■0220■
木曜日、東京都庭園美術館へ『奇想のモード 装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』を観にいく。
翌日、横須賀へ宿をとって、夕方から『Sense Island -感覚の島- 暗闇の美術島 2021』に参加。三笠ターミナルまで歩いて、そこからフェリーで猿島へ渡り、夕闇に沈んでいく小さな島内で美術作品を鑑賞するイベントだ。
17時に上陸した時は、まだ明るかった。この後、一時間ほどかけて島内を歩いていると、木々に囲まれた島内は夕闇に沈む。
忘れないうちに書いておこう。2人、すごくお洒落な参加者がいた。
一人は女性。70代だと思うが、背筋がシャンとしていて歩き方が綺麗。暗い色の服に目の覚めるような鮮やかな色のショールを羽織っていた。一人で、マイペースにどんどん歩いていく姿にも好感をもった。
もう一人は中年の男性。まず、リュックが20年ほど使っているのではないだろうか、色が落ちて下地の白い皮が見えている。オレンジ色が点々と残っているのだが、マフラーと靴のヒールもオレンジ色だった。リュックに組み合わせたとしか思えないセンスがいい。何年もの時間をかけて生み出したコーディネートだろう、見習いたい。
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さて、そこそこ急な階段をのぼりながら、猿島をぐるっと回る。結論から言うと、それほど面白くなかった。展示されている作品が素朴で、地味すぎる。しかし、いい体験をした。入島時、スマホを紙袋に入れて両面テープで封印させられるのだ。
いかに、自分がスマホで撮ってスマホで投稿する時間に拘束されていたか、身に染みて分かる。世界をスマホを通してしか見られなくなっていないか? 暗くなった島内で、最初は何となくグループとして動いていた参加者たちがバラバラになり、最後の道には自分しか歩いていない。後ろから来た女性も、どっちへ進んだらいいのか迷っていた。その不安な時間が、とても新鮮だった。
実は、ちょっと夕闇の中を歩くと砂浜に出て、そこが最終地点であって、フェリー乗り場はすぐそこなのだ。係員が立っていて、スマホを出してもいいと告げられる。
砂浜に広げられたインスタレーションを観にいくと、もう数人の人々が辿り着いていた。よく目を凝らすと、作品の中を歩いている人もいる。波打ち際に立って対岸の街灯りを眺めているカップルもいる。特にどうしろとも言われず、作品がそこにあるとすら意識せず、それぞれの時間を思い思いに過ごしている。このツアーが与えてくれたのは、そのような主体的なリラックスした「時間」であって、「作品」は媒介物に過ぎなかったのではないだろうか?
最後の夕陽が横須賀の街に沈んでいく、そのたゆたうような、茫洋と広がっていく時間が忘れられない。頭上には、わずかだが星が煌めいている。特に大きな声で呼ばれたわけでもないし、入島時のように「並んでください」と指示されたわけでもないのに、参加者は勝手にフェリー乗り場へ集まっていく(例のご婦人は、真っ先に並んでおられた)。
これから街へ帰れるんだ、という安心感。作品がどれもイマイチだった、という残念感。しかし、悪い気持ちじゃない。係員の人たちは程よい距離感で、参加者を突きなしてくれた。優れたオペレーションだったと思う。
何よりも、自分で判断し、勝手に行動して規律を保っていく名も知らぬ人々を、こんなに心強く思ったことはない。少なくとも、安全かつ怠惰に過ごせる都会では、このように他人を感じる経験は得られない(強いて言うなら、海外旅行はこういう瞬間の連続だった)。
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そう、僕は社会が嫌いだ。だけど、独立した(孤立した)人間は好きだ……というより、いつも見つけたいと思っている。
しかし、システムに安住した愚民は嫌悪する。
さて、賑やかな横須賀の街は19時を回ったところだ。的外れなコロナ自粛におびえる店は少なく、しかし時間がないので通りに面した大衆的な居酒屋へ駆け込んだ。
ほっといても客が入りやすいロケーションなので、店内は満席に近い。カウンター席で、それぞれ一人で飲んでいるサラリーマンの間に案内された(右側に座っている若いサラリーマンはスマホを机の上に置いて、なにかのアニメを視聴していた。左側の年配のサラリーマンは、kindle端末で読書していた。こういうマイペースな人たちには好感をおぼえる)。
だけど、この店の心地よさを形づくっているのは、ひとりで客席の面倒を見る女性店員の存在だろう。「いつもは鉄板に乗せて提供するのですが、今日は鉄板がないので普通のお皿でいいですか?」などと、どっちでもいいことを丁寧に聞かれると、自分が優遇されていると錯覚してしまう。それがサービスというものなのかも知れない。
また、自信があってきびきびと動き回る女性は、どんな男性でも好きではないだろうか。
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