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アニメ「ゲッターロボ アーク」はあえて泥臭いキャラで! ベテランアニメーター本橋秀之が、ロボット物の熱い息吹を令和の今に伝える【アニメ業界ウォッチング第81回】(■)
『ゲッターロボ アーク』の取材がとれそう……という話になったので、即座に「本橋秀之さん」と希望してインタビューが実現しました。
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最近知り合った編集者がジェームズ・キャメロン監督の『アビス』がいい、と言うので、何十年ぶりかで見てみた(久しぶりにTSUTAYAでDVDを借りた……今回は、無事に再生できた)。
完全版は3時間もあるので、一時間ずつ区切って見た。
メアリー・エリザベス・マストラントニオの演じる女性科学者のリンジーが、海水の中で仮死状態になり、旦那のエド・ハリスが基地に連れ帰って蘇生しようと努める。
旦那だけでなく、基地のメンバーが集まって、リンジーを蘇生させようと協力する。緻密に構図が組み立てられているのだが、ちょっと奇妙に感じたカットがある。まだ蘇生していない、すなわち死体の状態のリンジーの主観カットで、助けようとしているメンバーの姿を撮っているのだ。劇の上でも、まだ彼女は生き返っていないのだから、彼女の主観は成立しないはずである。
直後、今度はリンジーの真上にカメラが据えられる。これなら、分かる。蘇生しないままのリンジー、その周囲に集まっている人々を、突き放した構図に冷徹に収めており、彼らの結束と無力感などを効果的に描写できている。
そして、リンジーが蘇生した後、今度はエド・ハリスの演じる旦那が肺に液体酸素を吸入して、深海へと挑む。液体酸素は未知の技術だし、深海の水圧で彼は死ぬかも知れない。それでもミッションに挑む彼の主観カットが、一回だけ挿入される。水面を囲むようにして、メンバーがこちらを見ている――これなら、意図が分かる。彼の感じている孤独が、その主観カットでいっぺんに描写できている。臨場感もある。
もしかすると、「死んでいる」リンジーと「死ぬかも知れない」旦那の心情(孤独感)を、同様の主観カット(見守っているメンバーと基地内の風景)によって呼応させようとしているのかも知れない。そうだとしても、主観カットはライトやスタッフが映りこんではいけないので、かなり撮影が面倒なはずだ。そこまでの手間をかけて、「死んでいる」はずのリンジーの主観カットを撮った意図を知りたいと思った(演出ミスだと難癖をつけているわけではない)。
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『アビス』ともう一本、ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』も観た。90分程度しかなく、明快な感情描写とシンプルな展開に好感をもてた。
しかし、本来は『エド・ウッド』の脚本家コンビが監督までする予定が、ティム・バートンが脚本はそのままで監督だけすることになった……という経緯を知って、ちょっと複雑な気分になった。おそらく、誰がどう撮ってもこういう映画になっただろう。すなわち、映画の主体が演出ではなく脚本にあるのでは……という意味だ。
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そして、この2本を返しに行ったついでに、コーエン兄弟監督の『ミラーズ・クロッシング』を借りてきた。公開時に見たはずなので、実に30年ぶりである。
野沢那智さんや曽我部和恭さんらによる、素晴らしい吹き替え版で観たのに、ストーリーはよく分からなかった。
しかし、そんなことは少しも問題じゃない。アルバート・フィニ―の演じるマフィアのボスが豪邸で寝ているところを襲われるのだが、ベッドの下に隠れてマシンガンを持った二人組を返り討ちにする。
倒れた一人の脳天をしっかりと撃ちぬいて窓から脱出し、奪ったマシンガンで窓辺で背を向けているもう一人を撃ち殺す。背後から撃たれた刺客は、自ら手にしたマシンガンを部屋中に乱射しながら死ぬ(すごい!)。
それで終わりではない。アルバート・フィニーは車で襲ってきた追っ手をも、手にしたマシンガンで返り討ちにする。車からも撃ってくるのだが、夜道をふらふらと迷走した挙句、炎をあげて車は爆発してしまう(!)。一体全体、ここまでくどい描写にする理由とは何か?
この映画、そうした「描写のための描写」の連続で、そこが何より面白い。
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タイトルが出るところで、主人公の帽子が森に落ちる。落ちたかと思うと、画面の奥へと飛ばされていく。
それを主人公は、夢だと説明している。まるで何かの暗示のように、繰り返し帽子がアップになる。たとえば、主人公が脅している相手に向かって、そばに置かれた帽子を手に取り、茶化すように頭にかぶせる。「殺すときには脳天を撃ち抜け」というセリフが繰り返され、ようするに帽子は死のイメージを想起させる。
それだけではない。組織を裏切った主人公が、ボスに殴られる。その周囲に、マシンガンを持った男たちがぎっしりと並んでおり、主人公は殴られるたびに彼らにぶつかってしまう。
何もない空間で殴られて壁にぶつかるより、マシンガンを持った男たちが壁をつくっている方がユーモラスだし、深刻さを薄める(このシーンでも、主人公の帽子がアップになる……それはやはり、死の予感のように見える)。
殴られた主人公が、店の階段を転がり落ちると、客が大きな悲鳴をあげる。太った女性が、悲鳴をあげながらフラフラになった主人公をバッグで叩く。
同様に、ある人物にとってショッキングな出来事が起きると、その場で見ている別の人物が絶叫する、泣く描写がいくつかある。
それらの描写は、「物語を映像で伝える」役割には、ほとんどまったく貢献していない。だが、たんに誰かが殺されるより、殺されない人物が叫んでいた方が面白い。その場かぎりの面白さのための描写のほうが、僕には純粋に感じられる。
だから僕には、劇映画のストーリーが描写のためのガイド、枠、入れ物のように感じられてならない。『アビス』の平和主義的なストーリーは薄っぺらいが、主観カットの効果には得体の知れない深みがある。『アビス』のストーリーがいかに薄っぺらであろうと、演出のあり方、構図の必然性は少しも色あせない。それは「物語が優れているから」「感動的だから」ではない。むしろ、何かの手違いが生じているからこそ、興味深いのだ。
また、僕たちは映像情報から「物語」を読みとろう、解読しようと試みるが、そもそも僕たちの頭の中で「物事を理解する」「認識する」メカニズムはどのように機能しているのだろう? 本を読んでいると、文字をどう組み合わせてどう情報を脳内に結像させて理解しているのか、自分でも不思議に思うことがある。
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