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2021年9月28日 (火)

体育の時間と『トゥルーラブストーリー2』

 小学校・中学校・高校と、体育の時間が辛かった。とび箱は三段ぐらいしか飛べず、水泳では5メートルも泳げない。球技でチームを組むと「廣田がいるんじゃ勝てないな」と聞こえるように言われる。高校時代がもっとも酷く、野球部員のクラスメートから遊び半分に地面に叩きつけられた。教師も他の生徒も、見て見ぬふりだった。体育の時間が終わると、クラスの人気者が「廣田がどれほどダメだったか」女子生徒の前で笑いながら話した。誰にも気づかれないように注意しながら、僕は泣いた。 

 そんな僕でも、高校時代は好きな女の子がいて、下校時に「体育の時間が辛い」と打ち明けてみた。「体育の時間さえ我慢すればすむでしょう?」と、彼女は横を向いた。彼女は勉強もスポーツも得意だったから、分かってくれるはずがなかった。僕は、理解者を探すことをあきらめ、劣等感の強い無口な大人になった。 

 アルバイトで食いつないでいた30歳のころ、知り合いから恋愛シミュレーションゲームの存在を教えてもらった。数値を上げることより、生き生きとした女の子キャラとの会話を求めて、僕は何枚もの恋愛シミュレーションを買った。『トゥルーラブストーリー2』では、誰とも話さない転校生の女の子のはかなげな存在感に心を揺さぶられた。ただ、親しくなるのが大変難しいので、プレイヤーの幼馴染という設定の「七瀬かすみ」と仲良くすることにした。かすみはおっとりした性格で、あまり快活ではない。ゲーム中のイベントに球技大会があるのだが、その話題になると、かすみはつまらなそうに下を向いてしまう。「絶対に応援に来ないでほしい」などと言う。僕はハッとして、コントローラーを床に置いた。彼女はスポーツが苦手なのだ。そのことを恥じているのだ。浮かない表情のかすみの前で、僕は大声で泣いた。出来ることなら、あの歯をくいしばって耐えていた高校のころに、同じように体育のできないかすみと出会いたかった。

(※2014年頃、個人の方のブログ用に書いたコラムです)

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2021年9月25日 (土)

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モデルグラフィックス 2021年 11月号 
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●組まず語り症候群 第107夜
今回の題材は、イマイ製1/72レギオスなのですが、WAVE製の『ガルフォース』のレジンキット(購入特典のラビィの全裸フィギュア)について、大学時代の思い出を書きました。


最近観た映画は、アッバス・キアロスタミ監督『友たちのうちはどこ?』と『そして人生はつづく』。
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『こうのとり、たちずさんで』の監督……と思っていたが、あっちはテオ・アンゲロプロスだった。キアロスタミの映画は、まったく未見であった。
先に言っておくと、後から製作された『そして人生はつづく』を観ると、『友だちのうちはどこ?』が事実ではなく「映画」として語られていることに驚かされる。『そして人生はつづく』は、『友だちのうちはどこ?』の出演者やロケ地をたずねるセミ・ドキュメンタリーとなっているのだ。
『友だちのうちはどこ?』で印象的だったジグザグ道が、『そして人生はつづく』のラストでは別の角度から撮影される――主人公の少年が、友だちにノートを届けたい一心で駆け上った坂道を、車が登ろうとする。あまりに急な坂道なので、車は一度は引き返す……が、後ろから上がってきた男が手伝って、車は再び坂を登る。そして、手伝ってくれた男を乗せて、車は坂道を登っていく。
その超ロングの構図には、虚構の物語へ現実の力で肉薄しようとする作家の粘り強い意志が感じられる。『そして人生はつづく』はオーソドックスな撮り方で、綺麗なシーンには分かりやすい音楽が流れるし、これといったストーリーもないのだが、『友だちのうちはどこ?』とセットにして観たとき、不思議と胸を打つ。


それにしても、『友だちのうちはどこ?』。映画の意義を激しく問いかけてくるのは、こちらである。
キアロスタミ監督は、後にフランス・イタリアとの合作も撮っているので、西欧化されたセンスを持つインテリなのであろう……と勝手に思っている。そう疑いたくなるほど、題材は素朴で、完成度は高い。構図も色彩も、非常に洗練されている。
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少年が友達にノートを届けようと決意して、坂道を登りはじめるシーンで、音楽が入る。それは弦楽器を用いた、民族音楽だ。他のシーンに音楽は入っていないので、そのシーンがどれほど重要なのか分かる。
少年が隣村へ着くと、背中にたくさんの草を背負った老人がいる。背中側から撮っているので、少年はまるで、草のかたまりと話しているように見える。果たして、この演出はどれほど意図されたものなのだろう?
少年がさらに村の奥へ行くと、扉の向こうから大きな岩が投げられる。扉の向こう側にいる老人が投げているのだが、その老人をなかなか映さないので、先ほどの草を背負った老人のように、おとぎ話の中の不思議な出来事に見える。

そういえば、映画の後半、すっかり暗くなった村で少年が最後に出会う老人は、「わしは家の扉や窓を作っていた」という話を、しつこく何度もする。扉を売って商売している男も、途中に出てくる。ロケ地となった村に扉を作る職人が多いだけなのかも知れないが、それをフィクションに取り入れると、寓話的な感じがする。
たまたま、村にいた家具職人を題材にしただけなのだろうか? だとするなら、パン職人でも良かったのだろうか? キアロスタミ監督は、どこまで意図して、この作品に豊かな風土を盛り込んで、ここまで異様な独自性を持たせたのだろう? 
「このように撮れば、必ずこう伝わる」という劇映画の話法は、たとえばロシアのレフ・クレショフが実証した。その後、どう世界に伝播して、どこまで受容され、今日どれほどの範囲で許容されているのだろう?


僕は『友だちのうちはどこ?』の、胸を打つ美しいラストカットには触れたくない。
あのラストカットを観れば、誰でも合点がいくというか「ああ、なるほどね」と、すっきりする。誰にでも伝わる心地よさ、分かりやすさがある。「上手いところで終わらせるなあ」と、おおいに納得がいく。……がゆえに、くだらないとも思う。映画の途中で「こんな朴訥なカットを、なぜ自分は素晴らしいと感じているのだろう?」といぶかしく思っている、その自問に比べたら、「誰にでも分かる感動」の値打ちは低い。

「ネタバレ」という概念には、映画には正しい感動のしかた、正しい受け取り方、正しい物語の解き方、絶対の「正解」があるのだ(それ以外は「間違い」)……とでも言いたげな、余裕のなさを感じる。
「正解」以外の読み解き方しか許容できないから、伏線回収や死亡フラグといった物語の様式にばかり強くこだわるようになる。迷いたくない、疑いたくない、早く答えにたどりつきたい、安心したい、保証がほしい……その焦りが、自分の感受性をやせ細らせていく。
「こんな簡単に感動していていいんだろうか?」と、僕は疑う。自分がどこにいるのか、正確に知りたい。自分の感動が低レベルならば、それを事実として受け止めたい。その迷いと疑いの中にしか、突破口はない。

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2021年9月21日 (火)

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「機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛」で、なぜキャラクターたちはショートケーキを食べていたのか?【懐かしアニメ回顧録第82回】

「パトレイバー」や石黒版「銀河英雄伝説」登場のメカを続々とプラモ化! 株式会社エイチエムエーって何者だ!?【ホビー業界インサイド第73回】

「何が、アニメをアニメたらしめているのか?」――「スター・ウォーズ」「ブレードランナー」「ロード・オブ・ザ・リング」など、超大作企画にもまれる神山健治監督からの問いかけ【アニメ業界ウォッチング第82回】
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株式会社エイチエムエーさん、神山監督とも、僕が直接メールして、インタビューの場を設けてもらいました。
宣伝会社を経由すると、その作品の宣伝期間だけしかインタビューできないのです。それはインタビュー記事ではなく、パブリシティという扱いなので、宣伝会社は一度に沢山のメディアを集めて、似たような記事が一度に露出することになります。

そのパブリシティのおかげで記事を成立させられたことも多いのですが、本来はインタビュアーとインタビューイさえ了解していれば、自由に取材していいはずです。神山監督は『スター・ウォーズ』のことをどう語ろうと、いちいちディズニーに確認はとりません。ディズニーの広報の仕切りだとしたら、発言が削られたかも知れません。
(ポロッと言ってしまった場合は、監督が「今のはナシね」とか「ここだけの話ね」と付け加えるので、良識をわきまえた記事になります。こちらも過激な内部告発をしたいのではなく、エンタメ記事として気軽に楽しんでもらいたいわけですから)

僕が怖いのは「版権元の許可がなければ、何も言ってはならないのではないか」と、発信側が極端に自粛するムードです。日本は30年間も不況が続いているので、誰もが神経過敏になり、最初から「これはヤバいだろ」「勝手にやっちゃダメだろ」と臆病になっています。だからこそ、こういう自由な立場から記事をつくると、幅広く反応が得られるのです。
ついでに、「廣田だけ自由にやりやがって」「廣田には仕事を回すな」という動きも出てきます。僕は自由にするから、あなた方も自由になればいいでしょう? みんなが自由に生き生きと仕事すれば、文化が活性化して、世の中が明るくなりますよ。


仕事の合い間をぬって、銀座蔦屋書店の山口歴氏の個展を観に行った。
あと、昨日は祭日で混むかと思ったが、東京都現代美術館へ。
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横尾忠則展がメインだったが、マーク・マンダース氏の作品をふくむコレクション展、あと、映像作品を使ったインスタレーションを主とした「MOTアニュアル2021」が良かった。
劇映画は例外なく横長の画面ばかりだが、こうしたインスタレーションでは縦長だったりする。劇映画がどうして今の様式になったのか、劇映画の外から考えることが出来る。労を惜しまず美術館に足を運べば、新しい知見が得られる。


最近観た映画は、クリント・イーストウッド主演の『人生の特等席』、深田晃司監督の『海を駆ける』、トルコ映画『ミルク』。
『人生の特等席』は野球選手のスカウトマンが主人公で、年老いた彼のところに弁護士の娘がやってきて、彼の手助けをしながら恋愛を成就させる。二時間に満たない映画で、ストレスなく気持ちよく観られた。
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たとえば、田舎の野球場で試合が始まる。カメラは野球場の周辺を拾う。中継席に座るアナウンサー、そして野球場の外を走る子供たち。それをPANで追う。すると、子供たちとは関係なくソーセージを焼いている男の手が、フレームに入る。そのワンカットの流れで、お祭り感が出る。
あるいは、野球チームを持っている偉い人が、社長室でゴルフのボールを打つ。ボールは画面に映らないが、次のカットでは、真上から野球のボールが転がる様子を撮っている。そのボールへ、選手が駆け寄る。
「偉い人のちょっとした挙動が、実際に体を動かしている選手の運命を左右する……この二つのカット、その力関係の比喩だ」と、言葉に還元することも出来るけど、単にシーンのつなぎ方が気持ちがいい。カットの流れやシーン転換の気持ちよさだけで、この何気ないストーリーを視覚的に受け取れるんだろう。

『海を駆ける』は以前に見たかも知れないが、深田監督らしいショッキングかつ曖昧さの残る怪作だった。それでも、『よこがお』『淵に立つ』の後味の悪さには、及ぶべくもない。僕は、この静かに狂った監督を今後も追っていきたい。
『ミルク』は、ほとんどがワンカット=ワンシーン、かっちり決まった風景の構図で、人物が奥へ歩いていく。あるいは、手前に歩いてくる。二人が並ぶと、静かに会話が始まる。その静謐で丁寧な良さもあるのだが、どのシーンも似たようなテンポなので、やや飽きてくる。


小学校~高校まで、僕は成績表が1と2ばかりの落ちこぼれであった。テストも50点を越えればいいほうで、20~30点ぐらいが平均。社会に出てからも常識的なことが出来ず、今でも発達障害か何かではないかと疑っている。
ところが、クラスで60点とか70点とか取っていた大多数の同級生が、ちゃんと大学を出て会社に入れたのに、その安定した人生が「面白くない」らしい……と分かってきた。

たまに書いていることだが、平日昼間の町には、ボーッとしている大人がいっぱいいる。スマホに熱中しながら平気で横断歩道を渡っている人は、誰かの考えたアプリに搾取されつづけている。いわば寄生虫に身体をのっとられて、寄生虫にとって都合のいい行動を意志とは関係なくとらされている。彼らは、アプリにスマホ歩きさせられている宿主でしかない。
また、30歳をすぎて社会人として仕事をしてきただろうに、いまだに東大に入れなかったとか「早慶」なんて言葉を持ち出して、「受験が挫折経験だった」なんて言っている経営者がいる。

そういう退屈な大人たちが、みんなで同じ遊びをやり、みんなで同じものを食べ、みんなで同じ音楽を聴いてきたクラスの大多数のなれの果てなのではないか。一斉に同じ時間に出社して、一斉に昼休みに入り、みんなが並んでいる飲食店の列に加わる……。
僕は致命的な落ちこぼれだったので、その「みんな」の中に入らず、好きな時間に起きて、好きな喫茶店や美術館に行って、発作的に旅行することさえ出来る。仕事もアニメとプラモ、好きなジャンルのことしかやってない。なので、「来月こそホームレスかも知れない」とビビりながら満喫する落ちこぼれの自由は、そう悪くない。

(C)2012 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

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2021年9月10日 (金)

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アニメ「ゲッターロボ アーク」はあえて泥臭いキャラで! ベテランアニメーター本橋秀之が、ロボット物の熱い息吹を令和の今に伝える【アニメ業界ウォッチング第81回】
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『ゲッターロボ アーク』の取材がとれそう……という話になったので、即座に「本橋秀之さん」と希望してインタビューが実現しました。


最近知り合った編集者がジェームズ・キャメロン監督の『アビス』がいい、と言うので、何十年ぶりかで見てみた(久しぶりにTSUTAYAでDVDを借りた……今回は、無事に再生できた)。
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完全版は3時間もあるので、一時間ずつ区切って見た。
メアリー・エリザベス・マストラントニオの演じる女性科学者のリンジーが、海水の中で仮死状態になり、旦那のエド・ハリスが基地に連れ帰って蘇生しようと努める。
旦那だけでなく、基地のメンバーが集まって、リンジーを蘇生させようと協力する。緻密に構図が組み立てられているのだが、ちょっと奇妙に感じたカットがある。まだ蘇生していない、すなわち死体の状態のリンジーの主観カットで、助けようとしているメンバーの姿を撮っているのだ。劇の上でも、まだ彼女は生き返っていないのだから、彼女の主観は成立しないはずである。

直後、今度はリンジーの真上にカメラが据えられる。これなら、分かる。蘇生しないままのリンジー、その周囲に集まっている人々を、突き放した構図に冷徹に収めており、彼らの結束と無力感などを効果的に描写できている。
そして、リンジーが蘇生した後、今度はエド・ハリスの演じる旦那が肺に液体酸素を吸入して、深海へと挑む。液体酸素は未知の技術だし、深海の水圧で彼は死ぬかも知れない。それでもミッションに挑む彼の主観カットが、一回だけ挿入される。水面を囲むようにして、メンバーがこちらを見ている――これなら、意図が分かる。彼の感じている孤独が、その主観カットでいっぺんに描写できている。臨場感もある。

もしかすると、「死んでいる」リンジーと「死ぬかも知れない」旦那の心情(孤独感)を、同様の主観カット(見守っているメンバーと基地内の風景)によって呼応させようとしているのかも知れない。そうだとしても、主観カットはライトやスタッフが映りこんではいけないので、かなり撮影が面倒なはずだ。そこまでの手間をかけて、「死んでいる」はずのリンジーの主観カットを撮った意図を知りたいと思った(演出ミスだと難癖をつけているわけではない)。


『アビス』ともう一本、ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』も観た。90分程度しかなく、明快な感情描写とシンプルな展開に好感をもてた。
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しかし、本来は『エド・ウッド』の脚本家コンビが監督までする予定が、ティム・バートンが脚本はそのままで監督だけすることになった……という経緯を知って、ちょっと複雑な気分になった。おそらく、誰がどう撮ってもこういう映画になっただろう。すなわち、映画の主体が演出ではなく脚本にあるのでは……という意味だ。


そして、この2本を返しに行ったついでに、コーエン兄弟監督の『ミラーズ・クロッシング』を借りてきた。公開時に見たはずなので、実に30年ぶりである。
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野沢那智さんや曽我部和恭さんらによる、素晴らしい吹き替え版で観たのに、ストーリーはよく分からなかった。
しかし、そんなことは少しも問題じゃない。アルバート・フィニ―の演じるマフィアのボスが豪邸で寝ているところを襲われるのだが、ベッドの下に隠れてマシンガンを持った二人組を返り討ちにする。
倒れた一人の脳天をしっかりと撃ちぬいて窓から脱出し、奪ったマシンガンで窓辺で背を向けているもう一人を撃ち殺す。背後から撃たれた刺客は、自ら手にしたマシンガンを部屋中に乱射しながら死ぬ(すごい!)。
それで終わりではない。アルバート・フィニーは車で襲ってきた追っ手をも、手にしたマシンガンで返り討ちにする。車からも撃ってくるのだが、夜道をふらふらと迷走した挙句、炎をあげて車は爆発してしまう(!)。一体全体、ここまでくどい描写にする理由とは何か?

この映画、そうした「描写のための描写」の連続で、そこが何より面白い。


タイトルが出るところで、主人公の帽子が森に落ちる。落ちたかと思うと、画面の奥へと飛ばされていく。
それを主人公は、夢だと説明している。まるで何かの暗示のように、繰り返し帽子がアップになる。たとえば、主人公が脅している相手に向かって、そばに置かれた帽子を手に取り、茶化すように頭にかぶせる。「殺すときには脳天を撃ち抜け」というセリフが繰り返され、ようするに帽子は死のイメージを想起させる。

それだけではない。組織を裏切った主人公が、ボスに殴られる。その周囲に、マシンガンを持った男たちがぎっしりと並んでおり、主人公は殴られるたびに彼らにぶつかってしまう。
何もない空間で殴られて壁にぶつかるより、マシンガンを持った男たちが壁をつくっている方がユーモラスだし、深刻さを薄める(このシーンでも、主人公の帽子がアップになる……それはやはり、死の予感のように見える)。
殴られた主人公が、店の階段を転がり落ちると、客が大きな悲鳴をあげる。太った女性が、悲鳴をあげながらフラフラになった主人公をバッグで叩く。
同様に、ある人物にとってショッキングな出来事が起きると、その場で見ている別の人物が絶叫する、泣く描写がいくつかある。

それらの描写は、「物語を映像で伝える」役割には、ほとんどまったく貢献していない。だが、たんに誰かが殺されるより、殺されない人物が叫んでいた方が面白い。その場かぎりの面白さのための描写のほうが、僕には純粋に感じられる。
だから僕には、劇映画のストーリーが描写のためのガイド、枠、入れ物のように感じられてならない。『アビス』の平和主義的なストーリーは薄っぺらいが、主観カットの効果には得体の知れない深みがある。『アビス』のストーリーがいかに薄っぺらであろうと、演出のあり方、構図の必然性は少しも色あせない。それは「物語が優れているから」「感動的だから」ではない。むしろ、何かの手違いが生じているからこそ、興味深いのだ。

また、僕たちは映像情報から「物語」を読みとろう、解読しようと試みるが、そもそも僕たちの頭の中で「物事を理解する」「認識する」メカニズムはどのように機能しているのだろう? 本を読んでいると、文字をどう組み合わせてどう情報を脳内に結像させて理解しているのか、自分でも不思議に思うことがある。

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2021年9月 3日 (金)

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ホビージャパン ヴィンテージVol.6 発売中
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巻頭特集「BANDAI early 80's! 設計者・村松正敏の見た'80年代バンダイ模型」を構成・執筆しました。
村松さんへはもちろん、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』でも取材させていただいたベテラン木型職人の諸星亮一さん、海洋堂・宮脇修一さんへもインタビューしました。6月は、静岡と大阪を駆け回る日々でした(取材の交渉も、自分で電話したりメールしたりして手配したので)。

そうした取材のやり方、キットが集まってからスタジオで写真を撮ってもらう段取り(どれとどれをどう撮ってらって、次に何と何を準備しておくのか、予約した時間内に撮り終えるにはどう進行させるべきか)、ページ構成、デザイナーさんへの発注の仕方……たぶん、いろんなテクニックを使って40ページをつくったのです。
「誰かやっといてくれ」「自分の思うように、他のみんなが動いてくれ」では、40ページを形にすることは出来ません。どうすれば出来るのか具体的な段取りに落としこんで考えて、自分の足を運んで、自分の手で書くのです。いくら待っていても、状況は進みません。


中古DVDを購入して、ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』。
他には配信で、ウディ・アレン監督『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』、『女と男の観覧車』、リリアーナ・カヴァーニ監督『愛の嵐』など。どの映画も超絶に長く退屈に感じる中(それは僕の感受性の変化だろう)、『女と男の観覧車』は軽快な語り口で、ブラックな笑いをふんだんに盛り込みながら、「次はどうなるんだろう?」とサスペンスフルな興味を最後まで持続してくれた。
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撮影はヴィットリオ・ストラーロで、極彩色の映像がとにかく飽きさせなかった。
人物だけを追っているように見えて、ドラマがキーポイントを迎えると、ふっとカメラが人物から離れて、背景やモブを撮る中に人物が混じっている……という、冷めた撮り方をする。本当は、そういうカメラや構図が物語に対してどう機能するかだけを見ていたい。


世の中、成人したら七割の人間が勉強しなくなる、本も読まなくなると聞いた。
「店員さん」を「定員さん」、「延々と」を「永遠と」と書いてしまう人は、何も読まずに、ネットに短文を投稿するだけの向上心を失った人生なのだろう。

スマホ歩きしている女性は、盗撮被害にあいやすいとも聞いた。スマホ歩き人は自分の身の安全を周囲に依存しているわけで、みずから搾取される側になっている。どんなにカッコいい外見の人でも、公道を歩きながらパズルゲームしているなんて、人生終わっていると思う(自分の部屋とか、お店や電車内で座ってゲームするのとは意味が違う)。
トイレに入ってきて、ションベンしながらずーっとスマホに触っている男性がいる。ようは、(排便のような)自室でやるよう恥ずかしいことを公道でやってはまっているのがスマホ歩きだ。僕も寝床ではスマホを離さないが、その姿を人に見せたくはない。


また、僕自身にコンプレックスがあるので、ダサい格好の男性には、つい目が行ってしまう。
気がついたのは、別に高い服を着ていなくても、サイズのあった服をサラリと着ているだけで印象は良くなるということ。ダサい人は、服のサイズが体形に合っていない。特に、ぶかぶかのズボンをだらしなく履いている場合が多い。シャツが短くて大きなお腹が飛び出しているのに、考えもなくベルトで締め上げて、みっともない体形が強調されてしまっている。

もっと言うなら、背筋をしゃんと伸ばしているだけで、服が安いかデザインが悪いかは関係なくなる。靴が清潔なら、もっと良い(靴ひもが外れても平気で歩いているのは、おしゃれ以前に心がだらしないのだ)。
僕はずっと猫背だと言い続けられたのだが、それは自信がないからだ。今だって、体格のいい男性にはビビってしまう。だけど、苦労を重ねて、いろいろ諦めて手に入れただけの自信がある。内面から滲み出る自信は、見栄ではないと信じている。その心に恥じない外見でいたい、と思う。

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