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アートか、ホビーか? 変形する金属彫刻を作りつづける造形作家、坪島悠貴の幻想世界【ホビー業界インサイド第81回】(■)
変形トイの原型も手がける作家、坪島悠貴さん。幅広く仕事ができるのは、才能のみならず温厚な人柄ゆえでしょう。
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17日は東京駅近くの博物館インターメディアテク、東京ステーションギャラリー、国立西洋美術館を一日で回った。
22日は練馬区立美術館、24日は北区飛鳥山博物館・紙の博物館・渋沢資料館へ足を運ぶ。
そして、仕事の関係で招待券で行った日本科学未来館の展示「きみとロボット」に魅了されてしまい、なんと一週間後に自費で行ってきた。このあたりのことは、Twitterにリアルタイムで書いている(■)。
「弱いロボット」という概念に心惹かれて、提唱者の岡田美智男博士の著書まで買ってしまった。
『ニューロマンサー』と『ヨコハマ買い出し紀行』を読んだときのような、驚きと同時に少し寂しさを感じる……それが、僕にとっての未来だ。フェトウスというファッションブランドのコピーで、「未来は少し懐かしい」というのがあったと思う。その「懐かしい」とはレトロ・フューチャーという意味ではなく、僕には「寂しい」と聞こえる。
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その間、三度も四度も夕飲みしているのだが、ほとんどが曇り空。
これは、まだ日の高い時間に行った石神井公園の休憩所。
しかし、外飲み・夕飲み自体が単なる習慣と化してきているので、気をつけねば。曇り空に失望するたびに2~3千円も出ていく。これがまた、メンタルによくない。贅沢な、豊かな気持ちになるために苦労して夕飲みスポットを探し歩いているのに、消耗する一方では本末転倒だ。
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政府が、マスクの規制緩和を宣言したらしい。
しかし、街ではマスク姿が9割ぐらい。それほど驚かないというか、「だって世の中の大半の人って自分では何も判断できないよね?」という感想しか出てこない。無意味に行列したがる、電車に駆け込み乗車する、ぜんぶ同じ心理だろう。
小学校のころから、先生が指図するまでは我慢する、自分で勝手に判断してはダメという教育を強いられてきたように思う。誰かに責任を押しつけて、自分はその他大勢に埋もれていたい。みんなが我慢するなら、自分も我慢すべき。学校って、そういう空間だった。
中学校のころ、クラスのみんなから「ギュリヒグ」とあだ名をつけられ茶化されている人がいて、彼が何かやるたび、みんな一斉に「ギュリヒグ!」「ギュリヒグ!」などとヤジをとばす。ふと気がつくと、「ギュリヒグ」と名指しされているはずの本人も「ギュリヒグ!」「ギュリヒグ!」と茶化す側に加わっている。すると、疎外されている特定個人は消失して、集団による蔑視と悪意だけが残留する。それが社会なのだ。
コロナであろうと他の病気だろうと、事故だろうと事件だろうと、人は理不尽に死ぬ。その不合理を直視する勇気がないから、なんとなく「命は平等だ」「ひとりも死んではならない」などと、表層的で偽善的なスローガンだけが無責任に漂っている。
「『俺がマスクをして苦しい思いをしているのに、なんであいつはマスクをしていないんだ』と批判されることを恐れて、結果的に全体のマスク着用率は高い、というね。社会心理学的に見て、スパイト行動というのは、とにかく平等を求める気持ちなんですよね。とにかく平等にっていう思いや、競争心が強くなりすぎると、みんなが貧しくなる、ゲーム理論では“共貧状態”って呼ぶんですけど、こうした状況が起こってくる」(■)
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最近観た映画は、『レイジング・ブル』、『海底47m 古代マヤの死の迷宮』、懐かしのインディーズ映画『ゴンドラ』。
映画を早送りして観はしないが、2時間を超える映画は本当に長いと感じている。
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