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勇気ある主人公が、ロボットからロボットへ綱渡りする! 巨大ロボ活劇として「機動警察パトレイバー the Movie」を観る!【懐かしアニメ回顧録第73回】(■)
最近、この連載では「構図」「カット割り」「カメラワーク」について細かく書かないようにしています。読者さんのよく知っているシーンを少し別の角度から見てみる、少し細かく見てみる方が共感を呼びやすいからです。アクセス数が低ければ、こんな無名ライターのコラムなど即終了です。
ただし、ロボットのアクションは作画の上でも演出面からも、「カッケー!」「燃える!」みたいな評価しかされてこなかったと思います。仮に分析されるとしても「ここではバーニアを吹かしているので、こういう動きになる」「ミノフスキークラフトの応用により、必然的にこの描写になる」など、作品の内部から架空設定を検証しているものが多い。
僕はみんなの大好きな巨大ロボットを題材にして共感を得ながらも、「映像演出とは何か」を、真正面から解き明かしたいのです。
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先週はずっと倦怠感があって、近所を散歩するだけで疲れてしまったのだけど、金曜日は渋谷PARCO MUSEAMの「最果タヒ」展へ。
インスタレーションだというから興味を持ったのだが、使っている言葉が薄すぎて、悪いんだけど、「読むものが見つからない人が読むもの」と思った。「これ好きなんだよね」と言っておけば、繊細な人間だと信じてもらえる。そういうニーズもあるだろう。音楽でも「これ聴いとけば、センスいい人間に見えるだろう」ってアクセサリーみたいなミュージシャンは、山ほどいると思う。
古典的な絵画を見てさえ、「ああ本気じゃないんだな」と感じる時がある。技術は素晴らしいんだけど、切実に描かざるを得なかったものではない。リア充な人は、リア充であることが弱点。すぐ満たされてしまうから、飢えて残飯を漁った経験がない。温い、甘い道しか歩けない。
錆びた人生しか、磨くことは出来ない。最初からピカピカの人生は、磨く必要がないので、それ以上よくも悪くもなりようがないのだ。
(それに気がついたリア充の人は、一生懸命に自分は変態だとかキチガイだとか、空っぽの自分を糊塗するために変人アピールしはじめる……それがまた、痛々しいんだ)
作家に関しては、そんな風に思う。逆に、サービス業や会社経営は、恵まれた人がやるべきではないかと、ぼんやり思っている。何でも苦労すればいいってものではない。
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ここのところ、仕事の都合で過去のアニメ映画ばかり何本も観ていた。
どうしても実写映画が観たくなり、深夜にAmazonプライムで『ランボー』を観た。1982年の映画だが、これは最後のアメリカン・ニューシネマだと思う。抜群に面白かった。
警察署長が、パトカーでランボーを追う。緊迫したランボーの顔に、パトライトの赤い光が当たる。カットが変わると、署長の顔にもパトライトの光が当たっている……が、その背後にパトカーも見える。つまり、このカットは「ランボーと署長の顔に当たっているのは、このパトライトが光源ですよ」という説明になっている。
ランボーの顔に当たった光は感情描写だが、署長の顔に当たった光は「パトライトが点灯している」説明でしかない。「たまたま、そこにパトライトがあったから映っているだけだろ?」と、物語の中の事情のみで納得しようとすると、「演出」が目に入らない。
ここに演出意図がある、と書き記すには「お前の思い込みではないのか?」と疑われる覚悟が必要だ。ほとんどの人には、疑われる勇気がない。だから主体的な評価ができずに、「めちゃくちゃ泣いた」「ネタバレ禁止」で逃げようとする。
「○○監督だから面白いに決まっている」も、やっぱり逃げだろう。優れた演出効果に陶酔させられているのに、それを認めようとしない。映画に感動させられるのは、感動を呼びおこす技術や才能があってこそだ。そこに踏み込むには、知識よりもまず、主体性が必要なんだと思う。
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