« 2022年6月 | トップページ | 2022年8月 »

2022年7月31日 (日)

■0731■

こんな時代だから、若い子たちががんばれるアニメにしたかった! 劇場版『Gのレコンギスタ』完結に向けて、富野由悠季監督の言葉を聞く【アニメ業界ウォッチング第90回】
296899403_1512959522545857_3479235024607
富野さんにはもう何度インタビューしているか分からないけど、だからこそ、ナアナアにならないように気をつけたいと思った。
このインタビューの時は機嫌がよくて、僕が『G-レコⅣ』のここが良かったと褒めるたび、「うんうん、あそこはね……」と反応がスムースだったので、だからこそ緊張感を記事に出さないといけない。実際には中盤にあった『キングゲイナー』のやりとりを、記事の最初に持ってきたのは、「つかみ」でもあるけど、ちょっとピリッとした空気を出したかったからです。

こんな感じに、インタビュアーは聞くだけでなくて、持ち帰った素材を構成して演出しています。
だから、自分が可愛いインタビュアーは、さもインタビューイと仲がよい感じに、自分が頭のいい感じに構成します。僕は、「このインタビュアーはバカじゃないの?」「コイツわかってないな」と思われた方が、記事としてはメリハリがつくと思います。嘘をつかずに優れた記事を書いたほうが読む人が喜んでくれて、もっと大きな視点で自分を肯定できる。

なので、インタビュアーがしっかり主体性を持っていないと、単に「著名人やクリエイターと会って話せた自分が可愛い」自慰行為のようなだらしない記事になってしまう。あるいは、「だってインタビューイがそう話したんだから、そのまま書くしかなかった」という他責的な仕事になってしまう(社会の半分ぐらいの人は、そういう仕事のしかたをしていると思います)。
「主体性がある」というのは、自分の主張をくどくど書くことではなく、必然性のある構成を考えること。偉そうに粉飾しないで、読者さんにとって分かりやすい記事にすること。それがインタビュアーの主張ですよ。


最近観た映画は、『最強のふたり』、『愛は霧のかなたに』、『それでも夜は明ける』。どれも二回目。
特に『それでも夜は明ける』は、ひとつひとつのシークエンスはよく覚えていたのだが、今回はその端正な撮り方に唸らされた。
たとえば、主人公が白人の労働監督官を殴って、縛り首にされかけるシーン。まず、木にかけられたロープが画面を斜めに切りさくように位置している。次に、この構図。
296899403
主人公はつま先で必死に立ってないと首がしまってしまうので、じりじりと苦しそうに動きつづけている。このカットは、やけに長いな……と思っていたら、後ろの小屋から同じ黒人の奴隷たちが出てくる。彼らが苦しんでいる主人公を助けるのかと言うと、主人公を無視して仕事にとりかかるだけ。ただ静かな、いつもの風景なのである。
まさか、このまま見殺しなのかと思っていると、この構図のまま画面左側から女性が足早にフレームインしてきて、主人公に水を飲ませる。水を飲むところで、ようやくアップになる。

……が、構図はより痛烈になる。苦しむ主人公の肩越しに、親子で楽しそうに遊んでいる黒人たちが見えるのだ。
この長い時間は、主人公の吊るされていた時間でもあるが、黒人たちが奴隷として苦しんでいた歴史的な長さでもある。なので、構図も「奴隷が苦しむことが日常である」比喩的な意味をまとう。
奴隷の才能に理解のある白人の家主が馬でかけつけ、ようやく主人公を吊るしているロープを切る……バタッと地面に倒れた主人公は映さず、アクションカットで屋敷の床で倒れている絵につなげている。ここで安堵した主人公のアップでなく、前シーンから続く構図なのは「状況は何も変わっていない」ことを表わしている。単なるシーン転換のテクニックとは言い切れない。

こうした発見に満ちた啓発的な映画は、実は20本に一本ぐらいしかない。
しかし、上に書いたことは僕にとって新しい発見ではない。優れた映画は、すべてこれぐらいの演出効果を持っているからだ。なので、どうすれば驚くべき映画と出会えるだろうか、それとも劇映画が僕の人生に果たす役割は終わったのかも……と考えている。


また、19世紀の奴隷制度を描いた『それでも夜は明ける』に惹きつけられるのは、強者が理不尽な暴力で弱者をもてあそぶ、いつの世にも通底する真理を描いているからだろう。
僕は色が生白くて不格好で、おどおどしているいじめられっ子の癖に、40年ぐらいかけて自己実現できた。でも、だから妬まれる。仕事上で脅されたことも、数知れない。それを不公平だ被害者だと嘆くぐらいなら、僕は対策を考える。母が父に殺されるという異常な状況でさえ、僕は感情ではなく実務で切り抜けることが出来た。一週間後の自分の心を平穏にするため、今日は何をすべきか考える。
多数派のなかで安穏と生きてきた人は、戦略を立てられない。草食動物には、狩りをすることは出来ない。残酷なようだが、それが理不尽に嘲笑されてきた僕の答えである。

| | コメント (0)

2022年7月24日 (日)

■0723■

フィギュア2体と宇宙船1機のセットで、税別2,600円! ハセガワの発売する「ダーティペア」のプラモデル、開発の裏側【ホビー業界インサイド第82回】
210929_komaw1280
ぴあMOOKや乗りものニュースなど、あちこちでお世話になっているハセガワさんの発売前のキット、取材させていただきました。


おととい、「僕は今は楽しく暮らしているけど、本来はいじめられっ子で……」という話を書いた。
その翌日、決定的なことが起きた。何軒か、徒歩圏内に行きつけの喫茶店がある。いつも、わりと常連客と店員たちが集まって雑談している店があって、そこへ入って本を読むことにした。
この暑さだし、もちろんマスクなんてしない。店内に入っても、店員に「トーストとホットコーヒー」と言うだけなので、マスクはしない。僕は、唾を飛ばしあう雑談に加わるわけじゃない。ひとりで本を読むだけだ。

ところが、僕より少し前に入店して雑談していたおじさんが、聞こえよがしに「こんなに感染者が増えてるのに、マスク外してるバカが増えたからよお」と、店員に大声で話しはじめた。こういう時、僕は聞こえないふりを徹底する。僕に向かって言っているのではなく、店員との世間話なのだから、反論する必要もない。
「今だって、コロナで人が死んでるんだぜ? いまマスク外しているのは、よっぽどのバカだよなあ!」と、おじさんは「バカ」に力をこめて話しつづけた。無視。運ばれてきたコーヒーを飲みながら、あまり気にせず読書していた。
若い店員のお兄さんはマスクについては言及せず、「まだまだ感染者が増えそうですもんねえ」と話を合わせていた。

それ以外におじさんが口にしていたのは、「疲れた」「医者の顔なんて見たくもねえよ」「この半年ぐらい、面白いことなんか何ひとつねえよ」といった中身のない愚痴ばかりだった。「医者」というのは、おじさんは杖をついて片足を引きずっている高齢者だったから、どこか悪いのだろう。
他の常連客(みんな70代だろう)は、「それでウンコがさあ」「ションベンがよお」……ここまで品のない店だったかな? 


さて、コーヒーは来たが、飲み終わってもトーストが運ばれてこない。こんなことは初めてだ。注文を聞き忘れていたのだろう。
まあいいかと思い、席を立って会計をすまそうとすると、店員の青年が「えっ?」という顔をした。カウンターの奥から、女主人も「いま、トースト焼けますよ?」と言う。だって、もう15分ぐらい経過してるよ?
青年は「コーヒー、もう一杯いかがですか」「サービスしますよ」と、引き止めようとする。僕は決まりが悪くなり、「今日はちょっと時間がないので」と、変な断り方をしてしまった。「でしたら、お代は結構ですので……」「また、おいでになってください」と、青年とご主人は口々に言った。僕は財布から取り出した500円硬貨をしまうしかなかった。何か抗議したかったのではない、本当にトーストの注文を聞きそびれたのだろうと思ったのだ。

でも、形としては、僕が「マスクしてないバカ」と、ほとんど真横で怒鳴るように言われたから、不愉快になって逃げ出したみたいだ。店側からすれば、客と一緒になってマスクしてない客を追い出す形になってしまった。
僕はお代を払いたい、店は受けとらない。その押し問答の間、口の悪いおじさんは黙ったままだった。チラリとおじさんを見ると、コーヒーを飲んでいるはずなのに、しっかりとマスクをしていた。


僕は、このどんよりした気分を吹き飛ばしたくて、暑い中がんばってもう一軒の喫茶店まで歩いて、ひとり静かに読書を続けた。
客は僕ひとりだけだったが、ベビーカーの赤ちゃんを連れた夫婦が来た。何か言われるのではないかと身構えたが、静かに雑談している夫婦のうち、ご主人はマスクをずらして顎にかけていた。

図書館で本も借りたので、気分転換は出来た。
ふと駅前を見渡してみると、とくに女性で、マスクをしていない素顔の人が多く歩いていた。「マスク外しているのはバカ」おじさんは、その光景を見て、何か焦ったのだろう。
おじさんは二度も「疲れた」「医者の顔など見たくない」と言っていた。「自殺するとしたら」という話までしていた。つまり、もともと人生が退屈で不満がたまっている。そういう人は、論点をすり替える。「学歴のせいだ」「出身地のせいだ」「持病のせいだ」「コロナのせいだ」と、外に原因をつくりたがる。ツイフェミなら、本当は自分の嫉妬や憎しみがイライラの原因なのに、「性的な広告のせい」「萌え絵のせい」にして、自分の心の問題を直視しない。

また、人生が楽しくない、上手く行っていない人は、とにかく頑迷固陋で融通がきかない。柔軟性がない。賢い人はこだわらないが、バカは執着する。何もかも枯渇した“終わった”人は、自分をも不幸にする理不尽なルールにこだわる。おじさんは「緊急事態宣言を出すべきだ」とも言っていた。「だって俺は、こんなにも我慢してるんだから」……その奴隷根性が、最後のアイデンティティになってしまうのだ。


さらに気をつけなければいけないことは、僕がヒョロッとしていて反撃してきそうもないから、あれだけ近距離で「マスクしてないバカ」と言えたのだ……ということ。攻撃してくる人は外見を見て相手を決めているんだなと、改めて思った。僕は、いじめやすい外見をしている。それを実感させられた。
いきなり体形を変えることは出来ないのだから、せめて背筋を伸ばして、胸を張って歩かないといけない。またマスク警察が来たら、練習の意味で、ちょっと言い返してみようかと思う。マスク警察ではない、普通のマスク愛好家とは、争いたくない。自由を奪う人間には抵抗する。


最近観た映画は片山慎三監督『さがす』、『そこにいた男』、クロエ・ジャオ監督『ノマドランド』、『エターナルズ』。

| | コメント (0)

2022年7月22日 (金)

■0722■

富野由悠季のアクション演出――「OVERMAN キングゲイナー」に見る単純さと複雑さのバランス【懐かしアニメ回顧録第92回】(
T640_964674
単純明快なカメラの動きと、あいまいで混沌とした台詞のかけあいとを第一話から選び出しました。
『キングゲイナー』は居住環境の圧迫という問題、ひとりひとりが役割をこなすべきとする組織論、そして何だか要領を得ない台詞という意味では、富野成分がたっぷりです。他にも、牢獄でのパンと水のやりとりにはネオ・レアリズモを想起させるリアリティがあります。


横浜、山下公園へ仕事の都合もあってガンダム像を観にいった。
前日、ホテルに泊まったので久々に夕飲みしようと赤レンガ倉庫へ出かけていった。
T640_964674_20220722121901
汗だくになって目当てのレストランに着くと、強烈な西日。なので一杯で退散したのだが、帰りにトイレに寄ってみてギョッとした。その日は、誰でも着るようなTシャツとワイシャツを組み合わせていたせいだろうか、鏡の中の自分の大きすぎる頭、バランスの悪い体形、間の抜けた顔つきがみすぼらしく見えて仕方がなかった。同じテラス席が、リア充の男女で賑わっていた影響もあるだろう。
いつもの、一人で飄々としている僕ではない。みじめな気持ちで猛暑の中をとぼとぼ歩き、中華街で居酒屋やバルを物色するうち、またいつもの自信が戻ってきた。僕は僕でしかない、この逆境をパラダイスに変えるセンスが僕にはある。

しかし、僕はあらためて、生物的な出来損ないなのだと実感させられた。
喫茶店で注文するだけでも「ハイ?」と聞き返されるほど、発音ができない。歌も下手だったので、合唱の練習では隣の男に「オンチさん」と呼ばれて、からかわれ続けた。体育も苦手で勉強もできなかったので、「少なくともアイツよりはマシ」という格好のターゲットとなり、いつも誰かしらの劣等感を糊塗するネタとして使われていた。

でも、その試練があったからこそ、自分の豆電球ほどの能力を活用して、積極的に工夫を重ねて、今のように毎日を楽しく過ごせているのだ。僕の人生は発明とは言えないまでも、一種の開発であることは間違いない。
たとえば、僕なんかと違って体形も顔も良くて、女性にも普通にモテるような人が「廣田さんはズルい」という意味のことを言う。つまり、大多数の人は自分の欠点と正面から向き合う勇気など持ち合わせておらず、まして欠点を克服した人間の存在など許せないんだろう。だから、何とか足をすくって元のいじめられっ子の居場所へ戻してやろうと陰湿な嫌がらせをしてくる人がいる(40歳になっても50歳になっても!)。
でも、僕のような出来損ないを目のカタキにしている、ちっぽけな貴方の完敗だよね……という乾いた感想しか出てこない。
それぐらい、独自なものがない、平均的すぎて克服すべき欠落がないことは静かな呪いとなる。


コロナ陽性者が大量に発生したそうで、またまた記録更新だという。
「コロナが終わってほしくない人たちの内側を想像してみた。」()この漫画には悪意がこもっているけど、よく人間観察ができている。

「みんなが平等に不幸であるべき」と愚直に思い込んでいる人が、とても多い。だから、子供たちをも巻き込んで我慢を強いて、ありもしない平等をつくりだそうと努める。「自分はコロナのせいでつまらない思いに耐えているだけで、本当は幸せなんだ」と思いたい。人生の残酷さを直視できない。自分には致命的な欠点があると認められず、何かの、誰かのせいにして目を背けていたい――。人間の心の動きとして、それは理解できる。
僕の場合は目を背けられないぐらい、欠点が多かった。困難が多すぎた。だから、自分で解決策を探さねばならなかった。それが結果としては、大きなメリットになった。適当に誤魔化して、自分を騙しても、ウソをついていることが意識されて、もっと苦しくなる。だから、正直になるしかない。自分に正直になれば、他人からの不当な扱いには抵抗しようという気概も出てくる。それが勇気になる。


しかし、どんな理不尽なことを強要されても「決まりですから」とあきらめている人が多い。満員電車、サービス残業……。
僕は絶対にイヤだ。30歳を過ぎるころまで、肉体的にキツい無意味に忙しいバイトをして、その徒労感を「意味のある仕事をした」実感と勘違いしていた。絶対に違う。自分の得意なこと、やっていて楽しいことが、社会にとっても価値のある仕事となるのだ。逆を言うと、納得できない楽しくない仕事を貴方がすればするほど、社会には「我慢して嫌々やったクソ仕事」が垂れ流される結果となる。分かるだろうか?

自分にとって楽しいことを見つけて、その楽しさを世の中に広めよう。それが結果として、お金となって帰ってきて、僕はもっと楽しい体験をする。もっと楽しい仕事が出来る。いろんな話が来ている。こうした良いサイクルを作ったり、作れないまでも乗っかってほしい。コロナのせいになんかする気は、なくなるだろう。それぐらい、人生は無限に楽しくできるぞ。僕が証明している。

| | コメント (0)

2022年7月14日 (木)

■0714■

雨の中、森美術館へ行ってきた。
六本木は非マスク率が高いと、Twitterでビビっている人がいたぐらいなので、マスクしなくても入れるだろうと高を括っていたら、入場券すら買わせてくれなかった。係のお兄さんからは「そういう決まりなので」という以上の理由が出てこなかったので、「じゃあ帰ります」とその場を辞して、もともと行くつもりだった21_21 Design Sightへ向かった。
B6f78cc2a684007be4c8e7da549ac1d6
こちらもマスクと言われたのだが、「僕は誰とも話さないし、飛沫感染させようがないでしょ?」と粘ったら、「でしたら胸にシールを貼って、口にハンカチを当てていてください」で解決。
その後、六本木で打ち合わせがあったので、もう何日か前に使ったまま放置してあった汚いマスクをして行ったのだが、先方も使い込んだケバ立ったマスクをちょいちょい外して、あごマスクで話してらした。「そうか、普段は外してらっしゃるんだな」と分かる。……もう、ケースバイケースでよくない? 

僕はテニスにもスポーツにも興味ないけど、つい昨日のウィンブルドンのニュース写真()。
B6f78
リンク先には動画もあるけど、観客の何人がマスクしている?


ただ、僕は世の中を変えたいなどと思ってはいなくて、マスクしない人は白眼視されるし、集団から疎外されていくと思う。僕の人生は今までずっとそうだったから、あまり変わらない。社会にも他人にも、そこまで期待していない。
嫌われたくないお店には、とりあえずマスクして入店しておく。この前、コロナの感染拡大をとても気にしている友人と会ったから、彼の前ではマスクをしていた。マスク一枚で、彼の培ってきた人生観を疎外しようとまでは思わない。彼が何を愛そうが何を憎もうが、僕と会っている間だけはそれを尊重する。
彼に「ワクチン打たない人?」と聞かれたけど、二回目までは打った。今後も、海外へ行くのに証明書が必要であれば打つかも知れない。ワクチンやコロナ騒動、元総理の暗殺まですべて陰謀論にしたがる人たちと一括りにされてしまうけど……、それも仕方ないんじゃない? 誤解させとけば? どうせ一生関わらない赤の他人ばかりだよ。

いつも書いているように、自分固有の価値観なんて持っている人は、社会の二割ぐらいだと思う。その二割の人たちが必死に頑張って、(たとえ報われなくても)創造性のある仕事をする。あとの八割はだらしなく享受して文句を言うだけの側なんだと、僕には分かる。何でもいいからとりあえず行列する人。発車メロディーが鳴ってからダッシュする人。自分で考えないのは、楽だもん。チェーン系の喫茶店や居酒屋に入ると、即座にあきらめモードに入ってしまって、独特の脳汁が出ているのが分かる。「疲れた、めんどくせ」「みんなと一緒でいいや」、この堕落の快感はもの凄い。
その時、「ちょっと待てよ? そもそもお前は“みんな”の側だったか? “みんな”から笑われ、軽んじられてきたのは、どこの誰だったかな?」と、魂の底から声がするんだ。その救われない運命のせいで、逆に救われているよ。


もう10年以上も前のことだけど、ネットでニュースを見ていたら、ほぼすべてのコメント欄に「あれ? こいつも在日だったの?」と、気に入らない政治家や芸能人みんなを「在日」扱いしている人がいた。当時は、在特会が流行っていたからだろうけど、今はなんだろう?
ともあれ、「在日」でも「ノーマスク」でも、差別と疎外と分断と抑圧を正当化できれば、何でもいいんだと思う。本当は自分が不甲斐ないだけなのに、「いまコロナですから」と言い訳していたい。自分の責任でさえなければ「コロナ」でも「時代」でも「社会」でも、何でも代入して話をそらしたい。うまく行かないのは、気分がさえないのは「コロナだから」「マスクしてない人のせい」「コロナさえ収まれば」……何もかも、他責的に先延ばしできる。
だから、そういう意味で「コロナ」はなくならない。他の何かとして残っていくんだろう。

日本人は他の国のアジア人に比べて自己肯定感が低く、だから海外でも声が小さいんだと英語の先生が言っていた。その分、いじめが大好きなんだろう。世の中、いじめられる側といじめる側しかいないと、よく思う。「みんな平等」という幼稚で無責任な幻想が、数え切れないぐらい沢山の悲劇を生んでいる。
命は平等ではない。人は理不尽に、あっさり死ぬ。その死に、意味なんかない。だから、「今のうちに面白い体験を沢山しておこう」と考えるけどな。立ち止まっていられない。


最近観た映画は、大島渚『東京戦争戦後秘話』、ジム・ジャームッシュ『ゴースト・ドッグ』、『The Client』、『サード』、『ジョゼと虎と魚たち』(アニメ)、『岬の兄妹』。
B6f78_20220714214401
心身障害者を飾らずに描いた『岬の兄妹』が、ぶっちぎりで凄い。人も社会も信じていない。「うわ、ガイジかよ」「きめえ」などの台詞も、当然ある。でも、露悪趣味とはちょっと違う。もっと悪趣味かも知れない。
ここまで人間不信だと、誰も意図しない美しさが、否応なく生じてしまう。そして、そこに美しさを見出そう(意味を読みとろう)としている白々しい自分との戦いも生じる。そんな浅いところで理解した気になって大丈夫か?と、立ち止まってしまうのだ。

| | コメント (0)

2022年7月 1日 (金)

■0701■

アメリカ発CGアニメのスピンオフを、日本アニメの文法でつくる! 「RWBY 氷雪帝国」のストーリーを創出した虚淵玄(ニトロプラス)×冲方丁の仕事術【アニメ業界ウォッチング第89回】
91402345131
他でもない大好きな『RWBY』なので、バンダイナムコピクチャーズさんに連絡して、取材が実現しました。


6/23~24にかけて、神戸市と福岡市へ二泊三日の旅行。美術館の方たちと打合せするのがメインだったが、鉄人28号やνガンダムの立像を見学して、最終日は一人で福岡アジア美術館と福岡県立美術館、福岡城・鴻臚館を見学。フラッと一人で昼飲みしたりして、まあまあ楽しかった。
289342908_5189140234513182_3719580362050
ひとつ、どうしても記しておきたいことは、帰りの飛行機(行きは新幹線だった)。窓際の席で、しかも隣が女性だったので、離陸時は叫びそうなほど緊張した。離陸してから、飛行機が激しく揺れたのも怖かった。逃げるように精神安定剤を飲み(薬の入った財布を手元に置いておいて良かった)、文庫本二冊に集中した。
しかし、離陸直前、席から立ち上がって「やっぱり降ります!」と逃げ出しそうなほどの圧迫感だった。海外旅行のときは、必ず通路側を予約している。窓側だけと閉塞感が怖い。あと、女性という存在が怖い。離婚後に女性に好かれていた時期も、この恐怖症は治まらなかった(その女性たちと一緒にいても、まるで緊張はしないのだが、別の場面では凄まじい緊張感に苦しんでいた)。

いつも行っている喫茶店でも、思いがけず混んでいて隣が女性だと、滝のような汗をかいてしまう。このパニック発作のような症状、本でも一度も見たことがない。広場恐怖症に近いのだろう。


その飛行機は、Peach Aviationであった。詳しく知らなかったのだが、一昨年、機内でマスク強要をめぐるトラブルがあったためか、とても冷たく「今すぐ着用してください」と搭乗口で言われた。機内では先述のようなパニック状態だったので、ずっと顎まで降ろしていた。
ほかには、福岡県立美術館がマスクにうるさい。アジア美術館は「マスクできません」という札を下げておけばオーケー、鴻臚館は「マスクがないなら、じゃあ話さないでください」。私ひとりしか客がいないのに(笑)。でもまあ、Peachや県立美術館の冷徹な態度に比べれば、柔軟性があって可愛らしい対応だった。

東京に帰ってきてから、すさまじい猛暑のため、ほとんど家にいる。取材で出かけるとき、大きなビルだと受付でマスクするよう指示されるが、それ以外の場所では完全に自由だ。仕事相手がマスクしている場合がほとんどだが、いつの間にか相手も外していることが多い。
せめて午前中の涼しい時間を選んで喫茶店へ行こうと外へ出てみると、まだ8割ぐらいの人が汗をかきながらマスクしていて、呆れながらも「まあ、こんなもんだろうな」とも思う。常々、満員電車とかサービス残業などの理不尽で過酷な状況に、なぜみんな耐えているのか不思議に思っていたが、学校という場所が忍耐強い労働力を量産する工場だと思えば、今のマスク社会になっても何の不思議もない(学校が、何か創造的なアイデアを学ぶ場だと勘違いしている人が多い)。

気温が36度もあるのにひたすら耐えてマスクしている大人は、「嫌だけどみんなに合わせる」という道を選択したか、もっと恐ろしいのは無意識に苦痛の多い道を選んでしまっているかだろう。
「マスクを続ける自由もある」などという屈折した言い方が出てくるのは、「自分の意志をもって自由になっている奴らが妬ましい」「奴らではなく俺らが自由という形にしてほしい」という歪んだ平等感のあらわれだろう。負けた人間は、形にこだわる。


一人を得させるぐらいなら、みんなで損をしたほうがマシ。それが、日本社会だと思う。
先述したように、僕はパニック発作を抱えている。だけど、嫌なことは徹底して避けている。どこにも就職していないが、いつも十分なお金を稼げて、いつでも好きな時間に寝ている。毎日、好きなものを食べている。好きな場所へも行っている。嫌なら帰るだけだ。
でも、今のマスク社会になって、どうやら8割ぐらいの人が理不尽な我慢をしているらしいと分かってきた。「そんなわけがない」と思ったら、あなたは残り2割の側だろう。カッコよくてお洒落な人たちが猛暑の中、マスクをして歩いていると、「なんだ、彼らは8割の側だったのか」と不思議な気持ちになる。

| | コメント (0)

« 2022年6月 | トップページ | 2022年8月 »