■0806■
昨日は夕方から打ち合わせだったので、その前に東京オペラシティアートギャラリーへ行った。
「ライアン・ガンダー われらの時代のサイン」がメインの展覧会だが、その上のフロアで開催されていた「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展 色を想像する」、こちらの方が良かった。コンセプトが明確で、さまざまな作家の筆致を堪能する喜びがあった。
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このブログでも、ちょくちょく触れていたフェミ騎士のシュナムルさんが、Twitterアカウントを消したという(■)。
以前からシュナムルさんの嘘くさいツイートや食べ物の写真を分析し、彼の「高学歴で妻子持ち」というプロフィールはすべて嘘で、「そのような暮らしをしている弟夫婦の家に居候している低学歴の無職男ではないのか」と推測していた研究者の言葉を、僕は丸呑みにはできない。
おそらく、アカウントを消す直接のきっかけになった「妻(仮)」という女性は、シュナムルさん本人か、シュナムルさんの本当の奥さんではないかと思う。シュナムルさんの奥さんは彼の言葉によると「イギリス人の研究者」なのだそうだ。その人と結婚するにいたった会話がいかにもウケ狙いの作り話っぽかったので、そういうプロフィールの部分では必死に見栄を張って、その嘘をつき通せない事態になって慌ててアカウントを消した。それは間違いない。
上のスクリーンショットにあるように、本当に自信のある人は、自分のことを「強者性」なんて言葉で粉飾したりしないんだよ。「私など大した人間ではないので笑ってやってください」という泰然自若とした余裕が、シュナムルさんにはまったく無かった。隙あらば威張って、他人を罵倒していた。他人の意見に対して「クソゴミ」とか書いてしまう人は、「本当は自信ないんです」と告白しているようなものだ。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、上のスクリーンショットのように、自分は嫉妬されていると思いたがる。丸裸の自分に自信がないから、理想の自己像をつくりあげて、その「もうひとりの自分」が常に尊敬を集めていないと気がすまない。他人の評価を、ものすごく気にして些細な批判も許さない。シュナムルさんは、自己愛性パーソナリティ障害のサンプルのような人だった。
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以前にも書いたことがあると思うが、僕は三年間の結婚生活があまりに苦しく、最後の一年ぐらいは2ちゃんねるやmixiでネカマを演じていた。いま思うと、妻の暴言や侮辱に追いつめられており、男性の読者たちにチヤホヤされることで安息を得ていたのだと思う(独身男性板に、よく書きこんでいた)。
その代わり、自分が演じる女性の設定や言葉遣いは考えに考え、わざと漢字を打ち間違えたりした(「考えの浅いドジ」という設定にしたほうが、相手も寛大になってくれるし、何かと便利なのだ)。mixiでは二人の女性を並行して演じ、彼女たちがネット上で喧嘩している設定にしたときは、僕の正体を知らない女性のマイミクが片方のキャラクターに「大丈夫?」と、心配してメールをくれたほどだ。
表層だけ見てあっさり信じてしまう迂闊な人と、「本当に女か?」と疑いながらも、僕の虚構の日々に対して、真摯に意見を言ってくれる人もいた。
妻は関西出身で、いろいろと女性らしい趣味も持っていたので、それを参考にすることができた(今にして思うと、妻のほうが見えっぽりで高圧的で、自己愛性パーソナリティ障害の気があった)。
ただ、女性を演じることに性的な興奮は感じなかった。自分が受容されさえすれば、性別などキャンセルしたいという気持ちが強かった。
(電車男の流行っていたころだから、2005年ぐらい。まさに、離婚の前年だ。)
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離婚後はリアルな恋愛関係が自分を安定させてくれるのではないかと信じて、いろいろな女性に声をかけてみた。
しかし、まったく相手にされず、「じゃあ、もう恋愛はいいや」とあきらめた頃、なぜか女性たちが近づいてきて、はっきりと恋愛感情を示してくれた。会うたびに服を褒めてくれたり、妻があれだけバカにしていたライターの仕事を高く評価してくれた。
その過程で、「俺はどう頑張っても俺でしかない」という諦めとも度胸ともつかないアイデンティティが形成されていった。
自分を粉飾するのに疲れると、本来の自分のセンスだけが残る。その短い刃を研いで、よく切れる武器にすれば良いではないか(と言うより、それ以外に何ができる?)。
僕の武器がどんなに短くて無様でも、恥じることじゃない。笑うヤツには笑わせておけ、その方が有利じゃないか……と思えるようになったのは、10年ぐらい前ではないだろうか。
母が殺され、ひとつひとつの難問に法的に対処して、親戚だの何だの人間関係に期待しなくなったころだ。その頃は「どうとでもなれ」「どうにかなるさ」という丸裸な気持ちだったのに、女性にモテた。彼女たちが、母の死について実務的なことで手伝ってくれたことさえある。愛されていたと思う。でも結局、「女性と話したくなったらガールズバーに行けばいいじゃん」という結論に達した。
(正直に「あの後、ひとりでセクキャバへ行った」と言ったら、相手の人に泣かれてしまった)
いまは再び、完全な非モテ期に入って久しいが、僕は自分で自分を、十分に魅力的な人物だと思っている。
(男女を問わず)他人にそこまで深い関係を期待してないし、興味もない。自分の仕事の邪魔さえされなければ、誰からも愛されなくても褒められなくても、へっちゃらなのだ。
こんな気持ちになるなんて、離婚直後の僕には想像もつかなかった。
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ようするに、見栄をはって嘘をつきつづけている人は未熟だし、人生辛かろうね、ということ。
シュナムルさんのツイート、とくに娘が幼いのに読書家で俺の難しい話も理解してくれる……という部分は、あまりに幼稚で狭くて堅苦しい理想が込められすぎていて、白けてしまう。人間をよく知らない人の想像って、どうしても薄っぺらくなる。だから、職業や学歴で嘘をつくしかなくなる。
奥さんにしたって、「研究者のくせに、家ではバカまる出しです」とでも言った方が愛情が出るじゃない、ウソつくにしても。「料理が上手くて、ママ友からも褒められる」という理想だけで固めるから、ますます嘘っぽくなる。
そういえば、何とかして廣田の自信を揺るがしてやろうと嫌みや皮肉を言う人がいるけど、無駄なことですよ。自分に期待しなくなったから、僕は自分の魅力に気づけたのだから。僕は、ハゲて枯れたオジサンです。でも、だからこそ素晴らしい。この人生が面白いし、自分が好きだ。
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