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2021年8月26日 (木)

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モデルグラフィックス 2021年 10月号
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組まず語り症候群 第106回
今回は、レヴェル社のカルフォルニア・コンドルです。ふと忘れそうになると担当者さんが「来月どうしましょうか?」と連絡をくれる、小さな灯のような連載です。


月曜日はふと思い立って、軽井沢へ行ってきた。
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セゾン現代美術館。館内は撮影禁止だが、庭にはこの鉄橋のような作品が点々としている。
収蔵作品展(「collection 40」展)では、中西夏之氏の抽象画が良かった。その作品の中だけでの規律があって、その決まりを視覚化するために絵を描いているような、実直さと丁寧さがある。東京都近代美術館で観た具体芸術協会の前衛絵画には、なんら決まりを設けない放逸さがあった。中西さんの作品は、もっと几帳面でストイックだ。

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都美術館で観たイサム・ノグチ氏の彫刻も、このとおり風雨にさらされて貫禄がついた「本物」を観られた。
ところで、美術館へ向かう数少ないバスを待っていると、ゲイっぽい男性二人組と一緒になった。ずっと下品で幼稚な話ばかりしているのでウンザリしたが、バスの運転手さんに丁寧にお礼を言って、館内では静かに作品を鑑賞していた。いろんな人がいるもんだなあ、と思う。


帰りは40分ほどかけて、ゆるやかな道を中軽井沢の駅へと歩く。
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途中、星野リゾートというお店の密集したエリアで、クラフトビールを買う。「歩きながら飲みたい」と言ったら、このような形に注いでくれた。気温20度ぐらいなので、飲みながら歩く。女性の一人客が多い。
軽井沢駅に帰って、前夜に泊まったホテルとは逆の方角へ降りて、その通俗的な賑わいに嫌気がさした。人間は群れるとロクなことにならない。こういう観光地へ行くと、必ず似たような髪、似たような服装のグループがいる。仕草も話し方も、みんな互いに真似しあって生きている。

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(ホテルから、わざわざ10分も歩いて食べに行った喫茶ブロンコのモーニングDセット。なんと、ハムとレタスをくるんだクレープなのだ。こうした優良店の常で、朝早い客は近所の常連のみ。もっと観光地らしい高級喫茶もあったようだが、こういう庶民的な店が好きだ。)


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(前夜、徒歩圏内で厳選した居酒屋にて、信州産ズッキーニとアスパラのグリル、バルサミコソースで。思わず、赤ワインを合わせた。4皿3杯で5千円しなかったのだから、良心的だ。)

店内では、地元の人たちだろうか、「コロナにかかったらどうしようね」と言いながら8人ぐらいで宴会をやっていた。僕は過剰な自粛反対で、普通の娯楽はそこそこ気をつけて楽しめばよくない?と思っているのだが、そんなに警戒心がないなら東京の人をあまり悪者にしないでほしい(笑)。

東京が嫌いな人は、コロナにかこつけて東京を罵倒する。今まで自由でなかった人は、コロナにかこつけて他人の自由を禁じる。
ダメな人は、ダメだったことをいつまでも気にしている。「行けなかった」「できなかった」「買えなかった」「食べれなかった」。通り魔殺人の加藤智大が、「彼女さえいれば」と掲示板に書き残していたことを思い出す。「結婚さえすれば」「資格さえとれれば」……そんな、試験の合格点をとるような人生観だから、苦しくなる。


2ちゃんねるにハマっていた頃、「1ゲット」と書きこむ人の気持ちが、分からなかった。
Twitterでも、バズっているツイートに真っ先に「1」とだけ書きこむ人がいる。2ちゃんでは「前スレの2は、本当は俺がとるはずだったのに」といった恨みごとを書く人もいて、ひょっとして順位を競う以外に何も知らない人生なのでは……と、想像する。

Twitterで面白いネタを自ら創出して、あるいは発見して、自分が最初に書きこむならいい。「ああ、コレね」「それな」と、いま知ったくせに便乗するのが見苦しい。
そんなに詳しいなら、最初にそのネタを自分で書けないとダメだろうよ。詳しいことにはならないだろうがよ。
最初にネタを投下する勇気、受けなかった場合の気恥ずかしさを、便乗するだけの人たちは知らないまま、歳だけをとっていくのだろう。誰かの見つけてきたものに脊髄反射して「必ず行きたいです」「絶対に欲しいです」とだけ反応して、実際には行きもしないし買いもしない。「仕事さえなければ行ったのに」「お金さえあれば買ったのに」……本当に、そうなのだろうか?
「彼女さえいれば」「結婚さえできれば」「資格さえとれれば」……本当にそうなのか、よく考えてみたほうがいい。案外、何もなくても楽しいのかも知れない。ただ、そう認めることに勇気が必要なだけだ。そして、ほとんどの人は他人の発見や価値観に安易に便乗して、やれなかったことを悔やみながら死んでいくのだ。

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2021年8月22日 (日)

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「亜空大作戦スラングル」の1/48チャンサーを組み立てて、アオシマの試みた新路線“リアクション”シリーズの真実を目撃せよ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第14回
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こういう連載記事でも、常にどこか改善しつつ、より良いものにしていかないとダメですね。
まだ誰も誉めていないものを「これ面白いよ!」と主体的に誉めることは、そこそこ勇気も必要です。「そんなの面白くないじゃん」と反応するだけなら楽だけど、主体性を持たないと、面白い人生にはならないです。人生がつまらない人は、ほぼ例外なく、他人まかせにしています。


19日木曜日は、国立近代美術館へ「隈研吾展」を観に行った。
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隈さんの展示という意味では、角川武蔵野ミュージアムで昨年開催された企画展「隈研吾/大地とつながるアート空間の誕生 − 石と木の超建築」のほうが良かった。
さて、常設展(MOMATコレクション)はどうしようか、つまらないだろうから早足で見ておくか……と思ったら、絵の具をぶちまけたような抽象画に心臓を射すくめられたようになってしまった。
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こうして写真で見ると何てことはないだろうが、作為を排するために、絵の具の垂れや滲みをそのままにした作法が、自由で優しく感じられた。その場で泣くのではないか、出来ればうずくまって泣きたかった。
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具体美術協会、彼らの一連の作品にすっかり心が癒された。
無意識に作用するというか、この前すこしブログに書いたように小児期はヨダレやハナクソが身近にあり、そうした体液に近いような汚れが、これらの抽象画に繋がっているのではないだろうか。意識が像を結ぶ前の、明け方の得体の知れない夢や体感にも似ている。

すっかり気分が高まって、企画展「鉄とたたかう 鉄とあそぶ デイヴィッド・スミス《サークルⅣ》を中心に」、これも凄く面白かった。
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こんな羊羹みたいな実用性のないオブジェを、わざわざ陶器でつくるバカバカしさが素晴らしい。


配信レンタルで観た映画は、ヴィスコンティ『白夜』、デ・シーカ『終着駅』、リリアーナ・カヴァーニ『愛の嵐』。『愛の嵐』は二度目だが、ほとんど内容を忘れていた。


メンタリストDaiGo氏の炎上に関して、「あれだけ本があるのだから自分も本を読もうと思ったが、本を読んでもダメそうだなあ」などと言っている人がいた。僕は20代の貧乏な時でも、古本などを買って読書は続けていた。
今は喫茶店で読むために、紙の本を積極的に買うようになった。若い頃は、本棚を充実させたい(頭のよさそうな本を並べておきたい)という見栄もあった。中年となった今は見栄などなく、どのタイミングでどんな種類の興味が喚起させるか分からないので、なるべく畑違いのものを手に取るようにしている。
……というか、普通の人は本を読まないのか。僕は、いつも何か読んでいないとバカになりそうで不安だけどな……。


小学三年生ぐらいから、教室で「お前だけ、きたねえぞ」という声を頻繁に耳にするようになった。「お前だけズルをするな」「不公平だぞ」という歪んだ平等意識が嫉妬へつながり、個人プレーの目立つ人は組織ぐるみでつぶされる。我々は義務教育によって「平等に」学力で競争させられ、嫉妬心ばかり増大させてきた。自尊心を育むチャンスを奪われつづけた。

僕は才能というほどのものはないので、自分のマシな部分を伸ばして、なんとか工夫して生業にしたわけだが、すると「あなたは恵まれているけど、多くの人たちは自分を出すまいと我慢している」「あなたも自己主張を控えてほしい」などと言われることがある。工夫が足りなく怠惰なばかりに退屈な人生に耐えている私たちに合わせろ、というわけだ。

ダメ人間の第一の言い分が「不公平だぞ!」なのだ(スマホ歩きしている人は「だって、お互い様でしょ」と言い訳するそうだ)。
ダメ人間は、「みんな同レベルのバカでいてほしい」と願う。どうすれば自分の良いところを磨いて、自分らしく成功できるだろうかと知恵を巡らすことをしない。いい大人になっても、偏差値とか学力というレベルで考えたがる。「資格さえ取れれば俺だって」という人もいる。

僕がライターを名乗っていると、「文章なんて俺のほうが上手く書ける」「なのに、アイツだけ金をもらってズルい」と勝手な嫉妬をしてくる人がいる。文才だの何だのはどうでもよくて、自分にとって何が楽しくて、人生をどう過ごしたいのかを精査して、その楽しい状態をキープするのに必要なものを揃える、そのための工夫だけが重要なのだ。学力も才能も関係ない。
よって、周囲から見ると単調でつまらなそうなアルバイトをしていようと、自分の幸せを正確に見極め、幸せを実現している人は必ずいるはずなのだ。尺度は他人じゃない、いつでも自分が主役だ。

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2021年8月18日 (水)

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「機動戦士ZガンダムII 恋人たち」、モビルスーツの身体表現とコクピットの使い方【懐かしアニメ回顧録第81回】
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ハマーン専用の白いガザCと、3機のモビルスーツが会話するラスト近くのシーンを解析しました。


16日月曜日は、雨模様の中、国立新美術館へ。「ファッション イン ジャパン 1945-2020」、これは圧巻の展示だった。
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当日は、ポールスミスの黒い開襟シャツ(店員さんに「太っていると着られませんよ」と念押しされたスリムなシルエットのやつ)を着ていったが、周囲の観客たちのファッションが気になって、なんとなく見知らぬ他人に親近感がわく。

敗戦直後から50年代の映画ブーム、60~70年代のみゆき族、ヒッピー文化、オリンピック、そして80年代の一大アイドル・カルチャー、90年代の女子高生ブーム、コギャル、渋谷系、裏原宿……とても書ききれないが、庶民のファッションを切り口にするだけで、僕たちの生活がすべて網羅されて、ひとつの奔流となる。
雑誌やレコードも大量に置かれていて、誰でも何かしら思い当たる、これまで生きてきた記憶を刺激される展示になっている。僕の暗かった青春時代も、逆方向から見たら煌びやかな昭和の歴史の一部だったのだ。そう気がついて、おおいに救われた気がした。


メンタリストDaiGoさんの、2度目の謝罪動画を見た。母親のことを語って、泣くやつね。
この人は、自己愛性パーソナリティ障害だろう。話が上手くて、いつも周囲がにぎやかで、経済的には成功している。社会で主導的な身分の人、政治家の半分ぐらいは自己愛性パーソナリティ障害だろうと、僕は思っている。それぐらい偏って存在しているが、たいして珍しい存在でもない。嫌な上司とか高圧的な教師とか、誰でもひとりやふたりはすぐ思い浮かぶだろう。芸術家にも多い。

こういう人は、傷つかないんだよ。損か得か、支配できるかできないかだけで経験や人間を分けているから、何も蓄積されない。だから、せいぜい「死んだ母親が、生活保護を受けていたら?」なんていう幼稚な仮定しか思いつかない。これが、彼の限界なんだ。
そして、「お母さん想いなんだな」「泣いて謝ったんだから許してやろうよ」などと表層しか見ていない甘っちょろい人たちは彼の栄養分なので、これからも騙されつづけるだろう。


自己愛性パーソナリティ障害の人は、「他人の痛みが分からない」とよく指摘される。
僕がひとつの尺度にしているのは、他人の好きなものを茶化すかどうか。僕がAという映画を好きだとしたら、自己愛性パーソナリティ障害の人は「ホラホラ、廣田さんの大好きなA作品ですよ~」「廣田さんが泣いて喜ぶA作品、ハイハイ良かったですね」などと、他人の「好き」という感情を茶化す。弱点につけいるのが上手い。
では、本人はそこまで大好きな作品があるのかというと、みんなが好きな話題作を優先的に見せてもらったとか、特別に早く観られたとか、優越感のためなら「秘密の試写会が開かれた」とか、嘘まで言うんだよね。自分が無我夢中になってつかみとった価値意識がないから、高級ブランド品が好きだったりする。
感情もそうだし、本人にはどうにもならない外見や年齢を指摘したりする。「だって廣田さん、ハゲじゃん」「もう50代のジジイじゃん」「事実でしょ?」といった具合に。「これ言ったら、相手は傷つくかなあ」と躊躇しないんだ。

その反面、自分が恥をかかないように凄まじい努力をするし、卓越した才能や容姿に恵まれているから、「いやいや待てよ?」「こんな凄い人をパーソナリティ障害などとケナしていいのか?」と、僕たち凡人は戸惑ってしまうわけだ。
そして自己愛性パーソナリティ障害の人は、後悔も自己嫌悪もないから、感情をさしはさまず大きな決断を求められる政治家、そこまで行かなくとも管理職についていることが多い。彼らは反省などしないので、少なくとも近寄らないように気をつけるしかない。


なので、メンタリストDaiGoさんは徹底的に叩かれていい。どうせ今後も身近な人間を養分にして生きのびるんだから、社会に出てきても来なくても関係ないわけ。今は不利だから大人しくしている、それだけのことよ。人間のマイナス面も勇気をもって直視しないと、利用されて終わりだぞ。
一方で、小山田圭吾さんもそうだけど、過去の失言で揚げ足とって失脚させたところで、何か世の中が良くなるのか……という疑問がある。十分な検証もないまま炎上させて袋だたきにするネット世論を、怖いとも思う。

具体的にどういうシチュエーションだったか忘れたが、僕が何かの偶然でプレゼントをもらった時、真横で「俺はそれもらってない!」と怒鳴られたことがある。
あと、仕事が認められたので喜んで報告したところ、「…ずるい」と言われたこともある。
そうしたケチな嫉妬の感情に、ネットの炎上は実効力を与えてしまう。努力していない人間が、努力した人間を蹴落とす千載一遇のチャンス、それが炎上なのではないか。社会の根底に、「成功した人間はズルい」「成功してない人間は不当に損をさせられているので、無条件に救済すべき」という幼稚な平等意識がある。

人間は平等ではない。人間は差別をする。それでも、互いの欠点や長所を知り、助け合って世の中を豊かにしていかねばならない(ただし、自己愛性パーソナリティ障害は除外する)。

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2021年8月14日 (土)

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木曜日は涼しかったので、東京都美術館「イサム・ノグチ 発見の道」へ。
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誰もが撮りたくなる大規模なスポットを用意しつつ、回遊型の会場には見ごたえある彫刻がほどよく、単調にならないよう配置されていた。3フロアごとに、はっきりとテーマを分けたのも主張が明確でよい。
各フロアごとにドキュメンタリーを映写する場所が設けてあったが、みんなそのスクリーンの前に集まって、作者の言葉にすがろうとする。自宅で、テレビを見るような感覚なのかも知れない。
彫刻とは具体性のない構造・テクスチャーを前にして、呆然と、あるいは恍惚とするものだろう。しかし、その不安定な関係に、ほとんどの人が耐えられない。

半券で安く入れるギャラリーでは、小規模な写真や絵画を集めた「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」が開催中。
いつまた来られなくなるか分からないので、見られるうちに何でも見ておく。よい物を(ハズレを引くことを恐れず)いっぱい見ておく。


映画は、ヴィスコンティ監督の『揺れる大地』と『郵便配達は二度ベルを鳴らす』。いずれも、デジタル完全修復版。
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どちらも、スクリーンで見た記憶がある。『揺れる大地』の二時間半は長すぎるのだが、ネオ・レアリズモの作家であることを意識しながら、生活臭のある貧困生活を見るのは、格別だった。


メンタリストDaiGoという人が、ホームレスを批判して炎上した。
配信や印税で稼ぐフリーランスは、一歩間違えれば即座にホームレスだ。だからこそ、「あいつらとは違う」と攻撃的になる。本当に心に余裕があるなら、「社会にはいろいろな人がいる」と泰然自若としていられるはずだ。
しょせんは、自分と似た者が気になる。過去の自分、あり得たかも知れない自分に敏感になる。同族嫌悪というやつだ。

僕も平日昼間の駅前を歩いていて、自分と似たランクのだらしのない格好のオジサンが気になる。スマホを見ながら、SNSやゲームにハマったまま歩いている若者に腹が立つ。あるいは、スーパーでひとつの品物を買うのにものすごく時間のかかる、おそらく知的障害のある人たち。
そういう人たちと僕は同レベルに属しているから、どうしても視野に入ってきやすい。イライラする要素は相手ではなく、僕の中にある。ああなってしまうことが怖いし、「何とか意識して努力して、ああまで堕ちてはないぞ」という驕りが、彼らへの軽蔑心になる。
怒りや憎しみの原因が自分のコンプレックスにあると、まずは認めておくことだと思う。そして、相手と自分の境界線が薄れてきた時、まるで自分のことのように腹が立つのだろう。ダイエットを始めたばかりの人が、他人の美食にイラつくようなものだ。


ここのところ、明け方に2時間ほどウトウトしてしまう。夢の中で、僕は何かのキャラクター商品を提案している。そのデザインは、2~3歳のころに身の回りにあった安っぽい玩具、お菓子の包み紙か何かをヒントにしていて、僕は「小さい頃に身近にありましたよね、ホラあれですよ」と熱心に説明するのだが、相手には伝わらない。

起きてから、具体的にどんな玩具やお菓子が身の回りにあったか思い出そうとするのだが、あまりに原初的な記憶なので、異様な気持ちになってしまう。それらの玩具(菓子?)は、幼かった自分の唾液や垢で、黒々と汚れていたような気がする。
その身体の汚れからどれほど距離を置けるか……ちゃんと風呂に入り、清潔な服を着られるかが、どれほど生活を文明化できるかが、生きることの意味だ。裏を返せば、人間は自分の汗や唾液などで汚れることから逃れられない。

ホームレスになることの恐れとは、自分が幼児期のような無意識状態に戻ってしまうことへの恐れなのかも知れない。
狂うこと、バカになってしまうこと、向上心を失うことが怖い。

(C)1948 Ar.Te.As. Film, Universalia Produzione. (C)1987 Marzi Vincenzo; (C)2004 MARZI Srl. All rights reserved. International Sales VIGGO S.r.l.

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2021年8月10日 (火)

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まだまだ元気な79歳! 劇場版『Gのレコンギスタ Ⅲ』「宇宙からの遺産」は富野由悠季を救い、そして地獄を見せている……?【アニメ業界ウォッチング第80回】
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『G-レコⅢ』の試写会に行ったら、富野さんご本人がいらしたので、その場で取材申し込み。宣伝会社さんにお願いして段どってもらい、インタビュー成立となりました。


この記事は、過去の富野さんへのインタビューでも、かなり上手に出来たほうです。
インタビュー記事って、ひょっとして「相手の喋った順番どおりにベタ起こししている」と思っている人が、まだまだ多いのかも知れない。全体を貫くテーマを設定して、最初に「つかみ」となるやりとりを入れて、途中でダレないように「?」と思うような流れをつくって、それこそ「長い」と感じさせないように終わらせる。構成がキモです。
(まったく手を加えないベタ起こしでいいなら、機械にやらせた方が正確で効率的でしょうし、ニーズによってはそういう資料が必要な場合もあるでしょう。)

このインタビューを読んで、インタビュアーが馬鹿、富野さんに怒られてる……と笑っている方がいますが、「こいつ馬鹿だぜ」と読者さんを笑わせるフックとして機能しないなら、怒られたシーンなんて入れる意味がない。
殴られ役を設定しないと、インタビューされている側の強さ、主張が引き立たない。だから、読者さんに「面白いな」と感じさせるひねった構成も演出も必要なのです。報道ではなく、エンタメ記事なのだから、当然のことです。


小田急線車内で無差別殺傷事件があったそうだが、誰もが嫉妬しやすく、あまりに傷つきやすい社会なのだと思う。SNSによって、他人の幸せや成功が自分への攻撃に見えてしまうらしい。
「こちらが不当に攻撃されたのだから、やり返すのは当然の権利」というやりとりを、何度も目にした。私刑を、みんなが望んでいる。「傷ついた」と言えば、私刑が正当化される。「明日、〇〇を買うつもりで楽しみにしていたのに、もう買う気をなくしました」、そもそも買う気がなくても、お客様のポジションを得ることで優位に立ててしまう。
コロナ禍で注目を集められるからだろう、「医療従事者です、もう限界です」「医者ですが、毎日つらいです」——これらの真偽不明なツイートにも、混じりけのない賛同以外に価値を見出せない、一種の傷つきやすさを感じる。

義務教育は、同年齢の子供たちを「平等」に競争させて、順位をつける。
その価値観から抜け出す、いわば落ちこぼれるためにアニメや漫画など、親や教師が眉をしかめる娯楽に価値を見つけたはずだった。その審美眼だって、SNSに放り込んだとたんに、「学力」と同質の優劣になりかねない。(……と、このように主観を書いたとしても、「アニメや漫画は落ちこぼれじゃない!」「こいつ馬鹿にしてんのか!」と、文脈無視のガチギレが成立してしまうのがSNS)
それぐらい、誰もが欠損を抱えている。どこへでも出かけて何でも見て、自分に向いてないかも知れないものでも試して、いろんな本を読んで、多様な価値観を身につけるしかない。

自尊心を育てるしか、報われる方法はない——。だが、恨みと呪いだけで生きている負け犬の不毛な報復を可能にする時代が来てしまったのかも知れない。


昨日は、東京ミッドタウン・ホール「北斎づくし」に行ってきた。個別の作品ではなく、展示空間を楽しむ美術展で、好印象。
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映画はプライムビデオでロッセリーニ監督『ロベレ将軍』、デ・パルマ監督『パッション』、カサヴェテス監督『オープニング・ナイト』、富野さんのインタビューにも出てきた『オーケストラの少女』。
他には濱口竜介監督『寝ても覚めても』、ドキュメンタリー映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』。
やはりジョン・カサヴェテスが、別格に良かった。積極的に見ていきたい。

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2021年8月 2日 (月)

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「機動戦士ガンダムZZ」の1/144 バウ、合体変形が無限の可能性を生み出す旧キットを組み立てて、猛暑とコロナに打ち勝つぞ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第13回
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変形合体時にバキバキに崩壊する危険性におびえつつ、今回もスタジオで素組みしました。

80年代の「ナウいアニメ」を、どうやって現代に復活させる? 「MUTEKING THE Dancing HERO」の総監督は、あの髙橋良輔さんだ!【アニメ業界ウォッチング第79回】
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タツノコプロの方からメールで情報を教えてもらい、かなり長い時間をかけて交渉した結果、髙橋良輔監督へのインタビューが実現しました。


今月は書かなければならない原稿の量がハンパではなく、せいぜい近所の喫茶店までしか出かけられない。

それでストレスが溜まっているのかも知れないが、何というか、自分からは何も生み出さない/情報を出さないくせに、人が出してきた情報にケチをつける人は例外なく貧乏だよなあ……とつくづく感じる(貧乏ってのは、お金というよりは心の貧しさのこと)。
あるモデラーさんが、趣味として古いプラモデルを徹底改修して自身のホームページに掲載したとき、掲示板に「あれ? 〇〇バズーカは?」みたいな指摘をしてきた人がいた。その〇〇バズーカだって、追加で作るのは大変なんだよ。本体を徹底改修したんだから、それぐらい分かるだろうに……。
だけど、その人はお客さん意識が強すぎて、何でも自分の注文どおりに、簡単に事が進むと思っている。

いや、注文(手前勝手なワガママ)という意識すらなくて、「自分は受けとる側」という厳密な前提があるので、必然的に貧乏になっていく。貧乏とは「他人に与えるものを、何ひとつ持っていない」ということ。
欠損を、すごく気にするんだよね。本を見ても「〇〇が載ってない!」「◇◇について触れてない!」とか、マイナス部分を確認する。「載ってるけど、たったこれだけ?」「どうせ見てないんだろう?」とかさ。そういう人の要望をいちいち聞いていると、提供する側の負担だけが、際限なく増えていく。すると、社会は疲弊していくのだと思う。だから、あまり真に受けてはイカンのだろう。
心の豊かな人は、「うん、まあまあ満足」「ここは良かった」と、プラス部分を探そうとする。そう口にするだけで、ちょっとずつ感情に余裕が生まれていく。


何も与えるものを持っていない人は必然的にモテないのだが、欠損にはものすごく敏感だから、「どうして俺には彼女がいないんだ?」「俺がFラン大しか出てないからか?」とマイナス面を気にしつづけるんだよね。

最近、将来への不安からホームレスに取材した動画をよく見るのだが、おしなべて「過去に家族に裏切られたから」「大学入試に失敗したから」など、今さらどうにもならない理由ばかり並べる。そのくせに「月に40万稼いでいたこともある」「実は、友だちに頼りにされている」などと自慢して、プライドだけは高いんだ。だから、現状を改善しようとしない。

……いかん、どうしても話題がネガティブになってしまう。自分はどうやら、ホームレスにすらなれない気がする(失職したマンガ家の体験談『55歳の地図』も読んでみたが、原作者の方はボクシングをやるほど体を鍛えている……)。
ようするに、ダメになる原因を自ら呼び込む習慣が、ますます自分をダメにしていく。「原因は自分だ」と気がつかねば、何も好転しない。


プライムビデオで、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』。
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取材時に話題となった監督なのだが、主人公の友人役である山下リオが、ムチムチとしたエッチな体形になっており、彼女が口論するシーンが最大の見せ場であった。
もうひとりの友人を演じた伊藤沙莉、彼女もハスキーな声でよかった。続けて、濱口監督の映画を観てみようと思う。

© 2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

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