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2020年12月31日 (木)

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「特装機兵ドルバック」に出てきた強化服「パワードアーマー」のプラモデルを組み立てたら、1983年のロボットアニメ隆盛期が垣間見えた!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第6回
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この連載も、なんとか半年まで続きました。次回も決まっていますが、取り上げるアイテムがマイナーすぎると本当に誰にも見てもらえない。そして詳しく見てくれる人は、ちょっとした記述ミスも許してくれない(笑)。そんな窮屈な環境にしたくないので、適度に緩くしてあげる必要があります。
次回は、「そんなメジャーなプラモ作っちゃうの?」というネタを用意しています。


先週は、リニューアルされた六本木・サントリー美術館の「美を結ぶ。美をひらく」展へ。
まあ、展示されている陶磁器などには興味はない。どのようにレイアウトされているかを見たい。
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壁やパネルで仕切らず、すだれを垂らして空間を仕切っている。次の展示が、うっすらと向こうに見える。
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パネルを立てて、次のエリアの説明文を見せたい場合は、丸い穴をあけて、たった今みてきた部屋を振り返るような工夫がしてある。前のエリアと次のエリアとが無関係でないことを示唆している。
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穴だけではなく、床や壁面に丸いフレームで模様などを映写する。このスクリーンは会場を移動する出口と入り口に、象徴的に設けてあった。
なるほど、金があるといろいろ出来るのだなあ……という勉強になった。

しかし、昨日見てきた神奈川県民ホールギャラリーの「大山エンリコイサム展 夜光雲」。この展覧会は安上がりだが、完成度はズバ抜けて高かった。
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基本的に、ひとつの部屋にひとつの作品のみ展示する。よくある章立てや見出しやキャプションは皆無。鑑賞者は、この広い空間に無防備に投げ出され、作品との距離をはかる。どう歩こうか、時間配分を考える。自分は何をどう見たいのか、能動的に考える。それが美術館の面白さだ。
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最後から二番目の大きなホールに、5枚の平面作品が吊るしてある。部屋の中央にも吊るしてるし、壁に密着させず、スレスレに浮かして吊るしてもある。
それらの作品に小さくスポットライトを当てると、壁や床にシャープな影ができる。その影すらも作品なのだと、歩いて見てまわるうちに理解できてくる。
展示室を歩きながら、光と影の関係をじっくりと味わう。作品は媒介にすぎないのだ。

それがより明らかになるのは、最後の展示。
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真っ白な部屋に、数個のスピーカーが置いてあり、ゼンマイのようなモーターのような、不規則な音が響いているだけ。
こういう「音の彫刻」は原美術館にもあったし、決して珍しい展示ではない。だけど、これまで真っ暗な部屋の中で数少ない作品と対面して、じっくりと空間を意識してきた鑑賞者は、真っ白な部屋に対して注意深くなる。やや警戒して、耳をすます。
この部屋は、実は受付のすぐ後ろにある。だけど、受付では地下の暗い部屋から見るように指示される。そうした鑑賞の流れと演出効果とがソリッドに研ぎ澄まされていて、心から感嘆した。
2020年は実にいろいろな美術館へ通ったが、ラストにふさわしい充実感だった。


外へ出ると山下公園の近くで、まあまあ陽気もいいので、海ぞいの店でクラフトビールを飲んだ。
せっかく頑丈な肝臓をしているのだから、自分だけの王国でくつろがねば、生まれてきた意味がない。
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この辺りは結婚しているころ、妻が犬OKのカフェを探して、よく一緒に散歩に来たものだ。
離婚後、はじめて女性と歩いたりしたのも、たまたまこの近辺だった。もう10年ほど前のことだが、当時は自分を好いてくれる人のありがたみが、よく理解できなかった。20代のころは女性に愛されさえすれば、自分の欠損がすべて埋まるものだと信じていた。ところが、いざ愛されると、自分からは何も返すものがなく、二人でいても黙りこむしかなかった。

今、どうしても女性と話したければ、1時間3千円のガールズバーに行けば気がすむ。いつも異性と一緒でなければ自己肯定できないのは、未熟者とすら思ってしまう。一生の間に、失恋も得恋も経験したほうがいい。
だけど、仕事として、この世に何を残せるかが人の価値を決めるんだと思う。仕事に自信がない人間は、異性とか身分だとかで己の無力さを糊塗しようとする。


さいきん見た映画は、『雨に唄えば』、『お葬式』、『七人の侍』、『はじまりへの旅』。
だけど、高畑勲監督が翻訳と日本語版演出をした『キリクと魔女』、これが絶品だった。
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こんな真横から見た図像のような映像で、なにか感動が伝わるのか?と疑問に思うだろう。
僕たちは映画を見て「ストーリーがよかった」「お話が好き」などと簡単に言う。だけど、その「お話」はどうやって知ったのか? 映画からお話を知ったのだとしたら、映像の役割はお話を伝えるためのツールでしかないんだろうか? もしかすると、そうなのかも知れない。
『キリクと魔女』では、主人公が冒険するシーンでも、真横から見た図解のような画面で行動が説明される。初期のファミコンみたいな感じ。でも、ドラクエをプレイし終わると、大冒険した気持ちになれる。あんな平面的な映像なのに、確かな実感が残る。
高度に3DCG化されアングルも工夫されたゲームで「お話」が分かるんだろうか? 高解像度で「リアル」なゲーム映像は映画で通俗化した話法を借りてきただけではないのか? そもそも映画の語り口が「斜め45度の角度から俳優の表情を撮る」ように、数十年を経て定型化して陳腐化していると疑う必要はないのか?

おそらく僕たちは、ハリウッド映画で決められた映画のルールやフォーマットに慣れすぎているのではないか?
映画の目的を「お話を伝えること」と設定するのであれば、真横からキャラクターの全身を撮ったほうが効果的ではないのか? さらに言うなら、実写映画ではなくて絵のほうが伝わりやすいのではないだろうか? そこまで遡って考えたことはあるだろうか。
なんとなくドラマチックだから映画っぽいだとか、映画の内部に入り込んで疑似体験するのがリアルだとか、僕たちは簡単に信じこんでいる。それは一種の眠りなんだよ。

(C)Les Armateurs / Odec Kid Cartoons / France 3 cinema / Studio O / RTBF / Monipoly / TEF / Exposure.

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2020年12月21日 (月)

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金子雄司さんが語る、デジタル化によって激変した“アニメーション美術監督の働き方”【アニメ業界ウォッチング第72回】

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過去に、あちこちでインタビューする機会を得た美術監督の金子雄司さんに、直接お願いしての取材となりました。
これを宣伝会社経由にしてしまうと、「もう宣伝期間が終わったので取材はナシで」とか言われてしまう。だったら、個人同士の信頼関係で交渉して、実りある建設的な記事にすればいい。仕事の六割は対人関係、二割がスケジュール、最後の二割が実作業です。


最近は仕事の都合でアニメ映画ばかり観ていたが、実写映画も見なくてはマズイなあ……と思って『グリーンブック』のDVDをレンタルしてきた。
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この映画、一昨年にジンバブエへ旅行した帰りの機内で見た。
ケンタッキーフライドチキンを山ほど買い込んだ運転手が、主人にも薦める。食べ終わった骨を自動車の窓から投げ捨てるのを、主人も真似して、和やかな雰囲気になる。だが、運転手が飲み終わったコーラの容器まで窓から捨てたので、主人は拾ってくるように命じる。
このシーンを、機内上映の小さな画面で克明に覚えていた。コーラの容器が投げ捨てられた後、主人は「えっ? あれっ?」という表情になる。ここはバストショット。次のカットは、道路に落ちた容器が手前に大きく映っていて、奥から車が引き返してくる広角のショット。主人が運転手に「拾ってこい」なんて言うシーンはないわけ。省略が上手い、これはいい映画の条件だ。だから、「あっ、これは良く出来た映画だ」と記憶していた。
そして、脚本の省略、構図の効果、これらはスクリーンが小さくても大きくても変わらない。それは、映画の機能だから。飛行機の背もたれで観ようが、IMAXで観ようが変わらない。

だけど今は、映画評論家が「ぜひIMAXで映画の世界に入り込んだような体験を」と、平気で言ってしまう。あるいは、「主人公に感情移入して泣いたから傑作」とか。
だから観客は、無駄に大きなスクリーンを有料の3Dメガネで見て、最後の“ネタバレ”で泣くのが映画だと信じている。感情移入して泣くのが映画だと思っているから、映画の中の犯罪行為に怒ったり、人種の違う俳優が演じているのはイカサマなどと本気で言い出す始末。
『グリーンブック』なら、「僕は黒人じゃないから、黒人のつらさは分からない」とでも言うのだろうか。


たとえば、マハーシャラ・アリの演じる天才ピアニストは、黒人であるというだけで酷い差別を受ける。ある洋服店では、黒人が服に袖を通すのはダメだと止められる。
次のシーンは、憤怒した顔のピアニストが激しい曲を弾いている舞台上の演奏だ。カメラは、ピアニストの顔にギューッとドリー移動(台車にカメラを載せて被写体に迫る)で、アップまで寄っていく。
すると、どんな雄弁なセリフで語るよりも、ピアニストが自分の受けた差別に激怒していることが分かる。これが映画の機能だ。ピアノの演奏シーンだが、曲は激しく、しかも奏者は怒っている。その表情を強調するようにフレームサイズを劇的に変化させる。これらの具現的な要素のみで、彼の怒りを完璧に表現している。「思い」「気持ち」を、ひとつひとつ機械的な要素に分解して伝わりやすいように組み立てる、その技巧こそが映画なのだ。

もうひとつ、例をあげよう。イタリア人の運転手(ビゴ・モーテンセン)が、旅先から妻に手紙を書くシーン。
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手紙を書きはじめた次のカットで、もう妻は自宅で手紙を読んでいる。ふたたび、運転手が手紙を書いているシーンへ戻る。カットバックだ。時制が「手紙を書いている」「書かれた手紙を読んでいる」の間で、行ったり来たりしている。
タイムスリップしているわけじゃない、はやる気持ちで手紙を書いたり読んだりする高揚感を出すため、別々の場所で撮ったシーンを交差させているわけでしょう? こういう具体的な機能によってしか、映画では「感動」なんてものは伝わらない。でも、バラバラにしたフィルムが上手くつながると「感動」する、だから映画は面白い。機械なのに、メカニックなのに情緒的なことを伝達できるから。

そこに気がつかない人は、「スクリーンが大きければ大きいほど主人公の人生を追体験できる」と信じる。被写体をレイヤー分けしてズラして配置したような3D効果で、揺れる座席で「映画の中に入れたのだから、それで自分は感動しているに違いない」とハードウェアの問題に終始させようとする。
自分の体験を心のうちの観劇体験として熟成させず、ひたすら身体の表面の一時的な感触にとどめようとする。それは動物的退化だ。だから、「この役柄は○○系○○人という設定なので、同じ人種の俳優が演じないとホンモノではない」などという、まるで家畜の肉を選別するような感覚が生じてくる。

少し警戒しないと、映画は人種の分からない、男か女かも分からないCG俳優が当たり障りのない会話をかわす3D映画ばかりになってしまうかも知れない。

(C)2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.

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2020年12月19日 (土)

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EX大衆 2021年1月号 発売中
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特集「マリオとゲームの35年史」内で、「小田部羊一氏がマリオに宿した想像力」という1ページ記事を書きました。
たまたま、小田部さんのインタビュー集を読んでいる時に来た依頼なので、その本からも証言を引用しています。


今週は、珍しくギッシリと仕事して夜中まで原稿に向き合っていたので、昨日の金曜日だけは美術館へ。
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天王洲アイルから徒歩数分、寺田倉庫がオープンしたばかりの美術館「WHAT」。美術館は建物の一階と二階、併設されたビルに建築模型の倉庫があり、そこは時間を指定しての完全予約制。時間の少し前に集合して、1時間限定で自由見学。
建築模型ミュージアムは撮影禁止だったが、「おお……」と感嘆の声がもれてしまうほど魅了された。それは、アイデアを他人に伝えるためのメソッド、知恵と工夫の展示であった。


建築倉庫を見る前にWHATの企画展「—INSIDE THE COLLECTOR’S VAULT, VOL.1—解き放たれたコレクション展」を見ていた。スペースは決して広くはないのだが、十分な見ごたえがあった。
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まずは、空間の使い方が贅沢である。天井の空調やパイプがむき出しなのもいい。
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先月、どこかの美術館で見かけて気になっていた、岡崎乾二郎さんの作品があった。正直、上の大型の作品は今ひとつで、小さなカンバスに絵の具を盛り上げた作品のほうがいい。表面の立体感で見せる作風なので、こればかりは目の前で直に、視覚(的な触覚)を駆使せねば意味がないのだ。
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これらの作品も同様、マチエールを楽しむ作品だ。写真では、色と形の情報しか残らない。適当に塗りつけたかに見える絵の具の中に、シャープな線や意図的な具象が見つかるので、それがカッコいいのだ。そのロジックを見つけるには、巨大な作品に顔を近づけて、地図でも見るように目をこらすしかない。
パッと見た瞬間だけを捉える写真では、自分で首を振って視線を動かす能動性は喚起されない。

さて、WHATでは2種類の展示があり、より狭いスペースでは「謳う建築」展が催されていた。
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大きなパネルで、空間を仕切っていく。単調でも窮屈でもなく、ジクザグに気ままに歩けるようなランダムな仕切り方。手だれのデザイナーが設計した展示だ。
真っ白なパネルに、住宅に関連する詩が印刷されている。プロジェクターで、住宅に暮らす人たちを映す。パネルは文字や映像を見せる素材なのだ。なんと美しい展示だろう。設計図や住宅の模型は数も少なくサイズも小さく、むしろオマケだ。
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薄い紙に文字を印刷して、重なるようにピンで止めたり……床にも、ランダムに言葉を散らすように印刷してみたり……使われてる言葉とか詩は、ちょっと恥ずかしい。だけど、発想がよい。コンセプトを楽しむ、それが一番の贅沢だと思う。
すっかり満たされた気持ちで、さてお台場のガンダムベース東京まで一駅だから歩けるだろう……と思ったのだが、実は歩いていくには遠回りして一時間半もかかることが分かった。なので、東京テレポートまで電車に乗った。


買い物を終わらせると、15時半ぐらい。早すぎる冬の夕陽がいい具合なので、では駅前にあったはずのカフェでビールでも飲もうかと思ったら、閉店であった。
しかし、駅まで行くとチームラボの展示がヴィーナスフォートで行われていると分かった。
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クリスマスツリーを思わせる「呼応する生命の樹」、まったく無料で見られるし触れる。「触ると色が変わる」のは所沢市の「どんぐりの森の呼応する生命」と同じだが、あいかわらず触れても色が変わらない(笑)。しかし、少しずつ変化していく色を見ているだけで、十分に楽しめた。
チームラボの作品が、このように公の場にあったり、もっというと職場がこういう空間であったなら、さぞかし創造的な仕事ができるはずだ。それが成熟した社会だろう。

すっかり満たされた気持ちになったが……夕陽がもったいない。せっかく、青海埠頭の近くなのに。なので、近くのローソンで缶ビールを買って、海と夕陽を眺めながら飲んだ。酒で酔うのではなく、きれいな風景やいい気分に酔っているから、酒をブースターに使うのだ。
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「永遠を感じたい」と、いつも思っている。近所の玉川上水を散歩していると、一秒が一秒でなくなるような瞬間が、実際にある。時間は均一ではない。別の言い方をすれば、時間が流れていることを忘れられる、与えられたゲームのルールを意識ひとつで無効化することが、人生の目標なのかも知れない。その一発逆転のために、美術や娯楽があるのではないだろうか。


最近、ちょっと嫌だったこと。

●いつも寄る都心の喫茶店で、長髪のカッコいいお兄さんが椅子に深く座らず、狭い店内の通路を半分ぐらい占有していた。何度も往復しなくてはならない店員さんは、窮屈そうに身をよじっていた。
お兄さんは紫色の毛皮(!)を背もたれにかけて、友人たちと映画の話に興じていた。「どんなストーリーなの?」「そのカットが……」などと突っ込んだ話をしていたので、業界人なのかも知れない。凶暴そうな人ではなかったので、一言注意すれば、椅子を引いてくれたかも……。

●三鷹北口のTSUTAYAの階段を下りていたら、後ろから降りてきたオタクっぽい青年が追い越しざまに「トントンだ! トントン!!」と怒鳴った。おそらく「トントン」は階段を下りている擬音だと思うが、イケメン系の傲慢な嫌がらせとは別の不気味さがあった。 
以前にも、デパートのドアを開けて相手が出てくるのを待って道を譲ったら、オタクっぽい人が「そうだ、俺が出てくるまでそうして待ってろー」と小声で言ったので、びっくりしたことがある。「イケメンだから」「オタクだから」ってことではなくて、天敵のない環境でぬくぬく育つと、ああなるんだと思う……。

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2020年12月14日 (月)

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勇気ある主人公が、ロボットからロボットへ綱渡りする! 巨大ロボ活劇として「機動警察パトレイバー the Movie」を観る!【懐かしアニメ回顧録第73回】
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最近、この連載では「構図」「カット割り」「カメラワーク」について細かく書かないようにしています。読者さんのよく知っているシーンを少し別の角度から見てみる、少し細かく見てみる方が共感を呼びやすいからです。アクセス数が低ければ、こんな無名ライターのコラムなど即終了です。

ただし、ロボットのアクションは作画の上でも演出面からも、「カッケー!」「燃える!」みたいな評価しかされてこなかったと思います。仮に分析されるとしても「ここではバーニアを吹かしているので、こういう動きになる」「ミノフスキークラフトの応用により、必然的にこの描写になる」など、作品の内部から架空設定を検証しているものが多い。
僕はみんなの大好きな巨大ロボットを題材にして共感を得ながらも、「映像演出とは何か」を、真正面から解き明かしたいのです。


先週はずっと倦怠感があって、近所を散歩するだけで疲れてしまったのだけど、金曜日は渋谷PARCO MUSEAMの「最果タヒ」展へ。
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インスタレーションだというから興味を持ったのだが、使っている言葉が薄すぎて、悪いんだけど、「読むものが見つからない人が読むもの」と思った。「これ好きなんだよね」と言っておけば、繊細な人間だと信じてもらえる。そういうニーズもあるだろう。音楽でも「これ聴いとけば、センスいい人間に見えるだろう」ってアクセサリーみたいなミュージシャンは、山ほどいると思う。
古典的な絵画を見てさえ、「ああ本気じゃないんだな」と感じる時がある。技術は素晴らしいんだけど、切実に描かざるを得なかったものではない。リア充な人は、リア充であることが弱点。すぐ満たされてしまうから、飢えて残飯を漁った経験がない。温い、甘い道しか歩けない。
錆びた人生しか、磨くことは出来ない。最初からピカピカの人生は、磨く必要がないので、それ以上よくも悪くもなりようがないのだ。
(それに気がついたリア充の人は、一生懸命に自分は変態だとかキチガイだとか、空っぽの自分を糊塗するために変人アピールしはじめる……それがまた、痛々しいんだ)

作家に関しては、そんな風に思う。逆に、サービス業や会社経営は、恵まれた人がやるべきではないかと、ぼんやり思っている。何でも苦労すればいいってものではない。


ここのところ、仕事の都合で過去のアニメ映画ばかり何本も観ていた。
どうしても実写映画が観たくなり、深夜にAmazonプライムで『ランボー』を観た。1982年の映画だが、これは最後のアメリカン・ニューシネマだと思う。抜群に面白かった。
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警察署長が、パトカーでランボーを追う。緊迫したランボーの顔に、パトライトの赤い光が当たる。カットが変わると、署長の顔にもパトライトの光が当たっている……が、その背後にパトカーも見える。つまり、このカットは「ランボーと署長の顔に当たっているのは、このパトライトが光源ですよ」という説明になっている。
ランボーの顔に当たった光は感情描写だが、署長の顔に当たった光は「パトライトが点灯している」説明でしかない。「たまたま、そこにパトライトがあったから映っているだけだろ?」と、物語の中の事情のみで納得しようとすると、「演出」が目に入らない。

ここに演出意図がある、と書き記すには「お前の思い込みではないのか?」と疑われる覚悟が必要だ。ほとんどの人には、疑われる勇気がない。だから主体的な評価ができずに、「めちゃくちゃ泣いた」「ネタバレ禁止」で逃げようとする。
「○○監督だから面白いに決まっている」も、やっぱり逃げだろう。優れた演出効果に陶酔させられているのに、それを認めようとしない。映画に感動させられるのは、感動を呼びおこす技術や才能があってこそだ。そこに踏み込むには、知識よりもまず、主体性が必要なんだと思う。

©1982 STUDIO CANAL IMAGES All Rights Reserved.

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2020年12月 3日 (木)

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12月に入ってから、来年いっしょに仕事する予定の編集者に酒をおごってもらって、オヤジばかりの枯れた感じのショットバーを見つけた。高齢のマスターと客との会話は、映画と音楽の話がポツポツと出る程度で、「俺って頭いいだろ?」「俺ってセンスあるだろ?」などと誰も競い合っていない、パッとしない感じが気持ちよかった。
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今朝は井の頭公園駅前まで30分ほど歩いて、いくつか並んでいる喫茶店のうちから「千」に入って、読書した。知的な雰囲気の老婦人がひとりで切り盛りしていて、いつも僕ひとりしか客がいない。二階の窓からは小さな駅を一望でき、店内には静かにクラシック音楽が流れている。
年内は、あと二つ取材があるだけで、原稿は一本だけ納めればいい。僕は、寂しいのが好き。ひとりが好き。広漠とした自由な時間を、ひっそりとした読書や美術館めぐりで充実させていく。それ以外の、何かキラキラしたものは必要ない。


話題になっているNIKEのプロモーション映像は一回だけ見て、「ふーん……まあ、俺にはあまり関係ないかな」という感じだった。
いつの間にか「ネトウヨが批判して炎上させている」「あのPVを評価しないのは、ネトウヨの差別主義者」という流れになっているらしい。みんな、争いが好きだねえ。そうまでして、自分だけが圧倒的に勝ちたい? 優越感が欲しい?

NIKEのPVを、「体育の時間に苦しんだ者を差別している」というツイートも見かけた。
そのツイートに対する反発が、もう物凄くキツくて、見るのをやめてしまった。「だからウンチ(運動音痴)はダセえんだよ」「学生時代の劣等感を引きずったままかよ」「こじらせている」などなど……酷すぎる、これじゃあイジメじゃないか。

僕は体育ができずにクラスの男子から罵声を浴びせられ、女子からも笑われ、特に高校時代には凄まじい抑圧に耐えていたけど、それを「イジメ」「差別」と呼びたくはない。被害者ヅラもしたくはない。そんな簡単に分かるわけがない。
あの体験の何が勉強になったかというと……、先頭に立って怒号や罵声を浴びせるのは、せいぜいカースト上位の2~3人にすぎない。他の中間層の男子たちは、体育の時間になると、その2~3人の側に加わって、「この時間だけは廣田に冷たくしよう」とモードを変えてくるんだよ(体育の時間は男女別だったから、女子に見られる心配もないし……)。
中には、「だって廣田くん、トロいんだもん」と声に出して言い訳するヤツもいた。でも教室に帰ると、普通に話しかけてくるんだよね。ようするに、強い側に加わって、自分が巻き添えをくわないために、廣田を切り離すわけ。

……まあ、大衆なんてそんなもんだよね。
社会の8割ぐらいは、自分の意見や独自の価値観なんて持ってないんだよ。デマをコロッと信じてしまうのも、教室で右顧左眄していた中間層だから、別に驚きはしない。生きのびるために考える必要がなく、多勢に流されるだけでそこそこ生きてこられた人間に、警戒心なんて育たないわけ(「NIKE」のPVは、そういう人たちに支持されているのかも知れない。でも、ヒットする作品も売れる商品も、何も考えない愚民たちが支えているので、いつものことだろう)。


しかし、体育ができず、そのことが人生観に影響をおよぼすぐらい深刻だったと告白しても、やっぱり分かってもらえないんだな。
女性が性被害の体験を語るたび、「油断していた貴女のせいだ」と言われてしまうのって、こんな感覚なのかも知れないな。悔しいよな。
僕は、体が大きくてルックスが良くてコミュニケーション能力の高い男たちが、弱い者に対して何をするのか、十代のころにハッキリと知ることになった。たいていの女子たちは、そういう強者サイドの男がワイ談をしても笑って聞き流す。生物的に強いものが無条件に得をする、それが社会の真理だ。

その真理を、16歳の俺は認めても「飲みこむまい」としたんだろうな。それは真理かもしれないが、納得するものかって。
キラキラした連中の秘めているドス黒さを決して忘れず、彼らの侵入できない自分だけの王国をつくろうとしたんだ。無数に挫折を重ねながら。今、こうして悠々と自由な毎日を送れているんだから、それは成功したんじゃない?
だけど、20代のころはずっと、身を引き裂かれるような自己否定感、劣等感に苦しんでいた。女にフラれるたびに、電車の中で大量の汗を流しつづけるパニック発作が酷くなっていった(パニック発作は完治しておらず、今でも精神安定剤を服用しているけど……余談だけど、海外旅行に行くと、パニック発作はほとんど起きない。ひょっとすると、日本社会が抑圧的なムードを発しているのかも知れない。そういう意味では、NIKEのPVは間違ってない)。

偉そうな態度のフェミニストの人が、人ごみの中でパニック発作を起こして苦しんでいるという話をたまに聞くけど、俺にはよく分かるよ。劣等感が強いから、やむなく社会の中で強者のように振る舞っているだけで、もっと根深いところで傷がうずいている。その傷を癒さなくては。


体育の時間はクラス中から蔑みの目に晒されつづけていたわけだから、そこから気持ちをそらす方法を必死に、無我夢中で考える。その頑張りが、ものすごいバネをつくっていたことに、最近になって気がついた。
あのね、カースト上位にいた奴ら、付和雷同していた中間層には、そんなバネはないんだよ。だって、右に左に流されるだけで上手く生きてこられたわけだから。彼らは中年にさしかかって、「自分には何もない」と気がついて、今ごろ焦っている。何ら独自のもの、切実なものがない。守りたいものがない。
誰かが「Aがいいです」と発言したら、「いいえ、私は反Aです」とか「A以外はどうなるんですか?」とか、主体的な意見に難癖をつけるぐらいしか出来ない。「じゃあ、何がいいんですか?」と聞き返されても、自分自身からは何も提案できない。ほとんどの人がそうですよ。死に物狂いになった経験なんてないわけ。

いい歳して、「俺ってモテるんですよ」「スポーツも音楽も万能なんですよねー多趣味で」とわざわざ自慢する人は、人生にそれしか残らなかったわけ。
そういう学生気分でキラキラしていたい人からすると、ひっそりと自分だけの王国で楽しんでいる人間は得たいが知れないだろう。心が穏やかで、いつも気分がいい。それが勝利の味ですよ。いま体育で苦しんでいる中高校生たち、君らの中にバネは育っているぞ。


最近レンタルで観た映画は、レバノン映画『判決、ふたつの希望』。

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