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2021年12月29日 (水)

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ツクダホビー製のプラモデル「1/20メーヴェ」を組み立ててナウシカを乗せれば、風の谷の未来テクノロジーを理解できる!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第17回
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ツクダホビー製のキットを素組みして、組み立て過程をレポートしました。

新作アニメ作品を制作中の梅津泰臣が語る「これまで」と「これから」【アニメ業界ウォッチング第85回】
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何の宣伝でもないし、組織のしがらみがあるわけでもなく、純粋に梅津さんに直接連絡をとって成立したインタビューです。

月刊モデルグラフィックス 2022年2月号
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10年近くつづいた『組まず語り症候群』は、今回で最終回。初期のころには、いくつか理不尽な目にもあいました(原稿を外部の人に見せられてしまったり……)。その理不尽さを避けて、自分のペースで仕事を進める(人任せにしないで自分一人で進められるところは独自判断で進めておく)ことを学んだ10年だった気がします。だけど、そのマイペースぶりが、組織だのみの人にはカチンとくるんだろうと思います。
他に、MODEROID開発メンバーへのインタビューも担当しています。僕は原稿が早いので、こういう単発仕事が向いているでしょうね。

戦車プラモのスケールでなぜ「建機・農機」? 変わり種「1/35振動ローラ車」が物語る歴史
まだあった、なんとなく月に一度のペースで書いているプラモ記事です。模型メーカーさんとのやりとりも、基本的には一人でやっています。


サブスクに頼りっぱなしでは映画に対する欲が枯渇するような気がして、面倒だけど駅の向こう側のTSUTAYAまで足を延ばしてDVDをレンタルしてきた。韓国映画『嘆きのピエタ』とヒッチコック監督の『めまい』。
『めまい』は4年前にも観た。当時もジェームズ・スチュアートの高所恐怖症とキム・ノヴァクの二重人格的なふるまいとの関連がよく分からなかったのだが、そんなことはどうでもいい。

ジェームズ・スチュアートは友人から妻(キム・ノヴァク)を監視するように依頼を受けて、レストランで初めて彼女を目撃する。
カウンターで飲んでいた彼は、ふと視線を店内へ向ける。カメラは大きく引きながらPANして、店内のいくつものテーブルを映し出す。人々が食事する中、大きく背中をあけたドレス姿のキム・ノヴァクがこちらに背を向けて座っている。
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カメラは低い位置から奥へと進み、彼女へ近づいていく。そこでロマンティックな曲がかかり、ジェームズ・スチュアートの心を代弁する。彼は一目で恋に落ちたのだ。
このカットは、ジェームズ・スチュアートの視線を追うように動くのだが、彼の主観カットではない。しかし、大勢の人々の中から彼女の背中へ迫っていくカメラワークは情動的だ。ジェームズ・スチュアートの感情をカメラで表現しようとすると、このような動きにならざるを得ないんだと思う。
この後、彼の主観カットでキム・ノヴァクが歩いてきて、戸惑いがちに目をそらすジェームズ・スチュアートとカットバックするのだが、そこはあまり感動的ではない。凡庸だ。最初のワンカットに、シンプルかつ大胆なカメラの動きにすべてが込められている。

なぜ、こんな芸術的なカメラワークが大衆映画で可能だったかというと、あたかも高所恐怖症が映画の主要テーマであるかのように装い、サスペンス色を前面に出したからではないだろうか。


仕事に追われながらも、年末の寂しい雰囲気を何とかして味わいたいともがいている。
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落ち着いた品のいい喫茶店のカウンターに腰かけていると、大きな窓から見える早稲田通りが、まるで過去の世界……思い出のなかの映像のように見える。妙な言い方だが、自分が幽霊のような、ただ彼岸から風景を楽しんでいるだけの存在になったように感じて、陶然とする。
そういう時、何かに駆り立てられて、日常の些事と直面しなくてはならない薄汚れた現実感が喪失する。喫茶店は、そうした浮遊感覚を得るために行く場所であり、「暇つぶし」とか「時間つぶし」のためではない。
電車の発車ベルが鳴ると、反射的に走り出すような生き方をしていてはいけない。

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2021年12月19日 (日)

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「未来少年コナン」の帆船バラクーダ号を2メートル越えの超大型模型で作りつづける理由:宮崎メカ模型クラブ、かのー会長インタビュー【ホビー業界インサイド第76回】
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プラ板で2メートルを超えるバラクーダ号を完全自作したかのーさん、フィギュアを制作したノウミソアキラさんに取材してきました。


神田沙也加さんが、主演をつとめるミュージカルの上演直前、ホテルから転落死した。
『マクロス ザ・ミュージカルチャー』で神田さんが突如として降板したとき、理由は「諸事情」となっていた。後に「急性胃腸炎」と改められたものの、会場にいた僕は、漠然と精神的な何かが原因ではないかと感じていた。調べみると、有名人である両親との関係が、なかなか複雑だとも聞いた。死ぬことで解放されたのかも知れない。他人の心の中だけは、分からない。

しかし、それであればミュージカルの公演を終えてからでも良かったのではないかと思う。仕事をなくしてからより、スポットの当たった中で人生を終えたかったのかも知れないが、ここまで来た人間には、芸術を楽しみにしている人々と文化に対して責任が生じているというのが、僕の考えだ。Giveする側に回った人間は、その持てる能力を存分に駆使すべきである。
ミュージカルは、ひとりの俳優が趣味でやっているわけではない。演出家から美術、照明、劇場スタッフまで数えきれない人たちが技量を投入している。また、ひとつの表現が何十年、何百年も後に価値を発揮することだってある。
神田さんには、そのスケール感を想像できなかった。余裕がなかったのだろう。

だとすれば、ゆっくり静かにgiveする側から下りて、重たい荷物を降ろす方法を模索すべきだったと思う。逃げることは悪いことじゃない。誰にも邪魔されず、ひっそり生きることのほうが豊かな人生かも知れない。「落ちぶれた」と思う人間には、思わせておけばいい。


「周囲に相談できる人がいなかったのか」というコメントを見た。「他人」なんてものに、個人の自殺願望を防ぐ力はない。「お前ら凡人に、いったい何が出来るの?」と思ってしまう。
「周囲と調和して生きるべき」という無責任な信仰が、個人を追いつめるのだ。人の命は尊い、誰もが平等、子を思わない親はいない……本当にそうか? なあ、俗物たちよ。

11年前、母が父に殺された時、「廣田さんは仕事できる状態ではない」と勝手に言いふらす編集者がいた。そのおかげで、仕事をひとつだけ奪われてしまった。警察や検察との長時間にわたる事情聴取、残された犬たちの世話、葬儀屋の手配に追われながら、僕は仕事をひとつも遅らせず、打ち合わせにも普通に出ていた。
しかし、平凡な人生観に個人を封じ込めておきたい俗人たちは「もし本当なら、仕事どころではないはず」と決めつける。少なくとも僕に関していえば、父親が母親を刺殺するという理不尽な状況が、うちに秘められていた冷徹な計画性を引き出してくれた。血まみれの現場を見せられても、では、いつどの業者に頼んで片付け、代金は誰に払わせるのか、テキパキと段取りすることが出来た。「被害者遺族」という立場も、有効に利用させてもらった。「次は何をすればいい?」と、常に頭が働いていた。自分がこれほど活動的で計画的だったとは、我ながら驚いた。
それは、母の与えてくれた能力なのである。

ところが、自分から何も生み出さない、takeする一方の俗人ほど、「強がっているだけで本当は悲しいはずだ」「何も手につかないはずだ」と個人の能力を過小評価する。無能ほど「個人は無力だ、人間は弱い」という価値観を維持したがる。そこからは何も生まれない。

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2021年12月12日 (日)

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いつもは銀行が混んでいると「まあ、空いてる時でいいや」と踵を返すのだが、先日は3~4人程度だったので、ふと並んでみた。後ろを振り返ると、自分のあとに10人以上も行列ができて、「この人たちより自分は先に用事をすませられる」という、一種の優越感があった。
実際に用事をすませなくても、「他人より優遇されている」ことだけで原始的な快感が生じるのではないだろうか。だとしたら、行列に並ぶことは最も低コストな娯楽なのかも知れない。並んでいる間は受動に徹して、何ら主体的に考えずスマホでも見ていればいい。だけど、自分が他人に優越しているという、低レベルな満足感だけは労せずして得られる。

手っ取り早く得られる快感には警戒せねばならない。低レベルな満足は、人生の質を落とす。たいがいの人は浅いところで満足して「まあ、人生こんなもんだろう」と簡単に理解しようとする。


先日、静岡県に取材に行ったとき、ひさひざに知らない街で、居酒屋を求めて歩いた。
40分も歩いているうちに「この店は候補」「さっきの店がダメそうなら、次の候補はここ」と何店か見つくろってあったので、商店街の真ん中あたりにある寿司と刺身の店に入った。
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40代ぐらいの旦那さんは、誰もいない広い店内の真ん中に座っており、僕が入ってくると「いらっしゃいませ!」と弾かれたように立ち上がった。髪はボサボサだし、ジーンズは汚れている。だけど、彼のキビキビした動作と元気のいい返事に、すっかり好感をもった。
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腰が曲がって、足をひきずった90歳ぐらいの老母が刺身を持ってくるのには驚いたが、おそらく本人が「店に立たせてくれ」と我がままを言っているのではないか、と想像した。
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よく見ると店内には生活用品が置かれており、決して清潔ではない。旦那さんの誠実な物腰だけが、つげ義春『リアリズムの宿』のような貧しさから、この店をかろうじて救っているようにも見えた。調理は丁寧で、二皿で十分に満足した。
ビール大瓶を何とか飲み干そうとしていたころ、若い男性の二人連れが入店して、海鮮丼を注文していた。また、電話で団体客が予約を入れているようなやりとりも聞こえた。何だかホッとしたような気持ちで、店をあとにした。

まだ19時ぐらいだったが、すっかり酔ってしまった。
駅に近くなると、こんなシャッター商店街にも、チェーン店の居酒屋がひしめき合っている。何も迷わず、全国どこでも同じ味の酒が出てくる……その安心は、死んだ価値観である。だが、一歩間違えば赤貧のリアリティを目撃せねばならない地方の個人店舗の現実から目をそらしたいニーズも、分からないではない。


15年前に別れた妻と結婚する前、大森に住んでいたことがある。
平和島の競艇場に映画館が出来たので二人で行ってみると、巨大なショッピングモールの中だった。大勢の家族連れが来ていて、「ドンキもあるし、ファミレスもあるし……」と満足そうにつぶやく男性の声が聞こえた。それはやはり、未知を恐れる価値観だ。
僕は「寂しい」という状態が好きだ。海のそばで飲む、喫茶店で読書する。誰に教えられたわけでもない、僕が一人で熟成した価値観だし、これからも自分を未知にさらして生きていきたい。

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