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月曜日は寺田倉庫 E HALLへ、ビジュアルデザインスタジオWOWの個展へ。五反田駅前に一泊して、翌朝は東京都庭園美術館へ「旅と想像/創造展」へ。どっちも、良かった。
WOWは、壁も床も全面的に映像を投射したり、人間より大きなスクリーンの図形が手元のダイヤルで動かせたり、底なしのアイデアとインタラクティブ性で、それほど広くないスペースで異種体験をさせてくれた。映像とシンクロして風が吹いてきたり、自分で映像の奥へ向かって行って、スクリーンを兼ねる暖簾をくぐって会場の外へ出るアイデアも良かった。
さて、心配していた雨があがったので、すぐ近くのカフェでクラフトビールを注文。
曇り空だけど、こういう乾いた気候で殺風景な倉庫街をながめて昼間から一杯……というのも、なかなか新鮮だ。
さて、ホテルは風俗のど真ん中にあり、枕元にコンドームが置いてある直球のラブホであった。しかし、普通のホテルとしても使われているらしい。近隣の飲み屋は16時から営業しているが、そんな早い時間から混んでいて、場違いな雰囲気の若い女性が出てきたりする……つまり、風俗嬢と客の待ち合わせ場所として使われているのだろう。
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逃げるようにして駅の反対側へ行ったら、急にサラリーマンが多くなる。そして、ガード下にこんなお店を見つけた。
まだ時間が早かったので、駅に近い大衆居酒屋で軽く飲んでから、足を運んだ。
道に面したテラス席に座って、クラフトビールの飲み比べセットを頼んだ。お通しが福神漬けというのが、まずセンスいい!
そして、ツマミはピリ辛の骨付きチキンを頼んでしまった。こういう、辛くて食べるのが難しい料理は苦手……なのだが、ナイフとフォークで肉を細かくそぎ落として、それをサラダ菜でくるんで食べると、辛さが緩和される。こうして、工夫して食べると充実感が増す。
チキンを持ってきたのは厨房で働いているらしき太めの男性で、「どうしておしぼりがこんなに大きいのか?」などという雑談にも付き合ってくれて、気持ちよく酔った。注文はスマホアプリだし、細かいところまでセンスがよく、ビル街の殺風景な夜景も心に染みた。
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庭園美術館の「旅と想像/創造展」展は、退屈な資料の展示が続くのだが、後半はどんどん「旅」の概念が抽象化されていく。
モノクロの幻想的なアニメーション、旅行鞄をかたどったオブジェ、ウェブ上のマップデータを使った疑似的な旅行風景の再現、そして、最後は音と光のみで「旅」を再現する実験的なインスタレーションとなる。
展覧会にはもちろん満足したんだけど、白金台のどこか他人行儀な風景とひんやりした曇天が、すごく気持ちよかった。
高速道路、信号灯、路線バス……自分とは関係ない、だからこそ静謐で美しい風景。「世界って美しい」と、いつも心から思う。
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松田エリザベス玲子さんという方が子供へのマスク強制について語った動画が、Twitterに本人の許可ずみで転載されていた。
以下に、感銘をうけた部分を書き起こした。(元動画→■)
「いつまで学生気分でいるんだよ? 親なんだから、子供守れよ。動けよ、大人なんだから。いつまで規則に従って、いい子ちゃんでいて、なんか内申点もらえればそれでラッキーみたいな、そこそこの平均で適当に過ごしてて、期末テストも中間テストも、まあ七割とれりゃあいいかなみたいな。七割七割って、七割で生きてて何になるんだよ? その七割が百点だと思っちゃうでしょ、子供は。七割が百点だと思って、そこでまたさらに七割いくんだから、七割七割で、どんどん下がっていくんだよ。だから日本こんなに衰退しちゃってもう、売国完了間近なわけじゃん」
この人の動画はちょくちょく目にしていたが、ちょっと反体制的な思想が過剰すぎる気がして、あまり好きではなかった。だけど、今回の上の発言には、(コロナやマスクと無関係でも)強く賛同する。義務教育、偏差値教育に過剰適応した「平均点」の子供たちの現在が、いまマスクをして歩いている大人たちなのだ。
僕のように、勉強もダメ、運動もダメで「何が楽しくて学校に来てるの?」とまで言われた落ちこぼれが、悠々と好きな仕事だけ自分のペースでやって、昼間から酒を飲んで楽しく暮らしている。周囲に合わせて生きてきたクラスの大多数が、受動的で無責任な大人になって、しなくてもいい我慢をしている。「先生」が「上司」に変わっただけ。自分で決められない。
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大学時代、同級生がボロいアパートに下宿していた。
彼が言うには、あまりにアパートが古いので、住んでいる全員が同時に電気を使うと、すぐブレーカーが落ちてしまうのだという。ところが、電気が消えて自分だって困っているのに、住民はみんなジーッと暗い部屋にこもったまま、誰かが電源を入れ直してくれるのを待っているだけなのだそうだ。
多かれ少なかれ、日本社会のあちこちがこうなっている。そして、電源を入れてくれた誰かに「遅いよ~」などと愚痴を言って、「一人で勝手なことして…」と、のけ者にするのではないだろうか。それぐらい、自主性も主体性も奪われ、その分、嫉妬心だけが蓄積されている。
「みんな平等」だと思い込んでいるから、他人のスタンドプレーが許せない。平等ではない、「私は私」なのだ。
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