■0811■
昨日は撮影があり、いつも立ちよる喫茶店へ駅から歩いて行くには暑すぎるので、タクシーを使った。
店内にはほとんど客がおらず、いつもは座れない広い席に座れた。窓の外は、風の強い盛夏の早稲田通り。ほんの30分ちょっと座っていただけなのに、木漏れ日が少しずつ形を変えて、店の入り口へ忍び寄っていくのが分かる。
こうした静かな風景をひとりでジッと眺めているだけで、十分に幸せ……これは、16年前にはなかった時の過ごし方だ。ひとりになって、海外へ行くことが楽しくなったことの影響かも知れない。寂しいのが好き。
とはいえ、スタジオでは20歳も若いカメラマンに、ここ2回ほどブログで触れてきた雨女さんの話をしてしまった。
喫茶店もそうだし、服を買う楽しみもそうなのだが、何かひとつだけ「良かった」「これが好き」と思える原体験があり、その面影を何年も追っているような気がする。シャツの柄と色、喫茶店の窓の位置や大きさ、光の入り方……。
そうした美意識の育つ苗床は、たぶん恋愛中枢に近いのだと思う。少しは得たんだけど、少し失ってもいる。勉強を怠ると失う一方になるが、そうはなってはいない。得たものの方が、ちょっとは多い。それが「幸せ」を生むのかも知れない。
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雨女さんの店に通い、2人であちこちへ遊びに行っていたのは、ほんの半年ほどだったとバックナンバーを読み返して確認できた。
すると、吉祥寺や三鷹、高円寺どころか北海道や沖縄、京都などのキャバクラやガールズバーで毎日のように放蕩していた4~5年間のほうが、雨女さんとの付き合いよりもずっと長いことになる。2013年から海外旅行へ行くようになり、その手の店に行くのは、多くても年に3~4回程度に減っていった。
自分でもあきれたことに、週に何度もキャバクラへ通いながら、2~3人の好意を寄せてくれる普通の女性とも遊びに出かけていたことになる。
その中で、ある女性との思い出(?)を長々と書いてみたのだが、なぜか(キャバ嬢として商売的に付き合っていたはずの)雨女さんのことは思い出せば出すほど胸がドキドキするのに、他の人はそうとは限らない。現象だけ取り出すと「好意」のようだけど、実質は主従関係を構築して相手を支配したいだけ……という場合がある。家族関係なんかも、そういう場合が多いんじゃない?
そういうのが面倒だから、何のつながりもない異性と料金分だけは後腐りなく仲のいいフリのできるキャバクラという選択肢が、最後まで残ったのだろう(キャバ嬢なんかと比べられたくないと怒る女性もいたが、だったら本質的に優位に立てるように自分を磨くしかないと思う……その「本質」に自信を持つのがあまりに難しいから、人は簡易な方法で他人を支配下に置こうと焦る)。
そうだ、思い出した。どうすれば人間関係に疲れないか模索した末、ひとりで好き勝手に旅行や美術館へ行くようになったんだった。
たくさんの色が重なると、結局は白になるという。その白へ到達するために、あの無茶苦茶な日々があったんだ。決して忘れまい。50代の俺は、まだまだ元気だ。もっともっと仕事をして、誰にも来られない至上の楽園に暮らすぞ。
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