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2021年10月27日 (水)

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「このコクピットは、僕の世界だ!」――「蒼き流星SPTレイズナー」に見る主人公と主役ロボットの“分離”【懐かしアニメ回顧録第83回】
V-MAXが発動して、レイズナーの第二人格フォロンが出現するとき、コンソールが色とりどりに発光し、エイジからは色が消えます。また、レイズナーの目が黄色からピンクに変わるとき、最初は作画で光が水平にのびる様子を描いていました。
だんだん、ピンク色を多重露光で重ねるだけになっていきます。手描きではアングルに制限が出るし、いちいち描き直していては時間も手間もかかるからでしょう。だけど、多重露光も現像所で処理してもらうので、それなりにお金がかかります。結局、現場にどれぐらいリソースがあるのかで、表現は決まっていくのだと思います。そして、一番お金がかからないのが、「レイズナーにふたつの人格が隠されている」という脚本的なアイデアの部分なのです。

モデルグラフィックス 2021年 12月号
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今月の『組まず語り症候』は、童友社さんの姫路城です。
そして、コラム欄では成績表が「1」と「2」ばかりだったのに、「その場で物語をつくる」という試験にだけは受かった……という話を。


最近観た映画は、溝口健二『お遊さま』、ヒッチコック『白い恐怖』、アリ・アスター『ミッドサマー』。
ドキュメンタリー『ヒッチコック/トリュフォー』を見たから、おそらく2度目の『白い恐怖』を見たのだと思う。しかし、そもそも『ヒッチコック/トリュフォー』自体を1年前にも見ていた。
新人と言ってもいいアリ・アスターが撮った『ミッドサマー』は、平衡感覚を失わせるような不安な作品だった。
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新興宗教のような、少数部族のような異様な集団の儀式を描いているのだが、もしかすると、この集団を美しいもの、魅力的なものと信じて撮っているのではないか……その疑惑が、不安の正体だ。
というのも、彼らがまっすぐに並んで歩くとしたら、カメラもきっちりドリー移動し始めるのだ。映画のもっている機械的メカニズムが、劇中の儀式に組み込まれてしまったように見える。反面、悪夢だとかゾンビだとかCGだとかは、よく見知った映画の文法なので、不安をやわらげる。


ここのところ天気がよく、昼間から外飲みしていた。
月曜日は有明のホテルに宿をとって、海と夕陽が見えるベストな外飲み場を、本腰をいれて探すことにした。
まず、ホテルから徒歩圏内の大型商業施設、有明ガーデン。テラス席設置のお店が数軒あるのだが、建物の内側に面してテラスが広がっているため、海が見えない。店同士が向かい合って並んでいるのも良くない。向かいの客を眺めながら、飲むことになってしまう。
よって、有明ガーデンを離れ、ゆりかもめで台場へ向かう。

いつもはデックス東京ビーチ2階の店へ行くのだが、海が見えるのはいいとして、テラス席の手前が歩道になっており、ひっきりなしに人が通り過ぎるのが難点だった。しかし、より夕陽に近いアクアシティお台場5階のレストランが、珍しく開いていた。
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色の黒いボーイの青年が、あまりにも丁寧に「ブランケットをお持ちしましょうか?」と聞いてくれるので、「ありがとうございます」と頭を下げてしまった。それぐらい曇天で、肌寒かった。しかし、絵の具を水に溶いたような曇り空も、なかなか良い酒のツマミになった。
かまり歩きなれてきた海浜公園周辺の団地を抜けて、海を渡ってホテルを目指した。すると、その近辺にはチェーン店のような居酒屋しかない。フライドチキンのような味気ない焼き鳥を食べたのだが、そういうダメなお店にかぎって値段が高めに設定されている。(その手のお店は、メニューの写真を出来合いのサンプル画像で使い回しているのも特徴。徹底的に頭を使ってない、工夫してない。)

その日はサントリー美術館の「刀剣 もののふの心」展、翌日はホテルから歩いて行けるスモールワールズTOKYOへ行った。
帰り道は国際展示場から出発するバスで、東京駅まで210円。次回はバスで来てもいいのだが、10年以上前、北海道や沖縄へ旅行するために適当に買ったカバンがかさばり、いよいよ邪魔になってきた。一泊旅行ばかりなので、そろそろコンパクトなものに買い替えよう。

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2021年10月17日 (日)

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珍色からパチモノまで……消しゴム人形からあふれ出る無限のロマンを、まんだらけミクロ館の宮越館長が語る!【ホビー業界インサイド第74回】
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まんだらけで、ケシゴム類を専門に扱うミクロ館でインタビューしてきました。


編集者から米アニメ『RWBY』の日本語版が、ひさびさに連続リリースされていると聞いて、Amazonプライムのレンタル配信でVolume 5と6を視聴した。
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林原めぐみさんが演じる、ヤンの母レイヴンの奥深い人物造形に驚かされた。単純な正義ではなく、敵とも組んで味方もあざむく。冷徹なのに、少しだけ涙を見せたりもする。
そうした新しい人物を縦横に使って、世界の根幹に触れる壮大な神話を何重にも設定しながらも、かつては学園ドラマを演じていたレギュラーキャラクターたちの性格を、繊細すぎるほど丁寧に彫りこんでいく。
ハリウッド映画でも、こんな緻密な脚本は構成できないと思うのだが、『RWBY』の若い脚本家チームの力は、本当に驚嘆すべきである。

(c) 2018 Rooster Teeth Productions, LLC. All Rights Reserved.

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2021年10月11日 (月)

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マックスファクトリー製の『太陽の牙ダグラム』プラモデル、発売中のキットをすべて組み立ててレビューしました。雑誌掲載時の時より、いろいろ書き足しています。


ネット配信で、『鬼畜』の映画版(1978年)と2017年のドラマ版を、つづけてレンタルして観た。
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結婚していた頃、妻の連れてきた犬が、僕によく懐いていた。僕はよく、「明日この子を遊びに連れていって、遠くの公園に置いてきてしまおう」などと冗談を行っていた。離婚してから、その妄想はどんどん広がり、「しょぼい小さな遊園地でいろいろな乗り物にのせてあげて、ソフトクリームも食べさせて、帰りにデパートの食堂でお子様ランチを食べさせ、くたくたに遊び疲れて眠ったところを置いてきてしまう」……という完成形にいたった(妄想の中で、犬は完全に擬人化されている)。
その妄想の原点は、すべて中学生のころにテレビで見た『鬼畜』だったのだと、最近思い当たった。

さらに余談を続けると、僕自身も幼稚園のころだったか、叔父さんに井の頭公園の小さな遊園地へ連れていかれ、温室の売店で安っぽいソフトクリームを買い与えられた記憶がある。叔父さんは母の弟だったので、何か母に用事があって「子供たちを預けた」一日だったのだと思う。
僕は、急に子供扱いされたことに戸惑った。兄はそういう待遇を素直に受けいられる子供だったので、100円で一種類しか売っていないチャチなソフトクリームを「わーい」と、喜んで食べていた。今の子供たちはどう過ごしているのか知らないが、昭和ではよくある光景だったのだろう。


1978年版の『鬼畜』を見ると、そうした「子供たちの情景」「子供の目から見た世界」が、映画の印象を強烈に形づくっていたことに気がつく。
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次男はまだ赤ん坊だし、まっさきに殺されてしまうのだが、長男と長女が2人だけで遊んでいるシーンがいくつかある。長男がひとりで出歩いて、田舎の家の軒先で親子が水遊びしているのを見るシーン、ここも大人の目線が不在である(続けて、新聞屋が家の奥さんに契約させようと無理を言っている場面を、長男が目撃する……それらのシーンに、分かりやすい解釈や説明は一切ない)。
緒形拳の父親に能登半島へ連れていかれた長男は、夜道で親子が花火しているのを見る。ワンカット、その親子の遊んでいる絵だけ抜いて撮っている。長男は父親にうながされて歩き出すのだが、カメラは子供の目の高さだ。
もし長男が「僕も花火をしたい」などと言ったら、それは大人の理屈や解釈でしかない。子供には子供だけの、言語化しえない感情領域がある。この映画は、そこにアプローチしているのだが、大人の目線で見ていると、それらのシーンは無意識へと逃げてしまう。


一方で、大人たちの感情描写は、大人のロジックで処理されている。
長女を東京タワーに置き去りにした父親が、画面手前に歩いてくる。彼が振り返った瞬間、バックで東京タワーの照明が点灯する。そのきらびやかなタワーを、カメラはティルトアップして撮る。映画のメインテーマであるオルゴールの曲が聞こえて、父親は逃げだす。そのカットで、父親の横を親子連れが歩いているのも、効果的だ(しかも綺麗なドレスを着た女の子が、二組も。これが男の子だったら、罪悪感をあおる効果は半減していただろう)。

また、能登半島に父親が長男を連れていくシーン。
けわしい崖を、親子が歩いている。夕陽のために2人の姿はシルエットとなり、長男の後ろには逆巻く海が広がっている……音楽が緊迫感を増し、「このまま、父親が長男を突き落としてしまうのではないか?」と思った直後、シーンは居酒屋で太鼓を叩く男へとつながる。
そのカットはゆっくりと引いて賑やかな店内を映し、入店してくる父親と長男を撮るために左へPANする。すると、太鼓を叩く男はフレーム外へ出てしまうので、その男が重要なわけではない。太鼓を叩くアクションと太鼓の音が、前シーンの緊迫感を受け継ぎながら緩和していることが大事なのだ。
このシーン転換はセオリーどおりと言えば、それまでだ。しかし、こうしたショットの繋ぎ方の上手さを、意外と我々は見落としがちなのではないだろうか。


大人の感情描写の最たるものは、旅館に泊まった父親が酔っ払って、辛かった少年時代のことを語るシーンだ。
ひととおり語った後、父親はちゃぶ台に頭を乗せて泣く。引きの絵で、父親の横ではヤドカリを遊ばせている長男が、やはりちゃぶ台に頭を乗せる。
その直後、前シーンの音楽が続いたまま、遠く離れた家に残った正妻が、つらそうに頭を押さえるカットが挿入される。前カットと同じく、引きの絵である。すると彼女が、まるで夫の子供時代の告白を聞いていたかのように見えるのだ。
あるいは、彼女も子供時代のことを想起していたのかも知れない。ともあれ、構図とカット繋ぎだけで、大人たちの抱えているままならない感情の重さが表現できている。

野村芳太郎という監督には作家性というほど際立った個性はないが、堅実な構図、適切なフレームサイズ、音楽の入り方や残し方などの工夫が、映画の「面白さ」を構成しているのは間違いないと思う。
その「面白さ」に気がつかない人たちに訴求するため、「大画面による迫真の映像体験」だとか、「見終わってすぐ禁断症状が出る」など極端な惹句が必要になる。『鬼畜』のような犯罪映画では、「許せないです」「あり得ないです」など、劇中人物の行為と脚本・演出効果をごっちゃにしてしまう人が多い。僕は、そのような放し飼いになった感情の暴走が、文化を廃れさせると思っている。

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2021年10月 9日 (土)

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昭和50年男 VOL.013
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神山健治監督インタビュー、高千穂遥さんインタビュー、あと『攻殻機動隊』SACシリーズの解説を担当しました。


配信レンタルが意外と高いので、『廃市』のDVDを購入した。
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10年ほど前にも、このブログに感想を書いたはずだ。祭に花火、かき氷……といった夏の風物詩が、16mmフィルムの粗い質感とあいまって、気持ちいい。18歳のころだったか、テレビで『時をかける少女』を見て熱に浮かされたように興奮し、大林宣彦の特集上映で『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』や『CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅』などの自主映画と一緒に観たのが最初だったと思う。
他の前衛的な作品に比べると、『廃市』は明らかに分かりやすい。峰岸徹の演じるモテモテの若旦那は、「好きではない」と公言していたはずの浮気相手と心中してしまうのだが、10代だった当時はその難解さを「大人っぽい」と感じていた。撮影当時、40代半ばだった大林監督も、そのように考えたのではないだろうか。

中年になったいま見ると、モテすぎてしまうがゆえに簡単に満たされてしまい、退屈な人生しか生きられなかった男の傲慢さが感じられて、ちょっと不愉快に感じる。
実際、若旦那は「何もすることがないので、音曲に凝るぐらいしかない」などと文句を言いながら、歌舞伎を披露している。その後、楽屋で主人公に向けて話をするのだが、途中で歌舞伎の台詞をえんえんと冗談のようにそらんじるのが、またうっとおしい。その後、浮気相手にそうめんを運ばせて、主人公をさしおいて自分だけ食べるのも、嫌な感じだ(大林監督は食べ物に興味がないのか、あまり美味しそうに撮っていない)。


福永武彦の原作小説を取り寄せたので、原作を読めば、印象が変わったり理解できたりするのかも知れない。
映画の雰囲気は本当に好きなのだが、望まない心中を何か渋い大人びたことのように感じていた自分を、「幼い」と思えるようになった。自殺とか心中よりも、もっと面白い生き方はある。まだまだ先があること、未知のあることが「面白い」ということなのだ。
ここまで書いて気がついたが、だから、好きではない浮気相手とせいぜい心中するぐらいしか思いつかなかった若旦那は「廃市」で滅んでいくしかない、つまらない人生を終えたのだろう。

いい歳をして幼稚な人にかぎって、「この年になると分かるんだけど……」「大人になって分かったんだけど……」などと前置きしたがる。ただ、歳をとっただけ、ただ余分に傲慢になっただけなのに。
また、言われるより先に「おっさん」と自虐するのも、弱さの証という気がする。


さて、『廃市』のこのシーン。小林聡美の演じる妹娘の墓参りに、主人公が着いて行く。
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2人が庭でその相談を始めたところで、画面奥に尾美としのりの演じる船頭が現れる。2人が画面から出ていった後、船頭は家のほうを見る。家の廊下には、お手伝いの女性が立っている。船頭のバストショット、そしてお手伝いさんの手元からナメて庭を撮る。ちょうど、船頭とお手伝いさんが主役2人を挟み込むような位置に立って、無言で目くばせする。
この思わせぶりな構図、実は、主人公が墓参りのついでに隠れて住んでいる姉娘と出会うことの予兆として機能している。この家のもつ秘密をにぎっているのは、当事者たちだけではない。船頭やお手伝いといった周辺にいる者たちが、地域に根差した秘密を構成しているのだ。

僕は、このような映画の構造、知恵や工夫を読み解いていきたい。
「圧倒的な映像体験」などという脅迫的な、全体主義のようなスローガンに乗っていては、独立性のある審美眼が損なわれる。「ネタバレ」も同じことだ。「ネタバレ」は単に「知ること」だけを問題にしており、「読み解く」ことを前提していない。読解力を鍛えないとするなら、後はただ自分で判断できない盲目的なバカになっていくだけだと思う。

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2021年10月 1日 (金)

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「特装機兵ドルバック」の1/100ボナパルト・タルカスを組み立てて、ドスコイ系ロボの究極進化形を確認しよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第14回
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海洋堂・宮脇修一センムの履歴書|フィギュアに尽くした50余年。いま「敗北感しかない」と語る理由
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株式会社はてなさんの依頼で、インタビューしました。
“造形についてまるで素人のアニメの版権を持つ会社、つまりライセンサーの担当者が「目の位置を2ミリ下げてください~」なんて監修をするようになってしまった。”
“ほとんどのフィギュア・メーカーが「ライセンサー様、監修をお願いします、修正してください」と頭を下げている。”
案の定、ここの記述に、注目が集まっています。


最近観た映画は、アッバス・キアロスタミ監督『桜桃の味』。とても異様な映画だった。
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映画の大半は、上のように車内のカットに終始する。自殺志願の男が、自分が睡眠薬を飲んで穴の中に横たわった後、死亡を確認して埋めてくれる相手を探している。なぜ男が自殺したいのかは、一切語られない。
男は二人の若者に声をかけるが、二人とも断って、車を降りる。男は行くあてもなく、工事現場に座って、ダンプカーが砂利を捨てて穴を埋めるのを見ている……が、シーンが変わると、また車の中だ。会話の途中である。どうやら、男は三人目の相手に声をかけて、自殺の話を持ちかけているらしい。
三人目の相手は、老人である。だが、会話が途中から始まっているため、この老人がどういう人物なのかは、すぐには分からない。

車は、砂漠の中を進む。老人が「こっちの道なら、わしは知っている。こっちの道のほうが景色がいい」と要望したからだ。
カメラは、ロングで走る車を撮っている。画面外から、老人の語りが聞こえる。「自殺なんて、つまらんものだよ」「もう一度、星空を見たいと思わないか」「また泉の水を飲みたいとは思わないか」と、彼の話は陳腐で凡庸な内容だ。画面も砂漠ばかりだ。しかし、老人の朴訥な語り口が、不思議と胸にしみる。

老人は「さっき言っただろう、わしは自然史博物館で働いているんだ」と、立ち去っていく。下のような、印象的な構図だ。
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老人を見送った男は、車で移動する。カメラは車内の男をフィックスで撮っている――まるで、この映画そのものが感情をなくしてしまったかのようだ。
しかし、車の外から「写真を撮ってください」とアベックの女性が頼んできたり、かと思うと「死にたいのか!」と怒声が聞こえる。車の外の世界は、生き生きとしている。男は無表情にハンドルを切り、車から駆け出していく。彼は、どこへ向かって走り出したのだろう?
上の博物館の門が、このままの構図で、ふたたび映る。男は、あの老人にもう一度会おうとしている! そのことが、端的な構図で分かる。一切の台詞、一切の演技、一切の感情描写を排しても、構図によって彼の心の変化が伝わってくる。あの老人の語りに感動したのは、僕だけではなかった。映画の中の彼も、心を動かされたのだ。映画のこちら側と向こう側が繋がった。

この機能的な効果が、映画を観る意味だと思う。
ちなみに、オチは「はあ?」と首をかしげる難解なもので、ネタバレとか何とかいう概念がいかに無意味か分かる。映画は、プロセスを体験するものであって、ネタがどうとかいう性質のものじゃない。

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