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「仕事」としてアニメーターという人生を生きる――ベテラン原画マンの横山健次に、「無理せずマイペースで長く働けるコツ」を聞く【アニメ業界ウォッチング第94回】(■)
横山さんは、『バイファム』のセル画がTwitterに載っていて、それでずっと覚えていて取材のお願いをしました。
人と争うことなく比べることなく、ゆったりのんびり自分だけの理想と楽しみと充実感を追っていく……理想の仕事のしかただと思います。取材場所に選んだ大泉学園近くの清潔な会議室も、いい雰囲気でした。
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クラフトビールのことを少し調べながら、なるべくブルワリーのある店で飲むようにしてみた。
すると、以前のように「なんとなく高級感をおぼえながら酔えればいい」という雑な気分から遠のいて、自分の選んだ銘柄が間違っていなかったか、慎重に味と香りを楽しめるようになってきた。生ビールのようにぐいぐい飲むのではなく、ワインのように舐めるように味わう……一杯あたりが高いのだから、なおさら丁寧に飲むようになる。
豊かさも貧しさも、心の問題なのだとつくづく思う。今よりお金のあったころの僕は、夕方から朝まで歓楽街で飲んでは記憶をなくしていた。そんな自暴自棄のために一晩に何万円も使っていたのだから、工場でアルバイトしていた貧困時代と精神的には大差ない。
金銭のあるなしは実は関係なく、いかに満足感・充実感の贅肉をそぎ落として混じりけのない静謐なものにするか……それが重要なのだ。
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そういう文脈で言うと、どんなに自信満々に見えて才能のある人でも、虚栄心などの夾雑物が混じると、とたんに心が濁ってしまう。
自己愛性パーソナリティ障害の人はたいてい、そういう精神状態だと思う。せっかく立場や能力に恵まれているのに、「他人を従わせたい」「自分を実際よりも大きく見せたい」欲望が強すぎて、本来の価値を曇らせている人って、意外と多い。
本当に凄い人でも、「どうだ、凄いだろう?」と自分からアピールしすぎて台無しにしてしまう。そこから心に磨きをかけるのが、本当に難しい。ようするに、自分で自分を「まあまあ頑張ったな」と密かに認めてやる、甘やかしてやるのは健全なことなのだが、他人から常に注目されたい、過剰に称賛されたいという“関係”に執着すると、周囲も本人も自己愛の泥沼でもがくことになる……ということだ。
何よりも、自由であること。とらわれず、こだわらないことが幸せの正体なのかも知れない。
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「マスクはもう、おまじないみたいなものになっています」
「そもそも、なんでマスクをしているのか、という本来の目的がもう曖昧になっています。マスクに限らず、感染対策は目的を見失っている状態が続いているんです」(■)
死はいけないもの、忌むべきもの、悪いことという考えが社会の根本にある。「命は平等」とか「ひとりも死なせない」とか、そういう平坦で高圧的で実感のないスローガンは「寝ないで、ボロボロになるまで頑張った(だから価値があるはず)」といったブラック企業の思想と、どこかで繋がっている気がする。
だから、「(私の言うこと聞かないと)沢山の死者が出ますけど、いいんですか?」という脅し文句が成立する。
11年前に僕の母が殺されたように、人は理不尽に死ぬ。その非合理さ、無意味さを受け入れるには強くなくてはいけない。「命は平等」? そんな甘いことは言っていられなかった。自分の冷淡さ、残酷さをも認めて、自分の武器とせねば乗り切れない時だってある。
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最近見た映画は、ピーター・ジャクソン監督の『ゼイ・シャル・ノット・グロウ・オールド(彼らは生きていた )』。
途中で、俳優を使った疑似ドキュメンタリーではないかと疑ってしまうほど、デジタル技術で克明に再現された記録フィルム。
ドラマ、物語に還元できない「人が生きている」実体験感がある。ご飯を食べて、用を足して眠ることだけが人間の本質として残る。だが、戦争という状況は生活の基本と対立し、兵士たちは糞尿にまみれながら、ぎりぎりの食事で生きのびる。「なぜ、ここまでして生きていくのか」という不可解な問いが浮かび上がる。
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