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今年もっとも注目すべきアニメ「地球外少年少女」の磯光雄監督が、「宇宙」と「未来」をテーマにすえた理由を明かす【アニメ業界ウォッチング第86回】(■)
「けいおん!」最終回で誰もがドキドキするのは、サスペンス映画の手法で撮られているから――?【懐かしアニメ回顧録第86回】(■)
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最近観た映画は、ヒッチコック監督『断崖』、『アルキメデスの大戦』、『寝ても覚めても』(二回目)、アラン・ロブ=グリエ監督『囚われの美女』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(二回目)、『野球狂の詩』、そして『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』。
先週、富野由悠季監督にインタビューした際、やはりアニメは映画の構造を借りた映画とは別の表現であろう……という考えになった。『ロング・ウェイ・ノース』は、実写で撮影したら質感が生々しく出すぎてしまう(女優の顔つきにだって、観客の好き嫌いや時代の流行が反映されてしまう)。背景もキャラクターも同じ質感で統一されているから情報が抽象化されて、詩的でスケール感のあるテーマが伝わるのではないだろうか。
実写の女優には現状での人気や評価、芸能プロダクションなり映画会社なりの思惑が入りこむ。しかし、絵で描かれたキャラクターは、純粋に表現に貢献するだけの存在だ。そういう意味でも、アニメーションには社会性が欠落していて、だからこそ表現として独立性を保てるのだし、幼児的にもなる。
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『ロング・ウェイ・ノース』は、遭難した船員たちが地面に落ちた食料を這って食べるなどのシビアな描写がある。だが、14歳の少女が北極探検に同行するというファンタジックな設定が、過酷なリアリズムを和らげている。飽くまでもヒロイン物であり、漫画映画なのだ。
主人公のサーシャは、シーンによって、前髪が一本だけハラリと額に落ちることがある。その前髪が、彼女が決意したり驚いたりする時の感情描写となっている。髪の毛で感情表現する、その記号性がアニメの優位性であり限界でもある。主人公が少年ではなく勇敢で聡明な少女である、それも記号性だ。
記号性をアニメの欠点とだけ解釈して、卑屈に創作するなら、くだらない作品になっただろう。
『ロング・ウェイ・ノース』は表現の限界をわきまえて、その中で「最もマシ」な経路を探し当てて、最高の仕事をしている。限界を知っているからこそ、いい仕事ができるだけあって、何が何でも融通無碍に凄い、感動だ、号泣した……そのような野蛮で子供じみた認識から脱しないと、世界の本当の価値は分からない。
「実写に迫る」「実写を超えた」などという誉め方はアニメの真価から目を背けているし、表現の認識のしかたが幼稚すぎる。気をつけないといけない。
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思わず、引き込まれたシーンがある。
主人公のサーシャが、荒くれ男たちの集まる食堂で働くことになる。
朝暗いうちから、おかみさんに叩き起こされて、一日中働きづめる。毎朝、サーシャはベッドの中に丸まって、すぐには起きられない……という描写が、同じ構図で三回ほど繰り返される。しかし、サーシャは仕事に慣れていく(ここでも同じ構図を効果的に使っている)。
その変化を最も雄弁に語るのが、いつもはおかみさんに起こされていたサーシャが、逆におかみさんを起こすシーンだ。ここも短いカットでテンポがいい。続くシーンで、店内でおかみさんとすれ違う時、サーシャは食器の乗ったトレーを片手に持ったまま、ひらりとおかみさんの腕を交わすのである(最初にトレーを渡されたとき、彼女はあまりの重みのため落としそうになっていた)。
わずか二分ほどシーンを重ねることで、サーシャの順応力を端的に描いている。
なぜ、ここまで感嘆するのか? 情報量が少ないからである。カットが短く、瞬間的に分かる絵になっている。あるいは、ひとつの芝居だけ見られるようになっている。「情報が整理されている」、それが「絵」なのだ。だから幼稚にもなるし、こうして短く力強い伝達をすることも出来る。「アニメだから優れている」わけではない。優れたアニメもあり得る。優れた実写映画もあり得る。その認識の立ち位置を誤ると(あるいは自分の認識力を甘やかしてだらしのない見方をしていると)、作品の真価を取り逃がしてしまう。
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