■0821■
富野由悠季の監督デビュー作、「海のトリトン」はギラギラした怒りと渇きに満ちている【懐かしアニメ回顧録第93回】(■)
富野監督の初期三作、『トリトン』『勇者ライディーン』『無敵超人ザンボット3』は、いずれも海辺の町から始まります。
『トリトン』の第1話は、ここに書ききれないぐらい密度が高く、生活に密着しながら人間関係の軋轢を描く手つきは、ルキノ・ヴィスコンティ監督『揺れる大地』を想起させます。
実写映画と富野作品の関連は、一度どこかでじっくりと掘り下げてみたいです。『ザンボット3』も、かなりネオ・レアリズモに近いと思います。
■
外を歩くときにすっかりマスクをつけなくなったが、「マスクしてください!」と他人に注意するのは気持ちがいいので、この不思議なルールは長らくなくならないだろうと思う。
さすがに、マスクをつけないと入店できない店は珍しくなったが、店主が心配性だと分かっている場合は、入るときだけマスクをするようにしている。お気に入りのお店の店主と喧嘩するほど、僕はかたくなではない。
阿波踊りがノーマスクで行われたため、自称医療関係者やマスコミは数字を恣意的に扱い、祭の直後に感染が広がったと騒ぎ立てた。なぜ総理大臣がノーマスクで海外の要人と会談しているのに、僕や貴方が暑いなか歩くだけでマスクを着けさせられているのか、合理的な説明のできる人間はいない。心のどこかで「だって総理大臣はエラいから」と、「学校の先生はエラい」「上司には逆らえない」程度の幼稚な世界観を捨てきれないでいる。自己肯定できていない、自分の足で立っていない。自分自身の権利意識に鈍感だから、ひどい目にあわされているのに気がつかないのだ。
自分が苦しいのは自分のせいだと認めたくない。なにか「自分の外部」……例えばルールを守らない他人のせいで、毎日つまらないだけだ……という形にしておきたい人は、そこに「コロナ」の三文字を代入した。本当に解決すべき内的な問題を直視せずにすむからだ。
■
自己評価は異常なまでに高いのに、実社会では望まない仕事に従事させられている自己愛性パーソナリティ障害の人……たとえばシュナムルさんなど攻撃的なツイフェミたちがそうだが、彼らは他人が「生まれながらの性癖や能力によって満ち足りる」ことが我慢ならない。だから、それらしい理由をつけて、他人の娯楽……萌えイラストや阿波踊りを排除しようとする。
コロナの前から、ずっとそうだった。他人が楽しそうにしていると怒りだす狭量な人たちが、コロナという仕組みを発見し、それに飛びついたに過ぎない。「感染対策してください!」「マスク外しちゃ駄目ですよ!」……暑がる子供に「我慢!」と怒鳴る母親もいた。彼らはコロナが出現する前から他人を排除したり強制することで正気を保ってきたのだから、コロナの三文字が消え去っても、排除と強制だけは何らかの形で続けるだろう。繰り返しになるが、本当に解決すべき問題はその人の内部にあるのだから、勇気をもって内面を直視する以外、人生を改善する方法はない。
(マスク一色の猛暑の町を歩いていると、孤独になる勇気のある人は数えるほどなのだと実感してしまう。)
「俺は正しくコロナだけが怖いのだ」という人は、とっくに他人を許しているはずだ。たとえば、「俺の店ではマスクしてほしいけど、外では自由にしていいよ」といった具合に。しかし、まず何はともあれ「他人を許さない」ことが先行している人にとって、他人の行動制限ができて、他人の楽しみを奪えて、頭ごなしに怒鳴ったり怒ったりできるコロナは、あまりに使い勝手がいい。
いま日本で起きていることは、そういうことだと僕は解釈している。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント