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J9シリーズ、アクロバンチ……国際映画社のロボットアニメを支えつづけた四辻たかお氏が、破天荒な制作舞台裏を今こそ明かします!【アニメ業界ウォッチング第71回】(■)
四辻さんは、過去にインタビューした方から個人的に紹介してもらいました。もしメーカーさんや広告代理店が入り口だったら、こんな自由奔放な面白いインタビューにはならなかったと思います。どんな仕事でも、「誰と」するかが大事ですね。
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最近観た映画は、『八月の狂詩曲』、『秋日和』、そして深田晃司監督の『よこがお』。
これで深田監督の映画は4本目だが、今回も怪作であった。この人は一体、何を考えて生きているのだろう?
深田監督は「多様性が大事」と発言しているが、言葉にしなくてもあなたが映画を撮るだけで、映画の世界は否応なく多様になっていくよ(笑)。それぐらい、変なところに凝った複雑骨折したような異様な映画。
たとえば、上のカット。
動物園の、サイの檻を前にした会話がカットバックする。主人公のホームヘルパーは、働いている家の長女と一緒にいる。ところが、長女の恋人とも別の日に動物園を訪れたようだ。服装が違うので、かろうじて別の日だと分かる。主人公は、二人と知り合いであることを隠している。その二面性を表すには、同じ場所で別々の人物と会話させ、なおかつカットを前後させるのが最も効果的だ。
……いや、本当に効果的かどうかはさておいて、「ん? これってどういうこと?」と、観客が身を乗り出すのは確かだ。深田監督の映画は、このような機能的とは言えないドロッとしたプロットの構成、目くらましのようなシーンの組み立てをしている。
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『よこがお』を観た人は、ヘルパーを演じる筒井真理子と、彼女に憧れる長女役の市川実日子が横断歩道を渡ろうとするシーンを印象づけられるだろう。
そのシーンでは歩道を走る2人がスローモーションになり、SEとして聞こえていた信号機のメロディに伴奏がついて、BGMとなるからだ。しかも、カメラは筒井の見た目となって市川の後頭部を撮る。一体なぜ、「二人で横断歩道を渡る」などという日常的なありふれたシーンを、こうまで劇的に撮らねばならないのか?
実は、市川が横断歩道を渡りきって筒井がその場にとどまることは、筒井が意図せずに市川を裏切るというプロット展開の暗示になっている。
(横断歩道を渡りきった後、市川にとっては快くない事態が待っている……説明は非常に難しいので、映画を観てほしい)
また同時に、ラストシーンの舞台も横断歩道なのである。だから、最初の横断歩道のシーンは、印象的に撮る必要があった。
ただし、筒井は横断歩道を自ら渡るのではなく、外から見ている立場だ。一方の市川は、またしても一人で横断歩道を渡る側だ。横断歩道を「誰かと一緒に渡る」「ひとりで渡る」……それぞれを、主観カットで撮る。すると、言葉にしがたい比喩的な意味が生まれる。
機能性からは程遠い、難解な手法ではあるのだが、深田監督が映画にしか出来ないことをやっているのは間違いない。他の映画が、ただの会話ですませているようなことを、ねっとりとしたカメラワークで多角的に撮っている。ストーリーが進むと、あちこちに仕掛けてあった罠が時限爆弾のように破裂して、隠された意図が浮かび上がってくるのだ。測りがたい才能だと思う。
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共産党の池内さおりさんが赤旗に掲載された記事を持ち上げて、セックスワークやジェンダー関係に詳しい人たちから猛反発をくらっている(■)。
これだけ多数の反論をくらっているのに、ただの一言も釈明せず議論すらしないのは、本当に何も考えてないんだろう。
「差別も戦争もNO」とか「自分らしく」「多様な個性」とか内容空疎なスローガンばかり、まるでアクセサリーのようにプロフィールに散りばめて、本人は何も困っておらずぬるま湯で楽しく暮らしているんだろうな。本人が幸せに生きているならそれで問題ないわけだから、適当に「勉強します」とでも言っておけば怒っている人たちも収まるだろうに、下手っぴだなあ……と思う。
フェミニストでも左翼でも、自分の不得手な危険な領域にわざわざ飛び込んでいって、「痛い、怪我した!」「差別された、攻撃された!」と騒いでいるだけに見える。自分の不得意な相手はスルーして、関わらなくてすむように距離をとる。それだけで、かなり人生は楽になるよ。
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自分のやりたくないことは、頑なにやらない。すると、そこに自然と道はできていく。
20代のころ、どうしてあんなにも苦しかったのか思い返すと、とにかく生活費だけでも稼がねば……と、キツい土木作業みたいなバイトを嫌々やったりしていたから。
体力を使わない工場などのバイトに方向転換しても、「こんなつまらない仕事、どこの誰が考案したの?」というぐらい非効率で非人間的なバイトばかりして、疲れるし気分も晴れないから安い酒を大量に飲んで自己嫌悪になって、それなのに家賃すら払えず……と、悪いループにはまっていた。
今でも、ライター業が成り立たなくなったら、また誰にでも出来る退屈なバイトをすればいいのでは……と思っているフシがある。だが、そういう生計の立て方だと「こんなダメな仕事すら出来ない不甲斐ない自分」に苦しめられることになる。精神的な苦痛だけは、なんとしてでも回避せねばならない。そのためには「嫌な仕事」「嫌な人間関係」から逃げつづけることだ。今でも、高圧的な編集者とはケンカせず、すーっと身を引くようにしている。ケンカしたければ、僕の負けで結構ですよ、憎んでも嫌っても結構ですよ~って。
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ただ生きていくだけだったら、生活保護で十分なんだよ。今の日本社会は、そう簡単に国民を見殺しにしやしないよ。もしも餓死するとしたら、知らず知らずに自分でマイナスの道を選んでしまっているんだよ。糞バイトに疲弊していたころの自分は、まさにマイナスの貧乏ループへ自ら進んで飛び込んでいたからね。
確かに格差も貧困もあるし、景気は悪いままなので行政にはムカつくけど、大真面目に損する道を歩むほうが、もっとバカだよね?とも思う。カモられるほうがバカで、カモる側は賢いんだよ。残念ながら。くやしければ賢くなれ、という話でしかない。
勝新太郎が、自分のプロダクションが倒産しようが借金で豪遊しつづけ、返済しないまま死んだ……というエピソードは、僕を元気づける。
そりゃあ、勝新に金を貸したほうの負け。好きなように遊びまくって踏み倒した勝新の勝ちでしょ? 彼は、自分が何を欲しいのか理解していたんだよ。欲しいものを我慢する必要なんかないと知っていたんだ。他人の目を気にして「真面目に生きなきゃ」と勝手に思っている側が、いつも損をする。欲望のまま楽しく生きようと思うなら、他のすべてを犠牲にしてもいいと思うんだ。たった一回かぎりの人生、遠慮していたら負けたまま終わるよ。
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