■0407■
5日(火)は、府中市美術館へ。
日曜・月曜は雨がひどく、ずっと部屋にこもっていた(部屋でできる仕事でよかった)。そのせいだと思うが、武蔵小金井駅からバスに乗って知らない停留所で降りると、「そこにいる」というリアリティがなかった。
人混みをかき分けたり、行列に並んだりするストレスもなく、あっさり入場できたのも良かった。
日本画は興味なかったが、近代美術館の鏑木清方展から変わった。
府中市美術館の『春の江戸絵画まつり ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります―京の絵画と敦賀コレクション』は、最初に大きな屛風絵でインパクトを与えて、以降もメリハリをつけた展示と分かりやすいキャプションで、楽しく見せてくれた。
コレクション展は地味ながらもボリュームがあって、あっという間に一時間が経過した。
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美術館に併設されたカフェでは、陽気がいいのでビールにした。
酒は10日ぶりなのに、それほど酔えなかった。
府中駅に行ってテラス席で飲んでもいいな、と店を検索してあったのに、国分寺行きのバスが来たので、国分寺駅へ出てしまった。
すると、なかなかテラス席がない。あっても、すぐ横に質素なアパートが建っていたりして、なかなかロケーションが難しい。ついつい、以前にも入ったことのある喫茶店へ入ってしまった。そこは、インテリアも音楽も適当で、喫煙者がタバコを吸いに立ち寄るような店だった。みんな暇つぶしに来ているので、最低限のドリンクだけ注文して、あとはタバコをふかしながらスマホをするだけになってしまう。
こんな店なら、自分もちゃんと座ったり落ち着いて読書しなくてもいいんじゃないかと思ってしまう……選択を誤ると、そういう恐ろしい思考の侵入を許してしまう。
どんなにカッコいい人でも、短距離で手っ取り早く快楽を得ようとすると、とたんにだらしなくなる。せっかくファッションを小奇麗に決めていても、だらだらとスマホ歩きしている人は低知能でルーズに見える。
「駅から近いから」「どこにでもあるチェーン店だから」「安いから」「ポイントがつくから」……それは自分の培ってきた価値観ではない。自分の外からヒョイと借りてきた、薄っぺらな価値観でしかない。そうした「考えない人」にアピールするよう狙いをすまして、チェーン店やスマホアプリは設計・デザインされている。
単にお店に入るだけで、何も買わない人でも即座に権利を手にすることができる。簡単に、最短距離で優越感を得られる。だから、お店に入ったときに人間の品性が露わになる。気を付けなくてはいけない。
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電車の中で、スマホを眺めながら足を組んでいる人は多い。
先日、空いている電車で足組みしてスマホを眺めている若者がいた。前を人が通っても、ヒョイと足首を伸ばして「ほら、通れるように避けましたよ?」とアピールする程度。次の駅で、片手にベビーカー、もう片手で幼児の手を引いたお母さんが乗って来た。その若者は、彼らが前を通る時は足組みしたままだったが、しばらくして足を降ろして、きちっと座り直した。
ひさびさに、美しいものを見た思いがした。恥を感じて、自分の身振りを顧みる。それが、人間らしい思考と感情だ。(車内は空いていたので、お母さんは子供を座らせて自分は立っていた。)
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さいきん観た映画は、『英国王のスピーチ』と『ザ・シークレットマン』。
『英国王のスピーチ』は10年ぶりぐらいだ。
上のスチールは、ジョージ6世の教師となったライオネルの部屋だ。ジョージ6世とライオネルが初めて会話するシーンでは、不機嫌なジョージ6世の座るすぐ後ろに、この塗装の剥がれたような壁が広がっている。一方、会話をリードするライオネルの背後には、空間が大きく余裕たっぷりに広がっている。ランダムに色の散った壁紙は、いわば追いつめられて混乱するジョージ6世の心理を表わすように、彼の背後にのみ広がっているのだ。
では、ジョージ6世がライオネルに見守られて開戦後すぐのスピーチをするクライマックスのシーンはどうか?
このように、規則正しい模様が、狭い放送室のすべての面にキチッと並んでいる。圧迫感もあるが、調和してもいる。優れた美術デザインだと思う。
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