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2022年5月27日 (金)

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アートか、ホビーか? 変形する金属彫刻を作りつづける造形作家、坪島悠貴の幻想世界【ホビー業界インサイド第81回】
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変形トイの原型も手がける作家、坪島悠貴さん。幅広く仕事ができるのは、才能のみならず温厚な人柄ゆえでしょう。


17日は東京駅近くの博物館インターメディアテク、東京ステーションギャラリー、国立西洋美術館を一日で回った。
22日は練馬区立美術館、24日は北区飛鳥山博物館・紙の博物館・渋沢資料館へ足を運ぶ。
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そして、仕事の関係で招待券で行った日本科学未来館の展示「きみとロボット」に魅了されてしまい、なんと一週間後に自費で行ってきた。このあたりのことは、Twitterにリアルタイムで書いている()。

「弱いロボット」という概念に心惹かれて、提唱者の岡田美智男博士の著書まで買ってしまった。
『ニューロマンサー』と『ヨコハマ買い出し紀行』を読んだときのような、驚きと同時に少し寂しさを感じる……それが、僕にとっての未来だ。フェトウスというファッションブランドのコピーで、「未来は少し懐かしい」というのがあったと思う。その「懐かしい」とはレトロ・フューチャーという意味ではなく、僕には「寂しい」と聞こえる。


その間、三度も四度も夕飲みしているのだが、ほとんどが曇り空。
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これは、まだ日の高い時間に行った石神井公園の休憩所。
しかし、外飲み・夕飲み自体が単なる習慣と化してきているので、気をつけねば。曇り空に失望するたびに2~3千円も出ていく。これがまた、メンタルによくない。贅沢な、豊かな気持ちになるために苦労して夕飲みスポットを探し歩いているのに、消耗する一方では本末転倒だ。


政府が、マスクの規制緩和を宣言したらしい。
しかし、街ではマスク姿が9割ぐらい。それほど驚かないというか、「だって世の中の大半の人って自分では何も判断できないよね?」という感想しか出てこない。無意味に行列したがる、電車に駆け込み乗車する、ぜんぶ同じ心理だろう。
小学校のころから、先生が指図するまでは我慢する、自分で勝手に判断してはダメという教育を強いられてきたように思う。誰かに責任を押しつけて、自分はその他大勢に埋もれていたい。みんなが我慢するなら、自分も我慢すべき。学校って、そういう空間だった。

中学校のころ、クラスのみんなから「ギュリヒグ」とあだ名をつけられ茶化されている人がいて、彼が何かやるたび、みんな一斉に「ギュリヒグ!」「ギュリヒグ!」などとヤジをとばす。ふと気がつくと、「ギュリヒグ」と名指しされているはずの本人も「ギュリヒグ!」「ギュリヒグ!」と茶化す側に加わっている。すると、疎外されている特定個人は消失して、集団による蔑視と悪意だけが残留する。それが社会なのだ。
コロナであろうと他の病気だろうと、事故だろうと事件だろうと、人は理不尽に死ぬ。その不合理を直視する勇気がないから、なんとなく「命は平等だ」「ひとりも死んではならない」などと、表層的で偽善的なスローガンだけが無責任に漂っている。

「『俺がマスクをして苦しい思いをしているのに、なんであいつはマスクをしていないんだ』と批判されることを恐れて、結果的に全体のマスク着用率は高い、というね。社会心理学的に見て、スパイト行動というのは、とにかく平等を求める気持ちなんですよね。とにかく平等にっていう思いや、競争心が強くなりすぎると、みんなが貧しくなる、ゲーム理論では“共貧状態”って呼ぶんですけど、こうした状況が起こってくる」


最近観た映画は、『レイジング・ブル』、『海底47m 古代マヤの死の迷宮』、懐かしのインディーズ映画『ゴンドラ』。
映画を早送りして観はしないが、2時間を超える映画は本当に長いと感じている。

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2022年5月16日 (月)

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バサラの痛み、ミレーヌのとまどい……「マクロス7」第5話は、最終回へ向かって静かに走りはじめる【懐かしアニメ回顧録第90回】) 
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最近、ちょっと恐ろしい本を読んだ。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』。若い世代は、ウェブ配信で映画を見るとき、さっさと「ネタバレ」で検索して何が起きるのか理解してから、よけいな間を省略して観るのだという。
何が恐ろしいのかというと、「まあそうだろうな」と納得できてしまうからだ。よほど引き込むような演出を使っていないかぎり、ついスマホに手が伸びてしまう。さすがに、飛ばして見ることはしないが、途中でストーリーをGoogle検索して、誰が何をしているのか確認することはある。
しかし、登場人物が誰でどうなのか、意図的に曖昧にしている場合があったり、また、誰が誰だか分からないことが映画の印象を独自づけたりするのだから、これは勧められたことではない。ところが、食い入るように見たとしても、映画の本質は「記憶」へと遠ざかってしまう。「このカットに感心したんだ」と伝えるには、画面をキャプチャするか、上にリンクしたような評論風の読み物にして留めておくしかない(果たしてそうなのか……手元で、「ホラここのカット繋ぎを見てよ」と説明することが、今ならいくらでも可能なのに?)。

10年前に観たときはさっぱり分からなかった映画が、勉強をへた現在なら、ストンと腑に落ちたりする。若いころの出鱈目な“感性”とやらを恥じるし、知識も経験もない未熟な「感動」の薄さに気がついたりもする。一方で10年後、20年後の自分がいま知っている映画をどう理解するか、楽しみでもある。


しかし、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ』で感じた本当の恐ろしさは、何十年前にもいたであろう無能で不勉強な若者たちが、ネットの時代、バカはバカなりの卑怯な手段で勝ちに来ている……という点だろう。
ツイフェミもそうだが、彼らは事実を精査したりなんてしない。「話」を「話し」、「裁判沙汰」を「裁判駄々」などと書いてしまう人もそう。伝わりさえすれば、間違っていようと事実でなかろうと、今の感情が絶対優先という人たちとSNSは相性がいい。「事実はどうであれ、私は傷ついた」「私が傷ついたことは事実」、これで相手を謝罪に追い込むことが出来る。
炎上に参加して社会的強者を殴っている人たちは、自分で情報を探してきたりはしない。あいかわらず、そこは勘のいい有能な人たちに丸投げで、彼らの成果にだけタダ乗りしようとしている。そもそも社会で認められていないので、「信用を失う」なんてこともない。学ばない人たちの刹那的で破滅的な態度が、僕はおそろしい。

よく気をつけて勉強しながら生きていかないと、見苦しく堕落してしまうということだ。人間は、自分で自分を騙す。警戒しないと、愚かな流れに飲み込まれてしまう。


先週水曜は静岡へ行って、ホビーショーに参加。伝説のプラモデル設定者、村松さんと飲んだ。
翌日、静岡県立美術館へ。ロダン館の「地獄の門」の迫力に圧倒された。
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昨日、土曜日は神楽坂の廃ビルに特設された美術展「惑星ザムザ」。その後、天王洲アイルまで行ってWHAT MUSEUMへ。「建築模型展ー文化と思考の変遷ー」と「OKETA COLLECTION 展」。
曇っていたが、テラス席でビールも飲んだ。


最近観た映画は、『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』、『漁港の肉子ちゃん』、『バクラウ 地図から消された村』、『トキワ荘の青春』、『ドライブ・マイ・カー』。

『漁港の肉子ちゃん』の作画が、圧倒的に凄い。「まだアニメには、こんな表現力があったのか」という驚き。
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一方で、おそらくチック症という設定なのだろう、誰も見ていないと発作的に変な顔をしてしまう少年の表現がグロテスクで、かなり怖い。何かのアクシデントで、映ってはいけないものが映りこんでしまったような感触さえする。そういう行き過ぎた表現も含めて、芸能人が企画したアニメにしてはオーバースペックの異色作。すべっていて、意図の伝わらない部分まで含めて、表現として力強い。
そして、ろくに観てもいない一般人から叩かれるのは、まさしく「芸能人が関わっていないと見ない」「普段は地上波テレビしか見ていない」層に届いた証拠ではないだろうか。そうした、「バカに伝わる」事態を恐れてはならないのだと思う。世の中の七割は、ろくに調べもしない向上心のない「バカ」だと覚悟しよう。

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2022年5月 8日 (日)

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ゴールデンウイークなどの連休は家でじっとして、平日に出かけたいのだが、いろいろ事情があって、まず前半は三菱一号館美術館、昭和館へ。後半は国立科学博物館、アーティゾン美術館へ行った。その合間に喫茶と夕飲みを織り交ぜた。
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すると、休日にしか飲食店に来ない人たちと出会うことになる。混んでいるのに、ひとりで4人席を占有する人、お冷を追加するどころかペットボトルの飲料を取り出してまで長居する家族もいる。
そうした人たちを見ていて思うのは、ようするに彼らは「タダ」で「得する」ことばかり考えているのでは……ということ。お金のかかる飲食の時間ではなく、無料サービスの水だけ飲んでいる時間は「タダ」である。お金を払っていないから、遠慮を忘れて強欲になる。スーパーで、無料で置いてある割り箸やビニールを山ほど持っていく人がいる。あれと同じだ。
いつも自分は損しているという実感があるから、その不公平感を手軽に払拭しようとして、「タダ」の物品や時間にたかる。クーポン券、サービス券は貧乏人に「得している、取り返している」というドリームを与える。逆を言うと、クーポンやポイントカードを使うほど貧乏な感覚が身についてしまう。


僕がいつも気にしている歩きスマホも、彼らが歩いている時間を「タダ」と捉えているのであれば、なんとなく説明がつきそうだ。
「タダ」で過ごせる時間なのに何もしないのは「もったいない」、だから、その場で現金をとられるわけではないスマホアプリで使いつぶそうとする。駅のホームから電車が発車しそうになると、あわてて駆け込む人がいる。あれも「損したくない」感覚のあらわれだろう。
つまり、「どっちにしても同じなら、スマホで楽しい思いをしたり早い電車に乗れたほうが得だろう」という考えが身に染みてしまっている。「タダ」を何かで埋め尽くそうとする焦りこそが貧乏の本質なのだ。だから僕は、同じ場所にタダのベンチとお金を払わないと座れない店舗のテラス席があったら、お金を払うほうを選ぶ。「タダ」は焦りを生み、人を厚かましく、はしたなくする。(ポイントの溜まる店にばかり行くなど)「タダ」にこだわるから選択肢が狭まり、気持ちに余裕がなくなり、貧乏になるのだ。

かなり以前に、「歩きスマホしている人はポケットからお金がこぼれ落ちても、気がつかない人」と書いた。
あるいは、「人にぶつからないよう気をつけて歩く」という余計なタスクを自分に課したうえ、実際のリスク管理は他人に丸投げしている。絶対に仕事では関わりたくない相手である。


『月曜日のたわわ』炎上に関して、プロ奢ラレヤーという人が回転寿司を例えにツイートしていた。
“不快な広告のはなし、「すごく納豆が嫌いなひとでも、回転寿司で納豆が流れてきたときに『嫌いなんです!流さないでください!』なんて言わない」という共通認識がくずれて、せかいのすべてが私の私物!わたしの為のせかい!わたしが不快なものはすべて犯罪!みたいに自我が膨張した妖怪のはなしっぽい”

この誰でも乗っかりやすい例え話に、ツイフェミ(?)の人が頭の悪い返事をしていた。
“女は回転寿司に流れたくないし、そもそも寿司じゃないのに、「お前らは消費される寿司なんだ」って言われて勝手に流されたいことにされたり無理矢理コンベアに乗せられるからふざけんなクソって言われんだよ。”
あまりに文脈を読み間違えているので「……え?」と首をかしげてしまうが、この人のプロフィールを見たら「カナダ在住」「翻訳者」となっていた。何年か前は「そうか、海外で仕事している人なら、俺の知らない経験や知識をいっぱい持っているんだろうな」と一目置いていたところだが、自己愛性パーソナリティ障害について調べていくと、彼らは「そんな嘘ついて空しくないの?」というぐらい、自己粉飾のため誇張した嘘をつくと分かる。信用してもらうには実名を出すなり「コスト」「リスク」が必要なはずだが、彼らは何でも「タダ」でやり過ごそうとする。

そういえば、広告も「タダ」で見られて、どんな貧乏人でも簡単に「客」になれるので、いつも損ばかりしている底辺がここぞとばかり文句を言うんだろう。貧乏というのは、そうやって「タダ」につけいって、あれもこれもと強欲に取り返そうとする心理のことだと思う。


さいきん観た映画はブニュエル『忘れられた人々』、ロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』など。

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