかがい知れない価値を感じさせるだけの凝った展示であることは間違いない。
目録と照らし合わせて、熱心に見ている女性がいた。彼女には知識があるから、僕より深く楽しめるのだろう。


庭園美術館の近くに、とても良い喫茶店を見つけた。小さなカップで、試供品のようにおススメのコーヒーをサービスしてくれた。
コーヒーに詳しい地味な女性と、快活で髪の色を明るく染めた女性とが2人、まるで映画に出てくるように生き生きと仲良く働いていて、調和した雰囲気を醸しだしている。初めて入った僕に、コーヒーのことをあれこれ説明してくれたのも良かった。
32622697
ただし、この写真は近所のモーニングである。誰にも知られたくない、写真すらアップしたくないお店だってある。
昨日は、リモート会議が早く終わったので、玉川上水を歩いて、井の頭公園の休憩所へ行った。これも、店名は書かない。
32622697_20230121100101
この店に来るのは、11日ぶりだった。すでに100回ぐらいは昼からビールを飲むために通っているとは思うが、この毎度の静寂と喧騒のバランスは天国に近い……と感じている。妙な言い方だが、「今日死んでもいいな」と思ってしまう。
こうやって景色を眺めたり、おいしい酒やコーヒーを口にすることが良いガス抜きになっている。ちょっと嫌なことがあっても、気持ちが軽くなる。

僕がこうまで毎日穏やかに過ごせているのは、どうやったら自分が満足するか精密に測ってきたからだろう。『賭博破戒録カイジ』に出てくる「欲望の解放のさせ方」を、一人でじっくり吟味してきた自信がある。
自分が何が欲しいのか真摯に考えず、漠然と「誰かが何とかしてくれるだろう」と雑に考えている人は何をしても楽しくないだろう。「楽しい」「幸せ」は具体的な何かというより、心の形なのだ。

あと10日後にはヨルダンへ旅立つが、それは僕が裕福だからではない。相変わらず、貯金は数十万円しかない。お金よりも、海外へ行く価値を学んでいて、なおかつ未知の驚きを怖れてもいない“心の状態”のほうが大きい。
海外へ行くたび、その体験は他にない財産となって残りの人生を照らしてくれると、僕は知っている。


ようやく、過剰なコロナ対策も収束の気配を見せている。
でも、通常の人生が苦痛な人にとっては、コロナ対策の「どこへも遊びに行くな、イベントも中止」「子供たちにも我慢させろ」という圧迫感は、痛みを和らげてくれる鎮痛薬だったんだと思う。
僕が喫茶店で出会った足の悪いオジサンは「マスクしねえバカがいるからよお!」「だってコロナで人が死んでるんだぞ?」と聞こえよがしに当たり散らしていた。彼は思い出したように「生きてても、何ひとつ面白いことねえよ」とボヤいていた。そっちが本音で、マスクだとかコロナだとか他人の死だとかは、気をそらしてくれる手近な材料にすぎないのだろう。
(……僕も20代の極貧時代は、世の中や現実が怖いし、痛かった。だから、記憶をなくすような酒の飲み方をしていた。)

人は、自分の心に嘘をつく。本当は自分の心と向き合い、少しずつ改善しないと人生は楽しくならないのに、たとえば「与党や政権がズルしているぶん私は損をさせられている、彼らのせいで人生がつまらないのだ」といった短絡的な図式で不満を合理化しようとする。
左翼的なアイデンティティだけでなく、ネトウヨの考え方も同様の構造をもっている。「在日朝鮮人が特権を行使しているから、彼らのせいで俺は本来の権利を得られない」という合理化。その図式に「コロナのせいで」も代入可能で、ようは自分から改善しようと主体的に取り組んでいないから不幸なのだ。
(萌えキャラが公共空間にあるせいで苦しい、などと主張するフェミニストや反出生主義者も同じような図式で論点を誤魔化している。)
コロナ対策に過度に依存している人を見ていると、『俺はまだ本気出してないだけ』という漫画のタイトルを思い出してしまう。「本当は人生すごく楽しいんですけど、今はほらコロナだから我慢してるだけで……」と言い訳しているように見えてしまうのだ。


最近観た映画は『父親たちの星条旗』、『シンシナティ・キッド』、『レナードの朝』。
『シンシナティ・キッド』の冒頭近く、列車のシーンについて書くつもりだったが、それはまたの機会にしよう。何しろ、『レナードの朝』の“外”の描写に唸らされたからだ(91年の公開時には気がつかなかった)。
Lqip_20230121092201
まずタイトルあけ、大きな精神病院に赴任してきたロビン・ウィリアムズ演じる医師の背後で、青々とした木々が風にざわめているのが印象的だ。ザーッという効果音もいい。実は、その木々のざわめきは感情表現として何度か使われる。
眠ったように過ごしていた患者たちが、音楽に反応するシーンで、窓の外いっぱいに広がった木々が風に吹かれている。ロバート・デ・ニーロの演じる患者が目覚めて、ひとりで初めて歩き出すシーンで彼は窓際にいる。外では、やはり木々がざわめている。木々が彼らの心の動き、変化や躍動を表現している。
患者の目覚めた翌朝、外の木々は止まっている。しかし、患者は室内の扇風機の風に気がつく。次に、窓格子の外の風景に興味を持つ。風が、彼の心を動かしているのだ。

「窓」は、また別の役割を担っている。
閉鎖病棟に閉じ込められた患者たちの異様な振る舞いに、ロビン・ウィリアムズの医師は窒息しそうになって窓を開け放つ。そこから見える病院前の小さな歩道が、とても美しい。左下から右上にかけて芝生を歩道が横切っている。6:4ぐらいの比率の安定した構図だ。5か所ぐらいに、それぞれ子供たちが集まって遊んでいる。十字になった歩道の左側から、大人が歩いてくる。落ち着いた構図に、ほどよいノイズ。
僕はこの美しい歩道のカットに心を奪われたのだが、なんと、もう一度出てくる。医師が思案しながら、鉄格子を外して窓をあける。あの美しい歩道を今度はゆっくりとPANする。女の子が“ケンケンパ”をして遊んでいる。それを見た医師は、解決策を思いつく。(余談ではあるが、この2つのカットは同じ日に撮影されたためだろう、劇中では別の日なのに同じ服のエキストラが何人か歩いている)

「窓をあける」……このアクションは、ラスト近くで医師が献身的な理解者である看護婦を呼び止めて、2人のロマンスを予感させるシーンでも使われている。僕はこうした映画の構造、仕組みに美しさを感じる。なぜ美しいと感じるのか、解き明かしたいと思っている。

| | コメント (0)

2023年1月14日 (土)

■0114■

13日金曜日は、朝から暖かったので、ひさびさに喫茶店へ出かけてモーニングを食べた。
324863350_866174597992225_29846103300989
平日の朝8時なのに、女性の2人連れなど客が結構いる。オープンから半年以上は経つと思うけど、リピーターがついたんだな。
しかし、このピンクのコップは店の知的なイメージにあわない。今までは、透明かチャコールグレー。カトラリーには凝っているが、カップやコップはそうでもないか、ちょっと妥協のしかたを覚えはじめたのかも知れない。こうして変化していくから、個人のお店は楽しいんだけどね。


朝食後、まずは六本木のサントリー美術館へ行ってみたが、かなりの行列だったので上野へ移動、東京国立博物館へ行った。
322709874_546493390867459_10703969493900
お目当ては「松林図屛風」なのだが、さすが国宝と宣伝しているだけあって、平日でもそこそこの人だかりである。確かに、繊細な筆致は見ごたえがあるのだが、自分が能動的に魅力を発見した高揚感はなかった。「行列が出来ているほどのラーメン屋なのだから美味いに決まっている」と同じバイアスがかかってしまうのだ。
僕の気に入る作品って、他のお客さんが2~3秒だけ見て「ふーん」と通りすぎてしまうものが多いのかも知れない。僕だけが足をとめた時、そこから自分なりの固有のテーマが発生する。そうやって拓けた道筋を、丁寧にたどっていくのが孤高の楽しみなのだと思う。

博物館から近いので、以前、大行列ができていて入れなかった東京藝術大学大学美術館へも寄ってみた。
N_20230114144301
テーマは地味だし、展示の工夫も乏しいんだけど、粘り強い実直な研究のあとが見てとれて好感をもった。
国立博物館、大学美術館ともにマスク未着用の人は「できません」の札をさげる決まりだが、そういうのはちっとも苦ではない。お手数をかけてしまうので、しっかりお礼をする。


年末に、「ちょっと高いし次はないかな……」と思っていた谷中ビアホール、やっぱり寄ってしまった。博物館から、ちょうどいい距離。
V706pklj
ほんの二週間前に来たばかりのせいか、店のお姉さんには「いつもありがとうございます」と挨拶されてしまう。
ここはIPAが1種類しかないので、3/4パイントで一杯だけ飲む。本当は、1/2パイントがあって800円ぐらいだと嬉しいんだけど、おそらく外国人観光客がグイグイ飲むせいだろう、量は多めである。

そのまま谷中銀座へ行く。
近道をおぼえていて、すぐ日暮里駅前に出てしまったので、あえて騒がしい商店街の中を通る。そして、夕焼けだんだん坂を登って、ふーっと一息ついたところに目指す中華料理屋がある。観光地特有のごみごみした雰囲気が途切れて、「もう楽しいことはおしまい」とでも言ったような、不思議な“抜けた”風情がある。
322386862_585674573392701_69457320012810
(餃子をかじりかけに見えるが、お箸で2つに切り分けただけです)
年末と同じように、70~80年代の聞き覚えのある洋楽が流れ、ほの明るい店内は閑散としている。まだ15時だから、客は少なくて当然かな……と思っていると、僕と同じようにこんな時間から「中ジョッキ」と注文するオジサンがいる。

誰にも邪魔されない、この浮遊した時間。天国があるとしたら、こんな穏やかな場所なのだろうと、いつも思う。


前回、小学生時代のいじめられ体験を書いた。おかげで、いろいろ心の整理がついた。
僕はここ2~3年、「友達」という概念を消そうと努めている。確かに年に何度か、「ひさびさに飲むか」と連れ立って出かける相手はいるのだが、「友達だから」という空虚な先入観を消す。たまたま利害が一致したから……程度に捉えて、彼が僕に聞いてほしいことがあれば耳を傾ける。また、こちらも「今の彼」にだったら聞いてほしいこともある。それ以上は、追求しない。そこまで相手に期待しないし頼らない、裏切られても憎まない。
「そうは言っても友達なんだからさあ!」という余計な固定観念が、僕たちを呪縛する。

どんな人間関係も、ちょっとずつ支配的なんだと思う。被支配的な隷属を自ら望んでしまう人も、意外と多い気がしている。友達と同じブランドの服を買って、同じような髪色に染めて、同じ所へ遊びに行く。旅行も趣味も、ぜんぶ言われるまま同じ……こうして書くと、僕の結婚時代は奥さんの支配下にあったんだな、と痛感する。
婚姻関係は置いといて、「彼は友達なんだ」という思い込みが、支配/被支配の関係を見えづらくする。「この前はよく考えず彼に従っていたけど、今回は俺が強制してしまっているな」と、少しずつ支配したりされたり……それが社会なのだ、人間関係とはそういう抑圧を最初から含んでいるものなのだと前提しておけば、何があっても大きな心のダメージを受けずにすむのではないだろうか?
「俺は支配なんてしていない、彼とは対等なんだ」……この純粋な思い込みが、いつの間にか重圧になっていく。親子・夫婦・親戚など言うまでもなく「他人」にすぎない。「他人をそこまで追わない」「期待しない」だけで、かなり気軽に生きられるはずだ。
(いつも言っているように、賢い人はこだわらないがバカは固執する。)

ポケットを空にしておくと、そこに思いがけないものが飛び込んでくる。ジンバブエで出会う人たちみんなに助けられた体験()などが、いい例だ。一人で穏やかに過ごしていられるからこそ、人間という生き物の美しさが分かるのだ。


そういえば、来月1日から2週間、ヨルダンへ旅行する。
帰国時に3回接種の証明書が必要なので、6日の夕方に打ってきた。市役所近くの接種会場へ行く前、バスでお気に入りの喫茶店へ寄った。
324863350_20230114202601
あいかわらず、店主が大声でカウンターの客たちと雑談していて、それが一種の風物となっている。
ワクチンが契機になって死亡した人も、少なくない数いるのだろう。しかし、打たないと帰国できないというリスクを受け入れられるところまでは考えた。もし運が悪くして死ぬとしても、母の命日が近いんだから、それはそれでいい気もした。
今は大きな仕事を抱えているけど、今日死ぬとしても、それほど後悔はないというか。人間の醜い部分をたっぷり見てきたけど、よく考えたらそんなに悪い人生ではない。こうして、好きな喫茶店でゆっくり過ごせることが何よりの証だ。
酷い目にもあったけど、その何十倍も良い思いをしてこられたよな……と、本気で思えた。オセロのコマが引っくり返るように、暗く惨めな過去は今の自由のためだったんだと、納得がいく。

もうひとつ、思ったことがある。
日本のスーパーでパック入りの納豆を買うと、「開け口はこちら」「納豆のたれ」「こちら側のどこからでもカットできます」「液が飛び散るのでかからないように」など、狂ったように注意書きが書いてある。割り箸にも「つまようじで指を刺さないように」などと、子供に言ってきかせるような幼稚な注意書きが印刷してある。
もともと、ちょっとしたリスクを極度に恐れる国民性なのだろう。本多勝一『アラビア遊牧民』によると、日本は異民族からの激しい侵略を受けてこなかったので、あっさり相手に謝ってしまうのだという。


最近観た映画は、『関東緋桜一家』、『硫黄島からの手紙』(2回目)、『グッドモーニング、ベトナム』(2回目)。
『硫黄島からの手紙』、伊原剛志の演じる西竹一中佐が、米兵の遺体からその母親の手紙を見つけて、塹壕のなかで読み上げる。それは飼い犬が逃げ出して騒動になったとか、ごく日常的で常識的な内容だ。まるで自分に宛てた手紙のように感じたのだろう、銃を構えて待機していた若い兵たちが一人、また一人と立ち上がる。カットが切り替わると、その場にいた数名が西中佐を囲んで立っている。
324863350
最後に主人公の二宮茂樹が立ち上がり、カットをまたいで彼の背後の兵士も立つ。誰もが無言である。余計な台詞はひとつもない。
「立つ」というアクションが、厳粛に感情を描写している。シーンの直後、爆撃が起きて情緒に流されないのも良かった。映画全体としては「なぜイーストウッドが監督?」と思うが、若いころに見たときは、こうしたスマートな演出効果に気がつかなかった。

| | コメント (0)

2023年1月 9日 (月)

■0109■

正月2日は東京都写真美術館へ行ったが、3日は吉祥寺タップルームで一杯やって、4日はワタリウム美術館へ「加藤泉ー寄生するプラモデル」を観に行って、その日は休肝した。
そして昨日、府中市美術館へ諏訪敦の個展、「眼窩裏の火事」へ。これが、未知の衝撃だった。作者は僕と同い年で、美術界ではエリートコースを歩いてきた人だが、肉親の遺骸という過酷なモチーフに厳然と向き合う意志の強さ、それを解剖学のような冷静な手つきで(描くというよりは)記録していく仕事の精密さには、舌を巻いた。
Sanmufan01151
写真撮影は禁止だったが、下絵と完成した絵をオーバーラップさせる投射、小さな静物画の四角いフレームだけを暗闇の中で浮かび上がらせる細かなライティングなど、展示も丁寧で念がいっていた。
そして、常設展もすごく良かった。半分以上の人が見ないで帰っていたようだが、これが丸ごと見られて700円って……お金がなくなっても、ここまで歩いて見に来てもいいのではないか?とさえ思う(バスの路線がややこしく今ひとつアクセスが悪いので、いっそ歩いた方がいいのだろう)。


最近、小学生時代のことを、よく思い出す。
放課後、仲のいいY君と歩いていたら、隣のクラスのK君という怖い人がとりまきを引き連れて「お前ら、ちょっと待て」と絡んできた。「口笛を吹いてみろ。吹けたら、俺たちの仲間だ」。Y君はビクビク震えながらも、口笛を吹いた。「よーし、吹けたな。Yは仲間だ、こっちに来い」とK君が言うと、Y君はおずおずとK君のほうへ行った。
「じゃあ、お前は? 口笛ふけるか?」 僕は吹けなかった。不器用なので、今でも出来ない。「お前はダメだ、仲間じゃない」。僕と一緒にいたはずのY君は、K君たちについて歩いていってしまった。なので、僕は一人で帰った。しばらく一人で家にいると、Y君が「さっきはゴメンな~」と笑顔でやってきた。でも、僕は笑えなかった。その後も、彼とはギクシャクした関係になってしまった。

口笛に、どんな意味があるのかは分からない。口笛が吹けたからって、何か得するわけでもない。マスク圧にも、同質のものを感じる。他人に忠誠を誓わせて分断し、人を二種類に区別さえ出来れば、口笛でもマスクでも何でもいいんだと思う。


小学校時代の話をもうひとつ。
ちょっと汚い話だが、僕が小学4年生ぐらいの頃までは、寄生虫検査があった。それぐらい、当時の家庭は衛生管理が行き届いていなかったのだと思うが、お尻に専用のセロファンを貼って学校へ持っていって検査してもらう制度があった。僕は、一度だけ寄生虫検査に引っかかった。
小学1~2先生の頃は、たとえ寄生虫がいると判明しても、結果はこっそりと当人か家庭へ知らされていた。ところが、小学3年生から担任になった横尾という女教師はモラハラ的な横暴がひどく、クラス全員の前で「〇〇は寄生虫なし」とわざわざ一人ずつ、検査結果を読み上げた。
横尾は僕の検査結果を見てピタリと手を止め、「ああ~……廣田は、寄生虫いたんだ……」と芝居がかった口調で言った。「ええーっ!」と、クラスメイトが一斉にこちらを見た。無論、「汚い」「バイ菌」という嫌悪感だろう。

僕のほかに検査に引っかかったのは、いつもイジメられていたG君と、大人しい女子がひとり。僕はG君とは仲がよかったので、彼と2人で下校していると、気の強いOさんという女子が絡んできた。「Gと廣田は、寄生虫いたんだよね」「廣田は薬(虫下し)を飲んだからいいけど、Gはダメ」と、Oさんは僕たちをからかった。
この当時は、いじめられている子に触ったら「〇〇(その子の名前)菌がついた」という言い方が流行っていた。そうした場合、別の誰かに触れて「タッチ」「つーけた」と汚い物が伝染したような仕草をして、中指と人差し指を組み合わせて「ダブル」と言えば自分は清潔に戻れる……という遊びがあった。他愛のないことのようだが、僕には社会の本質のように思われる。
マスクをしていない人は保菌者で不潔で有罪で、マスクをした瞬間にいきなり清潔になる(無罪で仲間になれる)……という「ダブル」のような状態に、社会全体が陥っている。人間を二種類に分けようとする。分けられない人間は穢れているので、忌み嫌う。殺しはしないけど、無視したり意地悪して、まあ人権を奪うわけだ。

ヒヨコの群れの中で、一羽だけリボンをつけておくと、群れはその一羽を避けて行動するようになるという。
差異を見出して孤立させることは、動物の本能なので良いとか悪いとかの問題ではない。「いじめをなくそう」というスローガンがあるが、いじめを無くしたら、おそらく社会が無くなるだろう。いじめられっ子本人が独自に戦略を練って、自分の居場所を創造する。集団に頼らず、他人を信じず、自分だけの人生を手に入れるかしない。


今は身なりにかなり気を配っているつもりだが、僕の持っている肉体的な不格好さ、異様な雰囲気は消しようがなく、これからも社会から疎外されて生きていくことになるだろう。それに異存はない。確かに、僕は出来損ないだ。でも、もはや他人に愛されなくても平気だし、僕自身は僕をカッコいいと認めている。そう誇れるようになったのは、12年前の母の理不尽な死がトリガーになっている。

三鷹市役所では、「そのライターとかいう職業で税金を払えなくなったら看護師・警備員・清掃員の仕事でもやってください。まあ、あなたの場合は清掃員かな」と言われた。もちろん、このヒョロッとした僕の肉体を奴隷のように値踏みして、「後はもう清掃員ぐらいしか世の中の役に立たない男だ」と判断したのだろう。

だけど、いつも書いているように「これしかない」と選択肢を狭める短距離の発想こそが、貧しさの正体なのだ。
僕は自分の好きなアニメやプラモに関する本や記事しか作っていないけど、それが巡り巡って読者さんに活力や癒しを与えると信じている、それだけの社会的価値が十分あると信じているからやっているのであって、口座に振り込まれるお金は、その価値を生み出した対価なのである。
どれが正解、というわけではない。どれでも正解に出来るぐらいの広い応用力をもてばいい。そこまで来るのに、社会に出てから30年もかかってしまった。「明日お金を得るには今日どこかでアルバイトするしかない」……その“効率的な”考え方が、貧乏を引き寄せる。

三鷹市役所の職員さんは、確実に僕よりいっぱいお金を稼いでいる。だけど、自分の知らない価値観が世の中にたくさんあることに「気づいていない」。新しい価値を、自分から生み出せることも知らない。その無知が「貧しい」という状態なのだ。


最近観た映画は、サミュエル・フラー監督『拾った女』、マルセル・カルネ監督『嘆きのテレーズ』、あとは東映動画の長編をたくさん。
Sanmufan01151_20230109084801 
何だか退屈そうだな……と見はじめた『嘆きのテレーズ』が、実は最後の最後まで目を離せないぐらい面白かった。
こんなバストショットばかりのモノクロ映画のどこか?と、自分でも首をかしげるのだが、ほぼ室内で展開されるこのドラマ、非常に扉が多く映っている。主人公のテレーズが、気弱な夫と口うるさい姑によって閉じ込められた家の中で立ち尽くすシーンでは、窓が大きく開かれている。やや図式的だが、テレーズの閉塞した環境が、「ドア」「窓」によって強調されている。
しかし、50年代前半にこうした格式ばった文学的な作品が幅を利かせていたからこそ、数年後に現われるヌーヴェル・ヴァーグの存在意義があるのではないだろうか。

| | コメント (0)

2023年1月 2日 (月)

■0102■

イデザブダン 発売中
323637451_1326067141579338
大学時代に知り合ったイラストレーターのumegrafix(ウメグラ)氏こと、梅野隆児さんに誘われて参加した同人誌です。

『メガゾーン23』の同人誌に何度か書いた程度で、ファン活動というものにはそれほど興味が持てないのだが、梅野さんがメールを送ってくれたタイミングが絶妙で、僕の精神状態にとって、一種の救いとなった。
この同人誌には湖川友謙さんも参加していて、僕が湖川さんと知り合いで仕事としてインタビューしたりしているから()、せっかくだから……という程度の理由なのだろうが、富野由悠季監督作をご本人が忌避していたはずの「おもちゃの宣伝番組」として評価するとしたら?というテーマを、今回なら使えると思った。第何話で、どのメカが何秒間、何カット映ったのか?(それは商品の発売タイミングと連携していたか?)
そこから放送当時期待されていた「おもちゃの宣伝番組」としてのスペックを逆算するとしたら、これから時間をかけて研究する価値があるだろう。商業ベースだけの発想だと、そこまでの展望は見えてきづらい。

また、「誰かの許可を得るための許可を、さらに得るための許可の許可が必要で……」という(雑誌やアニメに限らない)ここ20年ぐらいの閉塞する一方の商業構造、自分で判断してテキパキと進められない他人まかせの日本社会から、いよいよ抜け出すべきかも知れない。


年末年始はどう過ごしていたのかというと、まずは三鷹~吉祥寺のお気に入りの喫茶店が大掃除などで閉店しており、結局は松月でいつもの瓶ビール、さらに中道通りに新しく見つけた吉祥寺のクラフトビール屋をハシゴしてしまって、なんと11日間も連続で飲んでしまった。
「お目当ての喫茶店さえ開いていれば飲まなかったのに……」と、本気で思う。本来、喫茶店で過ごすはずだった読書の時間をもてあまして、ついビールを探しに行ってしまうのだ。
323637451_1326067141579338_20230102170301
まさに、この緑の缶こそが「Lucille IPA」。横浜の人形の家のカフェで飲んで以来、ずっと探しつづけた味だ。初恋の人と再会したような気分。これが30日のこと。
323637451_1326067141579338_20230102170701
大晦日は、わざわざ天王洲アイルへ行ってお気に入りの2杯だけ飲んで(上の写真はCRAFTROCK BREWINGのBonnie、もちろんIPA)、感傷的な気分で台場~豊洲へ歩くつもりが、あまりに人が多くて当てが外れた。2年前に台場で初めて夕飲みした時は、ひと気のない新豊洲からの道のりの寂しさを満喫したものだったが、どこもかしこも行列や人だかりで、都心と変わらない。バスで、さっさと豊洲へ向かった。
323637451_1326067141579338_20230102171101
結局、ついこの前、見つけたばかりのテラス席で飲みおさめ……と言いたいところだが、駅構内のスーパーでもコンビニでもクラフトビールを扱うようになったため、買って帰って2~3缶ほど飲んでしまう。
もう安くて濃い缶チューハイはやめてクラフトビールだけにしようと決めたものの、さすがに内臓が心配。ところが年明けにも、不思議な偶然が続く。


お気に入りの喫茶店が、元旦から特別メニューで営業することになったので、一番乗りのつもりで出かける。
323637451_1326067141579338_20230102171401
ところが、思いのほか混んでいたので、母にそなえる花だけ武蔵境駅前で買って、もう一度出直した。
家族も友達もいない僕が年始の挨拶をかわすのは、喫茶店の店員だけであった。ところが、ここでまた変な勘が働いてしまった。
土日は15時から営業とうたっているくせに、いつもシャッターを閉めたままのクラフトビール屋が、元旦にかぎって開いている気がしたのだ。予感は、怖いほど的中した。大晦日と元旦のみ、15時から営業だという(いつものように閉まっていれば飲まなかったのに)。
323637451_1326067141579338_20230102171901
まだ明るい店内で、青年といってもいい若さの店長が、黙々と掃除している。その静けさと薄ぼんやり明るい店内で飲むのが、また格別に贅沢な時間に感じられる……のだから、クラフトビールはやめられない。
やがて、お洒落な服装に身を固めた常連客が「明けましておめでとう」と現われ、店長はテレビのスイッチをひねった。今日はプロレスだ。最初に来たときは、野球だったと思う。とにかく、地上波のスポーツ番組を大音量で流して、インテリアに凝った店のお洒落なムードを木っ端微塵に破壊する。そこまで含めて「センス」なのだろう。と、このように書いているとビール飲みは楽しくてたまらない。
しかし、コンビニで4缶も飲んでしまったので、さすがに今日は我慢した。母の命日に近い1月に死ぬなら、そんなに悪くないと思っている。一方で、秋の大きな仕事を終えるまでは生きていたいとも思う。


本日2日は、いくつかの美術館・博物館がオープンしている。上野は飽きたので、東京都写真美術館へ行ってみた。
323637451_1326067141579338_2219999880754
有料の星野道夫展は面白くないのに(でも、こういう通俗的な展示ほど混む)、誰でも無料で入れる「プリピクテジャパンアワード」が創意工夫に満ちていて、素晴らしかった。迷路のようにグニャッと写真がひねってあったり、日本画のように大きく引き伸ばしたり、木で組んだ枠に並べたり、遠慮がない。こういう、元気のでる展覧会がいい。

そして、12日ぶりにどこでも飲まず、ノンアルコールで過ごしている。昨夜は不安で仕方がなかったのだが、寝る場所がないわけではない。これからも、お金は入ってくる。クラフトビール代どころか、あと2回ぐらい海外旅行へ行ける。
思い切って外へ出かけてしまうと不安が消し飛ぶのだから、人間は意外と単純だ。


最近観た映画は『どうぶつ宝島』、これは確か2回目だ。後は『赤ちゃん教育』、『鬼軍曹ザック』。
『赤い河』で牛の大群を自由自在に描いたハワード・ホークスは、『赤ちゃん教育』ではCGのように見事にヒョウを動かしている。恐竜の骨格標本がバラバラになるラストシーンも、一体どうやって撮ったのか驚かされた。

『鬼軍曹ザック』は、後に『最前線物語』を撮るサミュエル・フラーの監督作だ。穴のあいたヘルメットの前を、何者かの裸足と銃の先端が通りすぎる。ヘルメットを被っているのは、死んだふりをしている鬼軍曹だ。裸足も銃もフレームの外へ出ていくので、「助かった」と思う。その直後、銃の先端がフレーム内へ戻ってくる。読ませておいて、裏切る。そうやって興味をつないでいく。


母が、父に刺殺されて12年が経過した。最近は、どちらかと言うと父親がいかに人生を楽しめず、自ら破滅してくだらない人間に成り下がったか、それに教えられたと感じている。
事実を直視して、事態に対処するためには勇気が必要だ。そして、世の中の大半の人には勇気がない。臆病さが、人生を破滅させる。「ああ、残念だ」「ああ、つまらない」……その狭い諦観こそが人生の敗北だ。

| | コメント (0)

« 2022年12月 | トップページ | 2023年2月 »