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20日(火)は、東京都現代美術館へ。「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展は大したことなかったが、コレクション展が大幅に入れ替わっていた。
火薬を利用した、蔡国強氏の作品。まるで異星人の書いた設計図のようで、横長の作品が2枚続けて展示されていて、シンプルな力強さがあった。木を炭化させた遠藤利克氏の作品と同じ空間に置かれることで、火を使った作品という共通点が浮かび上がる。
撮影禁止だったが、デイヴィット・ナッシュの朽ちた木を直線的にカットした作品もサイズが大きくて良かった。その作品の前を歩きすぎるのは数秒かも知れないが、それはストップウォッチで測られた数秒ではない。作品に刻まれた数百年の時が加算されているのだ。
美術館のすぐ裏手にある、WORLD NEIGHBORS CAFE 清澄白河へ。缶ではあるが、公園に面したテラス席でクラフトビールを飲める。グラスも出してくれた。また14時台。15時からはビールが安くなるようだが、早い時間から飲めるのがいい。
下校中の小学生二人組が「ビール飲んでる人がいる」と、ボソッと話しながら帰っていく。テストの点数が30~40点しかとれなくても、自由な大人になれば昼間から外で飲めるのだ。
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バス通りに出て、新橋行きのバスに乗る。途中、天王洲アイル近くに立ち寄ることもできたのだが、豊洲駅近くのビール屋へ行ってみたくて、豊洲で下車。
お目当ての店は閉まっていたが、すぐ近くにこんな良いテラス席を見つけた。時間は15時半ぐらい。そろそろ夕暮れが始まっている。良いタイミングだ、天王洲アイルで下車しなくて正解だった。こういう時の自分の勘、運のよさ。いつも「なるべく良い場所で飲みたい」と目を光らせているから、こういう場所が向こうから気づかせてくれるのだろう。
そして、僕がストーブにあたりながら飲んでいると、一組、もう一組と新しく客がテラス席に座る。いい広告塔になっていると思う。反面、客が並んだり予約したりするほど有名な場所ではない。もしそうなったら、僕はまた別の場所を探す。
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母が亡くなって、もうじき12年。時には怒ったり嘆いたりしながらも、ひたすら実務、実務でマイナス状況を切り抜けた。葬儀屋などに支払っても困らないだけの貯金があったのだ、毎月の定収なんてなかったのに。
人に助けられたが、根源の部分では普通に暮らしている平凡な人たちには期待しなくなった。その頃から、少しずつ一人で満足できる人生に、コツコツと手を加えつづけた。海外旅行も、その一環だ。改良しなければ、物事は良くならない。べったりと相手に頼らず、いつ裏切られていも驚かないよう心を鍛えておく。
その末に手に入れた孤独は、いま僕に穏やかな毎日を過ごさせてくれている。
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最近観た映画は『赤い河』、『ハーフ・ア・チャンス』、『道化師の夜』、『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』など。
まずは、ハワード・ホークス監督の1948年作品『赤い河』の壮大な映像に魅了された。
男の友情が、恋のさや当てが……という「物語」はどうでもよく、この映画の「テーマ」はフレームの中を、地平線の彼方まで覆いつくす何百頭という牛の大群だろう。河を渡るシーンでは馬車の中にカメラを持ち込んで臨場感を出し、暴走するシーンでは牛たちが馬車を破壊してしまう。一体、どうやって撮ったのだろう?
その奇怪な、過剰な生き物の群れを、何故ここまで執拗に撮るのか? それが、この映画のテーマだ。ラスト近くなっても、5カットも6カットも、主要人物そっちのけで牛の大群を撮りつづけるのは、それが視覚的に気持ちいいからだろう。
『セバスチャン・サルドガ』は世界中の悲惨な状況下で報道写真を撮りつづけた男の、朴訥としたモノローグが印象に残る。
彼は歴史を俯瞰的に見ているのではなく、自宅でニュースを見ている我々と同じように、唐突に状況に出くわす。詳しい歴史背景は語られない。だから、ショッキングな写真と簡素な解説が、実体験として濃厚に迫ってくる。ヨルダン行きの前に、アラブ人について書いた本を読もうと思った。
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