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殴られた巨大ロボットに、果たして痛覚はあるのか――? 「マクロスF」屈指の名シーンに学ぶ【懐かしアニメ回顧録第94回】(■)
巨人化したクラン・クランが、ミハエルの乗るバトロイドの頬っぺたを「バカッ!」とビンタする、抱腹絶倒の痴話げんかシーンです。
編集側から『マクロスF』でどうか……と提案されて、赤根和樹さんが絵コンテを書いた第4話の作画の面白さに、あらためて感嘆させられて、そちらを取り上げるかどうか迷いました。ランカの歌唱シーンには、ロトスコープも使われていたと記憶します。ハイエンドな3DCGを駆使する一方で、人間の筋肉というか、手の力で魅せる作画もある。そのごった煮感が、この時代のアニメの面白さです。
上の記事にも書いたように、『創聖のアクエリオン』で3DCGのロボット描写が生き物のように進化して、作画と鍔迫り合うレベルに到達した。では一体、アニメーション映像の面白さの本質とは何か? 「動き」だとしたら、一秒あたりのFPSさえアップすればそれでいいのか?と、考えるテーマが広がります。
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最近観た映画は、ドキュメンタリー映画『画家と泥棒』、イタリアの『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』、ポール・ヴァーホーベン監督『エル ELLE』、『ブラックブック』。ヴァーホーベン監督の2本には、たいへんな感銘を受けた。
どちらも、女性が考えうるかぎりの侮辱と暴力にさらされるが、毅然として、勇気と行動でしぶとく活路を切り拓いていく。
『ブラックブック』では、ナチスの人種弾圧によって両親と弟を目の前で撃ち殺された主人公が、「不思議なことに涙が出ないの」と差し出されたハンカチを拒否する。俗世間は、「家族を殺されて絶対に悲しいはずだ」と決めつけるが、主人公はそんな浅い次元に生きていない。美貌も歌声も、使える武器をすべて駆使して、次々と降りかかる理不尽な困難を巻き返していく。
歴史を舞台にした一種のファンタジーだろうが、それは意志の力に満ちたファンタジーである。
映画のタイプとしては、思わせぶりな暗喩に満ちた『エル ELLE』のほうが好きだ。
主人公はゲーム会社の女社長で、CG映像をテスト映写するシーンがある。その中では、ゴブリンが女性をレイプするのだが、まずはそのCGの質感・デザイン・動きがチープで、すごく気持ち悪い。その悪趣味さも凄いが、レイプシーンのカメラアングルが、どういうわけか冒頭で主人公がレイプされる実際の場面と同じなのだ。
すると、ゲームのCG映像が実際に起きたレイプを象徴的になぞっている(ゲームで起きたことが現実にも起きた)ことが観客には伝わるのだが、映画の中の登場人物は誰ひとり「映画を撮っているカメラ」など感知していない。映画で撮られた世界に、映画を撮っているカメラは存在しないのだ。
だから(と言うべきか「しかし」なのか)、「たまたまカメラアングルが一致する」出来事など起こりえず、そこには映画制作者の意図だけが残される。我々はその意図を探ろうという欲望に、とりつかれる。
いつもいつも、僕たちは物語が矛盾しているとか登場人物の行動に必然性がないなどと粗探しをするが、なぜ存在していない世界に合理性を求めるのだろうか。「映画とは何か?」「何が映画を映画たらしめているのか?」といった本質的な問いから、僕たちは目をそらしつづけている。ヴァーホーベン監督は、その僕たちの怠慢さを見抜いているのだ。
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