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昨日、『ナオトひとりっきり』(■)を見てから、松村直登さんの登壇したトークイベントや松村さん自身が撮影した動画などを、片っ端から見ていた。
やっぱり、ジャーナリスト系の人は松村さんに自分のストーリーを反映しがちだ。特に、トークイベントで話を聞く立場のくせに、「うんうん、それで?」「それからどうなったの?」とタメ口をきく女性記者が不愉快だった。まあ、その人のように松村さんをセルフ・イメージづくりに利用している人が、世界中にいっぱいいるんだろう。
松村さんは各地の反原発デモにも呼ばれて、中にはマイクを握ってスピーチしている動画もあった。
一応、「東電が」「国が」と口にはするのだが、「汚染地域に暮らしていて、むしろ元気になった」と笑わせて終わっている。そこに司会者が入ってくると、もう「都会の物質」というか、余計な垢、情報だのイメージだの空虚なものが多量にこびりついていて、見るにたえない。もちろん僕も、そのような堆積した垢の中に生きているんだろう。
松村さんの行動は一切が具体的であり、ストーリー性など入る隙間がない。動物にエサをやれば生きるし、弱い動物は死んでいく。松村さんは泣かないし、「死んだから埋葬した」とそっけない。(この「泣く」という生産性のない行為が、人間から現実感を膨大に奪っていると思うんだよな……だから、僕は「泣きました」とアピールしたがる人は、とりあえず信用しない。そういう人は、自分の空っぽさを誤魔化している)
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考えてみれば、人生のほとんどが罠で出来ている。
自尊心だとか見栄だとか虚栄心だとか、こうして言葉にした端から空しくなっていくが、家庭や学校で叩き込まれるんだろうな。あと、文化や表現も、そういうまがい物で成り立っているのかも知れない。
どんなにキラキラしていて、たくさんの人に囲まれてにぎやかに生きていても、そのきらびやかなイメージ自体が即座に虚栄だと分かる。ぜんぜん幸せじゃない。本質的じゃない。
Twitterを見ていると、落ち目の演劇人や芸能人は、安易な左翼思想に堕する。彼らは、人生にまとわりつくイメージを金に換えている。だけど、その緊迫感がない。反体制、反権力、これもまた甘美な罠である。
嘘は必ず、本物のふりをしてやってくる。
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『ナオトひとりっきり』の中で、印象的なシーンがあった。
松村さんが、津波で消滅した町に立っている。防波堤のあたりで手すりが壊れていて、松村さんは折れた手すりを持ち上げて、元の場所へ戻そうとする。だが、手すりはポロッと落ちてしまう。松村さんはそれ以上は何もせず、ほったらかしにして立ち去る。
まったく無意識の仕草だ。彼は一度は手を差しのべるのだが、どうにもならなかったら追求しない。現実を、あるがままにしておく。どうにかなることしかやらない。ほとんどの人は、どうにもならないことばかり大義名分で覆い隠して、無駄な怒りやら悲しみやら憎しみやらをまき散らしている。
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