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年末になんとなくレンタルで観たブライアン・デ・パルマ監督『ミッドナイトクロス』、なかなかの異色作だった。
デ・パルマは『アンタッチャブル』でも『戦艦ポチョムキン』の乳母車が階段を落ちていくシーンを模倣していたが、「映画作品をもって映画表現に言及する」癖のようなものがある。
この作品では劇映画の音響効果マンが主人公。彼は冒頭で、スリラー映画で女優が殺されるシーンの悲鳴が上手くいかない……という問題を抱えている。映画のラストで、主人公はヒロインが殺されるときの悲鳴を映画に使って、映画を完成させる。一応、主人公はヒロインの死を嘆いているかのような演技を見せるが、映画の最後でさらに映画を完成させて終わらせる構造は、ちょっと変わっている。
蛇足とも思えるアイデアだからこそ、何故わざわざそんなシーンを挿入したのか気になる。
それだけではない。
主人公は音響素材を深夜の山で収録しているとき、たまたま車が橋から転落する事故を目撃する。彼はマイクを持っていたので、事故の音声だけは録音してあった。しかし、音だけでは、決定的証拠にはならない。
ところが、同じ事故現場に、車が転落する瞬間を連続写真で撮影したカメラマンがいたのだ。主人公はその連続写真をつなぎ合わせてフィルムにして、さらに自分の録音した磁気データを同期させて、車のタイヤが狙撃されたことを確信する……。なんという、不思議なシーンだろう?
われわれは映画の中で「実際の出来事」として車の転落シーンを見ている。なのに、主人公は録音テープと連続写真を使って、自ら「映画のシーン」をつくることによって、観客と同じ地平に立とうとする。
「映画の中の人物」にとって、劇中の出来事は事実であって「映画のシーン」ではない。しかし、主人公はわざわざ「事実」の断片を「映画のシーン」へと加工しなおすのである。
デ・パルマに実験精神があるとまでは思わないが、ずいぶん奇妙なことをする監督だと思った。何本か観てみようかと思う。
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大晦日、かねてより考えていた娯楽を試してみることにした。
昨年、チームラボの展示施設「チームラボプラネッツ」を鑑賞するため、ゆりかもめ新豊洲駅で下車し、その周辺の整然としたひと気のない空間に魅了された。
そこで年末の寂しいシーズンを狙って、湾岸エリアの閑散としたムードを満喫しようというわけだ。新橋駅で立ち食いそばを食べて押井守的なムードを熟成し、ゆりかもめに乗って新豊洲の駅に降り立った。ここからダイバーシティ東京まで歩く計画だ。Googleマップによると、50分ほどの距離。
新豊洲駅を降りて歩きはじめた時には、もう14時30分になっていた。
天気はいいのだが、ひとつ誤算があった。このエリアにはマンションが多く、公園で家族連れが遊んでおり、倉庫ばかりが並んでいそうな寂しい区域にもコンビニどころか、ふいに賑やかな商業ビルが現れて、雰囲気がガラリと変わってしまうのだ。
ジョギングしている人も多く、ひと気が途絶えることはない。
ランドマークとして目立つ建物が多くて見晴らしがいいため、迷うことはない。ダイバーシティ東京に着いたのは16時前後だったと思う。一時間半ほどの散歩コースだ。
さて、ダイバーシティで予定していた買い物を終わらせると、西の空がちょうどいい色に染まっている。徒歩数分の東京ジョイポリスで、海側のテラス席を見つくろう。6階や5階の店は閉まっているか値段が高すぎるため、確実にテラス席に座れてビールの看板まで出ている2階の店に落ち着いた。
たまたま持っていた藤原新也の『東京漂流』をテーブルに置けば完璧である。お店のお姉さんが、ストーブを点けてくれた。テラス席に座っているのは僕ひとりなのに、申し訳ない。こういう時、サッと「ありがとう」と言えないのが、僕のダメなところだ。
単価1000円のフィッシュ&チップスは冷凍食品感が濃いが、ビールはハッピーアワーなので安い。この景色に、文句を言ってはいけない。
陽の光が頼りなくなっても、今度は対岸の高層ビル街に、ポツポツと人工的な灯りがともりはじめた。
刻一刻と、一年が「終わり」に向かっていく。「終わり」を楽しもう、味わおうとすればするほど、「終わり」は引き伸ばされていく。むしろ夜景を楽しむために人の数が増えはじめるのだから、どこからどこまでを「終わり」と呼んでいいものか分からない。「終わり」という概念が消失していくのを待っていたのかも知れない。
二杯目のビールを飲んで席を立つと、まだ17時前だ。この超絶的な海沿いの夕暮れを楽しんで、値段は2000円もしなかった。前日は立川で「DINO-A-LIVE」を見た帰りに、外のベンチでクラフトビール。新娯楽、「冬の外飲み」の完成である。
「この世に生まれてきたのに、楽園に住まないでどうする?」――好きな言葉だ。
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10年前の昨日、母が父親の凶刃に倒れた。
この10年間、僕は海外旅行へ出かけるようになり、ここ最近は喫茶店で読書、毎週のように美術館へ行っている。年収はむしろ下がっているのに、自分のための贅沢だけは抜かりなくやってきた。
生前の母は「海外へ旅しなさい」と、かみしめるように言っていた。アフリカや南米まで行ったのだから、天国で喜んでいると思う。
あの日、無責任な人殺しの父親から捨てられる格好になった犬2匹は、立川警察の冷たい廊下で震えていた。「トビラを閉めること」と貼り紙してあるのに、警察官たちはドアを開けっ放しにして、犬たちはオリの中で寒そうにしていた。不憫でならず、ペットボトルの水を手からあたえた。
そのことだけをTwitterに書いたら、「犬にペットボトルの水は与えない方がいい」とコメントがついた。
警察から紹介された葬儀屋は「お母様と話をしたい」と妙なことを繰り返した。父親が死んで、母親が生き残ったと勘違いしているのだ。犬を引き取ってもいいとネットで申し出てくれた人は、自分の犬哲学で僕に説教をした。普通に悠々と暮らしてる凡人たちは、それこそ些細なことで「親でも殺されたように」怒る。
検察と警察とペットショップのその他、普通に仕事している人たち。彼らに、事件は関係ない。警察や検察にとってすら、仕事のひとつでしかない。裁判で戦ってくれたまだ20~30代の検察官3人組、彼らには感謝している。多くの人が花をもって家を訪れてくれたことも、忘れていない。
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だけど、母の死と殺人と、父親が凶悪な犯罪者になったことと世の中とは、徹頭徹尾、関わりがない。関わりがあるのは僕ひとり、僕ひとりが僕だけの世界を背負って生きるのだ。離婚した妻は、この事件を知っただろうか? 精神病院への入退院を繰り返しているらしい兄は? 僕からは伝えていない。
家族も親戚も関係ない、もし関係あるとしたら敵なのだ。事実、親戚たちは法廷では反対側の席にすわった。僕だけに決定権がある。僕だけが誰の味方になるか、誰の敵になれるか決められる。他の人たちは仕事だとか、世間体で役割が固定されている。僕だけは違う。
母の死が、僕を解放した。僕を世界に放り出し、国際線の飛行機に乗せ、美しい夕陽を見せた。無限を知った。永遠を知った。
世の中など関係ない。他人など関係ない。僕は他人に期待しなくなった。喧嘩したり説得することもなくなった。どちらが偉いわけではない、僕がバカなのかも知れないが、とにかく「世の中など関係ない」のだ。僕はひとり世界に放り出されたので、僕のことだけを最優先に自由奔放に生きるのだ。僕は母に、二度生んでもらったのだと思う。
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