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2022年2月27日 (日)

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問いかけては裏切られる謎解きの面白さ――「東京ゴッドファーザーズ」を“推理ドラマ”として振り返る【懐かしアニメ回顧録第87回】
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12月も25日を過ぎた寂寥とした年末のムードに浸りながら見ると、外界の空気と劇中の景色が溶けあったような不思議な気持ちにさせられるアニメ映画。
しかし、時間がない中で書こうとするとプロットの巧みさを指摘するのが精一杯で、構図やカット割りがどう機能しているかに踏み込めなかった。「物語」は誰もが読解できるが、「演出」は見えない人には見えない。『インディ・ジョーンズ』で、床に空いた大穴が実はトリックアートで、穴などなかったことを示すショットがある。カメラが横に移動すると画角が変わり、床の穴が錯覚であったと判明するのだ。「演出」とはそのように、観客から見えないよう仕掛けられている。

「物語」はセリフさえ聞き取れれば、誰にでも了解可能だが、「演出」は表層を疑いながら、再び表層へ戻って捉えなおす粘り強さが必要だ。知識も、野心も。何より、誠実に、正直にあらねば「演出」を見つけ出すことは出来ない。


最近観た映画は、原一男監督の『さようならCP』と『全身小説家』。
前者は脳性まひの人たちを丹念に撮ったもので、一時間半の間、字幕なしで彼らの話す言葉を聞きとるよう努めねばならない。
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最初は、彼らに対して嫌悪感がある。だが、彼らが懸命に話すので、何を言おうとしているのか理解しようと努力しはじめる。その過程が、この作品の本質なのかも知れない。
途中、脳性まひの男性の結婚相手が登場する。彼女も脳性まひのようだが、四肢はしっかりしていて、表情と言語に独特のこわばりが見られる程度だ。だが、かなりの美人である。その個性的な美しさは、彼女が障害を抱えているから表出するものではないのか? あの身体の緊張こそが、美しさを形づくっているとは言えないだろうか?
彼らから「障害」という外見的なフィルターを取り除いたら、そこに彼らは残っているのだろうか。僕たちだって「障害」に相当する何らかの屈折したフィルターを被ったまま、「これが普通なんだ」と固く信じて生きているに過ぎないのではないか?

彼らなり僕たちなりを「普通」に矯正したら、もはや「普通」という基準は機能しない。


『さようならCP』の挑むような作風に対して、『全身小説家』は生ぬるかった。
世間から疎外される障害者たちと、いつも大勢のファンに囲まれている有名な小説家とは、正反対に感じられる。しかし、本当にそうだろうか? 
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小説家・井上光晴は、自分の人生を劇的に見せるため、多数のウソをつく。
すると、映画の前半で井上とどんなに親密にしているか、うっとりと語っていた女たちの空々しさが浮かび上がってくる。新年や誕生日など、何かと集まりをもって、酔っ払って男性を怒鳴ったりする井上。周囲から「まあまあ」となだめてもらい、年長者からご機嫌をとってもらう。ああいうドロドロに濃密な環境でないと生きていかれない人生は、僕からすれば地獄だ。
でも、大勢に囲まれてにぎやかに酒を飲むことを人生の成功だと信じてやまない派手好きな男たちは、ウソをついてまで人々を周囲に置いておこうとする。僕は、そこまで他人を追わない。


井上を見ていて思い出すのは、漫画『僕の小規模な失敗』の中で福満しげゆきさんが描いていた、ミュージシャン志望の青年だ。
カッコよくて才能があって、いつも異性にモテる青年は簡単に満たされてしまうので、そこそこの人生で充足してしまう。そんな浅い自分を認めたくないから、いつまでも「武道館でライブしたい」などとリアリティのない夢を語って、ミュージシャン志望でいつづける。
その「ミュージシャンになりたい」という根幹のアイデンティティが、丸ごとウソなのだから苦しいに決まっている。挫折の痛みを知らないので、「まだミュージシャンになれない」という欠落を捏造して、自分を騙しつづける。

そんなウソで底上げした人生を苦しまぎれに生きるぐらいなら、大怪我をするぐらいの挫折を経験したほうが絶対に幸せだし、欠落を欠落として受け入れたほうが堂々と生きられることを、僕は知っている。
「ウソをつかなくてもいい」、これに勝る幸福はない。風のように自由であること、それが何より大切だ。

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