■0804■
80年代ロボアニメで「主人公メカの量産タイプ」といえば、「特装機兵ドルバック」のキャリバー(グンゼ産業)しかないよね!?【80年代B級アニメプラモ博物誌第24回】(■)
いつもの連載、旧キットの素組みレビューです。コメント欄で、ちょっと怒られてしまった……次回から、ちょっと気をつけます。
■
先日の猛暑日、ある監督さんの取材に出かけた。乗り換えに手間どって、汗だくでスタジオにたどり着いた。
先についていた編集者は、もちろんマスク。だけで、僕はぜえぜえ言うほど息を切らしていたので、マスクせずに雑談していた。会議室で監督を迎えるときは、使い古したマスクを便宜的に着用。それはマナーではないかと思った。
しかし、監督さんは「あっ、マスクしないとね」と、名刺の受け渡しの挨拶の時のみマスクをつけて、インタビュー中はマスクを外してらした。こちらが写真を撮る都合もあった。
取材後、また38度の猛暑の中を駅まで歩くときは、僕はマスクを外した。編集者はマスクしてたと思う。
ただし、電車に乗る時は僕もマスクをつけた。ずっとマスクをしている編集者が、僕のせいで「あいつらノーマスクで話してるぞ」と周囲から白い目で見られるのは、さすがに可哀そう。そこまで、僕は頑固に我を通そうとは思わない。ケースバイケース、柔軟でいいじゃないか。
■
その前日、国立新美術館へ行った。
Twitterで検索すると、「ノーマスクの客がいた」「美術館側は注意すらしない」と文句が書かれていた。なら、マスクしなくても大丈夫だ。
ルートヴィヒ美術館展、どうしても見たかったわけじゃないが、ひさびさにアートに触れる解放感を味わった。
やはり僕は、抽象画に心打たれる。カール・オットー・ゲッツ、ウィレム・デ・クーニングの絵を、監視員の人に不審がられるほど、何度も見た。
■
(以下、経緯を知らない人からすると妄想のように読めてしまうかも知れないが……)
母を刺殺した父は、もともと高圧的な人物だった。
ただ、問題の本質を直視する勇気がない。飼っている犬のふとももに大きな腫瘍が出来たときも、「あれはオデキだ」と言って譲らない。手術して切り離さないといけないほど大きな腫瘍なのに、口先で事態を軽く見せようとする。
もっと昔、僕が中学か高校のころ、やはり犬が具合が悪くなってしまったので、一駅離れた病院へ連れていこうと提案した。父親は大げさに目をむいて、「誰がどうやって連れていく?」と信じられないように言った。 自信がない人って、どうやれば実現できるかを考える前に、「不可抗力には逆らえない」ってポーズをとりたがる。ただ勇気がないだけなのに、被害者であるかのように振る舞う。
決定的だったのは、兄(長らく精神病院に入院しており先々月、アパートの外で死んでいたと警察から連絡をうけた)が父の机から現金を盗みはじめた時だ。
僕は、兄が父の寝室から出てくるのをはっきりと見た。その直後に現金がなくなっていたのだから、兄が盗ったと考えるのが合理的だろう。しかし父は、「盗む瞬間を見たのか?」「証拠がないだろう?」と、決して兄を追求しようとしない。自分の息子が窃盗を働いたと認める勇気がないのだ。
僕が適当に「本人が盗んだことを覚えてないのかもな」と出まかせを言ったら、「な? な、そうだろう?」と耳当たりのいい、都合のいい、解決方法を模索しなくていい意見には飛びつく。結果、兄は80万円もの借金をつくり、(本人に返させればいいものを)父はその全額を返してしまった。取り立て屋が実家周辺をうろつくようになり、引っ越しせざるを得なくなったという。(そうした愚策のあおりを受け続けたのが母であった)
本当に解決しなければいけない問題を直視せず、的外れなところで余計な苦労をする。無意味なことで汗を流して、努力している気分だけを表面的に味わう。やがて、取り返しがつかないほど問題が巨大化して、人生を台無しにしてしまう。
大学時代に片思いしていた女性が「違和感のあることを続けていると、いつかとんでもない結果になっちゃうのよ!」と言った。ゾーッとして、僕はその人をあきらめる気持ちになれた。
■
とりとめない話を思い出してしまうのだが、20代半ばに交際していた女性には、2歳の子供がいた。
それは、何人もの女性と同時に付き合うモテモテ男に騙されて、孕んだ子供であった。結納の日、その男が別の女を連れてきて、婚約がご破算になったのだという。彼女は添加物が大嫌いで、子供に使う石鹸、シャンプー、食品や調味料、すべて無添加専門店で高いものを購入していた。
それは、子供の健康のためでもあろうが、自分を騙した男のような「悪いもの」「外部」を遠ざける護符のようなものに、僕には見えた。普通のスーパーで売っている洗剤を、彼女は「毒」と吐き捨てるように言っていた。
今のコロナ対策パニックにも、同じものを感じる。
| 固定リンク
コメント