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2021年10月 1日 (金)

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「特装機兵ドルバック」の1/100ボナパルト・タルカスを組み立てて、ドスコイ系ロボの究極進化形を確認しよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第14回
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海洋堂・宮脇修一センムの履歴書|フィギュアに尽くした50余年。いま「敗北感しかない」と語る理由
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株式会社はてなさんの依頼で、インタビューしました。
“造形についてまるで素人のアニメの版権を持つ会社、つまりライセンサーの担当者が「目の位置を2ミリ下げてください~」なんて監修をするようになってしまった。”
“ほとんどのフィギュア・メーカーが「ライセンサー様、監修をお願いします、修正してください」と頭を下げている。”
案の定、ここの記述に、注目が集まっています。

SNSを見ていても、やたらと「~様」を多用したり、個人がへりくだり過ぎていると感じます。よく書いていることですが、不況が長く続きすぎて、誰もが自信喪失して、臆病になっているんでしょう。
それと、日本は家庭でも義務教育でも「集団の和のために、個人の自由は抑圧すべし」と教えられているのではないでしょうか。
たとえば、市内の中学校にエアコンを入れることが決まったのに、全部の学校にエアコンを設置しおわるまで、先にエアコンの入った中学校には「しばらく我慢しろ」「お前らだけ先にエアコンを使うな」と、何の実効性もないお達しが発せられる。
……こう書いても「そりゃあ我慢すべきでしょ?」「一人だけズルしちゃダメでしょ?」と、同調圧力に何の疑問もいだかない、あるいは「変じゃないか」と内心では疑っていても口に出せない人が大半ではないでしょうか? だから、世の中はこんなに息苦しいんです。


いつものように話が本筋からズレているけど、我慢させられるのが当たり前の教育をほどこされてきたから、他人に「好き勝手にするな」「決まりにしたがえ」って、誰もが命令したいんですよ、きっと。自分の人生への復讐みたいなもんです。
で、命令する側になりたかったら、退屈な仕事に耐えて、何年も我慢して出世すればいいだろうと考えている。そんな発想だから、ぜんぜん幸せになれない。誰にも命令せず、誰もが自分の意志で決定し、足りない部分を補い合うのが創造的な仕事なのに!

それと、仕事のできない人って「待つ」「待たせる」のが好き。傍から見ていても、自分では決定できず、「〇〇の許可が下りないから……」と、できない理由を探している。「でも、今月中に何とかしないといけないのに……」と、ストレスを増大させている。本質的な解決から、目をそらしているので、心の底から笑うことができず、愚痴ってばかりいる。

僕は、どんなにお金がよくても、そういう仕事は避けるようにしてきたんです。どこの誰だか知らない人が「ちゃんと許可は得たんですか?」などと、横から口出ししてくるタイプの仕事を。僕が立ち去っても残った人たちは、今でも陰気な負け犬の目つきで過重なストレスに耐えています。
「それでは、権利者の意向をガン無視すればいいのか?」「徹底的に反抗すればいいのか?」と勘違いする人がいるのですが、そうではなくて、ストレスのない自由な人生を歩むには何をどうすればいいのか(主に「何を避けるのか」)を考えるべきなのです。
自分で決定して、先へ進む人は、笑顔でいるはずです。「相手に命令できるかどうか」「いかに戦って勝つか」なんかではなくて、自分自身が「のんびりと自由に過ごせているかどうか」です。


最近観た映画は、アッバス・キアロスタミ監督『桜桃の味』。とても異様な映画だった。
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映画の大半は、上のように車内のカットに終始する。自殺志願の男が、自分が睡眠薬を飲んで穴の中に横たわった後、死亡を確認して埋めてくれる相手を探している。なぜ男が自殺したいのかは、一切語られない。
男は二人の若者に声をかけるが、二人とも断って、車を降りる。男は行くあてもなく、工事現場に座って、ダンプカーが砂利を捨てて穴を埋めるのを見ている……が、シーンが変わると、また車の中だ。会話の途中である。どうやら、男は三人目の相手に声をかけて、自殺の話を持ちかけているらしい。
三人目の相手は、老人である。だが、会話が途中から始まっているため、この老人がどういう人物なのかは、すぐには分からない。

車は、砂漠の中を進む。老人が「こっちの道なら、わしは知っている。こっちの道のほうが景色がいい」と要望したからだ。
カメラは、ロングで走る車を撮っている。画面外から、老人の語りが聞こえる。「自殺なんて、つまらんものだよ」「もう一度、星空を見たいと思わないか」「また泉の水を飲みたいとは思わないか」と、彼の話は陳腐で凡庸な内容だ。画面も砂漠ばかりだ。しかし、老人の朴訥な語り口が、不思議と胸にしみる。

老人は「さっき言っただろう、わしは自然史博物館で働いているんだ」と、立ち去っていく。下のような、印象的な構図だ。
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老人を見送った男は、車で移動する。カメラは車内の男をフィックスで撮っている――まるで、この映画そのものが感情をなくしてしまったかのようだ。
しかし、車の外から「写真を撮ってください」とアベックの女性が頼んできたり、かと思うと「死にたいのか!」と怒声が聞こえる。車の外の世界は、生き生きとしている。男は無表情にハンドルを切り、車から駆け出していく。彼は、どこへ向かって走り出したのだろう?
上の博物館の門が、このままの構図で、ふたたび映る。男は、あの老人にもう一度会おうとしている! そのことが、端的な構図で分かる。一切の台詞、一切の演技、一切の感情描写を排しても、構図によって彼の心の変化が伝わってくる。あの老人の語りに感動したのは、僕だけではなかった。映画の中の彼も、心を動かされたのだ。映画のこちら側と向こう側が繋がった。

この機能的な効果が、映画を観る意味だと思う。
ちなみに、オチは「はあ?」と首をかしげる難解なもので、ネタバレとか何とかいう概念がいかに無意味か分かる。映画は、プロセスを体験するものであって、ネタがどうとかいう性質のものじゃない。

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