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2021年7月22日 (木)

■0722■

『100日後に死ぬワニ』が漫画であることすらよく知らず、したがって完結時に広告代理店が一気に人気を横取りした経緯なども、いまだに詳しく知らない。
では、どうしてアニメ映画化された『100日間生きたワニ』を観に行ったかというと、湖川友謙さんが絵コンテとアニメーション・ディレクターだと聞いたから。Twitterでは、「湖川さんっぽい作画が割とある」とツイートしている人もいたので、話のタネに見ておくか……と、忙しくなる前に出かけた。湖川さんは絵描きなのであって、演出は特に……という印象。

ところが、アバンタイトルの時点で、「いやいや、ちょっと待てよ?」となった。
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内容をまったく知らずに観たのだが、ワニは本当に死ぬらしい。こんな単純な絵なのに、こんな思わせぶりな演出なのか? 親子連れもいたし、子供にも分かるような可愛い話じゃないの? 俺が無知すぎたのかも知れないが、全編、30歳ぐらいの都会の青年の淡々とした日常を動物に仮託して描いている。セリフ回しがリアルで、邦画にありがちな大仰な感情表現がない。雨に打たれながら「俺は~~!!!!」とか絶叫する邦画の、ことごとく逆を行く。
(上のお花見のシーンでコーラをつごうとしてこぼしてしまうのだが、なぜそんなに動揺しているか、後に明らかになる。そういう繊細な仕掛けが、あちこちに埋没してある。小道具ひとつ、ゆるがせにしていない。こんな絵なのに、ずーっと緊張感が途切れない。)

よって、ワニが死ぬシーンも「ひょっとして死んだのか?」程度。
周囲のキャラクターたちは、泣きもしない。観客が読みとるしかない演出になっている。この映画では、泣くべき人たちが泣かない。関係ないキャラクターが、関係ない経緯で泣く。すると、感情の部分で、他人だったキャラクターがドラマに絡みつく。ただし、これは湖川さんの手柄とばかりは言えない。上田慎一郎という監督を、僕はナメすぎていたのかも知れない。


しかし、あらためて見てみると、本当にこんな「前から見た顔」「横顔」「後頭部」ぐらいしかないキャラクターばかりだ。
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俳優たちの演技も朴訥で、「あのさ……」「うん」「ああ、いいや」みたいなボソボソした日常会話がつづく。小津安二郎みたいだよ。
しかし、その平坦とさえ言えるセリフを、相手が正面から聞くのか、背中で聞くのかで重みは違ってくる。主人公のワニが、憧れの先輩にクリスマスの予定を聞く。先輩は「予定あるよ」と答え、ワニは「そうですよね、そりゃあ、ありますよね」とリアクションするのだが、そのセリフは画面外のものであって、画面には先輩の後頭部が映っている。カットの終わり、先輩はチラリと振り返って、ワニを見るのだ。
すると、「ああ、先輩はワニがクリスマスに誘う魂胆だったことを察して、ちょっと弄んだだけか」と分かる。さて、シーンが変わる。何の説明も段取りもなく、先輩は街頭でアルバイトをしている。先輩はワニを遠くに見かけるのだが、話しかけない。

でも、分かるんだよ。先輩のワニに対する距離感や、心づかいが。
そういう地味な場面に雑踏の音とか、鳥の声とか、まるで余白の広さを感じさせるように環境音が入る。ぎっちり詰め込まないんだよ。自信のない映画ほど何でも詰め込んで、主人公に「うおおおおー!」「俺は本当はー!!」と叫ばせるんだと思う。
この映画は、内面吐露なんてしないんだよ。代わりに、人物たちは別のことをする。前に通った道を、今度は別の人と通ってみたりさ。同じことが、少しズレる。そこに感情が入りこむ。特に映画オリジナルだという後半に、その効果が生かされているように思う。

こんな絵だからこそ、ちょっとした空白とか余白に、じわっと感情が宿るんだよ。それが表現なんだよ。


ところが、主題歌を聞こうとYouTubeを検索したら、レビュー動画がひどい。
この映画が期待されてない、ヒットしてない現状は仄聞していたが、それにかこつけて「作画崩壊」だとかさ。こんな単純な絵が、どうすれば崩壊するんだよ。「作画」のさの字も知らないだろう。「目と口しか動かない」とかさ。ディズニーのCG映画の観すぎではないのか。立体でぐりぐり動くのが優れたアニメだと思ってるだろ?
あと、『シン・エヴァ』を観た後に、同じ料金でこれはないわーとかさ。悪いけど、大ヒット作しか観てないよね? みんなが認めて、きっちり保証された作品しか誉めてないよね?
実写の『デビルマン』をとりあえず酷評しておけば、なんとなく映画通の仲間入りができる。その状況から、何も変わっていない。

かろうじて『100日間生きたワニ』を擁護しようと頑張っているプロレビュアーも大同小異で、演出を見ていない。そもそも、構図やカットワークを認識しているレビュアーは、滅多に見かけない。
広告代理店が横入りしてきて、原作ファンが白けたのは推察できる。でも、わざわざ「あんな映画は見ない、俺は騙されない」と威張っている時点で、騙されたのと同じレベルに落ちてしまっている。なんでも自分の目で確かめないと、バカのまま死ぬことになる。
で、「感動」なんてものは他人は一切保証してくれないぞ。感動する主体は、あなた一人だよ。その主体性を、いつも他人にあずけてるだろう? 自分の激しい感情を、自分で引き受ける勇気がないまま、周囲にあわせた凡庸な大人になってしまっただろう?
作品に向き合うとき、誰しも裸にされてしまうんですよ。そして、裸眼で作品と対峙するには、いろいろな作品を区別なく観て、いつも眼力を鍛えておかないとさ。「え? いろいろ観てますよ?」って人にかぎって、ロクに観てないから困っちゃうんだよな……。
では、『100日間生きたワニ』、二回目に行ってきます(連休が終わったら上映が変わりそうなので)。

(C)2021「100日間生きたワニ」製作委員会

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2021年7月19日 (月)

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金型を管理し、売れ筋アイテムを読む……童友社が、40年前の「太陽の牙ダグラム」のプラモデルを完全復刻するまでの苦労とは!?【ホビー業界インサイド第72回】
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東京下町の人情味たっぷりなプラモデル会社、童友社さんに日東科学版『ダグラム』の復刻について聞いてきました。
僕が模型業界にコネがあるかのように信じている人もいるようですが、こういう取材も、いちいち問い合わせフォームから申請して、自分で交渉して決めているんです。一歩ずつ、具体的に行動した成果ですよ。


サンライズに僕のことをチクって仕事できなくしてやる!!!!!!って言われましたが何も言われず何事もなく元気にサンライズ作品やりまくっております。

あきまんさんのリツイートで知ったけど、いるよねえ、「仕事できなくするぞ?」って脅しかけてくる人。たかが、Twitterのやりとりで逆転しようとする無名の凡人さん。
僕はプロライターという肩書きなので、「それでもプロですか?」「こんな人がライター?」「こんな奴が雑誌連載してるの?」と自分の幼稚な尺度で評価して、いかにも致命傷を与えている感じで嫌みや皮肉を言ってくる。あと、「文章ヘタクソ」「小学生以下の文章」とかけなして、それでプライドを傷つけられると思っている。

そういう人は絵師さんに「資料を見て描く人って、どう思いますか?」などと愚鈍な質問をして、「痛いところを突いてやったぞ」と優位に立てたと思っている。資料を見ないで描く「丸暗記」に価値を置いて、絵の能力を試験勉強のレベル、どんなバカにも評価可能な「学力」のレベルに引きずりおろす。ライター業なら、国語力レベルで「俺のほうが勝てる」「文章なら俺のほうが上手い」などと本気で思っている(そんな程度だからプロになれないわけだが)。
絵でも文章でも、仕事として、実務として遂行するところにプロたる所以があるのだが、そういう本質を見ようとせず、「何かコネを使ってズルをしてるんだろう」と陰謀論に落とそうとするんだよね(だから「サンライズにチクる」などと言えてしまう)。何だったら、「才能を使って仕事するなんてズルい」ぐらいに思っている。才能を磨いて努力する、工夫するって肝心なところは決して直視しようとしないんだ。

僕は掃除のアルバイトをしていたが、そういう世界にも「プロ」はいる。
才能とか創造ってものを幼稚に美化して嫉妬してくる人は、いま目の前の仕事で本質的な「プロ」を目指したほうが、自己実現できると思うよ。


最近ちょっと、ぼやくためにブログを使いすぎかも知れない。
TSUTAYAでDVDをレンタルしてきたら、2枚とも傷があって再生できなかった。これじゃあ動画配信に勝てないぞ……と思っていたら、レンタル事業から撤退するというニュースを聞いた。配信では見られない映画も多いのだが、DVDレンタルは物理的に成立しないだろう。

なので、Amazonプライムで『未知への飛行』、『グロリア』などを借りた。
『グロリア』は、なんとカサヴェテス版をシドニー・ルメットがリメイクしたのか。言うまでもないが、カサヴェテス版のウォン・カーウァイが真似したくなるほどのスタイリッシュさは、ルメット版にはない。
その代わり、得意の密室劇で壮大な軍事サスペンスを演出した『未知への飛行』、確か初見のはずだが、息をのむような緊張感で、誠によかった。
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たとえば、上のシーン。米大統領がソ連の議長と会話する緊急用電話機を、あり得ないほど大きく画面に入れている。そして、ソ連側にはカメラを一切入れない。飽くまでも、無機的な電話を構図の中で大きく扱って、会話の重みを代弁させている。
オーソン・ウェルズ的なクラシックな演出だが、その手堅さに安心感をおぼえる。決定的な決断をする時、短く人物の顔がインサートされるのも良かった。ずっしりしたカット繋ぎの中で、緊張感のあるシーンではカットを短く使っているわけだ。トータルの設計の中で、リズム感をコントロールする。そのリズム感や音楽的な気持ちよさが、「面白さ」の正体ではないだろうか。

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2021年7月 6日 (火)

■0706■

ここ何回か書いてきた、騒音と言ってもいい殺人的なレベルの選挙カー、街頭演説に苦しんだ都議選。つまらんオチがついたよ。
日曜日に投開票が終わったので今さらどうでもいいことではあるが、うるさかった自民党候補は、一人だけ落選
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選挙関係でいろいろ検索してみると、加藤こうじ候補は都議選に出るのは二度目だそうで、前回も落選。今回は公明党と組んで、お金も人もいっぱい使っただろうに、やっぱり落選。あれだけ、死ぬほど名前を連呼しても落選は落選。向いてないんだろうね。
最終日にも、駅前で関係者が大勢集まって、「心より―! お願い申し上げまーす!!」とオッサンたちが似たようなことを無意味に絶叫しつづけて、本当に頭がどうかなりそうだったが、とにかく落選。他の二人は当選したのに、加藤さんだけ落選。まあ、仕方ないね。


うるさいから文句を言っただけなのに、支援者から「雇われ」「工作員」認定されてしまったわけだが、具体的に他の二人の候補のどちらに雇われていたと言うのだろう? もし金で雇われていたとしても、俺が感じた苦痛や不快感は割にあわないと思うぞ。
あんな凄まじい音で選挙活動しなければ、自民党候補もアリではないかと思っていたのだが……。

ふと思い出したのは、小学二年生のころだったか、友人のヤマダ君と一緒に下校した時のこと。
隣のクラスの怖い人、コワタ君が僕たちに絡んできた。コワタ君が言うには、「お前たち、口笛が吹けたら仲間にしてやる」。こういう、まったく本質的でない無意味なルールを設定して、敵味方を分けるのが、人間は本当に好きだ。
その時は、ヤマダ君が少しだけ口笛を吹けたので、コワタ君は「よし、お前は仲間にしてやる」。その時、ちょっとヤマダ君が嫌になった。彼が謝ったような、僕が「どうしてあんなヤツに従うのか」と責めたような、後の記憶は曖昧なのだが、気まずい雰囲気になったのは覚えている。その分断が、コワタ君の「口笛」の目的なのかも知れないな。

選挙にともなう地元民の勢力分布、「市長の味方だから、こっちの候補に投票しろ」的な圧力、コワタ君の「口笛が吹けたら俺たちの仲間にしてやる」と何も変わらないじゃないか。それぐらい空虚で、実質がない。都民ファーストだろうが、立憲民主だろうが、同じことだ。候補者三人の討論会もYouTubeで見たけど、三人とも「簡単なことを難しく言う」天才ですよ。ようするに、バカということ。どれだけ専門知識があっても、他分野の人に分かるように噛みくだいて話せなければ、まったくの無駄。
結局、街頭で怒鳴るのは「都政を変える」「市民の暮らしを守る、支える」とか、観念的なスローガンになってしまう。「全身全霊で頑張ります」「最後のお訴えを」「お願いに参りました」、落選した加藤候補の周辺でも「お力になれず」「あと一歩のところで」など、まったく敗因分析をしていない。みんな、ただ祈っていたか叫んでいただけ。そんな中身のないことで万単位の人間が動くことが、俺には恐ろしい。


もうひとつ、思い出したことがある。
小学二年生ぐらいのころかな、校内でビデオ録画した映像を教室で見せられた。プールの季節だったので、「みんな水泳を頑張ろう」という趣旨で、体育教師が言うには「水の中でも目を開いているように」。
で、洗面器に生徒の顔を入れて、「息をとめて三十秒我慢しろ」とか、そういう内容だった。子供心にも狂気を感じたのは、洗面器の底に鏡を置いて、「本当に目を開けているかどうか」、教師がチェックしていたこと。

ようするに、大人が子供を疑っているわけだ。それも、「悪いことをしているかどうか」疑っているんではなく、「俺の言いつけを守っているかどうか」をだよ? 水中で目を開けていることを、それほど厳密に強いなければならない理由は何か?
結局、「口笛を吹けたら仲間、それ以外は敵」と同じじゃないのか。そういう無意味な線引きをしないと、社会が成り立たないような気さえしてくる。中学校になると、「〇〇県出身」で互いに張り合う連中が現れて、「〇〇県は僻地、俺の出身地は都会」と罵り合っていた。挙句、「廣田はどこ出身?」と聞かれるわけ。クラスの誰もが、どこかしらの出身ではあるわけで、否応なく彼らの戦列に参加させられる。
もうこれ以上、書かなくても分かるでしょ? 自分たちの根拠薄弱な正しさを信じたいがあまり、反対意見を即座に「アンチ〇〇」「差別主義者」「工作員」と決めつける。「コロナワクチンを打った人間は独特の匂いがする」「店に入るな」とかさ。

そもそも、俺は大勢でズラリと並んで、「こっちが多数派だぞ」と言われても「ふーん?」としか思わんよ。少数派ならではの密かな楽しみのほうが性に合っているんだが、まあ、いい歳して群れたがる連中には分からんよな。

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2021年7月 3日 (土)

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昨夜は、Amazonプライムで『ゴジラ対メカゴジラ』、『メカゴジラの逆襲』を連続で視聴。
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対称的な作風で、実に面白かった。僕は高年齢のマニアに受けそうな『メカゴジラの逆襲』よりも『対メカゴジラ』の南洋の神秘性、祝祭性のほうに時代性を感じた。翌年が、沖縄・海洋博だったからね。『~逆襲』のほうは江戸川乱歩のように隠微で大人っぽくて、ちょっとアナクロな印象だ。


さて、ようやく明日選挙である。うるさかった選挙活動は、本日までだ。
僕はとっくに期日前投票をすませておいたが、選挙カーの爆音がやむわけもなく、かなりメンタルをやられていた。

テレワーク中の選挙カーが「うるさい」苦情相次ぐ 配慮求めない?都選管「大音量流さないでとは言えない」

この手の記事も、いくつか見かけるようになった。


だけど、そんな良識の話をしたいわけではない。
俺は地元の自民党候補アカウント(加藤こうじ候補)にブロックされたけど、それは選挙カーや演説会による凄まじい騒音がきっかけだ。それはそれとして、加藤こうじ候補の周辺のアカウントがね……。
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「邪魔をする輩もいますが、誰かに頼まれた工作員でしょう」と、書いてしまっている。
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「ありがとうございます!」「応援します!」と毎日、せっせとリプライを送っているので、あなたが工作員じゃないの?と、ちょっと笑ってしまう。何をやっている人なのか、いまひとつハッキリしないのだが、忠犬ぶりが凄いよね……。
で、この人の「雇われ」「工作員」コメントに「いいね」してるのは、まず加藤候補本人。そして、三鷹市の自民党所属の衆議院議員、市議会議員(議員なのに、フォロワーが百人ちょっとで存在感が薄い)。

その他、「加藤候補の応援がてら、地元のお蕎麦屋さんで食事!」とか言って店内の写真をアップしている市議会議員もいたけど、それは僕がアニメ作品の展示イベントで、何度も足を運んだお店なんだよ。ここまで自民党と仲良しとは思わなかった。地元の商店会の飲み会やら、現市長が候補だった時にパーティやらに呼ばれて、なぜか6,000円も払わされたり、いろいろ付き合わされたよ。

つまり、そうやって地元だけ、地域だけで仲間を固めて、その閉鎖系のなかでお金が回るよう互助しているんだろう。悪いんだけど、その人はFacebookの友だちリストからも外させてもらった。もう二度と一緒に仕事はしない(仕事というか、地元のイベントだから激安で引き受けていた)。


で、彼らのFacebookページを見ると、「彼は中学~高校の後輩です!」とか、そんな世界。
「かつて会社の同僚だったので、仕事を回してあげたいんです」などと平然とぬかす人は、出版の世界にすらいる。そういうコネとか組織とか、派閥とか勢力に頼らないと生きていけない人たちがいる。

そういう人たちは、お互いに「挨拶しに来ました」「いつも応援してます」と言い合っているだけで、具体的に何がやれて、何で生きている人なのか、今ひとつハッキリしない(元〇〇所属、□□顧問みたいな肩書きばかり並んでいる)。互いに仕事を回し合って、現金をやりとりして暮らしを成り立たせているんだろうか?
そして、その生態系の外から意見してくる人は「工作員」「敵対勢力」として仲間外れにしたい。それが彼らの生存本能なんだろうな。「彼ら」というのは政党や関連団体だけでなく、社会のあちこちに小さな仲間意識が機能していて、なじまない個体はいじめという免疫機能によって仲間から排除されてしまう。それが社会なのかも知れない。排除のための結束が、社会なのかも知れない。

だとしたら、僕はますます社会から距離を置きたい。ゼロにはできなくても、関連性を薄めさせたい。
その結果、ホームレスで野垂れ死んでも「そりゃそうだよね」と納得がいく。

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