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2020年9月26日 (土)

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モデルグラフィックス 2020年11月号 発売中
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連載「組まず語り症候群」第95回は、フジミ模型さんのアメリカザリガニ(透明)です。


「ヒステリックブルー」元ギタリスト、強制わいせつ致傷容疑で逮捕 埼玉県警

どうも、この事件を発端にして、当ブログでも時おり触れてきたフェミニスト(というかリベラル左翼?)の男性アカウント、シュナムルさんが批判にあっているらしい。
最初は容疑者とシュナムルさんの関係が把握できなかったのだが、Twitterで検索しているうち、なんとなく全容が浮かび上がってきた。容疑者がシュナムルさんと似たような萌えイラスト叩き、オタク叩きのフェミ男性アカウントとして活動していて、「彼は過去に性犯罪を犯しているのではないか」という疑いが持たれたとき、シュナムルさんは「そんな情報はデマだ」と断定して容疑者をかばい、結果的に被害にあった女性たちを貶めるような発言をした……ということらしい。

シュナムル氏、「罵倒を引き受ける」発言をしておきながら被害者をブロックする

本件に関しては、23日ごろから、いくつかまとめが出来ているけど、酷いと思ったのは上にリンクしたやつかなあ。性犯罪の被害者が直に訴えでると、さすがに深刻さの度合いが違う。茶化したり笑ったりするムードではなくなるのだが、この後におよんでもシュナムルさんは憎まれ口をたたいて飄々としているらしい(今回の件で、ようやく僕もシュナムルさんにブロックされた)。
すでに指摘している人もいるけど、シュナムルさんは自己愛性パーソナリティ障害だと思う。傲岸不遜で口が悪くて、どんな酷い事態になっても謝罪せず自己保身を最優先するので、たぶん間違いない。

「常に自分の能力を過大評価し、しばしば自慢げに見栄を張っているように見えます。自分は褒められて当然であると思い込んでおり、賛美が得られない時は驚くかもしれません。自分の成功や権力、美しさ、理想的な愛などについての空想にふけっていることもあります。 自己愛性パーソナリティ障害の人達は、自分を理解できるのは特別な人か地位が高い人だと思っていますし、そうした人達と関係があって当然だと思っていることがあります。」


「めんどくさい」と言えば、やはり萌えイラストを叩いて有名になった岩渕潤子さん。

『ヴァチカンの正体』岩渕潤子氏、いらすとやの女性医療従事者のイラストがステレオタイプな女性らしく描かれていないことに疑問をもつ

言葉の端々で、「自分には医師の友人がいる」「自分は本を15冊も出している」と、優越感(それも通俗化された陳腐な価値観)を滲ませており、やはり病んでいるように見える。
自己愛性パーソナリティ障害は一見すると魅力的で野心的で、大勢のとりまきに囲まれていて華々しく見える。態度も堂々としているので、つい引き寄せられてしまう。だけど、「支配される」という形でしか、彼らとは関係を結べない。

たとえば、自己愛性パーソナリティ障害の人が「あの店のカレー、美味いぞ!」と言ったとする。意志の弱いとりまきたちは認めてほしいから、「うんうん、美味いよね!」と簡単に同調する。そのようにして、支配=被支配の関係が維持される。
さらに、自己愛パーソナリティ障害の人は、たまたま「カレーが美味い」と書いた人を探し出して、勝手に「俺の味方」に組み入れる。「あっ、俺の発言に賛同してる」「俺が影響を与えた」「この人も、俺の力で支配できたぞ」と、そんな些細なことで自分の優越性を実感していたいわけ。ついには「カレー美味いって言わない人、もう絶交するけどいいよな?」みたいな、幼稚な脅しをかけてくる場合がある。

例としてカレーを出したけど、カレーをフェミニズムに置き換えても同じではないだろうか。「賛同が得られる」「肯定してもらえる」ことを優先して、その“燃料”として萌えイラストや性表現を叩いてないか、よく観察してみるといい。本気で腹が立ったら、賛同なんか得られなくても一人で抗議するよね? 最初にリンクしたまとめの中でシュナムルさんにブロックされた被害者の人が、賛同なんて求めてるかな? そういう部分で人間を見ていかないと、共感と同情によって他人に支配された人生を過ごすことになる。
(余談ながら、シュナムルさんがフォローしているアカウントって、ほとんど女性では?→ なんだか、彼の理想とする世界観がよく表われているような気がする。)


最近レンタルで見た映画は、1954年版の『十二人の怒れる男』、伊丹十三監督の『静かな生活』など。
『十二人の怒れる男』の機能的なカメラワークについては、Twitterで少しだけ書いた()。僕は1950年代にピークを迎えた劇映画の表現に興味があるのであって、4DXだとか3D上映が映画の本質だと思っている人たちは、どうぞ楽しんでください、という気分だ。

『静かな生活』は、舌ったらずの佐伯日菜子の醸すエロティシズムも凄いが、2~3シーンのみ登場する緒川たまきが凄かった。
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障害を抱えた青年を、まずは白い水着姿で魅了する。
つづいて、レストランで青年と同席するのだが、ワインを飲んで顔を真っ赤にしている。座り方もだらしなくて、青年にはより親密そうな話し方になっている。その開放性、油断がエロなんだよね。清楚な女優をエロティックに描くのは、伊丹十三監督の才能だと思う。
でも、だから夢の中でのレイプシーンや、冒頭近くで幼女を茂みに連れ込んでレイプしようとするシーンが、必要以上にえげつなくなってしまう。映画全体、水面の光の照り返しや木漏れ日をふんだんに使って爽やかな雰囲気を出しているのに、一方で中年男らしいアクの強さを隠せない。そこが、映画作家として面白い。

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2020年9月22日 (火)

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「超時空世紀オーガス」の「モラーバー・マーイ」(アリイ製)を作って、“女性キャラの乗る異世界ロボ”に酔いしれろ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第3回
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今回から、撮影は編集部のスタジオでお願いしているので、これまでよりバージョンアップしました。ノリノリで書いているので、来月分の原稿も出来てます!


金曜日は、友だちの原健一郎氏が展示物に協力している「百才」へ。民家改造のカフェであり、展示スペースもある。
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飲み物を注文してから、座敷で待つ。座敷の奥の棚が、小さな展示スペースになっており、裏手には工房のようなところもある。
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これといって何もない、東村山という立地も込みの「デザイン」だと思う。喫茶店も空間デザインだし、居酒屋で何を注文してどう酔うか考えるのも「デザイン」ではないか、と思える。快楽を調律していく、というか。面白さの設計こそが、人生の醍醐味だろう。
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午後は東村山から所沢を経由して、中村橋へ。練馬区立美術館へ行った。
しかし、展示は今ひとつであった。作品も稚拙なら、展示の仕方も雑で、テープを貼った痕跡などが見えてしまう。区市町村の美術館など、こんなレベルなのだろうか? 
15時ごろ、バスで荻窪に立ち寄って、昼飲みしてしまった。平日、昼から営業している大衆居酒屋で……チェーン系で十分。しかし、これが3000円ぐらいかかってしまう。趣味としては、喫茶店めぐりより破格に高雅だろう。しかし、70歳ぐらいの男女が合コン状態になっていたり、平日昼だからこその風景を楽しめた。


月曜日は、日本橋にリニューアルオープンしたアーティゾン美術館(元ブリジストン美術館)。
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三つのフロアで、3種類の展示。ヴェネチア・ビエンナーレの日本館を90%に縮小して再現した『Cosmo- Eggs| 宇宙の卵』が、ダントツに良かった。
宮古島に残る津波石に取材し、それぞれをモノクロ映像に収めて、室内のプロジェクターに映写。中央にオレンジ色のバルーンが置かれており、それに人が座ると、天井のあちこちに吊られた自動演奏機へ空気が送られて、「ブォー」という不気味なフルート、「カカカカッ」という石か木を打ち鳴らす音が不規則に響く。その音が不気味で、気持ちがいい。
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津波石を撮ったモノクロ映像には音がないが、よく見ると、周囲に鳥が飛んでいたり草木が風に揺れていたり、波が打ち寄せたりしている。静なる動、というか。プロジェクターの背後の壁には、太古の石や島をめぐる短い神話が、独特の書体で刻まれている……が、ついたてのように垂直に突き出した壁をさけながら、洞窟に潜るように歩いていかねば文字は読めない。複雑に構成された空間が、能動性を喚起する。
立ったり歩いたり座ったりして空間に身を浸していると涙腺が緩むほど雄大な、幻想的な空間。他のフロアの展示に飽きて、再び戻ってしまったほど魅了された。
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だが、この展示が面白いのは、単なるヴェネチア・ビエンナーレ日本館の再現ではなく、日本館を作るまでの製作資料を展示した「メイキング」である点だ。
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壁新聞のように、制作過程を記した紙。テクスチャーのある紙に紫色のインクで印刷して、わざとシワが入るように貼ってある。四隅には、金属の細いピンが立ててあり、スクラップ感が増す。
先ほどの90%サイズで再現された日本館は、ベニヤ板が丸出しで建てられている(わざと映画のセットのようにしてあるのだ)。資料類は、ダンボールを重ねた物で囲われている。こうした素材の見せ方、構成の仕方は、書籍編集に通じる物がある。
他のフロアも展示の技術は高いと思うのだが、「Cosmo- Eggs」は何よりも素材が良かった。素材のよさに見合う展示のセンス。それを何時間でも観ていられるのだから、安いものだ。


映画は、配信レンタルでトリュフォーの『華氏451』、『リング』など。映画館には、まるっきり行かなくなった。

Twitterで、リベラルだとかフェミニストだとかの甘ったれた暴言を見ていて、いろいろ沸き起こる感情はあるのだが……。彼らは、他人に対する支配欲を抑制できないがため、彼らが言葉のうえでは嫌悪しているはずの権力側・加害側・いじめっ子と化してしまっているのだろう。見かねる発言は通報しているのだが、暴言系のフェミニストさんのアカウント()が、しっかり凍結されていた。それで十分というか、言い争う気も起きない。
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EX webの連載「社会に萌えキャラの居場所はあるのか?」)は、次回は表現規制サイドに聞くつもりでいたけど、彼らは取材に応じないんだよね。彼らは公平な場での自由な討論になんて興味なくて、自分だけが圧倒的有利になれる特権的な立場が欲しいだけなんじゃない? 他人を支配したい系のクレーマーは、下駄を履かせてもらって勝つことを恥ずかしいなんて思ってないんだよ。

書いていたら腹が立ってきたけど、美術館と喫茶店へ積極的に行くようになってから、自分の日々をどう面白くアレンジするかにしか興味が向かない(笑)。これが、人生の勝利なのだろう。高校~大学時代、まるで多額の借金のようにコンプレックスを抱えて、女性に救われようと涙に暮れていた日々を思うと、ウソのようだ。

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2020年9月17日 (木)

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DIME(ダイム) 2020年 11 月号 発売中
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●森口博子 ガンダムとの運命の絆
歌手の森口博子さんに、単独インタビューいたしました。以前(2016年、『THE ORIGIN IV』上映時)は、ぶら下がり取材のみだったんです。今回は、せっかく単独取材なので、富野由悠季監督へのインタビュー経験の豊富さも生かせたと思います。
そして、この上なく丁寧に原稿を構成したつもりです。


今週は取材も原稿もないので、フラリと金沢へ泊りがけで行ってきた。
金沢21世紀美術館が、主な目的。レアンドロ・エルリッヒの作品『スイミング・プール』は観光客に大人気のようで、10時すぎに入館したのに、プール内に入れたのは11時20分! 途中で帰ってしまう人もいたので、この待ち時間は事前にアナウンスするか、整理券を発行する必要があっただろう。
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しかし、地下道を歩いて抜けた先に、いきなり水中のような空間の広がっている驚きと幻想味は、自分で体験しないと分からない。十分に並ぶ甲斐はあるし、企画展の入場券を買ったのに、プールだけ見て帰ってしまう人さえいた。

企画展は『de-sport : 芸術によるスポーツの解体と再構築』。独特の円形の建物のせいか、ボリュームは足りない。
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ザ・ユージーン・スタジオの《Mr.Tagi’s room and dream》。架空の楽器を2人の男が叩いている様子を、ナレーションも何もなくただ撮った映像を、複数のスクリーンに映写している。部屋に入ってきた観客は、どれかひとつのスクリーンを見て意味を読みとろうとするが、どうしても視界に他のスクリーンが入ってしまう。
室内を歩き回っているうち、部屋の中央に斜めに吊り下げられたスクリーンが、刻々と部屋のイメージを変えていく。
映画館では、ただひとつのスクリーンから意味を読みとるよう、僕たちの脳は集中する。夾雑物を排除して、純粋にひとつの意味を心の中で結像しようと試みる。しかし、このインスタレーションは、その試みを放棄させる力を持っている。視点は分散せざるを得ない。スクリーン内の情報は部屋の中を縦横に飛び交い、それは僕たちの歩く速度、どこにいつ視点を向けたかによって、秒速で変化する。
映画館の中で、僕たちは限りなく静止しようとする。ゼロになろうとする。この作品の前では、まったく逆だ。「歩く」という主体性が、作品の構成要素になる。ちょっと部屋をのぞいて立ち去ったとしたら、作品の価値はグッと低くなってしまう。自ら歩いて、どこにも視点を傾けない散歩しているような状態になったとき、初めてこの作品のラフさ、美術館という空間の自由さを感じられる。


柳井信乃の作品《Blue Passages》も、同じような構造を持っている。
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聖火をくべるたいまつが部屋の中央にあり、左右の壁にモノクロとカラーでたいまつを手にして歩く女性の姿が映し出されている。
中央のオブジェを見ようとすると、どうしてもスクリーンが視界に入ってしまう。スクリーンは、オブジェの背景だ。背景だけを見るには、自分で最適な位置を見つけないといけない。「どこから見るの?」と考えている暇があったら、自分からどう見るか考えないといけない。
そうやって、空間と時間を自分で調整していくのが、美術館の面白さだ。
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企画展とは関係ないが、すべての壁が台形になり、真上の空に向けて窓のひらかれた部屋。この部屋それ自体が、ジェームズ・タレルの作品だ。時刻や天気によって、刻々と表情を変える。日光までもが、作品の一部だ。
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この緑壁は、パトリック・ブランの作品。あちこち通り抜け禁止になっているが、ガラス張りなので恒久展示はどこからでも見られる。どこか、遠い未来に残された廃墟のような寂しさが漂う。東京の美術館には、こういう侘びはなかなか感じられないかも知れない。
館内で働く女性たちのユニフォームは、ミナ・ペルホネンの皆川明さんデザイン。独特の柔らかさ、穏やかさも感じられる美術館だ。


喫茶店で休んでから、近くにあった石川県立美術館へ。
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こちらはまあ、江戸時代の刀とか屏風とか。蒔絵はデザイン性があって、なかなか面白かった。全体に堅苦しい美術館だったが、国宝と呼ばれるものは見ておいたほうがいい。

前の夜、ホテル近辺の居酒屋があまりに高くて、しかも料理がチャチだったので、東京へ帰る前に何とかして美味いものを食べたくなった。
美術館からはちょっと距離があるのだが、近江町市場というところまで歩いてみた。右も左も、海鮮丼の店が櫛比している。こういう競争率の高いエリアなら、ハズレはなさそう。「席、ありますよ」と声をかけられ、ふらふら入店。
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まだ14時台だが、かまわずビール。明日なんて言っていられない、欲しいときに飲めるように日々を設計していく。
さざえのつぼ焼きが品切れだと店のお姉さんは言うが、おすすめのホワイトボードには、「石川県産さざえ」の握りがあると書いてある。出来るかどうか聞いてみると、水槽の中から板前さんがさざえを取り出し、そのまま調理してくれた。
こうやって、「確実にある」と分かっているものより「あるかどうか分からない」ものを頼んでみる。「ありますよ」と言われたときの喜びが大きい。ちょっとしたリスクが、人生のスパイスになるわけだ。「どうせ無いんだろう」「どうせ駄目なんだろう」などと言っていては、こうやって泊りがけで美術館へ行く贅沢な日なんて絶対にやってこない。来週かぎりで人生が終わると思って、貪欲にどんどん行くんだ。自分で求めていかないと、人生は面白くならないぞ。


映画は、配信レンタルで『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』、『ヒッチコック/トリュフォー』。
どちらも、ヌーヴェル・ヴァーグの存在意義の感じられる優れたドキュメンタリーだった。貴重な音声や映像がいっぱいで、映画の引用も適切なシーンばかり。

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2020年9月11日 (金)

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■法的な問題は何もなかった“アベノマスクブラ”ポスター【新藤加菜さん独占告白】
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ひとつの記事として書いたのに、三つに分割されてさらに細かくページ分けされてしまって読みづらいと思いますが、是非ひとりでも多くの方に……。
この選挙ポスターは、萌えキャラ擁護の人たちからも見放されていたような気がします。「NHKから国民を守る党だから、いくら表現の自由でも擁護する必要はない」という冷たい態度の人もいました。
この記事では、自分の体をつかって表現した主体であり、批判されて自主規制に追いやられた主体である新藤さんに、バックボーンも含めてインタビューしました。

新藤さんを標的に、批判キャンペーンを行った池内さおりさんには取材拒否されたので、批判した側の言い分を聞くことは出来ませんでした。こうやって、Twitterで言うだけ言って投げっぱなし、特に目的も結論もなし……という無責任なパターンが、あまりに多いと思います。ハッシュタグをつくって法案に反対だとかTwitterデモとか、一時的な賛同を得られて気が晴れればすぐ忘れてしまう人たちばかりで、「しょせん本気じゃないんだな」と溜め息がでます。


「本気じゃない」という意味でいうと、昨夜配信で観た映画『ソラニン』。恋人と同棲していて、音楽の才能があるとかないとか程度の悩みしかない若者たち。福満しげゆきさんの漫画に出てくる、簡単に自己肯定できてしまって貪欲になれないバンドマンたちを想起した。
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表現に必然性がないから、ボートから落ちてびしょ濡れになったとか、交通事故でいきなり恋人が死んだとか、何とかして派手に見せようと頑張っている。「日常が満たされてるから、それほど頑張らなくても十分に幸せだ」って結論にはならないんだよね。だから、恋人を前ぶれもなく死なせて、悲劇を構築しないと間が持たない。

言っちゃ悪いけど、人生まあまあ楽しいリア充の人たちが「何か問題意識を持たなきゃカッコ悪い」と焦ると、すぐ反体制・反政権に走る。とりあえず反対していればいいから、楽なんだよね。『ソラニン』はそういう政治的な映画ではないけど、リア充独特の生ぬるさを知るには、よいサンプルと思った(ひでえ言いようだけど……この路線で、生ぬるく満たされた若者たちの空虚な焦りを描く映画はアリではないかと思う)。


左翼という意味では、連合赤軍が仲間に些細な難癖をつけて、「可愛く着飾ってるから」「一人で美味しいもの食べたから」なんていう理由でリンチ殺人にいたった経緯がどうにも理解できず、彼らを描いた映画を探していた。
で、レンタル屋で高橋判明監督の『光の雨』を探し当てた。連合赤軍の山岳ベース事件を描いているのだが、その『光の雨』という映画を撮っている監督や若いキャストたちに着眼したフェイク・ドキュメンタリーのような多層構造をとっている。
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山岳ベース事件は、森恒夫と永田洋子、ふたりの派閥争いの側面もあったわけだが、『光の雨』では(役名が違うとはいえ)森恒夫役に山本太郎。永田洋子役に裕木奈江! ミスマッチというか、ピッタリの配役であった。山本は冷徹な森を演じる一方、「元漫才師の現代の青年」役でもある。森役から離れた彼は、「統括とか革命とか、ほんま意味わからんわー」とボヤく平成の青年だ。(山本太郎さんは、俳優としてはすごく良い。見直してしまった。)

そして、この映画の見どころは、理解しがたい異様な概念だったはずの「統括」を、若い平成の男女が楽しい飲み会で仲間に迫るシーン。連合赤軍の役を演じているうち、映画の中の価値観が現実に染み出してきてしまうわけだ。
「統括」は、身内をいびり殺すのにもってこいのパワーワードなのだ。今なら「キモイ」かも知れないし、「性的搾取」かも知れない。まあ、それっぽい理屈で私刑が出来れば何でもいいわけだ。仲間はずれをつくりたがる残酷な性癖は、昭和も平成も変わらないのではないか……と思わせるところが、この映画のキモだ。

ラストシーンで、リンチ殺人された役も生き残った赤軍メンバーの役も、俳優たちみんなが手をとりあって撮影終了を喜びあう。
それは無邪気な平成の若者たちの姿であり、同時に、あり得たかもしれない赤軍メンバーのもうひとつの姿なのかも知れない。


本日は、東京都現代美術館へ行って来た。
企画展は三つなので、すべて見られる通し券を買った。予約販売ではないせいか、かなり混んでいた。
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前に現代美術館へ来たのは、皆川明展のときだった。あの時は楽しくてニコニコしてしまったのだが、今回はすべての企画展が説明不足で、ちょっとガッカリした。オラファー・エリアソン個展『ときに川は橋となる』は、最後のふたつの作品が良かった。
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ひとつは暗い室内に霧を発生させて、たったひとつのスポッライトで虹を見せるというもの。
もうひとつは、上の写真だ。部屋の中央に水を張って、12個のライトで照らす。水面にさざ波が起きると、12種類の少しずつ違った模様が、天井に照射されるのだ。どんな模様が生じるのか、自然現象なのだから誰にも予想できない。
思いがけずフワーッと美しい模様があらわれると、まるで皮膚の中にさざ波が入り込んで、神経を撫でられているような官能的な気持ちになる。なんて幸せなんだろう。

常設展で、鈴木昭男氏の「作品の上に立って音を聞く」作品、“no zo mi”に再会した。石段のうえに立つと、美術館の外を走る車の音や空調の音が、わずかの間だけ「作品」と化す。
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つい先日、森美術館で観たばかりの宮島達男さんの壁面デジタル時計も、やはり好きな作品だ。温かみがある。
人生の成功は、別にお金持ちや有名人になることではない。こうした自由な一日を、好きなように穏やかに過ごせること。ネガティブな感情にとらわれ、他人がどうしているか常に気になってイライラするのは、自由ではないからだろうな。

(C)浅野いにお・小学館/「ソラニン」製作委員会

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2020年9月 8日 (火)

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「涼宮ハルヒの憂鬱」第9話は台詞と構図を連動させて、登場人物の「関係」と「距離」を描く【懐かしアニメ回顧録第70回】
こうしたカットワークや構図の意図は、本当は無意識に感じられるものなので、無理やり言語化しないほうがいいのかも知れません。しかし、「とにかく泣きました」「よく分からないけど感動しました」という無防備で無責任な状態が、僕は怖いのです。なので、これからも映像の意図を読みとり、なるべく言葉に変換していくと思います。


昨日は森美術館へ、『STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ』を観に行った。あいかわらず駅からのアクセスが悪い(エレベーターで待たされる、昇った先で入り口が分からない等)が、展示はすっきりしていて、とても良かった。
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村上隆さんの作品を最初に持ってくるのも、まず入ってきた人をビックリさせる(等身大のフィギュア、“Ko²ちゃん”が客を出迎える配置)意図として、とてもよく分かる。不愉快な人は、さっさと次のコーナーに行けばいい。そうやって自分で鑑賞体験を調整できるところが、美術館の良さ。

宮島達男さんの展示は、ひとつの部屋を池のようにして、手すりにもたれて鑑賞するスタイル。水の音が聞こえ、あちこちにデジタルカウンターが置かれている。まるで、ホタルのように点滅している。
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その池(水を張ることは出来なかったので水音を入れたらしい)が何であるのか、ビデオで宮島さん本人が丁寧に解説している。すると、単調に思えたカウンターの見え方が変わってくるわけだが、それが良いことなのかどうかは、ちょっと難しい。
学芸員の解説パネルも、たまに解釈が入りすぎて邪魔に感じる場合がある。かといって、「感性」なんてものに体験の価値をまかせてしまうことに怖さも感じる。知識も必要なはずだ。その葛藤こそが、アート作品を見る面白さなのだ。

最後は、写真家・杉本博司さんの映像作品。横4メートル、縦2メートルぐらいのスクリーンだろうか。
映画館の大スクリーンに比べれば小さいじゃん……と思うはずだが、スクリーンのすぐ横に隕石なんかが置いてあるため、画面に映った花びらなどを「大きい」と認識してしまう。映画館でスクリーンの横に何か展示してあったら、邪魔なはずだろう。だけど、美術館ではスクリーンの物理的な大きさが映画館とは別の意味をまとう。つまり、劇映画を見ている間、僕たちは心の内側にスクリーンを持っている。美術館で見る映画は、肉体の外にある。


最近、レンタルで観た映画……『天気の子』。
まあ、これを観て中高校生が元気に生きていけるなら、それで存在価値は十分にあるだろう。やっぱり、今の若い世代をストレートに応援してくれる映画が少ないとは感じるんだ。
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コンビニ食やインスタント食をおいしそうに描いたり、現状肯定的、保守的なところが気になった。だけど、それは妬みなんだろうな、オジサンの。若い世代には、「今が一番いいんだ」「君たちは祝福されているよ」って、力いっぱい言ってあげないといけない。それが大人の責任なんだろう。

もう一本、『トラ・トラ・トラ!』。これには、度肝を抜かれた。僕が三歳のころに公開された映画だが、『スター・ウォーズ』が霞むほどの圧倒的な戦闘描写。本当に、わが目を疑った。
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滑走路から離陸しようとする戦闘機が、地上で走りながら爆発してしまう。よくあるアクション映画のようにバーンと粉みじんに吹き飛ぶのではなく、骨組みをむき出しにしながら並んでいる同型機に突っ込み、整備兵が逃げ惑う。戦闘機からは、回転したプロペラが機体から飛び出し、そのまま滑走路を跳ねる。
これらはリモコン操作で走らせたレプリカの戦闘機を実際に爆発したもので、ミニチュアではない。偶発性のかもす迫力。しかし、映画自体はオープニングからして、丁寧に構図が設計されている。それゆえ、予想外の爆発やアクシデント的な破壊シーンが生々しく感じられる。
この映画に対して、「何が言いたいのか」「メッセージが分からない」といった批判を読んだが、まったくナンセンスな話と思う。


“えぇっっっ!

この電通さんのデザイン料200万円!

高すぎる!と率直に思った件”

悪いんだけど、また共産党。根拠も示してなければ、代案も具体案もない。これじゃあ、素人の難癖じゃないか。国会議員の歳費は2千万以上と言われているんだから、問題だと思うなら具体策を提示しないと。「えぇっっっ!」なんてツイートしてる暇があるならさ。
本村伸子議員にはメールで意見を送ったけど、何の返事もない。Twitterで「えぇっっっ!」と驚いているだけで何の対策も考えられない国会議員なんて必要ないよ。ソースを示さないなら、同じ構造でデマを流布できてしまう。なんでこんなに無責任なの?

俺だって電通は嫌いだよ。確かに、政府のお金の使い方には不透明な部分が多すぎるかも知れないよ。だから、それを解決するのが国会議員の仕事じゃないの? 「えぇっっっ!」と驚くのが仕事なの?
うっかり、「また共産党」と書いてしまったけど、三鷹市の共産党議員に意見を送ったら、返事をくれたし、市民のために活動していることをちゃんと立証してくれたよ。そういう誠実な姿勢は、俺はどの党であれ評価しますよ。無責任に曖昧に、問題の所在をウヤムヤにするくせに自分の感情だけは最優先にする、その卑怯な態度を責めている。

(C)2019「天気の子」製作委員会

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2020年9月 3日 (木)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.4 本日発売
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6月ごろから準備してきて、ようやく発売となりました。イマイ製キットの素組みレビューを中心にした、構成・執筆です。河森正治さん、宮武一貴さん、高荷義之さんへの各インタビューは、取材交渉の段階から自分で行いました。
すでに次号のアイデアもいくつか提出しましたが、従来とは考え方を進歩させて、メリハリのある迫力ある誌面にしたいと思います。


昨日は、猛暑の中を歩いて歩いて、原美術館へ。場所が分かりづらくて汗だくになってしまったが、着いてからは建物の放つ静謐な雰囲気に飲み込まれた。
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開催されてるのは「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」で、出品作家は3人。展示スペースは狭いわけではないが、一階と二階で5部屋なので妥当だろう。
一階の広いサンルームに、カンバスを裏にしたような板が、たくさん立てかけられている。一見すると、まだ展示準備なのか?と思ってしまうほど雑然としている。よく見ると、壁のほうを向いた面にはオレンジやグリーンの鮮やかな蛍光色が塗られていて、その色が壁に反射する。少し時間をおいて見に行くと、その反射具合が微妙に変わっている。部屋に照明はない。
部屋の隅にはスピーカーが置かれ、かすかなノイズのような音が聞こえている。すると突然、窓の外の蝉の声が意識された。そのノイズを聞いてからは、建物の空調の音さえも効果音として機能しはじめる。

二階へ上がると、iPodを渡される。自分でイヤホンを持ってきていたので、音を聞きながら展示室に入る。
すると、展示室はライティングされているだけで、室内には何ひとつ置かれていない。しかし、ヘッドホンから聞こえてくる声は、この部屋に彫刻があると仔細に説明する。小説を読むように、鑑賞者は何もない部屋に彫刻を想像することになる。無いものを、そこに見ようと努める。
もうひとつの部屋へ進むと、新しい音声が聞こえる。真っ暗な部屋の中で、荒れ狂うようにライトが回転しており、耳元では「あなたは私が守ります」と呟くような声がする。彫刻の置かれている(と想像させる)部屋も不気味なモノローグだったが、今度は鑑賞者の恐れに寄り添うように、声が内面に侵入してくる。


一階へ戻り、コーヒーを飲んだ。
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古い洋館を改造した原美術館は、建物も作品だ。いま見てきた数個の作品を反芻すると、すっかり意識が変わっているのが分かる。作品は僕の内側に潜入し、少なくとも建物の中にいるかぎり、作品の呪縛から逃れられない。感覚が変容している。
雨が近づき、窓外からの光線の具合が変わった館内を、もういちど歩いてみる。僕は作品から意味を読みとり、言葉に置き換えようとする。それは欺瞞なので、僕は思考を追い出そうと努める。そのような、心の葛藤をお金で買うのが美術館だ。

二階へ戻り、常設展をもういちど見直した。壁の一部がくり抜かれ、配管がむき出しになっている。そこへ鮮やかな紫色の花が絡まっており、スポットライトで照らされている。世の中のどこかで、人目の届かない場所で起きた奇跡的なドラマを、特別に覗かせてもらっているような気持ちになった。そういう異種体験を安全に提供するのが芸術作品であろう、とも思う。
映画でも漫画でも、どんなエンタメであっても、安全圏にいながら非日常を買うものだと思う。下劣な作品は、安全圏からくだらない日常を買わせようとするんだよな。地べたから離れようとしないというか。


映画は、デ・パルマ最悪の作品と呼ばれる『虚栄のかがり火』。
押見修造さんの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の原作本を買った。(映画版の感想はこちら→
Kyuyongeom
映画版では、原則的に「いい人」たちしか登場しないが、原作漫画ではモブシーンのクラスメイト(ほとんどがヤンキー)がこってりと醜く描かれていて、世界観が強烈に出ている。教師も母親も、無神経で無能な大人として描かれており、押見さんの苦悩の深さをうかがわせる。

青春漫画、エンタメ漫画としては予定調和を逸脱する脱臼ぶりを見せている。映画化にあたって志乃と加代が路上ライブを成功させて、ひとつの曲が別の曲となり、服装が変わり、ふたりがどんどん仲良くなり……という祝祭的な盛り上げ方をしたのも、理解はできる。脱臼した部分に、接木しようとしたんだ。
しかし、原作では加代のライブは笑われて終わる。志乃はラストシーンで超法規的に救われるが、加代の救いは描かれない。
人と普通に話せないことの、あの怖さを何とか映画に出来なかったのだろうか……と、未練は残る。ただひたすら、対人恐怖という現象と、誠実に向き合ってほしかった。そんな簡単に、人の戦いの勝ち負けを決めてくれるなよ……という気分。

今年は海外旅行へ行けなかった。海外へ行くと、自分は構造的に「言葉の話せない人」になる。だから、「人と普通に話せない」欠点を気にする必要がなくなる。日本社会で被っている硬直したお面を外して、裸になった状態で人と接することになる。だから、解放感がすごい。
僕はブサイクでキモいかも知れないが、その尺度すら日本社会との関係から生まれてくる概念にすぎない。海外の社会が優れているわけではない。僕が、たまたま生まれた国の関係性から逃避して解放感を満喫しているだけであり、「逃げるが勝ち」というヤツだ。

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