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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.4 本日発売
6月ごろから準備してきて、ようやく発売となりました。イマイ製キットの素組みレビューを中心にした、構成・執筆です。河森正治さん、宮武一貴さん、高荷義之さんへの各インタビューは、取材交渉の段階から自分で行いました。
すでに次号のアイデアもいくつか提出しましたが、従来とは考え方を進歩させて、メリハリのある迫力ある誌面にしたいと思います。
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昨日は、猛暑の中を歩いて歩いて、原美術館へ。場所が分かりづらくて汗だくになってしまったが、着いてからは建物の放つ静謐な雰囲気に飲み込まれた。
開催されてるのは「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」で、出品作家は3人。展示スペースは狭いわけではないが、一階と二階で5部屋なので妥当だろう。
一階の広いサンルームに、カンバスを裏にしたような板が、たくさん立てかけられている。一見すると、まだ展示準備なのか?と思ってしまうほど雑然としている。よく見ると、壁のほうを向いた面にはオレンジやグリーンの鮮やかな蛍光色が塗られていて、その色が壁に反射する。少し時間をおいて見に行くと、その反射具合が微妙に変わっている。部屋に照明はない。
部屋の隅にはスピーカーが置かれ、かすかなノイズのような音が聞こえている。すると突然、窓の外の蝉の声が意識された。そのノイズを聞いてからは、建物の空調の音さえも効果音として機能しはじめる。
二階へ上がると、iPodを渡される。自分でイヤホンを持ってきていたので、音を聞きながら展示室に入る。
すると、展示室はライティングされているだけで、室内には何ひとつ置かれていない。しかし、ヘッドホンから聞こえてくる声は、この部屋に彫刻があると仔細に説明する。小説を読むように、鑑賞者は何もない部屋に彫刻を想像することになる。無いものを、そこに見ようと努める。
もうひとつの部屋へ進むと、新しい音声が聞こえる。真っ暗な部屋の中で、荒れ狂うようにライトが回転しており、耳元では「あなたは私が守ります」と呟くような声がする。彫刻の置かれている(と想像させる)部屋も不気味なモノローグだったが、今度は鑑賞者の恐れに寄り添うように、声が内面に侵入してくる。
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一階へ戻り、コーヒーを飲んだ。
古い洋館を改造した原美術館は、建物も作品だ。いま見てきた数個の作品を反芻すると、すっかり意識が変わっているのが分かる。作品は僕の内側に潜入し、少なくとも建物の中にいるかぎり、作品の呪縛から逃れられない。感覚が変容している。
雨が近づき、窓外からの光線の具合が変わった館内を、もういちど歩いてみる。僕は作品から意味を読みとり、言葉に置き換えようとする。それは欺瞞なので、僕は思考を追い出そうと努める。そのような、心の葛藤をお金で買うのが美術館だ。
二階へ戻り、常設展をもういちど見直した。壁の一部がくり抜かれ、配管がむき出しになっている。そこへ鮮やかな紫色の花が絡まっており、スポットライトで照らされている。世の中のどこかで、人目の届かない場所で起きた奇跡的なドラマを、特別に覗かせてもらっているような気持ちになった。そういう異種体験を安全に提供するのが芸術作品であろう、とも思う。
映画でも漫画でも、どんなエンタメであっても、安全圏にいながら非日常を買うものだと思う。下劣な作品は、安全圏からくだらない日常を買わせようとするんだよな。地べたから離れようとしないというか。
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映画は、デ・パルマ最悪の作品と呼ばれる『虚栄のかがり火』。
押見修造さんの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の原作本を買った。(映画版の感想はこちら→■)
映画版では、原則的に「いい人」たちしか登場しないが、原作漫画ではモブシーンのクラスメイト(ほとんどがヤンキー)がこってりと醜く描かれていて、世界観が強烈に出ている。教師も母親も、無神経で無能な大人として描かれており、押見さんの苦悩の深さをうかがわせる。
青春漫画、エンタメ漫画としては予定調和を逸脱する脱臼ぶりを見せている。映画化にあたって志乃と加代が路上ライブを成功させて、ひとつの曲が別の曲となり、服装が変わり、ふたりがどんどん仲良くなり……という祝祭的な盛り上げ方をしたのも、理解はできる。脱臼した部分に、接木しようとしたんだ。
しかし、原作では加代のライブは笑われて終わる。志乃はラストシーンで超法規的に救われるが、加代の救いは描かれない。
人と普通に話せないことの、あの怖さを何とか映画に出来なかったのだろうか……と、未練は残る。ただひたすら、対人恐怖という現象と、誠実に向き合ってほしかった。そんな簡単に、人の戦いの勝ち負けを決めてくれるなよ……という気分。
今年は海外旅行へ行けなかった。海外へ行くと、自分は構造的に「言葉の話せない人」になる。だから、「人と普通に話せない」欠点を気にする必要がなくなる。日本社会で被っている硬直したお面を外して、裸になった状態で人と接することになる。だから、解放感がすごい。
僕はブサイクでキモいかも知れないが、その尺度すら日本社会との関係から生まれてくる概念にすぎない。海外の社会が優れているわけではない。僕が、たまたま生まれた国の関係性から逃避して解放感を満喫しているだけであり、「逃げるが勝ち」というヤツだ。
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