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2022年1月25日 (火)

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今年もっとも注目すべきアニメ「地球外少年少女」の磯光雄監督が、「宇宙」と「未来」をテーマにすえた理由を明かす【アニメ業界ウォッチング第86回】
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「けいおん!」最終回で誰もがドキドキするのは、サスペンス映画の手法で撮られているから――?【懐かしアニメ回顧録第86回】


最近観た映画は、ヒッチコック監督『断崖』、『アルキメデスの大戦』、『寝ても覚めても』(二回目)、アラン・ロブ=グリエ監督『囚われの美女』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(二回目)、『野球狂の詩』、そして『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』。
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先週、富野由悠季監督にインタビューした際、やはりアニメは映画の構造を借りた映画とは別の表現であろう……という考えになった。『ロング・ウェイ・ノース』は、実写で撮影したら質感が生々しく出すぎてしまう(女優の顔つきにだって、観客の好き嫌いや時代の流行が反映されてしまう)。背景もキャラクターも同じ質感で統一されているから情報が抽象化されて、詩的でスケール感のあるテーマが伝わるのではないだろうか。
実写の女優には現状での人気や評価、芸能プロダクションなり映画会社なりの思惑が入りこむ。しかし、絵で描かれたキャラクターは、純粋に表現に貢献するだけの存在だ。そういう意味でも、アニメーションには社会性が欠落していて、だからこそ表現として独立性を保てるのだし、幼児的にもなる。


『ロング・ウェイ・ノース』は、遭難した船員たちが地面に落ちた食料を這って食べるなどのシビアな描写がある。だが、14歳の少女が北極探検に同行するというファンタジックな設定が、過酷なリアリズムを和らげている。飽くまでもヒロイン物であり、漫画映画なのだ。
主人公のサーシャは、シーンによって、前髪が一本だけハラリと額に落ちることがある。その前髪が、彼女が決意したり驚いたりする時の感情描写となっている。髪の毛で感情表現する、その記号性がアニメの優位性であり限界でもある。主人公が少年ではなく勇敢で聡明な少女である、それも記号性だ。

記号性をアニメの欠点とだけ解釈して、卑屈に創作するなら、くだらない作品になっただろう。
『ロング・ウェイ・ノース』は表現の限界をわきまえて、その中で「最もマシ」な経路を探し当てて、最高の仕事をしている。限界を知っているからこそ、いい仕事ができるだけあって、何が何でも融通無碍に凄い、感動だ、号泣した……そのような野蛮で子供じみた認識から脱しないと、世界の本当の価値は分からない。
「実写に迫る」「実写を超えた」などという誉め方はアニメの真価から目を背けているし、表現の認識のしかたが幼稚すぎる。気をつけないといけない。


思わず、引き込まれたシーンがある。
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主人公のサーシャが、荒くれ男たちの集まる食堂で働くことになる。
朝暗いうちから、おかみさんに叩き起こされて、一日中働きづめる。毎朝、サーシャはベッドの中に丸まって、すぐには起きられない……という描写が、同じ構図で三回ほど繰り返される。しかし、サーシャは仕事に慣れていく(ここでも同じ構図を効果的に使っている)。
その変化を最も雄弁に語るのが、いつもはおかみさんに起こされていたサーシャが、逆におかみさんを起こすシーンだ。ここも短いカットでテンポがいい。続くシーンで、店内でおかみさんとすれ違う時、サーシャは食器の乗ったトレーを片手に持ったまま、ひらりとおかみさんの腕を交わすのである(最初にトレーを渡されたとき、彼女はあまりの重みのため落としそうになっていた)。

わずか二分ほどシーンを重ねることで、サーシャの順応力を端的に描いている。
なぜ、ここまで感嘆するのか? 情報量が少ないからである。カットが短く、瞬間的に分かる絵になっている。あるいは、ひとつの芝居だけ見られるようになっている。「情報が整理されている」、それが「絵」なのだ。だから幼稚にもなるし、こうして短く力強い伝達をすることも出来る。「アニメだから優れている」わけではない。優れたアニメもあり得る。優れた実写映画もあり得る。その認識の立ち位置を誤ると(あるいは自分の認識力を甘やかしてだらしのない見方をしていると)、作品の真価を取り逃がしてしまう。

(C) MITSUO ISO/avex pictures・地球外少年少女製作委員会
(C) 2015 SACREBLEU PRODUCTIONS / MAYBE MOVIES / 2 MINUTES / FRANCE 3 CINEMA / NØRLUM / Riskit Inc.

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2022年1月 8日 (土)

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最近、プライムビデオに100円レンタルが増えてきたので、いろいろ見てみた。『愛を読むひと』、『ビューティフル・マインド』、『グッド・ウィルハンティング』、『Wの悲劇』など。
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2008年製作で主に1950~60年代の旧ドイツを舞台にした『愛をよむ人』と、2001年製作で1940~90年代のアメリカを舞台にした『ビューティフル・マインド』では、色調や画面の質感が違う。アメリカ・ドイツ合作の『愛をよむ人』は淡い色のグラデーションがしっとり出ているが、『ビューティフル・マインド』は80~90年代のハリウッド大作映画に顕著な、グレーのもやがかかったような硬い色調で、コントラストが低い。
この違いがどこに起因するものなのかは、分からない。前者の撮影監督は、『キリング・フィールド』などのクリス・メンゲス。イギリス人だが、社会派のアメリカ映画を多数撮っている。

それと、『愛をよむ人』は衣装のデザインというかセレクトが良かった。リアリティはないのかも知れないが、囚人服にいたるまで色のコーディネートが考えられており、趣味のいい色・柄ばかりだった。


特筆すべきは、『Wの悲劇』だ。大学時代に観て、クライマックスの天井からのカメラアングルが『サイコ』そっくりだと話題になった(確かに階段という舞台装置、ナイフを構えて刺しに来るアクションは『サイコ』そのままだ)。
全体にロングで長回しが多く、俳優の呼吸をもらさず撮ろうとしている。だが、カメラがフラフラとクレーンで移動しながら、無理矢理に俳優のアップまで迫ろうとするのが苦しい。効果的な長回しは、三田佳子の演じるベテラン女優が、薬師丸ひろ子の演じる新人女優に愛人の死の現場を見せるシーンだ。
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ホテルの部屋に、三田が薬師丸を招き入れる。天井近くにすえられたカメラが、室内に入ってくる薬師丸、ガウンを着てベッドの方へ歩いていく三田の姿を、ロングで追う。三田が電気のスイッチを入れると天井のシャンデリアが点灯し、薬師丸は三田の視線を追う。カメラが2人の見ている先へPANすると、ベッド上では男が死んでいる。
ヒッチコック的、古典サスペンス的とも言っていい朴訥なカメラワーク、感情も抑揚もない機械的なカメラの動きの中で、ショッキングなシチュエーションを際立たせる手堅い演出だ。


さて、三田佳子はスキャンダルの罪を薬師丸ひろ子にかぶせて、彼女を主役に立たせるべく計略を進める。
次のシーンでは、真実を知らない俳優やスタッフたちが客席に座って事件をどう扱うか、公演を続けるべきかどうか、相談している。そこへ、「反対よ!」と三田の声が入る。客席の俳優たちが見上げると、三田は舞台袖に立っている。後ろには、共犯にされた薬師丸がいる。
三田・薬師丸は舞台の上にいる。他の関係者は、みんな客席から彼女たちを見ている。このシーンでは、立っている位置によって事件を捏造した2人と、彼女たちに翻弄される世間とが、パッキリと別世界に別れている。世間は、ステージのうえで芝居をつづける三田と薬師丸を、ただ暗闇から見上げているだけしか出来ないのだ。
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「私も退団するわ」とワガママを言って、三田が舞台袖へ消える。薬師丸が客席の俳優やスタッフに頭を下げる。
カメラはそのまま舞台にとどまり、セットの奥から堂々と歩いてくる三田をアオリで撮る。それはもう、開幕した劇の最中なのだ。「舞台から立ち去ったはずの三田が再び舞台を歩いている」アクションだけ繋げて、彼女が優位に立ったことを「劇が上演されている」状況の変化で、鮮やかに見せている。「私も退団するわ」と三田の立ち去った舞台と、その後に衣装を着て役を演じている舞台とは、物理的には同じだが心理的な次元が違う。

――すなわち、この映画では三田と薬師丸だけが共謀して事件を捏造することによって、現実の人生とステージ上で演じられる虚構との境界を失ってしまう。その喪失を、三田佳子と薬師丸ひろ子という生身の女性が二重に演じている。
その重層的な劇の構造を見せられた後では、事件の顛末がどうなるかといった「ネタバレ」など問題にならないことは、熱心に映画を観ている方にはお分かりだろう。「ネタバレ・あらすじ・結末・解説・感想」といったまとめサイトが多いのは、生身ひとつで作品と対峙できず、「無傷で理解した気になりたい」人が多いからである。

そういえば、舞台を終えた三田が娘役の女優に難癖をつけて降板させるシーン。三田が控室に足早に歩いていくのを、カメラは関係者に混じって追っていく。そのせわしないカットの中で、三田が新しく主役に据えたい薬師丸はどこにいるのかと言うと、まだ世話係なので控室の前に無言で立っている。たまたまそこに立っていたかのように、カメラは薬師丸と廊下で待っているファンたちを重ねて撮っている(薬師丸は「その他大勢」にしか見えない)。
カメラの動きが偶然を装って、観客にしか見えない劇的な構図をすくい取っている。何を撮っているかではない、いかに撮っているかが重要なのだ。


東京都現代美術館、クリスチャン・マークレー展とユージーン・スタジオ展。
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午前11時台に着いて、まずは「二階のサンドイッチ」で軽く食事して、時間をかけて二つの展覧会を回る。
最後に、常設展を見る。価値のある時間を過ごす。自分には美術館に来るだけの時間を確保する能力があって、そのおかげで価値ある時間を過ごせている。「本当は行きたいのに」「時間さえあれば」「もっと近くで開催してくれれば」などとぼやく前に、さっさとスケジュールを決めてしまう。

余暇や遊びに関して「本当は行きたいのに…」「私だって欲しいのに…」とボヤく人は、仕事においても自分が主役だという確信を持てず、「本当はこうしたいのに」と無力感だけを蓄積していく。仕事が遅れることで成果物が世の中に出るのが遅れ、自分を肯定するチャンスを先延ばしにしてしまう。
自己肯定感の低い人は、ボヤく・グチることで現状から目をそらしたいから、似たようなレベルの人たちが集まってくる。そこはもはや仕事の場ではなく、ただの溜まり場だ。何も生み出さない。
仕事の前に時間や段取りをやりくりして、行ったことのない喫茶店へ行く。そうした小さな衝動と実現化するための計算は、仕事や人生と不可分だ。

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2022年1月 2日 (日)

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大晦日に『ロープ』、元旦に『間違えられた男』を視聴。ヒッチコック作品は、プライムビデオに豊富にある。
『ロープ』は30年前、大学の講義で観た。その時は舞台劇と変わらないという印象をもったが、全編ワンカットという試みを自嘲するかのような大仰でコミカルな演技は、『ハリーの災難』に近いと感じた。ヒッチコックの冷笑的な側面が強く出ている。
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『間違えられた男』は、例えば上のカット。無実の主人公を冷酷に追いつめていく刑事二人。左側に立っている一人は活発に動き回ってアレコレと喋るが、右の一人はジッと座ったまま主人公を睨んでいる。いわば、饒舌と沈黙の両面から主人公を圧迫しているわけだ。こういう機能的な演出が好き。
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このショットもいい。保険会社の事務員たちが、主人公を強盗犯人だと早合点する。書類に視線を落としたままヒソヒソ話をしているので、必然的に顔をこちらに向けた3人が、ギュッと詰め合ってフレームに収まる。視野の狭い、主観的な印象になる。向き合って話していたら、こんな異様な感じは出ない。

前半では主人公が検察に追い詰められていき、後半では妻が精神的におかしくなる。まるで、2本の映画を一括りにしたような構成も意外性がある。主人公は真犯人の突然な登場によって、不合理な形で救われる。『鳥』が特にそうだが、ヒッチコックの映画には理に落ちない唐突なことが起きる。
この映画は1956年のもので、成熟した完成度だ。だが、完成された劇映画をヌーヴェル・ヴァーグが鮮やかに破壊する。そのタイミングが無作法で劇的だと、いつも思う。


年末は、ウォーターフロントで夕飲みしようと決めていた。
なので、12月30日は渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ザ・フィンランドデザイン展」を鑑賞してから、新橋へ移動。ゆりかもめで芝浦ふ頭まで行って、ひさびさにレインボーブリッジを歩いて渡った。
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お台場海浜公園まで歩けば、15時30分ぐらいには台場のレストランに着く……のだが、かつて見たことがないぐらい混雑している。おまけに、いつも行くレストランはテラス席が封鎖中。その他の店と同じく、ぎっしりと行列が出来ている。
それと、外国人観光客が多い。別に外国人でも日本人でも同じことなのだが、6~7人ぐらいでぞろぞろ歩いているのが嫌な感じ。群れると、似たレベルの人たちが集まってきてしまう。その澱んだ空気が、生理的にダメだ。

夕飲みはあきらめて、東京テレポート駅まで歩く。このまま家まで帰るのはバカバカしいが……と思いながら電車に乗り、ふと思いついた。天王洲アイル駅で降りれば、WHAT MUSEUMの帰りに寄ったカフェに行ける。
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こういう時の僕は、すばらしい機転を発揮する。16時を回って日の沈みかけた、ちょうどいい時間帯に滑り込めた。ただし、寒いのでビールは一本だけ。奥の高級レストランには風よけがあり、外国人のカップルが雑談している。
後から、ひとりだけカフェから出てきてテラス席に座った人がいたが、それ以外は閑散としている。対照的に、暖かい店内は混みあっている。
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ほぼ、視界の360度が夕陽に染まっていく。この天国感というか、映画『バニラ・スカイ』のような超絶感をいつも求めている。 
ひとりでなら、いつどこで何をしてもいい。読書、喫茶、美術、映画、飲酒、何だって思うがままだ。

人が群れている、ということは考えずに習慣で行動する人たちが滞留しているというだけのことだろう。向上心のない無気力な人たちが集まってくるのだから、その場の空気は澱む。澱んだ空気を避けていれば、必然的に自分だけの場所が出来ていく。

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