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モデルグラフィックス 2021年 10月号
組まず語り症候群 第106回
今回は、レヴェル社のカルフォルニア・コンドルです。ふと忘れそうになると担当者さんが「来月どうしましょうか?」と連絡をくれる、小さな灯のような連載です。
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月曜日はふと思い立って、軽井沢へ行ってきた。
セゾン現代美術館。館内は撮影禁止だが、庭にはこの鉄橋のような作品が点々としている。
収蔵作品展(「collection 40」展)では、中西夏之氏の抽象画が良かった。その作品の中だけでの規律があって、その決まりを視覚化するために絵を描いているような、実直さと丁寧さがある。東京都近代美術館で観た具体芸術協会の前衛絵画には、なんら決まりを設けない放逸さがあった。中西さんの作品は、もっと几帳面でストイックだ。
都美術館で観たイサム・ノグチ氏の彫刻も、このとおり風雨にさらされて貫禄がついた「本物」を観られた。
ところで、美術館へ向かう数少ないバスを待っていると、ゲイっぽい男性二人組と一緒になった。ずっと下品で幼稚な話ばかりしているのでウンザリしたが、バスの運転手さんに丁寧にお礼を言って、館内では静かに作品を鑑賞していた。いろんな人がいるもんだなあ、と思う。
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帰りは40分ほどかけて、ゆるやかな道を中軽井沢の駅へと歩く。
途中、星野リゾートというお店の密集したエリアで、クラフトビールを買う。「歩きながら飲みたい」と言ったら、このような形に注いでくれた。気温20度ぐらいなので、飲みながら歩く。女性の一人客が多い。
軽井沢駅に帰って、前夜に泊まったホテルとは逆の方角へ降りて、その通俗的な賑わいに嫌気がさした。人間は群れるとロクなことにならない。こういう観光地へ行くと、必ず似たような髪、似たような服装のグループがいる。仕草も話し方も、みんな互いに真似しあって生きている。
(ホテルから、わざわざ10分も歩いて食べに行った喫茶ブロンコのモーニングDセット。なんと、ハムとレタスをくるんだクレープなのだ。こうした優良店の常で、朝早い客は近所の常連のみ。もっと観光地らしい高級喫茶もあったようだが、こういう庶民的な店が好きだ。)
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(前夜、徒歩圏内で厳選した居酒屋にて、信州産ズッキーニとアスパラのグリル、バルサミコソースで。思わず、赤ワインを合わせた。4皿3杯で5千円しなかったのだから、良心的だ。)
店内では、地元の人たちだろうか、「コロナにかかったらどうしようね」と言いながら8人ぐらいで宴会をやっていた。僕は過剰な自粛反対で、普通の娯楽はそこそこ気をつけて楽しめばよくない?と思っているのだが、そんなに警戒心がないなら東京の人をあまり悪者にしないでほしい(笑)。
東京が嫌いな人は、コロナにかこつけて東京を罵倒する。今まで自由でなかった人は、コロナにかこつけて他人の自由を禁じる。
ダメな人は、ダメだったことをいつまでも気にしている。「行けなかった」「できなかった」「買えなかった」「食べれなかった」。通り魔殺人の加藤智大が、「彼女さえいれば」と掲示板に書き残していたことを思い出す。「結婚さえすれば」「資格さえとれれば」……そんな、試験の合格点をとるような人生観だから、苦しくなる。
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2ちゃんねるにハマっていた頃、「1ゲット」と書きこむ人の気持ちが、分からなかった。
Twitterでも、バズっているツイートに真っ先に「1」とだけ書きこむ人がいる。2ちゃんでは「前スレの2は、本当は俺がとるはずだったのに」といった恨みごとを書く人もいて、ひょっとして順位を競う以外に何も知らない人生なのでは……と、想像する。
Twitterで面白いネタを自ら創出して、あるいは発見して、自分が最初に書きこむならいい。「ああ、コレね」「それな」と、いま知ったくせに便乗するのが見苦しい。
そんなに詳しいなら、最初にそのネタを自分で書けないとダメだろうよ。詳しいことにはならないだろうがよ。
最初にネタを投下する勇気、受けなかった場合の気恥ずかしさを、便乗するだけの人たちは知らないまま、歳だけをとっていくのだろう。誰かの見つけてきたものに脊髄反射して「必ず行きたいです」「絶対に欲しいです」とだけ反応して、実際には行きもしないし買いもしない。「仕事さえなければ行ったのに」「お金さえあれば買ったのに」……本当に、そうなのだろうか?
「彼女さえいれば」「結婚さえできれば」「資格さえとれれば」……本当にそうなのか、よく考えてみたほうがいい。案外、何もなくても楽しいのかも知れない。ただ、そう認めることに勇気が必要なだけだ。そして、ほとんどの人は他人の発見や価値観に安易に便乗して、やれなかったことを悔やみながら死んでいくのだ。
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