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2020年8月16日 (日)

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「六神合体ゴッドマーズ」の戦闘メカ「パンドラ」(バンダイ製)を組み立てて、“作画と模型の関係”を考えよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第2回)

背景布にシワがよる安い撮影ボックスを買ったせいもあり、写真がヒドすぎて見てほしくない記事ですが……そこそこアクセスを稼げているそうで、ありがとうございます。次回からは編集部で、カメラの得意な編集者に撮ってもらうので、かなり写真はレベルアップするはずです。
(本当は、この連載だけやっていきたいぐらい、入れ込んでいるので)


ここのところ観た映画は、レンタルDVDでは『コラテラル』、『ファイトクラブ』(二回目)、岡本喜八『吶喊』、配信では久々に『どついたるねん』と『時計じかけのオレンジ』、最近作ではアニメ映画『プロメア』、そして実写版の『惡の華』。
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監督の井口昇さんは、特撮ヒーローやアイドル系の人であって、決して青春映画を撮るタイプではない。なので、まあ、こんな程度でいいんではないか。
いま邦画界を覆っている「原作どおりでないとファンに叩かれる」「よって原作そっくりのコスプレが似合う、売れている俳優を探してくる」「しかし、売れている俳優に無理をさせると関係各所から怒られるので、こじんまりと破綻なく収める」パターンには、なかなか抗えないのだろう。
ひさびさにアニメ版『惡の華』を一気に見て、「そういえば実写映画版ってどうなの?」と気になったわけだが、アニメ版が表現形式のアイデンティティを問うようなシャレにならない作品だったので、両者を比べても意味がないような気もする。


監督が井口さんだと思うと責められないんだけど……、ボードレールの本の表紙の「惡の華」のキャラクターを、CGIを縦横に使って絵のとおりに作ってしまうのは、別に井口さんだけではない。そういう「原作と寸分たがわぬ再現度」しか尺度のない即物性が、僕は怖い。
漫画原作の映画って、ぜんぶコスプレばかり。原作のエッセンスだけすくって、しっかり監督の映画にしてしまおう……という次元では、ハナっから勝負しようとしていない。最近では是枝監督の『海街diary』 ぐらいじゃない、監督の作風に染めあげた映画化作品って? 俺は、映画が映画なりの主体性をもってアレンジするんなら、『翔んだカップル』や『花のあすか組』ぐらい、原作を無視してワガママをやっていいと思う。
まずは、原作そのままのビジュアルやストーリーでないと「原作と違う」とわめく即物的な感覚しかもっていないファンたちが邪魔をしている。そして、保守的なファンの反応を気にしてビクついている映画製作者たちも、主体性を捨てている。その行き着く先は、有色人種の役を白人俳優が演じてはいけないというハリウッドのたどりついたポリコレ地獄、デッドエンドだ。

主体性の欠落は別に、映画業界にかぎった話ではないと思う。出版業界の末端で仕事していても、「誰かの許可がないと好きに仕事してはいけないのではないか」「勝手なことをしたら、誰かに怒られてしまうのではないか」という根拠のない萎縮が、日本社会で常態化しているのが分かる。ちょっとした取材でも、「いったん会社に持ち帰って検討します」「上司の判断をあおぎます」。個人が決断力を発揮しようとしない。個人の意見は学校や会社などの組織に封殺されるし、その窒息状況の中で個人は「自分独自の考え」から逃避しつづけて、そのまま大人になってしまった。
でも、『惡の華』はそういう“普通人間”のクソつまんない生き方にツバを吐いて、ドロドロのグチョグチョの“真実の変態”を目指す漫画でしょ? だから、映像化のアプローチにも厳しいものが問われてくる。

長濵博史監督のアニメ版『惡の華』は原作の絵柄の向こう側へと深く潜行して、決死の思いで「ドロドロのグチャグチャ」を片手に生還し、もう片方の手で作品として社会的なフォーマット(1話30分のアニメ番組)として定着させることに成功した。
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ロトスコーピングでつくられた違和感だらけのアニメ画こそが、仲村さんが死ぬ気で超えたかった「向こう側」を炙り出す、おそらく最もマシな手段だったんだと思う。


ロトスコーピングの過程で、実写映像のもっている曖昧さ、複雑さは整理されていく。
情報が快楽原則によってデザインされすぎてしまうから、たぶんアニメ絵は「気持ち悪い」んだろう。作者の好きな物だけで構成できる漫画やアニメは、嗜好性が前面に出すぎる(その単なる嗜好性に、技術によって説得力を持たせるところに価値があると僕は思っている……そして、アニメ絵を批判する人たちは、この「技術」の部分を丸ごと見落としている)。

『惡の華』も、他のアニメと同様、線と色の面で構成されたセル画にすぎない。だが、思ったように可愛いキャラを描いてやろう、気持ちいい動きだけを描こう……という意志は、実写をトレースする工程によって阻まれる。トレースの結果、生身の肉体だけが持つ予測のつかない動き、だらしのない仕草まで、すべてセル画として描かざるを得ない。
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生身の人間の「見たくない部分」が、セル画にすることによって、デザイン的に炙り出されてくる……これぞ、ドロドログチャグチャの「向こう側」の世界ではないのか? これこそ、原作漫画が絵柄のうちに秘めた本質ではないのか? テーマが、表現方法を選択するとは、こういうアニメ化のことを言うのではないか?

つい熱くなってしまったが、アニメ版『惡の華』は単に手法だけが優れているだけでなく、未成熟な中学生同士のいびつな社会を、絶妙な構図やカッティングで痛々しく表現している。主人公を新人、脇をかためる女性たちをキャリアのある声優が演じることで、なんとも言葉にできない間合いの悪さ、気まずさ、空回りする必死さを、一呼吸ずつ丁寧に伝えてくる。

どうしてこんな作品本位の、ワガママかつ誠実な仕事ができたのだろう? いまの社会では不可能な気がしてしまう。
僕は基本的にひとりで生活しているので、ついSNSばかり目にしてしまうが、どんどん即物的に、簡単なことはとことんまでやる癖に、面倒な手続きは回避する無責任な社会が形成されていくようで、怖くてならない。映画の感想を読もうと検索しても「あらすじ・ネタバレ・考察」とテンプレのようなサイトばかり、あらすじは書き手の解釈ではなくてウィキペディアのコピペ……こんな雑な、右から左へハンコを押すような感覚で、作品の価値なんて測れるんだろうか?

(C)押見修造/講談社 (C)2019映画「惡の華」製作委員会
(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会

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