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ゴールデンウイークなどの連休は家でじっとして、平日に出かけたいのだが、いろいろ事情があって、まず前半は三菱一号館美術館、昭和館へ。後半は国立科学博物館、アーティゾン美術館へ行った。その合間に喫茶と夕飲みを織り交ぜた。
すると、休日にしか飲食店に来ない人たちと出会うことになる。混んでいるのに、ひとりで4人席を占有する人、お冷を追加するどころかペットボトルの飲料を取り出してまで長居する家族もいる。
そうした人たちを見ていて思うのは、ようするに彼らは「タダ」で「得する」ことばかり考えているのでは……ということ。お金のかかる飲食の時間ではなく、無料サービスの水だけ飲んでいる時間は「タダ」である。お金を払っていないから、遠慮を忘れて強欲になる。スーパーで、無料で置いてある割り箸やビニールを山ほど持っていく人がいる。あれと同じだ。
いつも自分は損しているという実感があるから、その不公平感を手軽に払拭しようとして、「タダ」の物品や時間にたかる。クーポン券、サービス券は貧乏人に「得している、取り返している」というドリームを与える。逆を言うと、クーポンやポイントカードを使うほど貧乏な感覚が身についてしまう。
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僕がいつも気にしている歩きスマホも、彼らが歩いている時間を「タダ」と捉えているのであれば、なんとなく説明がつきそうだ。
「タダ」で過ごせる時間なのに何もしないのは「もったいない」、だから、その場で現金をとられるわけではないスマホアプリで使いつぶそうとする。駅のホームから電車が発車しそうになると、あわてて駆け込む人がいる。あれも「損したくない」感覚のあらわれだろう。
つまり、「どっちにしても同じなら、スマホで楽しい思いをしたり早い電車に乗れたほうが得だろう」という考えが身に染みてしまっている。「タダ」を何かで埋め尽くそうとする焦りこそが貧乏の本質なのだ。だから僕は、同じ場所にタダのベンチとお金を払わないと座れない店舗のテラス席があったら、お金を払うほうを選ぶ。「タダ」は焦りを生み、人を厚かましく、はしたなくする。(ポイントの溜まる店にばかり行くなど)「タダ」にこだわるから選択肢が狭まり、気持ちに余裕がなくなり、貧乏になるのだ。
かなり以前に、「歩きスマホしている人はポケットからお金がこぼれ落ちても、気がつかない人」と書いた。
あるいは、「人にぶつからないよう気をつけて歩く」という余計なタスクを自分に課したうえ、実際のリスク管理は他人に丸投げしている。絶対に仕事では関わりたくない相手である。
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『月曜日のたわわ』炎上に関して、プロ奢ラレヤーという人が回転寿司を例えにツイートしていた。
“不快な広告のはなし、「すごく納豆が嫌いなひとでも、回転寿司で納豆が流れてきたときに『嫌いなんです!流さないでください!』なんて言わない」という共通認識がくずれて、せかいのすべてが私の私物!わたしの為のせかい!わたしが不快なものはすべて犯罪!みたいに自我が膨張した妖怪のはなしっぽい”(■)
この誰でも乗っかりやすい例え話に、ツイフェミ(?)の人が頭の悪い返事をしていた。
“女は回転寿司に流れたくないし、そもそも寿司じゃないのに、「お前らは消費される寿司なんだ」って言われて勝手に流されたいことにされたり無理矢理コンベアに乗せられるからふざけんなクソって言われんだよ。”
あまりに文脈を読み間違えているので「……え?」と首をかしげてしまうが、この人のプロフィールを見たら「カナダ在住」「翻訳者」となっていた。何年か前は「そうか、海外で仕事している人なら、俺の知らない経験や知識をいっぱい持っているんだろうな」と一目置いていたところだが、自己愛性パーソナリティ障害について調べていくと、彼らは「そんな嘘ついて空しくないの?」というぐらい、自己粉飾のため誇張した嘘をつくと分かる。信用してもらうには実名を出すなり「コスト」「リスク」が必要なはずだが、彼らは何でも「タダ」でやり過ごそうとする。
そういえば、広告も「タダ」で見られて、どんな貧乏人でも簡単に「客」になれるので、いつも損ばかりしている底辺がここぞとばかり文句を言うんだろう。貧乏というのは、そうやって「タダ」につけいって、あれもこれもと強欲に取り返そうとする心理のことだと思う。
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さいきん観た映画はブニュエル『忘れられた人々』、ロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』など。
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