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先日の石田祐康監督のインタビュー(■)前は、シーンの確認をした程度だったので、あらためて『ペンギン・ハイウェイ』を見た。
木漏れ日の落ちる整然とした歩道、同じ形の家、せまい車道に沿って並ぶ街路樹、ふいに現われる空き地と雑木林、コンクリートで段々に区切られた丘と送電線、緑色のフェンスで区切られた給水塔……大林宣彦監督がマット・ペインティングまで駆使して創出した尾道のようなユートピアが、石田監督が故郷の記憶も使って描いた新興住宅地なのだと思う。あらためて、その清潔で理知的な空間が映画のテーマと結びついているなあ……と感心させられるし、魅了させられる。確信をもって美しく描いてあると分かるので、最初の数分で心をつかまれる。
一方で、車道がぐるっと円を描いているバスの終点は、僕の頭の中で漆原友紀さんの短編マンガの舞台と、ややごっちゃになっていた。しかし、不思議なことが起きる舞台として、袋小路になった車道を使うなんて、つくづくセンスがいい。勘がいい人だと思う。
二度目にバス停が出てくるとき、あおりで捉えた送電線の向こうに曇り空が広がっていて、三度目は厚い雲が空を流れ、たまに晴れ間が見えるだけの荒天である。そのような天気である理由はセリフで説明されるのだが、地面に出来た水たまりに空が映っていたり、次のシーンの冒頭で紫陽花に雨粒が落ちるカットを挿入したり、絵づくりのアクセントに使っているところがいい。上手い。
そして、ペンギンたちの群れを、お姉さんが指笛で従えるカット。
無理やり引用するなら、個と集団を同じフレームに収める手は、黒澤明がよく使う。でも、音と動きがシンクロするだけでこんなに感動するのか、と驚かされる。
その後につづく疾走シーンでは、地面に突き刺さった道路標識や車が、動画で奥へ飛んでいくセンスが素晴らしい。パソコンの小さな画面で見ていても、人間の脳は遠近感を補正して、大きな空間へ飲みこまれていくように錯覚する。だから僕は、「大画面で見ないと迫力が伝わらない」という伝説を、まるで信用していない。たとえ、何億キロというサイズのスクリーンで見ても、画面効果は変わらないだろう。映画という発明は、そこまでバカではない。賢い演出家は、人間の錯覚をちゃんと利用して演出している。
作家たちの、その向上心に僕はいつも胸を打たれる。「登場人物に同情して泣いた」なんてものばかりが、感動ではない。
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ガッとふすまが開いて、ボスグループのひとりが吐き捨てるように…中川翔子を苦しめた“理不尽すぎる”いじめ体験(■)
「絵なんて描いてんじゃねえよ! キモいんだよ!」
イジメという常套句に誤魔化されがちだが、これが社会の構造だ。権力を握るのは、ほんの数名。残りの大多数は、彼らのターゲットにされないように無難に立ち回るのみ。それ以外の、オタク的な趣味に逃避している一部は、社会に出ても居場所がない(ゲーム業界が成長して、かなり受け皿が出来たんじゃないかとは思う)。
でも、そもそも人との関りは苦痛なだけ……と中高校生のころに刷り込まれているので、どんな職場にも馴染めない人が多いのではないだろうか。人間嫌いの弱っちいオーラを発散しているから、誰かを支配して抑圧していないと気がすまない人たちには、すぐターゲットにされてしまう。僕がいつも誰かのターゲットにされているらしいと気がついたのは、なんと40代も終わりかけた頃、数年前。
離婚と母の死を経由して、旅行や仕事を楽しみはじめた頃になっても、「廣田って、教室の隅でいじめられてた陰キャの分際でなに楽しそうにしてるの?」と癪に障るんだと思う。オジサン同士なのに、裏から手を回して数人がかりの嫌がらせにあったりした。40代になってもまだ、そんなことがある。
大事なのは、「社会という場所は、そういうクソみたいな凡人たちが組織や決まりで嫌がらせしてくるクソな場所」と認めることだ。現実を直視さえすれば、次に何をすべきか戦略が見えてくるよ。
© 2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会
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