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2020年12月31日 (木)

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「特装機兵ドルバック」に出てきた強化服「パワードアーマー」のプラモデルを組み立てたら、1983年のロボットアニメ隆盛期が垣間見えた!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第6回
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この連載も、なんとか半年まで続きました。次回も決まっていますが、取り上げるアイテムがマイナーすぎると本当に誰にも見てもらえない。そして詳しく見てくれる人は、ちょっとした記述ミスも許してくれない(笑)。そんな窮屈な環境にしたくないので、適度に緩くしてあげる必要があります。
次回は、「そんなメジャーなプラモ作っちゃうの?」というネタを用意しています。


先週は、リニューアルされた六本木・サントリー美術館の「美を結ぶ。美をひらく」展へ。
まあ、展示されている陶磁器などには興味はない。どのようにレイアウトされているかを見たい。
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壁やパネルで仕切らず、すだれを垂らして空間を仕切っている。次の展示が、うっすらと向こうに見える。
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パネルを立てて、次のエリアの説明文を見せたい場合は、丸い穴をあけて、たった今みてきた部屋を振り返るような工夫がしてある。前のエリアと次のエリアとが無関係でないことを示唆している。
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穴だけではなく、床や壁面に丸いフレームで模様などを映写する。このスクリーンは会場を移動する出口と入り口に、象徴的に設けてあった。
なるほど、金があるといろいろ出来るのだなあ……という勉強になった。

しかし、昨日見てきた神奈川県民ホールギャラリーの「大山エンリコイサム展 夜光雲」。この展覧会は安上がりだが、完成度はズバ抜けて高かった。
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基本的に、ひとつの部屋にひとつの作品のみ展示する。よくある章立てや見出しやキャプションは皆無。鑑賞者は、この広い空間に無防備に投げ出され、作品との距離をはかる。どう歩こうか、時間配分を考える。自分は何をどう見たいのか、能動的に考える。それが美術館の面白さだ。
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最後から二番目の大きなホールに、5枚の平面作品が吊るしてある。部屋の中央にも吊るしてるし、壁に密着させず、スレスレに浮かして吊るしてもある。
それらの作品に小さくスポットライトを当てると、壁や床にシャープな影ができる。その影すらも作品なのだと、歩いて見てまわるうちに理解できてくる。
展示室を歩きながら、光と影の関係をじっくりと味わう。作品は媒介にすぎないのだ。

それがより明らかになるのは、最後の展示。
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真っ白な部屋に、数個のスピーカーが置いてあり、ゼンマイのようなモーターのような、不規則な音が響いているだけ。
こういう「音の彫刻」は原美術館にもあったし、決して珍しい展示ではない。だけど、これまで真っ暗な部屋の中で数少ない作品と対面して、じっくりと空間を意識してきた鑑賞者は、真っ白な部屋に対して注意深くなる。やや警戒して、耳をすます。
この部屋は、実は受付のすぐ後ろにある。だけど、受付では地下の暗い部屋から見るように指示される。そうした鑑賞の流れと演出効果とがソリッドに研ぎ澄まされていて、心から感嘆した。
2020年は実にいろいろな美術館へ通ったが、ラストにふさわしい充実感だった。


外へ出ると山下公園の近くで、まあまあ陽気もいいので、海ぞいの店でクラフトビールを飲んだ。
せっかく頑丈な肝臓をしているのだから、自分だけの王国でくつろがねば、生まれてきた意味がない。
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この辺りは結婚しているころ、妻が犬OKのカフェを探して、よく一緒に散歩に来たものだ。
離婚後、はじめて女性と歩いたりしたのも、たまたまこの近辺だった。もう10年ほど前のことだが、当時は自分を好いてくれる人のありがたみが、よく理解できなかった。20代のころは女性に愛されさえすれば、自分の欠損がすべて埋まるものだと信じていた。ところが、いざ愛されると、自分からは何も返すものがなく、二人でいても黙りこむしかなかった。

今、どうしても女性と話したければ、1時間3千円のガールズバーに行けば気がすむ。いつも異性と一緒でなければ自己肯定できないのは、未熟者とすら思ってしまう。一生の間に、失恋も得恋も経験したほうがいい。
だけど、仕事として、この世に何を残せるかが人の価値を決めるんだと思う。仕事に自信がない人間は、異性とか身分だとかで己の無力さを糊塗しようとする。


さいきん見た映画は、『雨に唄えば』、『お葬式』、『七人の侍』、『はじまりへの旅』。
だけど、高畑勲監督が翻訳と日本語版演出をした『キリクと魔女』、これが絶品だった。
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こんな真横から見た図像のような映像で、なにか感動が伝わるのか?と疑問に思うだろう。
僕たちは映画を見て「ストーリーがよかった」「お話が好き」などと簡単に言う。だけど、その「お話」はどうやって知ったのか? 映画からお話を知ったのだとしたら、映像の役割はお話を伝えるためのツールでしかないんだろうか? もしかすると、そうなのかも知れない。
『キリクと魔女』では、主人公が冒険するシーンでも、真横から見た図解のような画面で行動が説明される。初期のファミコンみたいな感じ。でも、ドラクエをプレイし終わると、大冒険した気持ちになれる。あんな平面的な映像なのに、確かな実感が残る。
高度に3DCG化されアングルも工夫されたゲームで「お話」が分かるんだろうか? 高解像度で「リアル」なゲーム映像は映画で通俗化した話法を借りてきただけではないのか? そもそも映画の語り口が「斜め45度の角度から俳優の表情を撮る」ように、数十年を経て定型化して陳腐化していると疑う必要はないのか?

おそらく僕たちは、ハリウッド映画で決められた映画のルールやフォーマットに慣れすぎているのではないか?
映画の目的を「お話を伝えること」と設定するのであれば、真横からキャラクターの全身を撮ったほうが効果的ではないのか? さらに言うなら、実写映画ではなくて絵のほうが伝わりやすいのではないだろうか? そこまで遡って考えたことはあるだろうか。
なんとなくドラマチックだから映画っぽいだとか、映画の内部に入り込んで疑似体験するのがリアルだとか、僕たちは簡単に信じこんでいる。それは一種の眠りなんだよ。

(C)Les Armateurs / Odec Kid Cartoons / France 3 cinema / Studio O / RTBF / Monipoly / TEF / Exposure.

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