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2022年1月 8日 (土)

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最近、プライムビデオに100円レンタルが増えてきたので、いろいろ見てみた。『愛を読むひと』、『ビューティフル・マインド』、『グッド・ウィルハンティング』、『Wの悲劇』など。
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2008年製作で主に1950~60年代の旧ドイツを舞台にした『愛をよむ人』と、2001年製作で1940~90年代のアメリカを舞台にした『ビューティフル・マインド』では、色調や画面の質感が違う。アメリカ・ドイツ合作の『愛をよむ人』は淡い色のグラデーションがしっとり出ているが、『ビューティフル・マインド』は80~90年代のハリウッド大作映画に顕著な、グレーのもやがかかったような硬い色調で、コントラストが低い。
この違いがどこに起因するものなのかは、分からない。前者の撮影監督は、『キリング・フィールド』などのクリス・メンゲス。イギリス人だが、社会派のアメリカ映画を多数撮っている。

それと、『愛をよむ人』は衣装のデザインというかセレクトが良かった。リアリティはないのかも知れないが、囚人服にいたるまで色のコーディネートが考えられており、趣味のいい色・柄ばかりだった。


特筆すべきは、『Wの悲劇』だ。大学時代に観て、クライマックスの天井からのカメラアングルが『サイコ』そっくりだと話題になった(確かに階段という舞台装置、ナイフを構えて刺しに来るアクションは『サイコ』そのままだ)。
全体にロングで長回しが多く、俳優の呼吸をもらさず撮ろうとしている。だが、カメラがフラフラとクレーンで移動しながら、無理矢理に俳優のアップまで迫ろうとするのが苦しい。効果的な長回しは、三田佳子の演じるベテラン女優が、薬師丸ひろ子の演じる新人女優に愛人の死の現場を見せるシーンだ。
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ホテルの部屋に、三田が薬師丸を招き入れる。天井近くにすえられたカメラが、室内に入ってくる薬師丸、ガウンを着てベッドの方へ歩いていく三田の姿を、ロングで追う。三田が電気のスイッチを入れると天井のシャンデリアが点灯し、薬師丸は三田の視線を追う。カメラが2人の見ている先へPANすると、ベッド上では男が死んでいる。
ヒッチコック的、古典サスペンス的とも言っていい朴訥なカメラワーク、感情も抑揚もない機械的なカメラの動きの中で、ショッキングなシチュエーションを際立たせる手堅い演出だ。


さて、三田佳子はスキャンダルの罪を薬師丸ひろ子にかぶせて、彼女を主役に立たせるべく計略を進める。
次のシーンでは、真実を知らない俳優やスタッフたちが客席に座って事件をどう扱うか、公演を続けるべきかどうか、相談している。そこへ、「反対よ!」と三田の声が入る。客席の俳優たちが見上げると、三田は舞台袖に立っている。後ろには、共犯にされた薬師丸がいる。
三田・薬師丸は舞台の上にいる。他の関係者は、みんな客席から彼女たちを見ている。このシーンでは、立っている位置によって事件を捏造した2人と、彼女たちに翻弄される世間とが、パッキリと別世界に別れている。世間は、ステージのうえで芝居をつづける三田と薬師丸を、ただ暗闇から見上げているだけしか出来ないのだ。
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「私も退団するわ」とワガママを言って、三田が舞台袖へ消える。薬師丸が客席の俳優やスタッフに頭を下げる。
カメラはそのまま舞台にとどまり、セットの奥から堂々と歩いてくる三田をアオリで撮る。それはもう、開幕した劇の最中なのだ。「舞台から立ち去ったはずの三田が再び舞台を歩いている」アクションだけ繋げて、彼女が優位に立ったことを「劇が上演されている」状況の変化で、鮮やかに見せている。「私も退団するわ」と三田の立ち去った舞台と、その後に衣装を着て役を演じている舞台とは、物理的には同じだが心理的な次元が違う。

――すなわち、この映画では三田と薬師丸だけが共謀して事件を捏造することによって、現実の人生とステージ上で演じられる虚構との境界を失ってしまう。その喪失を、三田佳子と薬師丸ひろ子という生身の女性が二重に演じている。
その重層的な劇の構造を見せられた後では、事件の顛末がどうなるかといった「ネタバレ」など問題にならないことは、熱心に映画を観ている方にはお分かりだろう。「ネタバレ・あらすじ・結末・解説・感想」といったまとめサイトが多いのは、生身ひとつで作品と対峙できず、「無傷で理解した気になりたい」人が多いからである。

そういえば、舞台を終えた三田が娘役の女優に難癖をつけて降板させるシーン。三田が控室に足早に歩いていくのを、カメラは関係者に混じって追っていく。そのせわしないカットの中で、三田が新しく主役に据えたい薬師丸はどこにいるのかと言うと、まだ世話係なので控室の前に無言で立っている。たまたまそこに立っていたかのように、カメラは薬師丸と廊下で待っているファンたちを重ねて撮っている(薬師丸は「その他大勢」にしか見えない)。
カメラの動きが偶然を装って、観客にしか見えない劇的な構図をすくい取っている。何を撮っているかではない、いかに撮っているかが重要なのだ。


東京都現代美術館、クリスチャン・マークレー展とユージーン・スタジオ展。
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午前11時台に着いて、まずは「二階のサンドイッチ」で軽く食事して、時間をかけて二つの展覧会を回る。
最後に、常設展を見る。価値のある時間を過ごす。自分には美術館に来るだけの時間を確保する能力があって、そのおかげで価値ある時間を過ごせている。「本当は行きたいのに」「時間さえあれば」「もっと近くで開催してくれれば」などとぼやく前に、さっさとスケジュールを決めてしまう。

余暇や遊びに関して「本当は行きたいのに…」「私だって欲しいのに…」とボヤく人は、仕事においても自分が主役だという確信を持てず、「本当はこうしたいのに」と無力感だけを蓄積していく。仕事が遅れることで成果物が世の中に出るのが遅れ、自分を肯定するチャンスを先延ばしにしてしまう。
自己肯定感の低い人は、ボヤく・グチることで現状から目をそらしたいから、似たようなレベルの人たちが集まってくる。そこはもはや仕事の場ではなく、ただの溜まり場だ。何も生み出さない。
仕事の前に時間や段取りをやりくりして、行ったことのない喫茶店へ行く。そうした小さな衝動と実現化するための計算は、仕事や人生と不可分だ。

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