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2020年12月21日 (月)

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金子雄司さんが語る、デジタル化によって激変した“アニメーション美術監督の働き方”【アニメ業界ウォッチング第72回】

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過去に、あちこちでインタビューする機会を得た美術監督の金子雄司さんに、直接お願いしての取材となりました。
これを宣伝会社経由にしてしまうと、「もう宣伝期間が終わったので取材はナシで」とか言われてしまう。だったら、個人同士の信頼関係で交渉して、実りある建設的な記事にすればいい。仕事の六割は対人関係、二割がスケジュール、最後の二割が実作業です。


最近は仕事の都合でアニメ映画ばかり観ていたが、実写映画も見なくてはマズイなあ……と思って『グリーンブック』のDVDをレンタルしてきた。
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この映画、一昨年にジンバブエへ旅行した帰りの機内で見た。
ケンタッキーフライドチキンを山ほど買い込んだ運転手が、主人にも薦める。食べ終わった骨を自動車の窓から投げ捨てるのを、主人も真似して、和やかな雰囲気になる。だが、運転手が飲み終わったコーラの容器まで窓から捨てたので、主人は拾ってくるように命じる。
このシーンを、機内上映の小さな画面で克明に覚えていた。コーラの容器が投げ捨てられた後、主人は「えっ? あれっ?」という表情になる。ここはバストショット。次のカットは、道路に落ちた容器が手前に大きく映っていて、奥から車が引き返してくる広角のショット。主人が運転手に「拾ってこい」なんて言うシーンはないわけ。省略が上手い、これはいい映画の条件だ。だから、「あっ、これは良く出来た映画だ」と記憶していた。
そして、脚本の省略、構図の効果、これらはスクリーンが小さくても大きくても変わらない。それは、映画の機能だから。飛行機の背もたれで観ようが、IMAXで観ようが変わらない。

だけど今は、映画評論家が「ぜひIMAXで映画の世界に入り込んだような体験を」と、平気で言ってしまう。あるいは、「主人公に感情移入して泣いたから傑作」とか。
だから観客は、無駄に大きなスクリーンを有料の3Dメガネで見て、最後の“ネタバレ”で泣くのが映画だと信じている。感情移入して泣くのが映画だと思っているから、映画の中の犯罪行為に怒ったり、人種の違う俳優が演じているのはイカサマなどと本気で言い出す始末。
『グリーンブック』なら、「僕は黒人じゃないから、黒人のつらさは分からない」とでも言うのだろうか。


たとえば、マハーシャラ・アリの演じる天才ピアニストは、黒人であるというだけで酷い差別を受ける。ある洋服店では、黒人が服に袖を通すのはダメだと止められる。
次のシーンは、憤怒した顔のピアニストが激しい曲を弾いている舞台上の演奏だ。カメラは、ピアニストの顔にギューッとドリー移動(台車にカメラを載せて被写体に迫る)で、アップまで寄っていく。
すると、どんな雄弁なセリフで語るよりも、ピアニストが自分の受けた差別に激怒していることが分かる。これが映画の機能だ。ピアノの演奏シーンだが、曲は激しく、しかも奏者は怒っている。その表情を強調するようにフレームサイズを劇的に変化させる。これらの具現的な要素のみで、彼の怒りを完璧に表現している。「思い」「気持ち」を、ひとつひとつ機械的な要素に分解して伝わりやすいように組み立てる、その技巧こそが映画なのだ。

もうひとつ、例をあげよう。イタリア人の運転手(ビゴ・モーテンセン)が、旅先から妻に手紙を書くシーン。
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手紙を書きはじめた次のカットで、もう妻は自宅で手紙を読んでいる。ふたたび、運転手が手紙を書いているシーンへ戻る。カットバックだ。時制が「手紙を書いている」「書かれた手紙を読んでいる」の間で、行ったり来たりしている。
タイムスリップしているわけじゃない、はやる気持ちで手紙を書いたり読んだりする高揚感を出すため、別々の場所で撮ったシーンを交差させているわけでしょう? こういう具体的な機能によってしか、映画では「感動」なんてものは伝わらない。でも、バラバラにしたフィルムが上手くつながると「感動」する、だから映画は面白い。機械なのに、メカニックなのに情緒的なことを伝達できるから。

そこに気がつかない人は、「スクリーンが大きければ大きいほど主人公の人生を追体験できる」と信じる。被写体をレイヤー分けしてズラして配置したような3D効果で、揺れる座席で「映画の中に入れたのだから、それで自分は感動しているに違いない」とハードウェアの問題に終始させようとする。
自分の体験を心のうちの観劇体験として熟成させず、ひたすら身体の表面の一時的な感触にとどめようとする。それは動物的退化だ。だから、「この役柄は○○系○○人という設定なので、同じ人種の俳優が演じないとホンモノではない」などという、まるで家畜の肉を選別するような感覚が生じてくる。

少し警戒しないと、映画は人種の分からない、男か女かも分からないCG俳優が当たり障りのない会話をかわす3D映画ばかりになってしまうかも知れない。

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