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バサラの痛み、ミレーヌのとまどい……「マクロス7」第5話は、最終回へ向かって静かに走りはじめる【懐かしアニメ回顧録第90回】(■)
最近、ちょっと恐ろしい本を読んだ。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』。若い世代は、ウェブ配信で映画を見るとき、さっさと「ネタバレ」で検索して何が起きるのか理解してから、よけいな間を省略して観るのだという。
何が恐ろしいのかというと、「まあそうだろうな」と納得できてしまうからだ。よほど引き込むような演出を使っていないかぎり、ついスマホに手が伸びてしまう。さすがに、飛ばして見ることはしないが、途中でストーリーをGoogle検索して、誰が何をしているのか確認することはある。
しかし、登場人物が誰でどうなのか、意図的に曖昧にしている場合があったり、また、誰が誰だか分からないことが映画の印象を独自づけたりするのだから、これは勧められたことではない。ところが、食い入るように見たとしても、映画の本質は「記憶」へと遠ざかってしまう。「このカットに感心したんだ」と伝えるには、画面をキャプチャするか、上にリンクしたような評論風の読み物にして留めておくしかない(果たしてそうなのか……手元で、「ホラここのカット繋ぎを見てよ」と説明することが、今ならいくらでも可能なのに?)。
10年前に観たときはさっぱり分からなかった映画が、勉強をへた現在なら、ストンと腑に落ちたりする。若いころの出鱈目な“感性”とやらを恥じるし、知識も経験もない未熟な「感動」の薄さに気がついたりもする。一方で10年後、20年後の自分がいま知っている映画をどう理解するか、楽しみでもある。
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しかし、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ』で感じた本当の恐ろしさは、何十年前にもいたであろう無能で不勉強な若者たちが、ネットの時代、バカはバカなりの卑怯な手段で勝ちに来ている……という点だろう。
ツイフェミもそうだが、彼らは事実を精査したりなんてしない。「話」を「話し」、「裁判沙汰」を「裁判駄々」などと書いてしまう人もそう。伝わりさえすれば、間違っていようと事実でなかろうと、今の感情が絶対優先という人たちとSNSは相性がいい。「事実はどうであれ、私は傷ついた」「私が傷ついたことは事実」、これで相手を謝罪に追い込むことが出来る。
炎上に参加して社会的強者を殴っている人たちは、自分で情報を探してきたりはしない。あいかわらず、そこは勘のいい有能な人たちに丸投げで、彼らの成果にだけタダ乗りしようとしている。そもそも社会で認められていないので、「信用を失う」なんてこともない。学ばない人たちの刹那的で破滅的な態度が、僕はおそろしい。
よく気をつけて勉強しながら生きていかないと、見苦しく堕落してしまうということだ。人間は、自分で自分を騙す。警戒しないと、愚かな流れに飲み込まれてしまう。
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先週水曜は静岡へ行って、ホビーショーに参加。伝説のプラモデル設定者、村松さんと飲んだ。
翌日、静岡県立美術館へ。ロダン館の「地獄の門」の迫力に圧倒された。
昨日、土曜日は神楽坂の廃ビルに特設された美術展「惑星ザムザ」。その後、天王洲アイルまで行ってWHAT MUSEUMへ。「建築模型展ー文化と思考の変遷ー」と「OKETA COLLECTION 展」。
曇っていたが、テラス席でビールも飲んだ。
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最近観た映画は、『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』、『漁港の肉子ちゃん』、『バクラウ 地図から消された村』、『トキワ荘の青春』、『ドライブ・マイ・カー』。
『漁港の肉子ちゃん』の作画が、圧倒的に凄い。「まだアニメには、こんな表現力があったのか」という驚き。
一方で、おそらくチック症という設定なのだろう、誰も見ていないと発作的に変な顔をしてしまう少年の表現がグロテスクで、かなり怖い。何かのアクシデントで、映ってはいけないものが映りこんでしまったような感触さえする。そういう行き過ぎた表現も含めて、芸能人が企画したアニメにしてはオーバースペックの異色作。すべっていて、意図の伝わらない部分まで含めて、表現として力強い。
そして、ろくに観てもいない一般人から叩かれるのは、まさしく「芸能人が関わっていないと見ない」「普段は地上波テレビしか見ていない」層に届いた証拠ではないだろうか。そうした、「バカに伝わる」事態を恐れてはならないのだと思う。世の中の七割は、ろくに調べもしない向上心のない「バカ」だと覚悟しよう。
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