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“眼に見えないものを見る”ための効果音が、「機動警察パトレイバー2 the Movie」には暗号のように埋設されている――【懐かしアニメ回顧録第76回】(■)
アキバ総研に連載しているコラムです。今回は『パトレイバー2』です。
『パトレイバー2』の中で、主人公サイドである特車二課が自衛隊の駐屯地へ警備に行くように命じられます。このシーンでは、国民を守るはずの自衛隊と警察が対峙してしまい、事態は悪化しているようです。
しかし、その場にいる後藤隊長が「これはマズイことになったぞ」と焦ったり慌てたりの描写はありません。彼は「わが隊のレイバーは故障中です」とシレッと嘘をついて、本音を隠します。
そして、他の部隊のレイバーが駐屯地前を見張る、そのカメラを正面から、またカメラの内側から捉える。その場にいる人たちの心理描写ではなく、「向き合っている」「監視しあっている」事実だけを無感情に表現している。
事態は悪いほうへ向かっているようなのに、人物の感情はさておいて、外側の現象だけを撮る。押井守監督の言葉を借りれば、映画を「物語の器」に終わらせないためです。果たして映画の目的は、「物語」を伝えることなのでしょうか?
ディズニー映画を見ると、「出来事」を明確に示して、登場人物が嬉しいのか悲しいのか「感情」だけを強調して、観客が登場人物に「感情移入」することのみが目的になっている。その他のノイズ、解釈不能な情報は、映画から徹底的に排除されています。
そういう映画ばかり見ていると、観客にとって映画が「物語の器」「感情移入するツール」と化してしまい、だから「ネタばれ」(ネタとはようするに「物語」のこと)というくだらない概念が出てくるのです。
映画は「物語の絵解き」ではないと思います。「物語」を支える、あるいは解体する「構造」が映画なのだと思います。
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そういう観点から、昨日公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』も批評すべきと思う。
二時間半もの長尺で、なぜミサトがゲンドウの計画を阻止したいのか、なぜまたシンジが戦わなければなせないのか、周囲の人々はどう思っているのか、悲しいのか嬉しいのか、「これでもか!」「これで分かったか?」「ちゃんと感情移入して泣けるセリフにしてあるだろ!?」と言わんばかりに、シナリオに盛り込んである。
それで説得されるぐらいなら、しょせんは映画を「物語の器」としか見ていないんだと思う。シナリオを読めば、それぐらいのことは分かる。
僕がショックだったのは、壮大なクライマックスだったはずのラストバトルを、旧劇場版と変わらない手法(実写映像や原画の挿入、背景美術の裏側が映画のセットになっているといったメタ描写)ではぐらかしてしまったことだ。
セルアニメで描くと決めたからには、最後まで「セルで描かれたことのみが事実」というルールを逸脱しないでほしかった。内面世界を描くために未完成の映像素材を使う、それはもう20年前の思い付きであって、形骸化したスタイルのうわべだけをトレースしているに過ぎないと思う。
今回は予算が潤沢にあるから、物量にまかせた総力戦を見せるんじゃなかったんだろうか? テレビ版のころはお金が尽きてアイデアも尽きて、満身創痍であることがブラウン管ごしに伝わってきた。絵コンテや脚本を映すイレギュラーな手法に、必然性があった。
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前半、『Q』で全滅したかに思えた地球上にも、実は生き残った人々の生活共同体があることが明かされる。
オーバーテクノロジーを背景とした生活描写に説得力があったのは、3.11の東北大震災からの復興と年月の重みがシンクロしたからだろう。「前作から14年」という乱暴なプロットに、「震災から10年」という現実の時間が歩み寄った。スタッフも登場人物も大人になったんだなあ……と、感心した。丁寧に描かれた暮らしの中で、シンジやアヤナミにも変化が訪れる。アスカの立ち位置もよかった。大人の考えたプロットだったし、SFとして成立してもいた。
そして、高度な作画で描かれた小さな楽園が、思わぬ形で崩壊して、その衝撃がシンジの背中を押す。クライマックスへの道が開けた。上手い。
難解な用語をギッシリと詰め込んだ最終作戦が立案され、特殊装備を満載したエヴァたちが過剰な物量で、スクリーンを突き破らんばかりに暴れまわり、かつて見たことのない想像を絶する戦闘シーンが続出する。「CGが自由に使えるとはいえ、いったいどうやって作ったんだ!?」と、呆気にとられる。やりすぎである。でも、魂がこもっている。観客を手ぶらでは帰らせない、お腹いっぱいで吐くまでサービスするという覚悟を感じた。
でも、だから……それで終わってほしかった。また一人一人の内面を、また幼稚なモノローグに頼って描くのか……またATG風のスタイルで、自主映画みたいなことをやるのか……。それは、ウソをついている。お金のない時代だからこそ通じた手法を、いま輪郭だけなぞるのは誠実ではない。
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昨夜『シン・エヴァ』を観たのは、『ガンダム』第一作を観るために朝から並んだ吉祥寺オデヲンである。『帝国の逆襲』も、ここで観た。
一緒に行ったのは、小学校時代からアニメやSFX映画を観て育った同年齢の友だちだ。
しかし、時代は変わった。ハッピーエンドかバッドエンドか、「泣ける」か「泣くほどでもない」か、エンドクレジットの後に驚きのオマケ映像があるんじゃないか? 僕らはディズニー的というかGAFA的な、便利で確実でハズレのない即物的な映画の受容に慣れきってしまった。
もしかすると、ATG映画のようなメタ的なゲリラ戦をいま一度展開することで、『シン・エヴァンゲリオン』は映画館の暗闇に僕らを引き戻そうとしたのかも知れない。
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