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2007年の映画『渋谷区円山町』で、仲里依紗の演じるいじめられっ子の女子高生が、原裕美子の演じる親友に怒鳴られるシーンがある。
仲はクラスメイトにいじめられて屈辱的な目に合っているのに、その過酷な現状を直視せず、「私っていじられキャラだからさ~」などとへらへら笑って誤魔化そうとする。原は「あんたさ……いじめられてるんだよ!」「何をされても、そんな風ににこにこ笑ってすましてるから、いじめられるんだよ!」「怒りなよ!」と、激怒する。
僕にも、おぼえがある。何をされても言われても、ほとんど抵抗しないから、いじめっ子気質の人が近寄ってくる。喫茶店でマスクを外していたら、「マスク外すバカがいるからよお」と常連のおじさんが聞こえるように嫌みを言った。にらみ返すぐらいすればよかったのに、無視していたから、「よし、こいつは抵抗しないな」とばかりに、おじさんはエスカレートして嫌みを言い続けた。
また、そのおじさんは「人生なにも面白いことない」と吐き捨てるように言っていた。つまり、自分の人生のつまらなさをコロナとかマスクのせいにして、問題を直視していない。そういう人たちは、さらに理不尽なルールを押しつけられる。そして、ルールが苦しい原因を何か手近な別のもの(例えばマスクしないやつ)にすり替えて、本質的な解決策に向き合わない。不幸な人はたいてい、見当外れなところに当たり散らしている。自分が無能なだけなのに、「どこかでズルしている奴らのせいで俺が損している」と問題をすり替える。
自分の心の奥をのぞきこむ勇気がないから、その分、他人の所作ばかりを気にしている。
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小学校のころから、ずっとそうだった。
クラスみんなで話し合って決めろと言われたのに、僕たちが時間をかけて結論を出すと、教師が一言で潰してしまう。クラスで盗難があったとき、犯人が見つかる具体的な手続きをとらずに、なぜか連帯責任とされ、全員が床に正座させられた。「どうだ、みんな苦しいか? 先生だって苦しいんだぞ!」と自分だけ椅子に座っている教師は言った。
そうした不条理な権力をふるわれて育ったので、誰も社会に理想を抱かなくなる。高校生になった時には、ほとんどの人が本質を見なくなっていた。
テスト直前に参考書など見ても結果など変わらないのに、「やばいやばい、勉強してな~い!」と焦ったふりをして参考書をめくるのが無意味な慣習となっていた。「今ごろ、そんな白々しいポーズをとって何になるの?」と参考書を開かず座っていたら、「余裕だねえ~?」とからかわれた。その時、僕の口をついた言葉を、いまだに忘れられない。「もう、あきらめてるから」。
そのような虚無的な、「事態は好転などせず悪くなる一方だ」という人生観ならば、誰からも反対されない。「みんな」の中に染まっていける。「もっともっと感染者が多くなる」「コロナはつらいぞ、苦しいぞ」……そう言って嘆いて、苦痛に耐えてさえいれば、孤立しないですむ。
「定時で上がれるはずがない」「徹夜でがんばったんですが」「時間がなくて」「また遅れてます」「体調悪くて」……仕事の場で、いやというほど聞かされる、あきらめのフレーズ。これが教育の成果だ。事態を直視せず、虚無的な態度でごまかそうとする。
えんえんと終わらないコロナ自粛については、たんなる政策の怠慢を、僕たちが「あきらめて本質を見ない」長年の癖によって受け入れてしまっているのが現状だと思っている。
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